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 「茜色の溜息」

 

 

 

 脚の上に座る彼女が囁いて。

「ねぇ、私がやってあげたように……。私にも、してよ」

要求に声音一つも返せないままに思った。

何故に、こうも背徳感を得るのだろうか?

 

 

 

 

 飛島堵音が二つを数える時、既に彼女は存在していた。

 彼女というのは、堵音の二つ年上の祢矛想子。幼ながらも黒髪長く、走る度にそれが弧を描くのが堵音には蠱惑的だった。

 堵音と想子は言うなれば幼なじみとかいう奴で。しかし幼心に二年の隙間は多少が大きくある。故に堵音は事あるごとに想子の玩具にされていた。

 それでも幸いな事に、想子は五才のくせに分別を弁えていた。それはつまり、その可愛らしい悪戯は堵音にとって苦痛は伴わないものであった。……その時は。

 言い換えれば、堵音がそれを思い出すと辛い。恥ずかしさのレベルが五段階であるとしたら、間違いなく――誰がなんと言おうと――というか、むしろ誰が見ても――軽く十段階目は突破するだろう、それくらいの。

 半裸で恋人とデートするが如き恥ずかしさ、言葉で表すに難くある。

 それならば、実際に御覧入れようその状況。

 ――、ん?

 ……失礼、慌てて言い添えておかなければならない事があった。

私、飛島堵音がこの不可解な物語をお話しする旨、皆様には知って貰っておいて欲しい。

故に彼女、想子が実の所こう思っていた、だとかはさっぱり分からないのだ。主観において語られる事であるので、是非この私を嘘つき呼ばわりしないで貰いたい。……そこんとこお願いね。

では、是非に御笑覧あれ。

 

 

 幼い時分にも夏の日というものはある。

 飛島堵音、未だ歳を三つ数えぬ頃の夏は、今に増すも変わらず暑き日であった。

 

 その日、堵音は想子に手を引かれ、祢矛家の庭にて走り回り遊んでいた。

 蝉時雨降りすさむ盛夏の昼である。当然ながら二人の子供は汗をかく。汗をかいても想子の方は、五才だとも思えぬ程に幼き日の堵音には美しく映っていた。額に張り付く髪の一房。

毛先乱れて渇いた喉で。想子から少し休もうと言ったのは、相当に走り回っていたからに違い在るまい。

「つかれたね」

「ん」

「のどかわいたね」

「ん」

「お水のむ?」

「うん」

 補足しておくと、ただ相槌を打っている方が三つの堵音である。

堵音の方がそう頷くと、想子が「じゃあちょっとまってて」と言って、堵音は縁側に座らされた。こうこうと太陽が射していて、ほんの少しの待っている間、私は眩しい一点に手をかざして遊んでいた。のだと思う。多分間違いではない。

暫く、という程の間もなかっただろう。一息するも叶わぬ寸刻に、ガラスのコップに水を溢れさせて想子が縁側に走ってきた。

想子が持っているコップは一つだけだった。その時は特に違和感を覚えるような事はなかったが。

「よいしょ、っと」

 言いながら想子が堵音の隣に座る。コップをなにか宝物を扱うかのように繊細に回して。

 水の音が聞こえるだけで喉の渇きに潤いが一欠片だけ戻る。それでも飲むに至らぬ沈黙の時間に耐えかねて、堵音は想子に、

「おみず」

 と言った。飲まないの? という意を含ませたその言葉に、想子が堵音の胸元に迫りながら呟いた。

「のみたい?」

 想子がコップに人差し指を突っ込んでからからと回す。音一つ鳴る度に喉の渇きが増していくような気がして。何を考える事もなく、堵音はうん、と返事した。

 その返事がお気に召したのだろう、花の咲くような微笑みを湛えて想子が口を開いた。

「じゃあ、お口あーんして」

 言われるままに、堵音はあーんした。どんな風にして、というのは全く以て想像できなかったが、取り敢えず水をもらえるという状況に安堵して。

 が、刹那の寸後にそれは瓦解した。堵音としては、てっきりそのコップを口まで持ってきてくれるのだろうと淡く考えていたのだが、そんなに生易しくはないらしい。

 水を啜る音が聞こえたのは、想子の口元からだった。

 蝉の鳴き声が夏風に運ばれてくるのを鼻先で感じながら、堵音が見たその動きは、まるで一枚絵のようだった。

 子供だから仕方あるまい、予想に反したその行動に堵音は泣きそうになって。

「ん、」

 しかし、リスのように頬を膨らました想子の表情にそれが緩む。両頬に水を溜めて、でも言葉を言うことが出来ない故に、両の手で堵音の首を固定する。

 若干の記憶障害の後、

 再び鮮明になった視界が映し出すのは、目を閉じた想子の拡大版。

 妙に温い水が、押し出されるように堵音の口に入れられる。柔らかさと共に来るその理解不能の行為に、堵音は言葉を失った。

 唇と歯茎の間々を舌でなぞられる。不安定な感触の気持ち良さに、堵音は喉の渇きを――挙げ句には、口の中に水が押し込まれているという事実も、忘れかけた。

 しかしそれが長く続く筈が無く。

堵音の心の奥から現実感が浮上してきた契機は、胸元に感じた冷たさだった。言う迄もない、お互いの唇を合わせていたところから

唾液混じりの水が溢れていたのだ。

 ただ、冷たさというよりは、「水っ!」という感覚だった。なにしろ口の中で遊ばれていたお陰ですっかりと冷たさが抜け出ていたから。

 服の濡れた痕が止めどなく拡がってゆく。それを見ようと堵音は必死に抵抗したが、しかし二つ上の存在に敵うはずもなく。接吻されたまま、しかも堵音と想子が緩く揉み合った所為でさらに口元からは薄い水が溢れていた。

 結局、堵音は想子に組み敷かれて。仰向けの堵音の上に想子が馬乗りになっているような姿勢だったと思う。

 想子は堵音の口に入りきらない程の、十二分な量の水を無理に押し込んだ。たしかそれと同時だっただろう、堵音は口の中に刺すような痛みを覚えて咽んだ。

 顔中のあらゆる穴から涙やら水やらが吹き出て――それはもう説明していると冗談にしか聞こえないが――現場はまじに冗談じゃなく、一人だけ修羅場になるという半ば罰ゲームじみた状況が成立していた。

 咽んだ勢いで、堵音と想子は互いの距離を離した。唇に与えられていた温もりが消えたのに喪失感を得ながら、堵音は薄目に涙を浮かべて想子を見る。

 口元に柔らかそうな笑みを湛えたその姿に、どういう訳か悔しさがこみ上げてきて。

 次の瞬間、という程もない刹那の間隙に、堵音は泣き始めた。

 だって、痛かったし。

 ……ともあれ、泣き出した幼子の涙はそうも簡単に収まるはずが無く。しかも、想子は堵音を泣き止ませようとはしなかった。ただ縁側に立っていて。涙、鼻水、涎を垂らしまくってる堵音を見下ろしているだけだった。

 悔しいとかそういう理性で語ることの出来る云々ではなく、感情の奔流であって。堵音は何もかもを超えて、もう意味が分からないと心中で叫んでいただろう。

 この時、幼ながらの二人を残しながら、しかしそのどちらの親もこの家には残っておらず、つまりは――堵音の頼ることの出来る人物は想子しかおらず、という風で。だけど想子の方はというと、堵音が泣き咽ぶのを高みから見下ろしているだけだった。

 涙目に薄く映った想子の物欲しそうな表情はきっと――今後の話の流れから考えても――堵音の見間違いであろう。そう信じたい。

 何を機縁に想子は現実感を得たのかは分からないが、暫くすると急に態度を優しく緩めて、堵音の耳に囁いた。

「タオルもってきてあげるね」

 幼心にも意地という者は存在しており、故に堵音は容易く泣き止まなかった。が、裏を返せばもうそれは泣き止む準備が出来ていると言うことであり、やはり想子の優しさを声音に感じたのがその契機だったのだろう。

 号が付くほどの泣きで周りに種々様々な液体を散らしながらの堵音であったが、言葉通りに白くて柔らかいタオルを持ってきた想子によって、この事は始末されて――そして、二人の心の中に閉ざされた。

 

 

 さて、一旦話を始めた手前、それを撤回しようなどとは心にもない事ではあるが、しかし……やはりこうしてみると私と想子の間柄は多少にも正常とは言い難いだろう。大体何故に想子は幼い私に口移しで水をやろうなどと考えたのであろうか。テレビの動物系の番組で頬笑ましい親子のコミュニケーションでも目にしてしまったのだろうか。それともこっそりした夜更かしで大人の階段を何段か飛ばしたのだろうか。まぁいずれにせよ……、あれは加減が出来ていなかった。

 誰しも学校のプールで鼻に水が逆流した、という様な経験を持っているはずである。水に潜って気付いたら鼻に針の刺すような痛みが走り、そこで泳ぐのを止めてしまい、皆の視線を集めながらも、塩素の匂いが残っている痛みを次の授業が始まるまで引きずる、というあれである。想子の口移しはまさにあれ。しかも幼かったという事もあって、あれは中々に危険な部類に入る。

 兎にも角にも痛かった。だって三才の時の記憶ってそれしかないからね。

 ……ともあれ。これ以上この話を深く掘り下げないようにしよう。痛い、いろんなところが。

 と言う訳で次のエピソードに向かおうと思う。次はその四年後、堵音五歳、想子八歳であり、つまり。

 お気づきであろう、堵音、小学校入学である。

 

 

 何故なのかは全く以て見当が付かないのだが、入学式というのは雨の日が多い。堵音の場合、小学校は勿論、中学高校、更には大学に至るまで入学式は雨々の日であった。

 即ち、この日も雨である。

 

 桜を散らす水滴が天から降り落ちる。傘を叩く小気味良い音を耳に覚えながら、堵音は想子と手を繋いでいた。

 滅多に着ることのないお洋服に身を包んで、黄色のビニールの長靴を履いて。堵音はご機嫌だった。水溜まりを見つける度にそれに駆け寄ろうとして、しかし想子に止められる程に。

 が、それとは別に想子はご機嫌斜めだった。と言うのも、想子は単に雨が嫌いであるからであった。

 堵音が水溜まりに駆け寄ってそれを長靴で踏み叩き、あろうことか想子のスカートの裾に一滴の泥水でも付けた日には、――目も覆いたくなるような光景が後に待っているのである。現時点での堵音はそれを知る由もないが。

 ともあれ、何故だか不機嫌な想子を右手に感じながら、堵音は気分上々に雨の中を歩いていった。

 田舎とは言えないが、都会という程ものも無い。それが堵音と想子の町である。故に、閑散とした住宅街というのを思い浮かべて貰えば容易いだろう。ベッドタウンの近くに学校を建てたような所である。実際はもっと年季が入っているが、それは特に気にするところでもない。

 しばらく歩いて行く。家を出るときから忘れず雨模様の童謡を口ずさんでいた堵音は、ついに想子に叩かれてしまった。学校まで後二つの交差点のところであった。いまでも何が気に障ったのかが分からない。

 しかしそれも想子にしては柔らかい叩き方であったので何らかの理由があったのだろう。「めっ」と禁止して、青い学帽の上から手の平を乗せるようにして叩いたのだ。これが一生の内でもっとも低インパクトな攻撃だった。

 それが想子の機嫌の悪さに起因しているのかどうかを考えながら、幼い――この頃も今から見れば十分幼い――堵音は雨の歌を口漏らさぬよう心に決めた。もしこれが単なる警告の枠を超えていて、雨歌口ずさもうものなら、瞬時にひどいことをするという脅迫であるなら、それはしない方が我が身の為である。例えそれが想子の我が侭であっても。

 黄色い小さな傘を想子に差して貰って歩いていたのだが、それはその時の堵音にとって、或いは想子を繋ぎ止める鎖に見えていたのかも知れない。如何に想子であろうとも、唐突に傘を放り出してまで堵音を襲わないだろうと考えた、と思うのだ。その辺りはあまり良く覚えていないのが残念ではあるが。

 それが鎖か、単なる雨よけの道具なのかは別として、その時の想子は妙に淑やかに見えた。――多分演技だと思うが。

 演技中の想子を隣に、またしばらく歩を踏んで行くと、次第に小学校の校舎が姿を現し始めた。

 それが堵音の目には、とてもとてもとても大きな大きな大きな建物に見えたのだ。今から見れば、その校舎はそんなに大きくないと思うが、幼目にはそう見えても仕方ないし、それが問題であるという訳でもない。

「ほら、あれが学校だよ」

 と言ったのは無論に想子である。

「おっきい」

 と返したのは無論に堵音である。

 巨大建築物を目前にして、しかしそこに駆け寄ることが出来ないというもどかしさを覚えながら、堵音は半歩ずつ学校に近づいていった。

 堵音と想子は意外にも遅い方だったらしく、校門をくぐるとそこにはもう幼き堵音には数えられぬ程の人々が溢れていた。

 妙な感動を覚えつつ、「なになになになにどうするの?」と好奇心全開の燦爛たる瞳で想子を見ると、想子は堵音の手を引いてしばらく奥に入り込んでいった。

 傘も人も多くて、奥に行けば行く程に想子の嫌いな場所になっていく筈だったが、年長者としての意地というものがきっとそこにはあったのだろう、半ば開き直った風に手を引いて。引かれて行けば、そこは誰がどこのクラスなのか、というクラス発表の掲示がされている場所だった。

 一クラス三十人程度で、それが三クラス。他校の事情を知らないので深言はしないが、大体はこの程度の人数だろう。

 ひらがなで書かれた名前の数々は見知らぬものばかりだった。というかそれ以前に、この名前の羅列が一体どのような意味を持っているのかがこの時の堵音には見当もつかなかった。

「ひ、し、ま、か、き、ね……」

 一音ずつ呟きながら想子が掲示された名前を指さしていくと、どうやらそれを見つけたらしく、堵音の耳元にそっと呟いた。

「ほら、堵音は三組だって。黄色だよ」

「きいろ?」

 うん、と想子が頷いて。その指先示すところを目で追うと、黄色で縁取られた紙に「ひ、し、ま、か、き、ね」の六文字があった。

 ここで一応補足しておくと、黄色というのはクラスを簡単に見分けるための印である。この小学校では一組赤、二組青、三組黄色であり、その色がそのまま運動会等で使用された。

 特に黄色が好きでもなかったので、歓声あげて喜ぶような真似はしなかったが、それでも一応は嬉しかった。何かに所属しているという安心感、とでも言うべきだろうか。良くは分からないが。

「きいろー」

 一応ポーズのようにそう言っておくと、想子が笑んで頭を撫でてくれた。言うまでもない、そっちの方が嬉しいに決まってる。

 殴られずに撫でられるというのは珍しく、そして嬉しい。想子の御手の窪の柔らかい感触に身を震わせると、堵音は無垢な――自分で言うのもどうかと思うが、下心がない、と言う意味では純粋な――笑みをその方に向けた。

 天気が雨であることを撤回して更にそれを上回る何かがあったことは確かだろう。想子があんなにも容易く微笑んでくれたのは稀である。きっとそれは幼き日の堵音には遠く思い及ばぬような事であったのであろう。恐らくは。

 さて、己のクラスを確認して、次に想子が堵音の手を引いて向かったところは体育館前である。

 無駄話のお陰で遅れて来た母親に、「きいろだよ」と喜び勇んで告げると、想子が「三組です」と補足してくれた。

「そうなの、ありがとうね」

 妙に折り目正しい想子の姿勢を見て、堵音の母が嬉しげに礼を言う。まったく本性を知らないとは幸せである。

 堵音の見知らぬ他人からまた話し掛けられて、母はまた無駄話に戻った。「想ちゃんよろしくねー」と間延びした声で言っていた辺り、想子に全て任せるつもりだったのだろう。無責任な。

 また話し出した母親を半ば呆れた顔で見ていると、想子が「こっち」と言って手を引いて歩こうとして。堵音が無意識混じりにそれに従って行くと、どうやらそこは入学式の出席受付のところであるらしかった。

「おはようございますね、お母さんは?」

 一番話の通じそうな――悪く言えば容易そうな――若い女性の先生が微笑んで語りかけてきた。とは言っても、想子がその人に近づいていったからなのだが。

「わたしが代わりです」

 想子が大人びてそう言うと、寸刻に握られている手の力が少し強くなったような気がした。そして言葉を咀嚼したらしいその若い先生は、少し人差し指をあごに付ける安い動きで考えて、想子に言った。

「……うん、うん。そっか。じゃ、ここにあなたのお名前と……、その子の名前はここに、ね?」

 外見通り容易く話を通してくれたこの先生だが、後に接した時には、中々に芯の通っている人物であることが分かった。物事の思考も外から見るよりは早い。……つまりはこの時、一体私の親はどんな風に思われていたのだろうか。そこだけは少しばかり怖い。

「はい」

 想子は頷くと、堵音に目線を一つ寄越して手を離した。眉を哀しそうに下ろしていた表情は、少しだけ印象的だった。

 

 さて、ここから入学式は割愛させて戴こうと思う。どうにも式典というものは堅苦しくていけない。特に厳粛な雰囲気であったと言う事は印象に残っているものの、逆に言えばそれしか残っていないという事でもある。

 ……思い返せば、この日の想子はやたらと表情をころころ変えていたような気がする。

 雨だから、だろうか。それが晴れたから、だろうか。

 いや特に他意はないだろうが、そんな気がしただけである。しかしここで一息させて貰いたい。この後が少しばかり……想子ペースなのだ。

深呼吸を一つしよう。私自身のために。

 

 雨は止んだのだが、湿気多めな天気に堵音の癖毛はよりその自己主張を強めていた。入学式の前後で髪型が変わる程だったから、それはもう相当な勢いだったのだろう。私自身が覚えているわけではないが。

 ともあれ、その入学式典が終了を迎えると、再び想子が出迎えてくれた。新一年生は解放されたが、その母親達は説明会云々で居残りらしい。近所の家の子に手を引かれて帰路につくか、それでなければ――余っている教室で少し待機するか、という選択肢だった。

 無論、堵音は想子がいるので前者を引いたのだが、それは或いは間違いだったのかも知れない。

「おかえり」

 体育館を出て長靴を履き、そこで想子を見つけた堵音は走り寄って抱きついた。傘を腕に掛けた想子が堵音の頭を撫でながら言ったのが、おかえり、だった。

「ただいまぁ」

 柔らかさを押し出した想子の身体はまだ堵音よりも大きくて。身体に巻かれた腕は温かかった。

 天気に比例して機嫌が良くなる想子は、堵音の頭をひとしきり撫でると、その手を握って呟いた。

「おねえちゃんの友だちといっしょに遊ぶ?」

 ここで言うおねえちゃんとは、他ならぬ想子の事である。堵音は特に何を考えるでも無しにそれを了解した。何故なら、その時の想子の機嫌があまりにも良くて、それに体面は保つ想子であるから、友人がいるなら己を無下に扱わないであろうと判断したのだった。

 黒髪を流線に揺らしながら機嫌良く堵音の返答を受け取ると、想子は「じゃあ少しここでまっててね」と言って、スカートを翻した。

 早足で掛けていく想子の綺麗な背中を見ながら堵音はそこに立ちつくした。

 暫く、だっただろうか。想子が企む時はいつだってこういう不審な間がある。

 水たまりに映る本物よりも綺麗な景色を眺めながら堵音が待っていると、不意にその水面が揺れた。

「ん、はじめまして……かな?」

 堵音が顔を上げるとそこには、想子と見知らぬ女性が――女の子が二人立っていた。しゃがんで目線を合わせてくれたのだが、どういう訳か、妙な恥ずかしさというかそういう感触を得て、堵音は想子の後ろに隠れた。

「あ、こら、ちゃんとこんにちはしなさい」

 紺色スカートの裾を握って堵音が照れていると、明るい声で想子の友人の片方が頭を撫でてきた。

「こんにちは」

「……こんにちは」

 それすらも照れ臭くて、堵音は想子のスカートに顔を埋めた。それを見たらしい想子が、仕方ないなという風に仕草をして、堵音の手を握った。

「ほら、行くよ」

 胸を張った想子の言葉に連れられて、堵音と想子の友人二人が歩き出す。

 濡れたアスファルトの上を涼しい風が吹いた。

 

 さて、ここで一つの補足をしておこうと思う。新たに登場した人物の二人だが、彼女らは今後も深く関わってくるのでその名前を紹介しておくことにする。

 私――堵音に声を掛け、そして頭を撫でた方が、……髪型ポニーテールの松将柚来。

 そして、ここではまだ一切の声姿を現してはいない方が、眼鏡優等生の三津奈乃美。

 である。今後の活躍に期待しよう。

 ……いやしかし、どうしたものか。彼女達の事を紹介しているだけで血圧が高くなりそうなのである。

 ふ、……今の内に深呼吸をしておくことにする。

 

 遊ぶ、とは言っても小学生である。それも三年生三人と、一年生が一人。

 しかも先程まで雨が降っていたという事もあり、足元の加減から、外で駆け回るのは止めた方がいいのではないかという結論が出された。――三年三人会議の結論である。

 最年少の堵音の意向を全くと言っていいほど介せずに物事は進行した。想子が中心となっている故、それも想像の範囲内であったが。

 とりあえず家に帰り、遊べる服に着替えてからまた想子の家に集合。神妙な面持ちで告げられたその言葉を胸に、それぞれは帰宅した。

 堵音は想子に手を引かれ。半ば急ぎ足のような形で祢矛家にフェードインした。

 そして、「何かあったときの為」に用意してあった堵音の着替えをそこで着せると、女の子とは思えないような速さで想子も着替えを済ませた。なにしろ部屋に入った瞬間に着替え終わって出てきたのである。記憶違いか見間違いでなければ、あれは神業に値する。

 想子の家は案外に広く、居間で待っているだけでも直ぐさまに時間は潰れる。それはその時も例外ではなく、何をする暇もなく柚来と奈乃美がやって来た。

 慣れない面々に少々戸惑いながらも、堵音は想子に付いていく形で遊びに付き合うことになった。

 

 と。

 まぁ何をするのか、である。皆様にも多少見当は付いていると思うが、一応。

 ごっこ遊び。よく言う形に均すとすれば、おままごと。

 妥当である。小学生にして至極妥当である。その内容を一覧してみれば私は卒倒するが。

 

 というのも、玩具が堵音であるからなのであった。

分からなくもない。幼さを掌の上で自由自在にしようと思う衝動は、女の子であればいつだってふいに浮かんでくる。

 でも、それはある程度理性で抑制されるはずではないか。何故にたがが外れてしまったのだろうか。

 それは紛う事なく、赤信号みんなで渡れば怖くない理論である。

 悪戯だって一人でやってもあんまりおもしろくないのだ。二人三人に四人五人、人多ければそれだけで盛り上がれるし、行動もそれに比していく。

 ある意味で非常に人間的だとも言える。想子が中心人物でなければ、私は全てを許しただろう。

 誰に対して何を許すのかは知らないが。

 

 正直、その時の行動の衝撃が大きすぎて、どんな流れでそこまで行ったのかはあんまり詳しく覚えていない。

 というか、思い出そうとすると勢いよく冷汗が背筋を流れていくのだ。私とてそこまで自虐的ではない。思い出すなんて、誰が好き好んでするものか。

 が、それをしないと話が一向に進まないという二律背反である。如何ともし難く悲しきかな。

 と言う事で、背筋を我こそ我こそと意地張って這おうとする寒気を何とか耐えながら思い出していく事にする。

 そう、まずは……まずは、脱がされた。上半身。

 ハリウッド映画並みの圧倒的スケールで放たれるスタートダッシュである。色気付いたにしても小学生とは思えない。どんな突然変異が起これば、小学一年生という幼い堵音を脱がそうという意思が発生するのであろうか。その動機は未だに不明。

 にじり寄るようにして迫ってきた三人の大人の女は――小学一年生から見れば、三年生はもう大人である。多分――汗ばんだ肌を折り重ねるように、身体を触れてきた。

 その光景を他人事のように見ながら、堵音は軽い錯乱を覚えていた。

 何度も何度でも補足しよう。この時、堵音は小学一年生である。しかも相手の内に一人は想子もいる。「えっち」などと一言でも漏らしさえすれば…………すれば、……そう、……少し、ま、まずい事になりそうである。うん。

 抗うか、それとも抗わぬのがよいのか。堵音が判然とせずにいると、裸になった上半身にまとわるようにして奈乃美が抱きついてきた。柔らかかった。

 遊びなのか? これは遊びなのか? もしそうだとしたら私は一体何をすればいいのか? されるがままでいいのか?

 状況の不理解に苦しみつつ堵音がそう自問していると、想子がその後ろから抱きついてきた。やっぱり柔らかかった。少し暑かった。

 堵音は悶える……ではなく、呻くような声を上げて唯一まともそうな柚来に救いを求める目線を遣った。すると、それをどんな風に曲解したのかは理解しかねるが、柚来もその上から抱きついてきた。

 あぁ成程。堵音は、ようやく己の心の中で簡単な結論を出す事ができそうだと一安堵した。おしくらまんじゅうだ、これは。

「おーし……ぅら、まんじぃぅー、おっされってなっ……くなぁ」

 妙なこそばゆさを身体に感じながら、三人に埋もれた堵音がそう言って。

 直後に想子に叩かれた。何かが気に障ったらしい。

 おそらくは、と直ぐに堵音の頭に過ぎったのは、

 どうやらこれはおしくらまんじゅうじゃないぞ、という事である。どうやら別の遊びをしていたのに、今の一言で雰囲気を崩してしまったらしい。柚来は堵音の一言でくすりと笑って身を離してくれたのでそれに間違いはあるまい。

 奈乃美だけは離れてくれなかったが。

「んー、ん……」

 眼鏡をかけたまま、無い胸に顔を埋めようとするのは止めて貰いたい。他人の胸を勝手に借りているにしては、妙に幸せそうな寝顔でいる奈乃美が堵音に体重を傾げてきた。

 当然それを支えきれるはずもなく、力なく支点無くした身体は床に向かって。少しだけ雨に濡れて艶っぽかった乱れ髪に押し倒されるような体勢になった。

 堵音は道化よろしくに大仰な仕草で倒れ込んでみたけれども、それも特に意味を為さなかった。スルーされた。

 

 もう何も言うまい。取り敢えず、ここの所だけでも話をさせてもらえれば少しは気が楽になるはずである。

 そうでなくても――そう信じたいよ。

 

 心を決めると書いて決心する、である。いつまでもぐだぐだとやっていても仕方が無い。決心す……うん。

 さて。

 私堵音に開き直ることが出来るほどの剛胆な心があればいいのだが。などとやっていては終わるものも終わらない。

 脱が……されて、それからどうなったのか、という話である。

 うん。

 ――結局は全裸になりまして。いや、……なって。それで、うん。

 …………、羞恥なり!

 

 ……、一人身悶えているというのは傍から見ていて気味の良いものではないだろう。話を進めなければならないのだ。

 だから……、……脱がされて。

 それで、こう、――私の語彙量が大して幅を利かせないというのも問題であると思うが、一般的な生活で利用しない単語を使用せねばならぬ状況になっているというのも、また問題であると思う。

 そう、それで……。

 ……。

 ……、て。

 舐められて濡れて入れられて、だ!

 あまりの勢いの良さに全力で語弊が生じているが、それは最早どうでも良い。深読みしなければこれでいいのだ。そう、少しでも妙な知識があったりすると読めないのだ。

 ――よし!

 ……もういいね? これでいいね?

 ――さて、次に行こうではないか!

 

 

 お察しの通り、である。ただいま意気消沈中。

 まったく……。何故に私はこう、厭世的になっているのだろうか。というか、なんで私は恥ずかしの思い出を自己嫌悪に陥ってもまだ追想しようとしているのだろうか。まったくもって理解が出来ない。

 そう本当に、もう……うん。

 はぁ……。

 ……溜息を吐いても仕方がないというのは承知しているのだが、それでも吐かずにいられない。もどかしい、と言えばいいのだろうか。言葉にすることの能わぬ感情を解消する方法を知りたい。……どうがんばっても出来そうではないが。

 さて、次のお話である。

 現時点でもう十分すぎる威力を発揮している想子だが、流れ的には次で本番――もとい、次で何が起こるか、という事は予想できそうである。

 が、残念ながらその期待は見事に裏切られてしまうのだ。

 何故ならば、今回の想子は大人しめだからである。威力も高いし、スピードも早いし、リーチも長いが。

 あの鬼神の如き想子にも思春期はあり――そして容易く言ってしまえば、初恋もあるのである。恋愛の体を為していないのが想子らしいと言えばらしいが、それはまた後で話すことになる。

 極度に甘さを控えたすっぱい恋心をお伝えしよう。

 堵音、中学一年。そして想子、中学三年である。

 

 

 どうやら物語が進むと季節が逆転した動きをしたがるらしい。今回は冬のお話である。

 ぬくぬくとしたこたつの中で繰り広げられる熾烈な……妄想を御覧あれ。

 

 想子にとって高校受験などというものは容易いものらしく、中学三年の冬のくせにこたつに入って呆け半分寝半分といった風に怠惰していた。

「堵音ぇ、暇ー」

 本来的には、想子の学習を促す為にも堵音はこの場に居てはならぬ筈なのだが、しかし他ならぬ想子に呼ばれて祢矛家の居間に甘んじていた。

「人を呼んどいてそれはないと思いますがー」

「うるしゃい」

「痛っ」

 それでも甘めに文句の一つでも――というか勉強やれと――言ってやろうかと堵音が思案すると、言葉に出す前に想子がこたつの中で蹴りを入れてきた。

「何もしてないのに蹴りとはこれ如何に」

 堵音がテーブルに顎を付けながら想子の方を見ると、特に表情を得ない想子がつまらなそうに視線を投げてきた。

 言葉に対する返事のないままに一旦沈黙が降りて。変な想子だな、堵音が思いながら視線を窓の方に送球すると、そこには思い掛けないものがあった。

「……ん?」

 妙に新しい英語の文庫本。表紙は位置的にも堵音には見えていなかったが、目に入っていたとしても中学一年生レベルでは読み解けなかっただろう。多分。

 そして、そこにわざとらしく何かが挟んである。紙片が。

「想姉、あれなに?」

 この頃になると、手当たり次第殴るという想子の暴虐さ加減はやや収まりを見せ始めていたので、堵音は特に意識もせずにものを問うた。

「ん、どれ?」

 想子が眉を上げて堵音の方を見ると、堵音は「あれ」と言って、まだ向こう側に雪の降らぬ窓を指した。

「あの……英語の本。想姉が読むの?」

「あ、……あぁ、あれね。違うって、あんなの読めるはずないじゃん」

 愛想笑いじゃない、でも心から笑ってる訳でもない。ような気がする。微妙な笑みを堵音に向けて想子は温かい湯気を吐くコーヒーに口を付けた。

「あのね……一応……これでも恥ずかしいから内緒にしなさいね」

 耳に届く揺れた声音に堵音は身を起こす。いつもの想子じゃないような、そんな感触を覚えて。

「うん……?」

「私……これでも美人じゃない?」

 前言撤回、いつもの想子だった。

「……否定はしないけど」――だって言ったら殴られるから。

「でしょ? それでね、……少し前に告白されてね、同級生だけど」

「へぇ……想姉に告白するって相当切羽詰まってるね。その人」

「……」

 無言で堵音の股間に刺すような圧力が生まれた。痛みに反射して無意識の内に足を動かすと、堵音はこたつに膝を打ち付けた。

「あっ、……ったぇ……」

「あったけぇ? ……あったかい? 変わった感覚の伝え方をするのね」

「ちがっ……、違う……」

 堵音が数十秒悶えていると、それを見るのにも飽きたのか想子が言葉を続け始めた。

「……考えてるよりもずっと変な感じなんだよね、告白されるって」

 まだ熱を残しているらしいコーヒーを啜る音を部屋に一つ響かせて。

「……なんかさぁ、そーゆー風に見てなかったんだよね、その人のこと」

 だから、なのかもしれないけど。想子が言葉一つ紡いで堵音に聞かせる。

「戸惑った――っていう訳じゃないけど、ね」

 歯切れ悪い区切り方をして、想子は堵音に視線を投げた。目線で指して、

「で、それ。……ちょっと取って」

 カップを丁寧に両手で扱う想子が髪を振った。羨ましいなと思うと同時に想子の香りが鼻に届いて。堵音はこたつから半身を出して這うように窓に近づいて、それを手に取った。

 手に取った瞬間に堵音が得た感触は、やはりこの本は新しいものだという事。しかしそれが何を意味するのかは想像できずに、ただ一見するだけでそれを想子に手早く回した。

「ん、ありがと」

「……重要なのは挟んであるその紙?」

 たちまちに冷えた身体を暖めるようにこたつに身を埋めながら堵音が問うた。どうやらその言葉が正しかったらしく、堵音が表情を判然とさせる前に想子が眉をひそめるようにした。

「そうなの。でもこの本が出てくるのはもう少し後で――」

 如何に想子であっても恋慕するというのは表情に出るものなのだろう。堵音は想子の振る舞いを不審だと思っていたけれども、ようやくその原因ともとれるものを理解したような気がした。

「告白された時にさ、やっぱり私の方には覚悟――っていう程大層なものじゃないけど――やっぱり揺れてたから、返事はまた後で、って言ったんだよね」

 でもきっとそれが、相手には……断られるんじゃないか、ってそういう印象を与えたんだよね。

 

「あの、さ」

 いつもはもっと意地張ってて。私にさえ殴りかかってくるような奴なんだけど。

放課後少し話あるって言われて、またなんかみんなで企むのかな、って思ってたら、教室にいるの私とそいつだけでね。

「あ……」

 分かったよ、私だって馬鹿じゃないから。そういう雰囲気だって、分かった。

 ほら、三年生は部活ないからさっさと帰るじゃない? だから、久しぶりだから余計に、……なんか、放課後の教室が綺麗に見えて。

 なんか妙に悔しかったけどね。言葉にしにくいんだけど……。

 ――んー、いや、それでね。

 手、握られた。

 そう、手を握られたの。あ、いや、手を握ったことは何度かあるんだけどさ、そういうのって半ば自棄になってて思いっ切り力込められてたの。まぁ、私が力入れてた所為もあるんだけどさ。

 でも、そういう冗談交じりの握手じゃなくて。

 優しかったの。悔しいぐらい。私の気に障るくらいに。

「……祢矛」

 ばーか。

 こんな時くらいは下の名前で呼べばよかったのに。今言っても仕方ないんだけど。

「何?」

 気の利いた事、何も言えなくて。冗談めかそうとしてもできなくて。ずるいよね、手を握って見つめてくるんだもん。

「……あー、あ、のさ」

 そんな躊躇ってる表情なんかあんたには似合わない。だから、

 ……はやく、言ってよ。

「うん」

 でも嫌な気分じゃなかったから……、その時だけはあいつの求めてる私になってあげようかな、って思ったりした。あんなシチュエーション壊しちゃうのって勿体ないような気がしたし。でもね。

「……変なタイミングだって分かってる。でもこれを逃すと……もう言えないような気がしたから」

 でも、ね。

「何?」

 頬を内側から噛んで、頑張ってるのが変に可笑しくて。あぁやっぱり私にとってのこいつは――。

「つ、付き合ってくれないか?」

 上擦った声で。言った瞬間手に力がこもって。そういうの――想像してはいたんだけど。

「……あ、の……それ、は」

 というかさ、それを言われる直前まで何パターンも頭の内で処理してみたのよ。こう言えば――こう振る舞えば、大丈夫だろうか。ってね。

 うん、まぁ。

 無駄だった、ってやつ。

「だ、ダメか?」

 誰もそんな事言ってないだろ。思って横に首振って――、とりあえず落ち着こう。そう考えた。

「……違う、違うのっ」

 無理だったけど。

 あのね、あんたもこーゆー状況になったら分かるって。絶対に落ち着いてなんかいられないから。

 あー、うん。それでね、抱かれそうに――あ、そうじゃなくて――抱きしめられそうになった。っていうか抱きしめられた。抵抗しなかった私も悪いんだけど。泣いちゃって、つい。

「祢矛……」

「ばかぁっ……!」

 そりゃもう第三者から見ればもう立派な恋人同士に見えたでしょうね。中身は伴ってないけど。

 なんで泣いたのか分かんなくて、でもそれが切っ掛けになって急にイライラしてきて。場の流れが私の考えていたのと全く違ったから、なのかもしれないけど。ともかく急にね。

 腕の中が温かくて耳元に掛かる吐息が温かくて。そこだけが形を得たように魅力的だったけど、でもね。

「いやだよ……」

「……祢矛?」

「いやだぁっ……」

 すごく自分勝手だって、ちょっとは分かってるのよ? でもね、違うような気がしたの。

 私が身を縒るのはこいつじゃない……って。

 ううん、でもそれは勘違いなのかもしれない。だからもうちょっとゆっくり考えたい、そう思ったの。

 でも、ね。身体と頭は同じ生き物じゃないのね。気付いたら、離してよ、って叫んでたの。

「あ、……ご、ごめん!」

 やっぱり今考えれば……あいつから見ればそれは断られると思ったんでしょうね。

「……少し、少しだけ……待って。考える」

「……」

 でも、自分自身でさえ思う通りに動かないのに、そんな状態で他人に関係するような事を決断したいと思う?

 私は、嫌。そんなの失礼の一言じゃ片付けられないくらいに無礼だわ。

 

「えーっと、感情入れまくってお話ししているところ悪いんですが」

「ん?」

「……もしかして、その本の重要性低い?」

 堵音としては、もうこれ以上想子の話を聞くのが色んな意味で――そう、色んな意味で――辛かったので、できればこの話題を振った事を謝らせてもらえればいいかな、とか思ったりしていた。

 とは言っても想子は眉を動かして笑うだけで。うわ話したいんだろうな、そんな雰囲気がよく分かった。

「あぁ、そう。……じゃ、その本の件まで少し飛ばす?」

「……できれば。っていうか想姉の話を聞くのが辛いから全部飛ばしてくれるとありがたいなー」

 というか、よーく考えたら話進んでないし。思いながら堵音が机にあごを付けると、蠱惑の笑みを湛える想子と目があった。

「ふーん……辛いんだ。……かわいい幼なじみが他の男に寝取られる話聞くの、辛いんだ?」

「寝取られるって……全然違うけど、……まぁ説明するのも面倒だからそれでいいや」

 殴打一。

「……で、この本は、その……同級生に持っていてって言われたの。理由は分かんないけどね」

「な、何が、挟ましてあるの……?」

 ダメージ抜けないまま堵音が呻くと、想子がその文庫本を開いて一片の紙を取り出した。

「ほれ」

 人差し指と中指に挟まれたその紙片を受け取って。それに書かれた文章を読んでも堵音には理解が出来なかった。

「……何語?」

「さぁ……私にも読めないから。っていうか文字列的にはドイツ語みたいな感じがする。ドイツ語知らないけど」

 なんて適当な。堵音は寸感にそう思ったが、しかし言ったらまた殴られそうなので黙っておいた。

「どうすればいいんだろうね……?」

「いや、聞かれても……」

「……呪われてないよね?」

「うわぁ……」

「答えなさいよ」

「う、呪われて、ないと思うけど。……というかその人に聞いたら?」

「返事する前に? そんなの嫌じゃない」

「自分勝手だなぁ……」

「何か言った?」

「いや別に」

 閑話休題。

 この後、見ても分かるが、二人の話はあからさまに想子の暫定恋人から逸れていった。それは想子も気にせずにただ話していたらそうなったという事なのか、それとも堵音が――辛いと言ったからそうしてくれたのか。それは分からない。

 というか何故に堵音は想子の恋話を辛いと感じたのだろうか。……言ってしまうとそれも怖いのだが、想子の言った事も一理ある。しかしメインの理由はそれとは別にあり……そう、別にあるのだ。

 うん……それは、そう。堵音にも……また想うところはあったのだ。だが、あまり説明を入れるのも野暮だからここらで切る事にしよう。

 

 

 さて、今回はやや尻切れな感が否めない。しかしそれでもこのエピソードを抽出した事には相応の意味があるのだ。多分。

 これを初恋と呼ぶには少々ならずとも抵抗感があるだろう。が、私が接してきた中で一番想子が恋慕していた時を選ぶとすればこのエピソードであり、――つまりこれ以降の想子からは恋の気配とでもいうべきものが一切消え失せてしまったのである。

 それの理由を説明するには未だ早いが……しかし少なからず気付いている方もおられるであろう。

 が、形あるところまで言及はしないでおくことにしよう。何事にも奥ゆかしさは大切である。

 一息置いて。

 しかしあの本は一体何であったのだろうか。未だに存在理由が分からない。もしかして本当に呪い――もとい、呪術的効果を期待したアイテムだったのだろうか。もしそうであったのなら、間違いなくその効果は別のところで発揮されている。

 そして想子に告白したとか言う勇気ある少年にもスポットライトを当ててやりたい。想子が名前を教えてくれなかった故に、私堵音もその名を知らないのだが、しかし可哀想である。折角に告白していい感じ――あくまでも想子の話を信じるなら、であるが――になって、だがしかし結局は断られた。……報われなかった彼の、今後の幸運を祈って乾杯。

 

 次なるエピソードはお察しの通り高校生時分の物語である。いや、今までを顧みると物語とは名ばかりで小話にもなっていないような気もするが。できればそこは気にしないようにしよう。

 前の話が冬だったという事で流れ的には、秋……であるが。

 いや、秋の話がないという事ではない。文化祭や体育祭など祭系統のイベントが盛りだくさんではある。だがしかし、意地になって流れに乗らずとも良いのではないか、とも思えてきたのである。非常に自分勝手で申し訳ないが。

 が、理由もなく流れをぶち壊すというのも少々理解に苦しむ行為であろう。

 我ながら、何故にこのような本筋とは関係ないところで煩悶としているか不思議でたまらないのだが。まぁ、それも一人語りの妙味としてくれたら私としては非常に有り難い。

 話を元に戻すとしよう。

 先程も言った通りに、次なる季節は高校生の時のものである。そして秋と言えば文化祭である。体育祭でもいいのだが、私の通っていた高校は、多少ではあるが文化祭の方に規模が傾いていた。

 一応補足しておくと、私堵音と想子は勿論同じ高校である。特に意識をしていた訳ではないのだが、どうやら同じレベルに成長してしまったようだ。そして、覚えておいでだろうか。あの二人――全裸の堵音に抱きついてきた松将柚来と三津奈乃美である――も、何故だか同じ高校にいた。ちなみに中学も同じだったのだが、中学時代は比較的に大人しかった――比較的には。

 彼女らも多少理性が追いついてきたらしく、昔のように裸に剥かれて抱きつかれるなどといういかがわしい遊びはしなくなった。当然といえば当然かも知れないが。

 が、忘れてはいけない。やらなくなった、とはいえ前科持ちなのである。

 と、少しだけテンションが上がってきたところで話に入ろう。

 秋色秋味文化祭、恋の味より友の汗。である。

 

 

 文化祭は三日間。堵音の通う高校ではそれが当然の形であった。だが、それが高校の文化祭として一般的かどうかはまた別の話。堵音含む想子達は、他校の文化祭というものに顔を出した事がなかったのである。故に、自分達の文化祭がどのような位置づけにあるかは未だ知るところではない。

 ともあれ、堵音の高校の文化祭というのは三日間であるのが通例だった。そしてその三日間の内訳というのが、

 一日目、演劇部発表。二日目、バンド演奏。三日目、生徒会主催イベント。

 である。

 勿論これらはメインイベントという事であり、他の出し物は個々に営業している。というか生徒達が好き勝手にやっているという印象が強い。ただ、三日目の生徒会主催イベントと銘打たれた突発的な生徒会の暴走に関しては生徒達の妙な団結力が発揮される。

 生徒会の運営に対してストレスを溜めまくった執行部が、文化祭三日目にしてついにその本性を――もとい、その特殊な性癖を露出しつつストレスを発散する。というのが毎年恒例となっている。

 このイベントに関しては、通常の、生徒達を生徒会が抑えるという図式が逆転し、生徒会を生徒達が抑えるという図式に収まる。

 如何に学生といえども生徒会執行部ともなればその力量はただならぬものである。そういう彼らが、通常時に抑えていた力を全力出して向かってくるのだ。これはいやでも団結する。

 二日目までに平和な文化祭を楽しんでおかなければならない。必ず三日目で壮絶なる騒動にまきこまれることになるからだ。

 などという暗黙の了解が、何も知らない一年生には部活動の先輩達からこっそりと伝えられるのである。

 そして勿論、堵音にもその伝統は口受されていた。

 即ち、尋常ならざるどきどき感が三日目には押し寄せるのである。

 

 異様な雰囲気が教室中に充満していた。

 言わずとも、文化祭三日目である。

 溜息一つ吐くのも憚られるような張り詰めた空気の中、堵音は時計を確認した。時間にして、午後一時十五分頃であった、と思う。

 おかしい、と誰もが思っていたはずである。

 自称偉大なる先輩達――から口伝された伝説によると、文化祭三日目に生徒会執行部の面々は反旗を翻し、その叡智と決断力で文化祭を乗っ取るという。それは一聞であれば与太話にも満たない単なる冗談にしか聞こえないが、何度も何度も現実妄想織り交ぜられた恐怖話を夜語られれば嫌でも信じてしまう。

 そのような高名かつ神妙な伝説があるにも関わらず――つまり文化祭三日目であるにも関わらず――生徒会執行部の一声どころか、喧噪の一つも耳に届いてこないのだ。いや、後者は後者で特筆すべき事柄かも知れないが。

 ともあれ、文化祭三日目にして、しかし何も起こらないという状況が堵音を含む一年生達には不可解だった。

 嵐の前の静けさ、という奴だろうか。

 だが出し物の為の珍妙な服装で静まりかえっているというのも、また不思議な光景である。堵音は教室を軽く見回しながら思った。

 いつ起こるとも分からぬ事態に対して気を張り続けるのも難しいものである。今朝からこのような状況が延々と流れていた故に、もうそろそろ我慢が出来なくなる筈――生徒と生徒会のどちらが、という話は別にして――であると堵音は考えていた。

 あながちそれは間違っていなかった……という話はもうしばらく後である。今暫くこの異様な雰囲気をお楽しみ下さい。

 さて、この状態が何も知り得ない一年生にとって過分なストレスである、という事は言わずとも理解いただけるであろう。何かしらのイベントが起こるならまだ良かったのかも知れないが、何も起こらずに午後になってしまったのだ。――まさかとは思うが、このまま文化祭が終わってしまうのではないか? そのような軽薄な疑念が多少ならずとも浸透し始めていた。

 いっそのこと、俺達でやっちまうか?

 などという不遜な事を考える輩が出てくるのも分からなくはない。だが、何か事を企てようとする素振りを見せた人物が次々と姿を消していくのには、生徒会の力強さを感じた。

 そう、影ながらではあるが、既に生徒会は動き出していたのである。堵音含む一年生達がその事に気付くのはもうしばらく後の事であるが。

 時間にして、午前十時頃。

 堵音達一年生がまだ緊張を撓ませずにいた時間である。

 

 ここからは柚来に聞いた話である。本当かも知れないし嘘かも知れない。が、ただ私が接敵した事実に適しているので紹介する。

 

 松将柚来は生徒会執行部の相談役というポジションに位置していた。

というのも元来より柚来は人望が厚く、天賦の才ともいうべく麗質で生徒会執行部の任に幾度となく就いてきたからである。しかしそれでも時の流れに逆らうことは出来ず、三年生となり執行部を降りた。のだが、それでもまだ柚来の力を必要とするファン――もとい生徒会長含む執行部の面々が、教師陣と柚来に泣きながら頼み込んだのだ。そしてその泣き頼みの結果、松将柚来は相談役という新しいポジション――以前にはこんな役職はなかった――に座り、執行部を安心させるべく裏から糸を引くことになった。

やけに仰々しい来歴ではあるが、要約すると……まぁ、柚来があまりにも完璧であったのでもうちょっとそれにあやかりたかった。というだけの事である。

堵音を辱めた女とは思えない人物像ではあるが、人間は誰しも二面性を持っているものだ。……多分。

さて、そんなこんなでポジショニングが完璧な柚来である。そんな彼女が思いついたイベントというのが、

「勇壮! 売り上げを盗まれるな! 狩られる売り上げ資金を守れ!」イベントである。

 勿論このタイトルは生徒向け――ちなみに執行部内では「小遣い稼ぎ」と呼ばれていたそうである。物騒――である。既にその名が内容を現しているような気もするが、一応内容を補足しておこう。

 放送でタイトルコールをした直後に、武装した生徒会執行部の面々が二人一組で売り上げの高い出店から順に回っていき、その売り上げ資金を奪うイベントである。無論奪われるのがメインではない。守るのだ。だが守るといっても生徒達側にいきなり準備ができている訳がない。言い均すとすれば……取り返す、であり、できれば取られないようにする、が正しいだろう。生徒側の基本姿勢としては、生徒会執行部の面々を捕らえ、機動力を低下させるのが目標である。

 ――というのが、柚来が考え出したイベント原案である。この時点で突っ込み所はあるが、問題はここからである。このイベント、無能な――というか松将万歳な生徒会執行部は、この意見を火に通すことなく可決したのだ。……馬鹿だと言うほかないだろう。

 柚来自身も「適当に考えててまさか通るとは思ってなかった」と言っていたのだ。それでも一度可決した事柄は貫き通す姿勢は評価に値するかも知れない――その姿勢だけは。

 病的な馬鹿が集まってしまった生徒会執行部は、恒例の如くそのイベントを文化祭三日目まで内密にし、そして決行した。

 

 十時くらい……だったかな。雰囲気を出すために部屋全体を暗くしてあるの。

「さて、みんな。今日は文化祭三日目だ」

 そう言ったのは会長ね。三年って私だけだったから結構浮いてたんだけどさー、その時だけは少し楽しかったかも。

「日常の不平不満……決して言葉にはしないが、我らはそういう感情を押し込め身を削ってきた」

 ま、毎年似たり寄ったりの演説なんだけどね。

「それを理解しようともせず! あまつさえ我らに不満を言うものに対し天罰を与えなければならないだろう!」

 ……時間なかったからとはいえ、ここ端折り過ぎたと思う。うん。

 で、まぁ……イベント始まるわけだけど。あのさ、堵音も気付いてたでしょ? あの日、なんか気付いたら人消えてなかった?

 うん。あれ午前中から執行部で拉致ってたの。ま……人員不足でさ。

 それで、売上金奪ったらまじに私達の手元に入れるつもりだったんだけど、流石にそれはまずいかなーって思って。手伝わせる代わりの駄賃って形で一部還元しようかな、って考えてたの。

『それではこれより、「勇壮! 売り上げを盗まれるな! 狩られる売り上げ資金を守れ!」イベントを開催します』

 ま、でも一時半くらいだっけ? 放送でタイトルコールしたらすごい怒声が聞こえて、ちょっと厳しいかなーとは思ったけどね。

『ん……あー、はい。どうも企画原案松将柚来です。タイトルそのまんまで悪いんですが、執行部で文化祭の売り上げ盗むんで。頑張って守ってねー。売り上げは五時までに持ってた人のモノ。おーけー? そんじゃ、すたーっとー!』

 いや、結構どきどきしてたんだよ? 今までお金に関わるイベント企画した人ってさー、その後の扱い不遇だったんだよね。

 え? なんで考えたの、って……まぁ、そりゃ……色々あるの、事情が。

 とりあえず貪欲に勝利を狙っていくから、相手の出鼻を挫くためにも本気でいこうって作戦でね。

 棒から重火器まで色々あったけど……武装してたでしょ、私達。

 あの時の執行部の面子ね、なんか変に武芸達者な奴が多くてさ。私も多少は剣道やってるんだけど……勉強片手に、だからね、そんなに強くない。でもあいつらは違う。勉強も出来るくせに、変に剣道柔道強いし銃器に詳しいし。挙げ句の果てには特殊閃光音響弾だっけ? スタングレネードってやつ作ったのもいた。……役には立ったよ。

 で。

 とりあえずあのイベントは守るのが趣旨だから生徒側は迂闊に動けなかったよね? うん。それで……というか、それが狙いでもあったんだけど……。執行部とは言っても人数限られてくるしさー、最低限対等に戦えるハンデが欲しかった訳よ。

 だから、仕掛けるのは私達。それはもう……誰が決めたという訳でもないけど、決定事項――の筈だった。

 今から考えてもやっぱり油断はしてなかったと思う。考えが及ばなかっただけでね。堵音達……つまり私達以外が思い付けるなんて思いもしなかった。

 それってすごい失礼な考え方なのかも知れないけどね。

 だから、って簡単に繋げたらダメなのかも知れないけど……驚いたんだよ。

 だって生徒会長が「さて襲うか」なんて物騒な事口走りながら放送室のドア開けたらさ、

 そこに想子が居たんだもん。十数人……くらい、なんか手下っぽいの連れて。

 ……いや、これ本当。

 並みのホラー映画よりは怖かったかなー。

 何を考えるよりもまず叫んだね。

「――逃げてっ!」

 その言葉に反応し得た、って時点でやっぱりあいつら只者じゃなかったなぁ。逃げ切れてたもん。私は二階の渡り廊下から飛び降りてぎりぎり逃げ果せたって感じだったから。

 散り散りになって逃げてさ。……そもそも二人一組以上じゃないと襲えないって試算は出来てたから、どうしようかって事になって。

 いや、これ私の話だから他のやつらはどう考えたかは分かんないけどね。

 それで、とりあえず他の誰か来るまで待つことにしてさ。

 ここから少し時間飛ぶんだけど――。

 四時半くらいだったかな? イベントが一番盛り上がってきた時。

 私は会計と書記連れて三クラス分の売り上げ奪取に成功してたんだけど――他が上手くいってなかったらしくて。

 って堵音も知ってるか……ん? あぁごめん、こっちの話。

 それでね、会長副会長とかの執行部系は生き残ってたんだけど、議長とかの議会系はもう捕まってたらしくてね。これじゃいけないって事になって――連絡は無線使ってたんだけど――とりあえず、議長達の解放を最優先に行動することになったの。

 逃げ切れる自信がなかったのね、あの時は。

 あらかじめ用意しておいた捕虜もどんどん捕らえ返されちゃったし。

 っていうか想子が怖かったし。

 ……ま、色々な要素が絡まってね。

 残り時間三十分で議長達を解放させて尚かつ売上金も奪い去る。

 それが私達が勝利するための条件。それができなければ、絶対に負ける。

 今考えると……やっぱり切羽詰まってたなぁ。

 後ろから追っかけてくるのだけでも四十人近くいたし、まともに思考できてたらそれはそれで……怖いわね。

 あ……えっとね、執行部としては、なんていうか説得力というか威圧感を与えて勝ちたかったのよ。

 一応ルールでは五時で終了なんだけど……でもルールなんてあってないようなものだし。五時になった瞬間に終わらせたかったんだけど、生徒側は絶対にあきらめないじゃない? それが、もうすこしで執行部を捕まえて売り上げを取り返せそうなら、なおさらね。

 だから圧倒的に、完膚無きまでに叩きのめして圧勝するか――それができなければ大敗するか。そういう風だったのね。

 うん。それでね……ま、逃げ回ってるように見せながら議長達の捕まってる教室に近づいていったのよ。

 

 さて、これまでの柚来の話である。そしてもう暫くのご辛抱を願いたい。

 ともあれ、ある一定量の事実がここにはある。

 柚来と私との会話の、その柚来の発言だけを抜き出したのが先程のものであるが、その中にはいくつか注目すべき点があるだろう。

 例えば、特殊閃光音響弾の件や柚来が二階の渡り廊下から飛び降りた件などは、一層の事に目立ち、疑ってくれと言わんばかりである。

 が、そこはまだ少し置いておこう。注目すべきは別の所である。

 私とて文化祭には参加していたのだ。そのことを忘れてはならない。それにも関わらず、柚来が執行部の理不尽な挙動に対して理由を述べているのだ。

 私はある程度の理不尽さなら許容できる。というより――その行動の原因を察することが出来る。それは特に私だけの能力という訳ではなく、冷静に状況を洞察する事のできる人物なら容易い事だろう。

 つまり、そういう私でさえ理解できない程度までにあの時の生徒会執行部の行動は常軌を逸していた。という事である。

 とは言ってもその感覚は多少に理解し難いであろうと思う。何しろ柚来は執行部の内情は語れど、具体的に何をしていたかは――話し相手が私であるので当然と言えば当然かも知れないが――その口から語っていないのだ。

 と言う訳で、柚来の代わりに私が語らねばならないだろう。

 しかし、またイベント開始から語るのも話の全体が掴み難くなる。よって柚来の話の続きから――つまり、午後四時半からの私の体験を語ろうと思う。

 全く一番盛り上がったと言っても間違いではないだろう。その方向性は皆で間違えていたが。

 

 堵音達のクラスの売り上げも、無論生徒会執行部によって奪取されていた。

 というのも、一年生クラスの売り上げ――売り上げを出すような出し物をしているクラスのみだが――は全て奪取されていたのだ。

 何の事はない、単に防御が脆かったという話である。加えて一年生は圧倒的に経験が足りないし、体力もまだまだ二年生には及ばない。

 と、こうして今から考えてみると、一年生に対して不利な条件が揃っていたと思う。

 さて、その条件がどのように作用したのか、という事であるが。

 不利な条件……その大部分は経験であった。しかしそれを補うのが、一年生の強みである無謀さ、である。

 しかも一年生全体の売り上げが盗まれたという事で、かつてない強固な団結力が発揮されようとしていた。それはどれ程のものかというと、今まで一つの会話をした事もなかった他クラスの方といきなり熱い抱擁を交わす事が出来る、というようなある種の異様な興奮に近いものであった。

 無謀さと錯乱が興奮によって織り交ぜられるとどのような事態が招かれるのか、という問題を出そう。

 PK戦にまでもつれ込んだサッカーの試合を凝視するサポーターよりも濃厚な人種達が集まっているという事を念頭に置けば、ろくな解答が聞けるとは私も想像しない。……というより想像も出来ない。

 例えば、もし想子が一年生のこの状態に目を付けていたら、間違いなく生徒会執行部の勝利は潰えていただろう。

 そう、半狂乱ともいえる好状況であったものの、それを全体として統率できる人物が一年生の中には存在しなかったのだ。しかし、仮にそのような人物が存在すれば、圧倒的な威力を以て執行部とも相対することが出来ただろうと私は思う。

 話を戻そう。時刻は四時三十分である。

 残り時間三十分という事で、堵音を含むその他大勢の生徒は執行部を追いかける事に魂を傾けていた。ちなみに堵音は柚来を狙って追いかけていた――といっても特に意味がある訳ではなく、ただ追いかけやすかったから、という事である。

 常に走り追いかけ回しているのに、一体どこからあの体力が湧いて出てくるのであろうか?

 始まった直後から堵音の内に沈殿していたその疑念は、終盤に掛けて浮上してきていた。だがその問いに答えるものはなく、それどころか堵音と同じように不思議がっている者が大多数であった。

 もしかして彼らは妖怪なのではないだろうか? 思いついた瞬間には目眩がしたが、あいつらはそれでも人間だ、と胸を張って言える自信がないのもまた困りものだった。

 ともあれ全力疾走に近い形で学校の敷地内をアトランダムに走り抜けていくと、多少の脱落者が出始めた。気管と気管支を狭め、絞るような呼気を口から音として吐き出しながら「も、もうだめでおじゃる」と友人が言った時は、本当にもうダメだと思った。

 が、しかし脱落者は脱落者でまた努力を怠らぬものであった。ただの脱落者としてその文化祭を終えたくないのは誰とて同じである。

 待ち伏せという素敵な手段がこの世には存在するのだ。

 無論、それが一概に有効であるとは言えない。何故なら、執行部は武装しており触れることすら難しいからだ。四、五十もの変態達が鬼ごっこをしていたのに執行部を捕らえる事が出来なかった理由もここにある。

 それ以前に、待ち伏せのし難い場所を意図的に選んで走り抜けていたようにも感じる。

 そして結果的に待ち伏せがその効果を十分に発揮することはなかった。

 

 奇声を発しながら皆で走り回る、という行為はある種の呪術的な要素を含んでいたような気もする。

 例えば大人数で練り歩くという事、普段着ではない服装でしかも興奮状態にあった事。

 いや、実際はそうでないとしても、誰かがそう吹聴すればたちまちに学校中の生徒がそれを信じてしまうだろう。それ程までに熱狂的な祭だったのだ。

 文化祭を締めくくるに相応しいパレードを構成していた鬼ごっこの一団は、最後の一息だというように校舎を駆け回っていた。

 無論、その先頭を駆けるものは執行部である。

 終盤にさしかかっても未だ状況を完璧に把握できてはいない堵音は、とりあえず、と柚来を捕らえようと必死になっていた。

 必死だった……と思う。

 妙に自信がないのは、その時堵音はとても楽しかったからだ。

 騒音と怒声と入り交じる廊下を木刀振り回しながら駆け抜けていく悪者達、それを捕らえようと必死になって追いかける私達。

 まるで一つ芝居を演じているかのようであったのだ。

 だから、堵音は追いかける事よりも走る事よりも、何よりもその状況を楽しむ事に対して必死であった。……それ故、捕らえようとする事に対して一所懸命であったかと問われると逡巡せざるを得ないのだが。

 ただ、楽しかった事にかわりはない。

 そして、最後の最後、ようやく幕を下ろせるかと思いきやそれがやってきた。

 想子だ。

 

 腰に両手をやり、執行部の進む先を遮るように想子を含む数人が仁王立ちをしていた。勿論想子は真ん中にいた。

 柚来によると気付いていたらしい。柚来がパレードを先導していたので当然と言えば当然だが。

 減速する様子はなかった。

 執行部は武装していた。

 想子達は丸腰に見えた。――堵音の位置からは。

 怒鳴り声に近い歓声が沸き上がった。

 暴力沙汰は止めてくれ、そんな声が聞こえた。

 そんな事言ってももう遅い、堵音はそう思った。

 柚来が笑っていた……まぁいつも笑ってるけど。

 想子も笑っていた……世の終わりかと思った。

 そして、やはり、減速する気配はなかった。

 

 

 さて、ここからしばらくは――というか最後までだが――乱闘騒ぎだった。

 ……――申し訳ない。本当に申し訳ない。

 どうも私には語り手としての能力が欠けているようだ。

 語彙不足然り、構成力の無さもまた然り。――本当にごめん。

 ここまで引っ張っておいて何を今更。と、そう思われるであろう。

 私はこれ以降の記憶を喪失しているのだ。

 いや、喪失と言う程大層なものではないのだが。どうやら、あまりにも楽しすぎて頭のネジが吹き飛んだようである。

 困ったものだ。

 あ、ごめん……物は投げないで……。

 ……。

 ……。

 ……さて、本来ならば……いや、一般的にはこういう事態を想定して、はじめから何らかの対策を打っているのが常である。

 だが私はその浅薄さ故に、適当に語り出し、適当に躓いて、適当に誤魔化そうとしている。

 もう既に誤魔化しようがないところは誤魔化さない。誤魔化せないからだ。

 あとはどう誤魔化しの利くところを誤魔化すかと言う事だが……。なにやら早口言葉じみている。

 そう、とりあえず結論だけを言っておこう。如何に記憶を失っていたといえ、売上金の行方は知れているのだ。

 あの後、午後五時になった時点で全売上金を所有していたのは想子だった。

 一体何をどうやったのか聞いてみたいといつも思うのだが、あの時の事を想子に尋ねようとすると笑って誤魔化されてしまうのだ。――そう、今の私のように。……例えば想子のように美人であったら許されるだろうか。

 ……売上金を所持していたのは想子、つまり勝者は想子という事だった。

 そして想子は意外にも――と言ったら間違いなく殴る蹴るの暴行を受けるが――売上金を生徒達に戻したのだった。私としてはてっきりそのお金でかねてより欲しがっていた家具でも買うのかと思っていたのだが。

 一躍ヒーローとなった想子は、その知名度と麗質で一年二年の男子生徒を数人手込めにしたそうだ。……というのは単なる噂だが、あながち間違っていないような気がする。何故だろうか。

 以上が事の顛末である。特にオチがある訳でもない。

 

 話のまとまりの無さにそろそろいらいらしてくる方も出てくるはずである。だが、それももうしばらくの辛抱である。あと一つ、去年の話をすれば終わりであるのだ。

 何が終わるのかは別として。

 ともかく、私の冗長な話は次の一説で終焉を迎える。しかしそれは、私が何故このような無様な話をしているかという事に話を移さねばならぬという事も意味している。……今一度全世界に向けて謝罪をしよう。ごめん。

 さて、私の無意味かつ無騒音な謝罪を、これから多少なり長引きそうな話に対して使うとして、それ以外にも些か問題がある。

 それは……ここで早口に語ってしまっても良いのだが、それでは少しばかり味気ない。

 故に、私が次なる一説を適当に語り出し、適当に躓いて、適当に誤魔化そうとして困窮するであろう時に、慌ててその話題を取り出す事にしようと思う。そうすれば多少なりともモチベーションの改善が図られるはずである。

 疲れに疲れ切った……いやむしろ憑かれ切ったと言う方が適しているのではないかと思わんばかりの身体に、鞭を打つような真似はあまりしたくはない。のだが、やむを得ずそうしなければならない場合もある、

 そう、例えば今のように無理矢理にモチベーションをあげなければならない時などである。

 そして過去一度、私はそのような理不尽な出来事に遭遇した事がある。

 

 想子と柚来を語り手にしておいて奈乃美を使わない、というのは仲間はずれのようでいてあまり好ましくない。故に今度の小話では奈乃美に活躍して貰おうと思う。が、大して活躍してもいないのに活躍して貰おうとするのが語り手としての私の落ち度であろう。これまでのオチの無さは話の数々からそれが垣間見られる。

 奈乃美を語り手に、話して貰うのは無論に大学時代の事である。いや、だがここで時代と言ってしまうのは相応しくない。私堵音は現在も大学に在学中であるのだ。

 私は現在大学の二回生である。想子が四回生。柚来と奈乃美も想子と同じく四回生である。

 特に名も知れぬ私立大学の教育学部の……いわゆる小学校の先生になる為の課程を取っている。私は自分自身を客観視した事があまりないので大した事は言えないのだが、想子と柚来と奈乃美が教員になるというのは多少にも想像に難しい。

 未だ卒業ではないが、大丈夫であろうかと思ってしまう。

 ……脱がさないだろうな。

 話を元に戻そう。

 奈乃美に語って貰うのは去年の話である。つまり私が一回生、彼女らが三回生の時だ。

 それは主に私と想子の話である。……奈乃美がそれを知っているという事について私はひどく驚いた。

 知られたくない私の秘密ランキングがあったら上位に食い込むこと間違い無しであろう。

 兎にも角にも……まぁ、なんというか、後は奈乃美に任せることにしよう。

 

 

 えっとね、うん……この前みんなで旅行したときにさ、えーっと、その……想子がね、言ったの。

 うん、私と柚来にね。

 そう、話の内容は……想子は言ったらダメって言ってたんだけど、私は言わないといけない気がして。

 あのね、その……堵音は……って変な言い方になるけど、元々は想子のものだったから。

 う……物扱いというか、その、だって……想子だし。

 うん、まぁね。

 ――あ、えっと、それでね。

 堵音は私のものだから、手を出すなって。

 ……でしょ? うん、まぁ、らしいと言えばらしいんだけどね。

 なんで、って……分かんないけど……、想子の考える事だから一応理由はあると思うんだけどね。

 好きなんじゃない? 堵音の事が。

 ――痛い痛い痛い、もう!

 本当だって!

 だって、でも……そうとしか考えられないじゃない? 手籠めにしたいからああいう事言うんじゃないの?

 う……確固たる証拠なんて……ないけどさ。

 だって、怖かったんだもん。そう言った時の想子。

 私と柚来だって堵音を横取りするつもりなんて無かったんだけどなぁ。

 

 ここで一言添えておく。話し相手は無論に私堵音である。そしてこの辺りから奈乃美が日本酒を飲み出した。

 

 酔ってないよぉ。全然飲んでないじゃん。

 ……うふふ、それでねぇ。

 どこまで話したんだっけ? え? 横取りする……しない?

 …………ふーん。

 あ、それでねぇ、柚来の教育実習のねぇ――以下割愛。

 

 ほらぁ、飲めよぉ。……え? 未成年なのぉ?

 いいじゃん一口くらい、ほら、ほらぁ――以下割愛。

 

 サークルの緒方先輩がさぁ、もう柚来の事だいしゅきーって顔してるもん。想子と私には冷たいのにぃ。

 あーやだやだ。堵音はあんな変なみたいのになったらダメだぞぉ――以下割愛。

 

 緒方先輩がぁ、もうあの阿呆めっ、助平めっ、柚来とぉ私の、どぉこが違うんだぁ――以下割愛。

 

 むしろ奈乃美が語っていると言うよりは、奈乃美が酔い潰れていく様を克明に描いているようである。

 それはそれでおもしろいかもしれないが、趣旨が違う。意味も違う。

 後半は私も知らない緒方先輩なる人物が登場したが、忘れていいと思う。少なくとも私の知り合いに緒方先輩はいない。

 さて、私が奈乃美を語り手に選出したのは、もし選ばなかったら仲間はずれになるんじゃないか、などという不遜な動機からであった。故に、特に奈乃美に語って貰わねばならぬ事柄があった訳でもない。

 だからこれでいいのだ。奈乃美らしくていいと思いますよ。

 さて、奈乃美が飲み始める前に言った事が今回は特別重要である。

 まぁ、その、それを信じるかどうかは別として、想子が堵音を好いている……ようだ。

 そういう節は以前からあった、ような気がしないでもない。

 さて、物語は核心に近づいているようである。核心があるかどうかは別として。

 

 仮に奈乃美の言葉を鵜呑みにして、想子が堵音を好いているとしよう。

 私は――堵音は想子をどう思っているか、である。

 

 一概に言ってしまっても良いものか迷うが、私は……――。

 

 

 脚の上に座る彼女が囁いて。

「ねぇ、私がやってあげたように……。私にも、してよ」

要求に声音一つも返せないままに思った。

何故に、こうも背徳感を得るのだろうか?

 

 頭の中で今までの安っぽい一生を振り返ってみたものの、どうやら現状を打破するための有益な情報は無かったように思われる。

 堵音は脚の上に座る想子の扱いに困り果てながら、意識をその方に集中させまいと思惟した。

 かくも私の一生は実のないものであったか、一瞬の内に振り返ることが出来る程に薄っぺらなものであったのか。

 心の内に叫ばせて貰わねばなるまい。

 ――……羞恥なり!

 手首に触れずとも脈拍が計れそうである事を自覚しながら堵音は押し潰すようにして溜息を吐いた。

「ねぇ、堵音……?」

 想子のその一言が、妄想思考迷路の入り口を今こそ踏まんとする堵音の意識を現実に引き戻した。どうやら返事をしていなかったのを不審に思ったようである。

 とろけるような言葉遣いで想子が身を寄せてくる。身体の線をなぞるように想子の細い指が歩いてくる。

 これ以上私に何をさせようというのだ。

 今まで十二分に想子に尽くしてきたではないか。……ほぼ無理矢理ではあったが。

 ダメか、それでも足りないのか。

 いや……待てよ。

 警鐘の代わりに落ち着けという言葉が脳内で飛び交う中、堵音は落ち着けないながらにも一つの事実に気が付いた。

「ねぇ、私がやってあげたように……。私にも、してよ」

 そう、確か想子はこのような事を言っていた。

 堵音の汗ばむ身体に想子の腕が絡んでくる。それは次第に戒めをきつくして。

 想子にしてもらった事……?

 落ち着いて考えてみよう、何がある?

 そう、例えば、さっき思い出してみた……、

 接吻か……?

 全裸に剥いて辱めるとか……?

 猥談しながら呪術的物品を手渡してみるとか……?

 まさか乱闘ではあるまいな……?

 告白などさせないだろうな……?

 ダメだ、堵音は心中で力なく呟いて身体の力を抜いた。それを何か別の合図だと勘違いしたのか想子の指先が勢いを強めてくる。あごをくすぐられた。

 どうして私と想子の間にはろくな思い出がないのであろうか。

「堵音」

 まどろみに落ちそうな語勢で堵音を蠱惑する。

 抗いようもない呪術的な誘惑に負けそうになる。或いは、負けてしまった方が楽かも知れない。

 

 一旦離れて落ち着こう。

 想子の白い指先が堵音の頬をなぞる頃になって、ようやく思い出したように堵音の思考は冷静さを取り戻した。

 如何なる手段を以てしても、まずは身体を離さねばならない。

 そう決心した。想子から離れねば、今すぐにでも唇が重なりそうである。

 だが、

 戒められた身体を動かそうとして微かに触れている肌と肌が擦れ合うと、どうにも堵音からその気が失せてしまう。

 離れ難い魅力がそこにはあった。

 ふと堵音が見ると、想子が恍惚の色を浮かべている。冗談じゃない本気でまずいぞこれは。

 

 分かった、十二分に分かった。

 想子が本気だと言うことはもう口に出す必要もないくらいに理解した。

 だから、私からものを言わねばならないのだろう。

 解を。

 

 

「想子、私は……――」

 

 言葉の後、私は……――。

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