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写真部の追憶

 

 

 私は写真部に所属している。

写真部には部長を含め、私以外に六人の部員がいる。

 文化系の部活には中身を伴わないものが多くあるという。この高校の写真部もその例から外れていなかった。

 写真部と銘打ってはいるものの、月並み以上の写真を撮ることが出来るのは部長だけだったし、それでも何十枚かに一枚という確率でしかそういう写真は得られなかった。

 その上、私も写真を撮るのが上手いというわけでもない。

 では、私はなぜ写真部に所属しているのか。

 その答は至極単純であり、それは私が写真を眺めることを好いていたからだ。

 写真というものは、その中に時間と空間を隔離したものだ。

 私がこの両手を以て捕らえようとしても捕らえることが出来ない時間を、いとも容易く繋ぎ止める。

 例えば、小さな女の子が花束を抱えて笑っている写真がここにある。

 随分昔に撮ったらしい写真だ。白黒で、写真の縁は欠けていて、その上ノイズが掛かったように埃で黄ばんでいる。

 それでも、小さな女の子は今でも可愛いのだ。

 その小さな女の子は、今ではきっと老いてしまっているのだろう。皺に感情を刻みつけて、腰まで曲がっているかも知れない。

 でも、その写真の中では今でも小さな女の子は笑っている。

 その小さな女の子は、今はもう笑っていないかもしれない。自分の瞳と同じ大きさの花びらを持つ花の束を抱えることなんて、もうないのかもしれない。

 でも、その写真の中では今でも小さな女の子は花束を抱えて笑っている。

 それは、素敵なことだと思う。

 これは一例だから、小さな女の子でなくとも、都会の景色を撮ったものとか格好付けたおっさんの写真だとか満月の写真だとか、なんでもいいのだ。

 いつまでも変わらない姿でいられるというのは、どれほど幸せなことなのだろうか。

 私はそう思う。

 ただ過去へと執着しているのではない。不変とは、過去も未来も現在も同一に扱うものである。

 ゆえに、私は写真の中にある過去ではなく、その中に時間と空間がそこに閉じ込められているという事実が好きなのだ。

 私は不変をどこか遠くに望んでいる。

 そして、それが幸福な不変であれば――。

 

 少し話を変えよう。

 写真部には歴代の部員達の最高傑作を綴った一つのアルバムがある。とは言っても、これでも歴史ある部活なので、重箱のようなアルバムが三冊もあるのだが。

 そのアルバムは、卒業式の時にのみ開かれることになっている。

 開かれたアルバムの、一番最後の空白のページに自分の最高傑作を挿し込むのだ。アルバムを開くときに涙を流した先輩は何人もいる。

 だが、そのアルバムには、思い出は詰まってはいるが、美術的価値がないということを頭の片隅に入れておいて欲しい。それは当然で、思い出を残すために撮った写真が大半だからだ。

 そして、私はその伝統もアルバムもあまり好きではなかった。

 ただ単に自分勝手に思い出に浸っているだけじゃないか、と、そう私は思っていた。

 思っていた、というのは過去形である。

 そう、思っていた。

 そして、今は思っていない。

 というのも、私が伝統を蔑ろにし、こっそりとそのアルバムを紐解いたところでその考えが覆されたからだ。

 二年の夏休みだった。

 てっきり私はその日にも部活があるのだと思い込み、気が進まないながらも学校に来ていた。部室に着いてみれば、誰も居なかった。いつも最初にいる筈の部長もいなかった。

 それもその筈で、その日には部活が無かったのだった。

 後から聞いてみれば、部長の手違いで私にだけ連絡が回ってきていなかったようだった。

 だから時間になってみても、一向に誰も来ない。来る気配さえない。

 三十分程、部室から見える運動部の活動を眺めていたが、それも直ぐに飽きた。三十分も待ったのは私にしては奇跡に近かった。

 案の定、やることも無くなった私は、こっそりと部長のアルバムを見ることにした。

 先程言ったとおり、部長の撮る写真は他部員のそれとは一線を画していた。

 それゆえに――なのかどうかは分からないが――部長は、自分の撮った写真を基本的に他の誰にも見せなかった。

堂々と部長の写真を眺めることが出来るのは、文化祭かコンテストの時くらいだった。

 ふい、とどこかへ出かけていったかと思えば、いつの間にか帰ってきていて暗室に使用中のランプが灯っている。

 そういう人だった。

 ジプシーのような人だった。

 部活の誰とも仲が良かったけれど、誰とも一つ距離を置いた付き合いをしていた人だった。

 格好良かった。

 だから私は正面切って、写真を見せて下さい、と言えなかったし、あの時にこっそりと部長のアルバムを開いてしまったのだ。

 愚かしいことに、見せてくれない部長が悪いんだ、と私は心に一つ言い訳をつくってから写真を見た。

 そこには、

 土手を行きながら、欠伸をする猫の写真があった。

 風に揺れているたんぽぽの写真があった。

 悲しそうに笑う、病に伏せた少女の写真があった。

 それはモノクロでそれでいてカラーで、場面を切り取っているくせに動いていて。

 ずっと見ていると、吸い込まれそうな景色がそこにはあった。

 ずっと見ていたかった。その景色に吸い込まれたいとさえ思った。

 あぁ、やっぱり部長はすごいんだ、と思った。

 顔を見上げると、いつの間にか何時間も経っていた。

 私は時と場所とを越えて旅をしていた。心の底からの溜息が、は、と出た。感動もそれに連なって出てきた。閉じた時にはなぜだか涙がこぼれた。

 私はそこでしばらく泣き続けた。

 その日は、もう何も出来なかった。

 力も入らないし、食欲もない。両目が結ぶ焦点は朧気で、立っているだけで意識がもうろうとする。

 そんな状況だった。

 当然、帰宅するのも大変だった。自転車に乗っている途中は何度かガードレールにぶつかったし、電車の中では目眩がして倒れた。

 とても疲れていた。

 写真部に入り立ての頃に、顧問の先生だか三年生の先輩だかに言われたことがある。

「お前、写真を受け止めるとき真正面過ぎ。その見方は危ないぞ」

 なるほど、あの時はなんのことを言っているのか分からなかったが、その時になってようやく理解した。

 写真がもつ意味は想像以上に重いのだ。

 とりわけ私のように写真を鑑賞するものには、まるで麻薬のような感覚をもたらす。

 帰って、寝よう。

 明日は元々部活がないはずだから、少しでも多く休めるはずだ。

 私はそう考えて、ふらつく足取りで家へと急いだ。

 

翌朝、私が起きたときに感じたのは、写真を見なければならないという衝動だった。

 喉の渇きも空腹も、霞む視界さえ忘れて写真を求めようとしたらしい。

 気付いたときには、部屋中に紙片が散乱していたのだ。

 私が記憶しているのは、写真を見なければならないという衝動を覚えて身体を起こしたところまでであり、写真を求めて部屋を散らかしたということに関しての記憶は一切無い。

 小説だろうが漫画だろうが教科書だろうがノートだろうが全く関係なく、部屋中に紙が散乱していたのだ。

 私の足元には、幾枚かの写真があった。そこには幼い私が笑っていた。

 私は悲鳴を上げて、リビングへと向かった。

 そこには誰も居なかった。

 いつも邪魔なときにはいるくせになんでこんな時に限っていないんだあいつらは。

 早口でそう考えてさらに台所へと向かう。水が滴る音を聞いて喉の渇きに気付く。コップに水を注いで、それを飲んだ。

あらためて部屋を見回す。やはり両親も兄も妹も、誰も彼もが居なかった。

 背筋を冷たいものが這っていった。

 ここではいけない。もっと、写真があるところへ行かなければならない。

 そう思った。

 コップ一杯の水を飲み干すと、私は学校の、部室へと行くべく制服へと着替え始めた。

 今さっき服の着方を覚えましたと言わんばかりのたどたどしさで制服へと着替えると、やはり同じくぎこちない動作で家を出て学校へと向かった。

 昨日の帰り道よりも、考えようによってはさらに危険な道程だった。

 ようやくにして学校に着き、そして部室に辿り着いた。

 私は他の部員達のアルバムには目もくれず、そして部長のそれにさえ一つ視線を遣っただけだった。

 部長の写真を見てしまった今、私が見なければならなかったのは、件の受け継がれてきたアルバムだけだった。

 卒業式の日に、卒業生だけが見られるというルールなど、もはや頭になかった。

 私は、棚の奥深くへと手を伸ばして、それを掴んだ。

 

 この時に見た一つの写真以上に、私を誘惑せしめる写真などこの世に存在しないだろう。

 私は、今でも――いや、今だからこそ――その一枚を忘れることが出来ない。

 アルバムを開いた私の目に飛び込んできたのは、珠玉とも呼べる写真の数々だった。その下には、イニシャルが黒く書かれていた。勿論、その中には到底写真とも呼べない写真もあったし、それにも同じようにイニシャルが書かれていた。

前者と後者、違わず撮影者の名前を記したものなのだろう。初期の頃からそうなっていたので、氏名を明かさぬようにという目的よりは、単純に格好を付けているだけのようなものだったのだろうと思う。

 そして、大部分の写真達は私の理念とは反する、つまり、過去に浸るために撮られた写真などではなかったことが直ぐに分かった。

 なぜアマチュアでしかない部員達がこれほどの写真を撮れるのだろうか。

 その時の私には理解できなかった。

 ただ単に、写真を貪るようにしていた私には理解できなかった。

 そして、その写真達を私は仔細に語ろうとは思わない。

 無論、それは先輩達が伝統に則って脈々と受け継いできたものであり、その伝統を崩すわけにはいかない――私自身がそれを破ってしまっているので説得力はかなり薄いが――、ということも一因ではある。

 だが最大の理由は、言葉にして語ることができない、という一点に尽きる。

 極限にまで磨き上げた一つの芸術作品というものはそれゆえに芸術作品たりえる、という旨の言葉を耳にしたことがある。それを言ったのは誰だったかは思い出せないが、それはもうどうでもいいことだ。

 言葉通りの意味であった。

なんでもいい、一つの楽曲を思い浮かべて欲しい。その楽曲は音楽で表現されているのはなぜか? 他の表現法があれば、別にその他の表現法を使えばいいのに。

それにも関わらず、音楽で表現しているというのはどういうことか。

答は単純である。その楽曲は、音楽でしか表現できないからなのだ。

それと全く同じように、アルバムに収められていた写真達は、言語では表せ得ない写真だったのだ。

アルバムの中の写真を知りたければ、見るほかに手段はない。

そういうものだった。

その写真達の中で、一際燦然と輝く気配を湛えていた一枚の写真がある。

こればかりは説明しないわけにもいかないだろう。構図程度ならば言葉でもイメージを作り上げることは出来る。

それは、若い女性の写真だった。

子供のようで、利発そうで、綺麗というよりも可愛いの部類に入る女性だろう。光の加減で茶がかかったように見える髪は短く、直ぐ下には上目遣いをしている栗色の瞳がある。膝を抱ええながら両手が持つのは、温かい飲み物が入ったカップだ。彼女は息を吹きかけてそれを冷まそうとしていて、そしてその光景を写真に撮られるのを気恥ずかしく思っているらしい。尖らせた唇は、撮影者がなにか茶化したのだろうか、少しだけほころんでいる。

ここまではっきりとしているのに、なぜだろう。

幻想的な写真だった。

見とれるでも、写真にひきこまれるのでもなかった。今までにない反応が私の中に起こった。

私は、その写真に映されている女性を捜したくなったのだ。

その写真の正確な年代は覚えていなかったが、比較的新しい位置に挿し込められていた写真だということは記憶している。

そう、ぎりぎり部長が知っているか知らないか、くらいの位置だろう。

 少なくとも、その時私がそう判断する程度には材料があった筈だ。

 とりあえず、女性を捜すための一歩目として、部長に聞いてみようかと思った。

 だが、直ちにその考えは撤回された。

 大体、このアルバムは基本的に閲覧禁止の代物なのだ。それを勝手に見た、と部長に言ったらどうなるだろうか。決まっている。あの人は何も言わないだろう。

 それはあまりにも後味が悪い。何も言わないのだ。部長は許してくれるが、私にとってはその方が辛い。

そして、そもそも部長がこの写真を知っている筈がないのだ。

 知らない写真に映っているモデルのことを聞かれたって、いくら部長でも間抜けな返答しか返せないだろう。

 部長に聞いても無駄だ。

 瞬間的にそこまで思い至った。あくまでも私はそう感じた。

 実際には数時間も経っていた。

 

 それでも、その写真の及ぼした影響はそれだけだった。

 部長の写真達を見た昨日よりも、随分とまともな足取りで帰宅することが出来た。

 家に着くと、妹に怒られた。

 あぁそういえば、と私は思い出した。学校に来る際、あまりにも急いでいたので部屋の片付けを全くしていなかった。部屋には紙が散らかったままの筈だ。

 早く片付けてね、と妹は言った。分かったよ、と私は返事をする。

 その写真のことは、もう既に表層的な記憶からは消え去っていた。

 砂漠で水が砂の中に染み込んでいくように。

 その写真は、深い深い地中へと存在する場所を移したのだった。

 そして、その写真の真実を知ったとき、

 私は写真の中に不変の幸福を見出した。

 ――不変であること自体が既に幸福だ。その不変が幸福であれば、尚更に幸福だ。

 

    ◇

 

 その日は卒業式だった。

 三年生の知り合いといえば部長くらいしかいないので、特別に抱くような感慨もない。部長にしてみても、分かれに際して大泣きされるのは御免だろう。

 三年生の方からと、私の周りの幾人から。

 聞こえてくるすすり泣きを耳にしながら、私は粛々と卒業式が進行していく様子を半ば呆けながら見ていた。

 いつまでも時間が経たない。時間が飴のように溶けてしまっているようだった。

 部長の姿が目に入った瞬間に、あぁ、と私は心に溜息を吐いた。

 部長の写真が見られなくなるのか。

 恐らくは今生の別れとなる時に、写真の心配をする私もどうかと思うが、そう思ってしまったものは仕方がない。

 部長本人よりも、部長の撮った写真の方が惜しい。

 でも、どうなのだろう、とも思う。

 そう思われることは部長にとって幸せなのだろうか。それよりも、自分と分かれることを惜しめよ、と言って笑うだろうか。

 どうなのだろう。

 それに、部長はこれからどうするつもりなのだろうか。

 とりあえず大学に行くのだと言うことは聞いた。でも、その後は。

 部長は、写真家になるのだろうか。

 そうすれば、またいつか部長の撮った写真を見ることが出来るだろう。

 私は、またぼおっとしながら霞む思考で部長の顔を探した。見つけた。目が合う。なぜだか、微笑まれた。

 

 部長は、本当に写真が好きなのだろうか?

 

 そうだ。私がどこかおかしいと思っていたのはそこなのだ。私は、部長が写真を好きだと言っているのを聞いたことがなかった。

 部長は写真が好きなのだろうか。

 分からない。

 上手く写真を撮ることが出来るということと写真が好きだということは、必ずしも結ばれる要素ではない。

 写真を撮ることが上手くて、写真が好きだという人もいるだろう。

 写真を撮ることが下手でも、写真が好きだという人もいるだろう。

 写真を撮るのが下手だから、写真が嫌いだという人もいるだろう。

 そして、

 写真を撮るのが上手くても、写真が嫌いだという人もいるだろう。

 きっと、誰であってもこのどれかに分けることが出来るのだ。そして、この分類をするのならば私は二つ目にあたる。私は写真が好きだが、撮るのは上手くない。

 写真部の部員の多くも私と同じように二つ目だろう。何度も言うが、写真部と言っても写真を撮るのが上手い奴なんていうのはいないのだ。

 ただ一人その例外にあたるのが部長であるが、その部長は一体どれに属するのだろうか。

 ――聞いてみよう。

 いずれにしろ、これが最後なんだ。私はそう考えた。

 私のその決断を待っていたかのように、時間はたちまち早く動き出した。めまいがしそうなくらいに時計の針は素早く回り、歌ったのかどうかも分からない校歌斉唱が終わると、あっという間に卒業生は講堂から退場した。

 後を追うように在校生も退場した。

 

 私の通っている学校では卒業式の後に、卒業生と在校生が声を交わせるようにとの配慮で少しばかりの時間が取ってある。

 写真部の恒例の儀式もこの時間に行われる。

 例のごとく、写真部部員は全て部室に集合していた。顧問の先生もいた。

 早めに来たつもりだったが、私は後着組のようだった。

 私が到着した直後に、部長ともう一人の卒業生が部室に来た。毎年そうされているように二人は拍手で迎えられる。

 部長の挨拶と引き継ぎが行われる。

 部長は、自分はいままで部長としての行動が出来てなかったような気がするけれどみんなが付いてきてくれて良かった次期の部長もがんばるように、という意味のつまらない挨拶をした。

 もう一人の方も挨拶はしたが、聞いたそばから忘れてしまった。部長以上につまらなかったのだろう。

 卒業するわけではないのだが、顧問の先生も挨拶をする。いつもの活動には全く関与しないのに、こういう時にだけ出てくるのだ。私からしてみれば存在価値が分からない人だった。

 後に残るのは一つしかなかった。私も、他の誰もがそれに興味を示していた。

 先生が、棚の奥深くから重箱のようなアルバムを取り出す。

 紐解かれる。

 それを、部長がゆっくり捲って。

 もう一人がゆっくり捲って。

 部長がゆっくり捲って。

 もう一人がゆっくり捲って。

 部長の指が、そこで止まる。部長はしばらくその写真を眺めると、もういいよ、と言ってもう一人の方にアルバムを渡した。

 もう一人の方は部長の言葉に戸惑っていたが、なんと声を掛けても 部長が反応をしないので、独りで勝手にページを捲っていった。

 一番最後の空白のページになると、今度こそはともう一人は部長に声を掛ける。仕方ないという風に部長は重い腰を上げると、どこに持っていたのか一枚を取り出して、それをもう一人に差し出した。

「ったく」

 もう一人は苦笑いをすると、その写真を空白部分に挿し込んだ。そして自分のものなのだろう、もう一枚も挿し込んだ。それからペンでなにか――と言っても私は知っている。それはイニシャルだ――を書き込むと、アルバムを閉じる。

 この一連の流れは、在校生とは少し離れて行われる。私と他の誰もはその光景を遠巻きに眺めているしかないのだ。

 それが終わると、余った時間は雑談に当てられるのだが、

 部長は何かから逃げるように部室から出て行ってしまった。

 ざわめいたが、そんなことを気にしている暇はなかった。私は直ぐに部長の後を追った。この機を逃すと、もう二度と部長と会えないような気がした。

 私はあの写真のことはっきりとを思い出していた。

 

「部長」

 部長は、校庭の隅に植えられていた桜の木を前に佇んでいた。

「なんだ」

 私の方を向くことなく、部長は呟く。

「みんな篠原の方にいるんだろう。お前はいいのか」

 篠原というのは、二人いる三年生の内の部長ではない方だ。確かに追いかけてきたのは私一人だった。

「聞いてもいいですか」

 部長は両手をポケットに隠したまま言葉を返す。ひとつ、溜息を吐くような間をとって、

「なんだ」

 部長は、

 言おうとした口が震える。これを聞いたら、もう後には退けないような気がした。

 両手をきつく握る。圧力から生まれた痛みが緊張をほぐした。

「部長は、」

 声が震えているのが、自分でも分かる。

「アルバムの女の人を知っていますか?」

 まるで問いにはなっていない。それでも、その時の私にはそれが精一杯の言葉だった。

 そして、私のその言葉で、はじめて部長がリアクションを返した。それでもただ肩を竦めただけだったが。

「……五年前のK・Tの写真か?」

 私はそんなことまで覚えていなかった。でもそんな気がして、呟いた。

 多分。

「お前は、あれを……見たのか」

 言葉は部長に届いていたらしい。

 それでも部長は私の方を見ないままだった。私は、はい、と答えた。

「そうか」

 それから部長は黙ってしまった。

 動く気配もない。

 私はといえば考えていた。なぜあれだけの言葉で通じたのだろうか、と。

 違う人物と勘違いをしているという可能性は無かった。

 ここ数年の内で女性を写した写真は、あの一枚だけだったからだ。

 それでも、

 どうして数ある写真の中で、あの写真だと分かったのだろうか。

 もしかして部長も――、

「なあ」

 部長がさっきとおなじままの姿で、やっぱり同じような声で呟いた。

「お前がアルバムを見たってこと、黙っといてやるわ」

 あまりにも間抜けた返事だった。

 どういう意味なのか分かりかねていると、部長が苦笑して、ポケットに突っ込んだままだった右手を取り出してそれで頭を掻いた。

「あの……!」

「お前、写真を見るのが好きなんだろ」

 唐突な問いが私に突きつけられた。思案する間もなく、反射のように私は答えていた。

「……はい」

 その返事に満足したのかは分からなかったが、部長の肩が息を吐いたように上下するのが見えた。

 だったらなぁ。

「え?」

「なんであれを知りたがるのかは私には分からん。だが、私はお前のために言ってやる」

 部長は、もう既に散り始めているような桜を見上げて、

「お前がなにかを知るにはまだ早い」

 そう言った。

「待って下さい!」

 右手で頭を掻くと、部長はもう一度桜に振り返り、私の肩を叩いて歩き出そうとしていた。

「なんだよ」

「……、あの」

 部長は、

「部長は、写真が好きですか?」

 一旦止まっていた部長の足は、再び動き出す。

 答はない。

 分からなかった。

 それもその筈で、一瞬だけ覗くようにして見ることが出来た、

 ――今の部長は、……泣いていた?

 表情だけは笑っていた。でも涙が一筋をつくっていた。

 分からなかった。

 部長の言葉も、部長の表情も、部長の言動の何もかもが、分からなかった。

「部長っ!」

 少しだけ時を止めていた私は、もう既に二回り小さくなった部長に叫んだ。部長は振り返らずに手を振っただけだった。

 追いかけることが出来なかった。

 私はどうすることもできなくて、その場に座り込んでしまった。

 部長はどんどん小さくなっていった。

 

 結局、その後部長は直ぐに帰ってしまったらしい。

 打ち上げが企画されていたのだが、部長が行かないということで、もう一人の――篠原だったっけ――方もやんわりと断ったようだった。部員達が探しても私は見つからなかったので、もう先に言ってるんじゃないのかという結論を勝手に出し、打ち上げをする予定だった店に向かっていったらしい。勿論、そこに私はいなかった。そして結論から言えば、それは打ち上げというよりも、新部長を祝して、という意味合いが強くなったようだった。主役である卒業生と、私を除いての打ち上げだったからだそうだ。

 全て、後から聞いた話である。

 

     ◇

 

 私は件の写真のことを思い出し、そしてそれ以降忘れることはなかった。あの女性と会いたいという意志も強くなっていった。

 そして、写真を撮影した本人に聞くのが一番手っ取り早い手段だと私は考えた。

 私は、先生に聞いてみることにした。

「写真部の先輩の中で、実際に写真家になった人はいないのかな、って」

 自分で言っておいてこう感じるのもどうかと思うが、腹の立つような嘘である。

 いないと思うがなぁ。私の意図に気付いていないらしい先生は、そう呟きながらも、名簿を引っ張ってきてくれた。

 個人情報の保護を謳いながらも、過去の情報にまでは手が届いていなかったらしい。

 そこには、氏名と三年時点でのクラス・出席番号、電話番号、郵便番号から住所までが載っていた。

 ページを捲りながら、部長の言葉を思い出す。

 ――五年前のK・Tの写真か?

 五年前。

 五年前だ。

 石見――笠野――川P――喬木、

 喬木景。この名前の読みは、

「たかぎ、けい……?」

「ん? いや、すまんな。その頃は先生別の高校でな、分からんわ」

 どうした、という語勢で先生が振り向く。

「いえ、なんでもないです」

 言うのも疎かに、私はその名前を凝視していた。「そぉか」と奇怪なアクセントで先生はまた向こうに向き返った。

 この人だ。

 この人が、あの写真を撮ったのだ。

 この人に聞けば、あの女性に会えるかも知れない。

 この人に――、

 覚えろ覚えろ覚えろ覚えろ。住所と電話番号とを覚えていれば事足りる。だから、その二つだけでもいいから、覚えろ覚えろ覚えろ覚えろ。

 少しだけ時間を重ねて、その部分だけを凝視する。

 覚え、――た。と思う。

「ありがとうございました」

「知ってるようなのはいなかったろ?」

「そう、ですね」

 こっちの気も知らずに、次から次へと言葉を寄越そうとする。それを無理矢理遮って、慌てて職員室から廊下へ出て行く。

 息を吐く暇もなく、胸ポケットからペンと紙を取り出す。

 今さっき覚えた、名前と電話番号と住所を書く。指が震えていて、氷の上に文字を書いているようにペンが滑った。

 それでもなんとか書き終わる。

 なんで自分がこんなに震えているのか。よく分からなかったけれど、目の前にある紙に下手な字で書いてある情報を見るだけで、とりあえずは安心した。

 ここから、近いところに位置していると言うことは、住所だけの情報でも分かった。

 あとは?

 あとは、

 会うだけで良いんだ。会って、話を聞く。

 それだけでいい。

 錯乱に近い状態に陥っていた私は、しかしそれを能動的に自覚できる筈もなく、高熱にうなされているように廊下を歩いていった。そして気付けば靴を履き替え、外にいた。

 ――サボろ。

 授業なんてどうでもいい。私にはそれしかなかった。

 その時、間違いなく写真の麻薬としての効果がはっきされていたのだと思う。

 傍から見れば、かなり危ない人に見えただろう。

 浅い呼吸を何度も繰り返しながら歩き、上気した頬と虚ろな目がさらに浮き立たせている。

 私は写真という未知なる熱病に冒されていた。

 ふらつく足取りで街を歩いていく。

 どこにいけば良いんだろう、と胸ポケットからさっきの紙を取り出して、そこに描かれている文字列を見る。

 そこで気付いたのは、

 あ、

 住所が分かっても、その場所は分かんないんだ。

 これ以上ないほどの間抜けだった。

 これではどこにも行きようがない。

 どうしようか、と私はゆらゆら揺れる景色を見ながら思う。

 どこかで聞いたら分かるだろうか。私は周りを見回して、

 あった。

 あそこなら、多分住所からでも場所は分かるだろう。

 郵便局がそこにはあった。

 私は一度頭を左右に振ってめまいを振り払うと、その郵便局へと足を伸ばした。

 赤い一本足のポストが私を誘ったが、あいにく今日は手紙を出しに来たのではないのでそのまま素通りする。

 入り口は自動ドアだった。

 中にいる人間の、半分以上が郵便局員だった。空いていた。

 誰に聞けばいいのかよく分からなかったが、とりあえず誰かに聞けば答は得られるだろうとも思っていた。

 一番手前の、一番暇そうな職員に聞いてみることにした。胸ポケットから紙を出しながら、あの、と声を掛ける。

「ここの住所に行きたいんですけど、……」

「あー、……少々お待ち下さい」

 一瞬迷う素振りを見せたが、あまりにも暇だったので答える気を起こしたのだろう。私はそう考えた。

 席を立ったその人は、どこからか持ってきたのか分厚い紙束を抱えて戻ってきた。

 それを机に下ろし、一息吐くと、

「住所を見せてもらえますか?」

 頷いて紙を手渡す。失礼します、と受け取ると、その人は紙束を漁り始めた。

 暫くの時間が掛かった。

 十分ほど経っただろうか。唐突に、「地図のコピーをとってきますので、もう暫くお待ち下さい」と言葉が来た。

 言葉を返す間もなくその人は席を立ち、その姿を眺めている内に戻ってきた。

 私の方に地図が差し出される。

 それを受け取ると、

「こちらが郵便局正面の道になります。ここを北側に――、」

 あとは呆けながら聞いていた。地図を見ればどこにあるのかということくらいは分かっていた。

 形だけの礼を言って郵便局を出る。春風がひゅう、と吹いた。

 地図を片手に道を進んでいく。

 思ったほど遠くはなかった。少し引き返す道のりだったのは悔しかったが、今から知ることが出来ると言うことを思えば、それは羽毛ほどの重さも持っていなかった。

 くたりくたり、と歩きながら地図に沿って行く。

 春の日差しは温かく、歩いていると少しだけ汗をかいた。上着を脱いで丁度いい、というくらいだった。

 道を曲がる。

 ひらがなの店名が掲げられている喫茶店を通り過ぎると、そこにあったのは、

 空き地だった。

 

 眠れなかった。

 真っ暗の中から、色んなものが自己主張をしようとして、その輪郭がは浮かび上がってくる。

 奇妙な立体感が私を包んでいた。

 もう一度睡眠世界に逃避しようと、私は目を包んで考える。

 空き地だった。

 そう、確かに地図に示されていた場所は空き地だった。家が建っていたような痕跡も、これから建つ気配さえもなかった。

 それを理解した瞬間、頭が真っ白になった。

 どうすればいいのか分からなかった。

 私は、ここに来ることが出来れば、あの写真のモデルを知ることが出来ると信じていた。

 それしか考えていなかった。

 そして、その考えはものの見事に粉砕された。

 心臓が脈打つ音だけが景色を塗りつぶしていた。

 どうしよう、とその時は呟いてしまった。右手に持っていた地図のコピーを、くしゃりと握りつぶしていた。

 紙が擦れる音が耳に入って少し目が覚めたような気がする。その時に、まだ電話番号があるじゃないかと思い至ったのだから。

 私は慌てて上着のポケットから携帯電話を取り出した。

 住所の書かれた紙を広げて、喬木景の電話番号を確認する。

 ダイアルしようとしたときの指は、やっぱり震えていた。

 しかしそんな些細なことを気にすることはない。そのまま電話を掛ける。

 間の抜けた接続中を示す効果音に苛立ちながら、それでもどこかに繋がることを願う。

 三回、四回、五回、六回、ななか――。

「お客さまのおかけになった電話番号は現在使われておりませ――」

 七回目のコールが終わる直前に聞こえてきた声は、聞き覚えがあるものだった。その先の言葉を予想することが出来たから、言い切られる前にこっちから切った。

 今度こそ、本当にどうすればいいのか分からなくなった。

 急に疲れを感じた。

 携帯の待ち受けに表示されていた時刻は、既にいつもの帰宅時間と重なっていた。

 私は一体なにをやっていたんだろうと思った。

 吹かれる風に身体を持って行かれるようにして、私は帰路についた。

 家に帰ると、リビングでテレビを眺めていた妹が振り向いて半目で睨んできた。

「なんか、変だよ?」

「誰が」

 私はとりあえず言葉を返したが、妹は言うまでもないというように肩を竦めて、またテレビ画面の監視作業に戻った。

 上着を脱ぎながら自分の部屋に向かう。あまりに気が抜けたので目まいがした。

 制服のままでいるわけにもいかず、部屋着に着替えようとするが、

 さっきので随分と気が抜けた。

 それに疲れてる。

 もうこのままでいいか――思った瞬間にはもうベッドに倒れていた。なにか重いものにのしかかられているような気分だった。

 ――それで。

 思考が一周して現在へと戻る。タイムスリップでもしたようだった。

 目を開けてもここにいた。

 無性に喉が乾いた。

 やっぱり眠れなかった、と一言思い呟いて、身を起こす。

 暗闇の中、さっきよりもはっきりとした輪郭をもつもの達が、何度でも私を誘惑していた。

 それでも、

 電気を点すと、

 全部大人しくなった。

 

 熟睡できないというのは思いの外に大きなダメージだった。

 その翌日、私は全身に疲れを背負ったまま学校へと向かった。

 だがしかし、頭だけは熱を持ったように冴えていた。

 完全に道が絶たれたわけではない。まだ、まだ一つだけ手段が残っている。

 私はそう思った。

 学校の階段を上るのも一苦労だった。なんでこんなにも疲れているのか分からないほど疲れていた。

 授業の殆どは眠っていた。

 頭の中にはあの写真のことしかなかった。

 

 先生、と声を掛ける。「んぁ?」と寝起きのような返答を私に寄越すと、先生は頭を掻いた。

「どうした、今日もまたなんか用か?」

「先生がこの学校に来る前の……写真部の顧問の人って知っていますか?」

 私がそう問うと、先生は「んー」と唸りながら腕を組む。

「先生は知らんなぁ。一応引き継いだけど」

 そうですか、と肩を落とす。しかし知らないのなら、他の教員に聞けばいいだけだ。

 私が思っていると、教本を何冊も抱えた眼鏡の教員が眉を上げた。

「あれ、久川先生知らなかったんですか? ……確か、写真部の前の顧問は……、三塚先生ですよ」

 その言葉に先生が、へぇ、と感嘆する。私は慌てて質問した。

「その、三塚先生って今どこにいらっしゃるか分かりますか?」

 眼鏡の教員は、どこだったかなぁ、と呟きつつも、

「えーっと、ここから矢端川高校に行かれたから、そのまま変わってなければ矢端川高校ね」

 矢端川高校、と呟く。

「そうよ」

 眼鏡の教員は一笑して、

「まー、お役に立てたようでなによりだわ」

 ありがとうございます、と勢い任せにお礼を言う。当初の目的は十分に達成した。

 久川先生の方は何か言いたげだったが、私はそれを無視して職員室を出る。昨日から引き続いて、つくづく先生には申し訳ないと思う。

 そのまま廊下を出て、さらに階段を降りて講堂の方へと向かう。

 ――先に電話で確認をしよう。

 昨日のようなことがないように、と心の中で呟く。ちなみに講堂の中まで来たのは、一応校内では携帯の使用禁止をしているからだ。

 電話帳で矢端川高校の電話番号を探す。あらかじめポケットに入れておいた十円をいれ、番号をプッシュする。

 繋がらないことはありえないから。と自分で自分を落ち着けようとする。

 三回もコールされない内に、向こう側で受話器が取られる。繋がった。

「もしもし私は、――」

 自己紹介から用件伝達まで三十秒と掛からなかった。

 三塚先生は矢端川高校にいた。

 そして、件の人物の現住所を知っているとのことだった。

 私は土曜日に矢端川高校へ向かう旨を伝えた。

 

「あぁ、良く来たね」

 そう言って笑ったのは、白髪の男性教師だった。しかし白髪と言っても、一見するとそんなに高齢ではないように見える。若々しかった。

 私ははい、と頷くとそれ限りなにも言えなくなってしまった。なにを言えばいいのか分からなかった。

「それで、これが喬木の現住所なんだが、」

 言いながら、一枚の年賀状を机の上に差し出す。そこには確かに喬木景の名前と、見覚えのない住所があった。

「一つ分からんのがな、なんでこんな奴の住所を知りたいのかね?」

 それは、と私は言い淀む。

 この人は、今だからこそここにいるのだが、以前は高校の写真部だった筈だ。そしてそれは、あのアルバムを知っているということであり、伝統も知っているということだ。

 そんな人に対して、この制服を着たままアルバムに収められている写真の話をしたらどうなるか。

 私だって想像力が働かないわけではない。

「……その、」

 沈黙を満たし続けておくというのも気が引ける。私は縮こまりながら言葉をつくろうとする。

「喬木……先輩の写真を見て。会ってみたくなった……んです」

 正確に言うと、会ってみたいのはその写真のモデルだが、その過程で喬木景には必ず会うことになるような気がするので、あながち嘘でもないと思う。

「ほぉ……まだあいつの写真が残っとったっていうのは驚きだなぁ。大分劣化しとっただろう?」

「はい、少しだけ」

 これは嘘ではない。例のアルバムに収められているので、直射日光から受けるダメージは無いが、それでも多少の劣化は否めない。

 そうか、と呟くと、三塚先生は年賀ハガキをこちらに遣った。

 あの、と言おうとする私の口を向こうが阻んだ。

「いや、いい。貰っておきなさい」

 微笑みながら一枚のハガキを押す力は結構強い。私は半ば押し付けられるようにそのハガキを貰った。住所の写しだけでも良かったのに。

 またいつでもいいから寄ってくれ、と言葉を掛けられる。私はどう返事すればいいのかを迷い、結局は会釈で済ませて職員室を出た。

 その動きの一端までもがいつもと違う光景だった。とりあえず今度はネットで場所を確認しよう、と私は図書室へ向かおうとする。どこの図書室にも大抵一つはパソコンがあるだろう。

 だが、見慣れない景色ゆえに図書室の場所が分からなかった。あれこれと彷徨って、ようやく見つけたときには、「職員室は――ですよ」という言葉を五回程掛けられていた。

 息を吐いて肩を下ろす。気分的に襟を正して扉を開けると、やっぱりそこは静謐に満ちた空間だった。かすかに古紙の臭いがする。

 本の貸し出しをする――のだと思う――カウンターにも誰もいなかったので、失礼ながら勝手に使った。

 住所を調べてみると、そこは学校を挟んで昨日の住所と反対側にある場所だった。一応、地図をプリントアウトする。

 これならそう遠くはない。そう思うと、私は誰も居ない図書室からこっそりと抜けていった。

 矢端川高校学校を出ると、春風が髪を持ち上げた。長くしていたつもりはないのだが、結構長くなったものだと思案する。

 私は上着のポケットからさっき印刷した地図を取り出した。方向を確認してから一歩を踏んだ。

 そうは言っても、直ぐに着くわけではない。矢端川高校は、昨日の住所と今から行く場所が等距離になるような場所だ。少しだけ時間が掛かる。

 それでも、熱にうなされながら歩いていた昨日とは随分と違う。

 目が覚めたような気分だった。

 それは恐らく、今度こそ会えるという心の奥底に潜む確信がそうさせたのだと思う。

 そう考えながら私は歩んでいく。

 二十と数分程して目的地の近くまで辿り着く。

 駅の周辺よりもビル群の密集率が低い場所だった。ここからもまた、陽が当たる。

 心臓が脈打つのが自分でも分かる。

 左手で首を押さえて、落ち着け、と唸る。緊張しすぎて笑みがこぼれるのは仕方ないとしても、やっぱり傍から見れば危ない人だと思われそうだ。

 私は深呼吸を一つすると、最後の角を曲がった。

 そこにあったのは、どこにでもあるような普通の家だった。

 

 私だって、異常な建築物を期待していた訳じゃない。ただそれでも、あんな写真を撮る人がこんなにも普通な家に住んでいることが悔しくなった。

 二階建てで、白の普通車がガレージに止めてある。

 そして、かまぼこの板のような黒い石に彫られている名前は、確かに「喬木」とある。

 間違いはないだろう。

 ここが、喬木景の住む家なのだ。

 どうしよう、と目的地を目の前にして私が逡巡していると、後ろから声が掛かった。

「あ、その制服って――、」

「はいっ!」

 肩に手を置かれて話し掛けられたせいで、振り返りながら絶叫に近い声音を飛ばしてしまった。声の主であるらしい女性は微笑むと、言葉の続きで、――高校のコ? と聞いてきた。

「あ、……喬木、景さん……?」

「うん? そうだけど……名前を知ってるなんて、あなたは一体どんな用で来たのかしら?」

 適当に言ったら本人だった。というのが実際の所なのだが、本人だったら本人で特に問題があるわけではないのでよしとした。

喬木景は頷きながら言うと、少し屈んで視線を私に合わせた。買い物に行ってきたのか、腕にはいくつもの手提げのバッグが掛かっている。

 初対面よね。

 そう言う。

 勿論、私はそれに肯定して、それからなにかを為す術を無くしてしまったので、ただ赤面するしかなかった。

「重いから……とりあえず上がって。あなたはきっと私に話をするために来たんでしょう?」

 はい、としか言えない。

 それじゃ、と、喬木景は微笑み、家の方へと向かう。私もそれに付いていく。

 両手が塞がっているにも関わらず、手慣れた動作で玄関を空ける。流石に手助けをするつもりだったのだが、あまりにも自然だったので、私は手助けをする機会を失った。

 玄関の中もいたって普通だった。

 普通とは一体何だ。そう問う人がいるかもしれないが、「この光景は普通だ」と形容するしかない、そんな尋常さだった。

 そのままつられるようにして入ったリビングも、特筆するべき点が見当たらなかった。

 むしろ、ここまでくれば異常だと思う。

 普通すぎて異常、という矛盾した事態に陥っていた。

「そこに座ってて」

 そう指されたのは、二対のソファーだった。どちらに座るか迷った結果、台所から遠い方に座ることにした。喬木景はバッグを抱えたまま台所に行ったので、こちらの方が有利だろうと私は考えた。

 しばらくも待たなかった。

「お待たせー」

 言いながら、盆の上にはいくつかの菓子とお茶が載っていた。

 私は、どうやって事を説明しようかと思案していた。

 

「惚れたんだ? あの人に」

「ちがっ――」

 そういう意味じゃないと言おうとしたのだが、右手で制された。笑いながら神妙に頷いている。

だが、

でもね、と言葉を切り出したときには怖いくらいの真面目な表情に戻っていた。

「詮索するのは止めた方が良いわ。永谷部長の為にも、ね」

 ――お前がなにかを知るにはまだ早い。

 そう、言葉が重なって聞こえた。

 喬木景はお茶をすすると、私の方を見た。お茶の香りが抜けるように深く息を吐く。

 それでも、

「それでも知ることを止めないのなら、教えてあげるわ」

 言葉に反応して私は顔を上げる。私が見た喬木景の表情は硬かった。

 二の句が継げなかった。喬木景のまっすぐな視線で貫かれているのが恥ずかしくなって、私は目を逸らした。

 パンドラの箱。

 喬木景が唐突に呟いた。

「え?」

「いや、あの、知ってる?」

 パンドラの箱のことだろうか。それならば知っている、と私は首肯した。

 確かパンドラというのは世界最初の人間で、神から全ての災いが入った箱を渡された。開けてはならぬと言われていたが、パンドラはそれを開けてしまう。箱を開けるなり、不幸や厄災が飛び出したが、慌てて閉じたために希望は残ったという。

 ギリシャ神話の話だったと思う。

 私はこの話を聞く度に、人間の希望というものは実は厄災だったのだろうか、という不遜な考えを思い浮かべる。なぜ、全ての災いが入った箱に希望が仕舞われていたのか。

「そう、……パンドラの箱よ。開けたら……中からなにが飛び出すか分からないわ」

 不安を煽ったつもりだろうが、余計に興味をかき立てられた。

 それでも知りたい?

 当然私は首を縦に振った。

 

 喬木景が話した内容は、以下の通りだった。

一、      写真のモデルとなっている女性の名前は、永谷沙喜。

二、      永谷沙喜は、部長の姉。

三、      永谷沙喜は、部長が高校へ入学する時に亡くなった。

四、      それどころか、部長の家族は部長だけを残して全員亡くなっている。 

 

「そんな……」

「本当よ」

 喬木景が私の言葉を切って答える。

 でも、と思う。だったらどうしてウチみたいな高校に入れたのだろうか。自慢をするようで嫌だが、結構金の掛かる私立校だ。

「母親の側の叔父夫婦が養子として引き取ったのよ。……パトロンね」

 喬木景が言うには、部長の一家は元々裕福な家庭だったらしく、一人で暮らすとしたら不自由のない暮らしが十分に送ることが出来たのだと言う。

「それを叔父夫婦が引き取ったのは……まぁ、分かるわよね。いくら矢端川とはいえ、一人暮らしは危ないもの」

 じゃあ、と私は呟く。

「……もう、その、……あの人には、会えないんですか」

 会えないわ。

 無表情な声音が、遠くから響いてくるように聞こえた、

 その言葉を耳にすると、やっぱりいつものように急に疲れたように感じた。

 身体が重くなった。

 二度と光を見ることの無いような絶望感が私を覆った。

「失礼します」

 私は粘着性のある液体のように立ち上がると、勝手に靴を履いて勝手に出て行った。

 それを止める声は、聞こえなかった。

 

    ◇

 

「そうか」

 部長は一言呟いただけだった。

 アルバムを見たことも。

 写真部の伝統を一人でぶち壊したことも。

 勝手に、過去を詮索したことも。

 なにも咎めはしなかった。

 

 目の前には部長がいる。なぜならここは部長の家で、部長の部屋だからだ。今時はめずらしい畳敷きの部屋だ。ちゃぶ台を挟んだ私と部長の手前には、それぞれ黒と灰色の湯飲みが湯気を立てている。

「……」

 私は視線を上げる。

 部長はなにも言わなかった。

 なにも咎めはしなかった。

 だけど、私はそれが辛かった。沈黙におぼれるくらいなら、部長に怒鳴られた方が随分とましだ。

 私の目の前に座る部長は、私の首と胸の間を壊れそうな視線で見つめていた。

「なぁ、」

 部長の口が力無く動く。

「私が写真部に入った理由を教えてやろうか?」

 そう言って、湯飲みを持ってお茶を飲む。

 私は頷くことしかできなかった。

 うん。そうだな。

「喬木さんから大体の話は聞いてるようだから、もう予想は出来てるかも知れないけどな」

 部長はそう言うと、視線を窓の外にやる。私もつられてその方を見た。

「私は、別に写真が好きで入った訳じゃないんだ」

 部長の言葉が突き刺さる。

 予想出来ていた。

 そう、予想は出来ていた。

 私は自分に言い聞かせて部長の横顔を見る。やはり、そこには確たる表情はなかった。

「姉さんが写真部だったんだよ。だから」

 部長は言葉をそこで区切って、ちゃぶ台に頬杖付いてこちらを見る。

「面影求めて、な」

 だから一所懸命やってる写真部のみんなには申し訳なかった。勿論、お前にも。

 部長は私の背後に目線を当てる。まるで、何かがそこにいるように。

「嬉しさも勿論あったし、写真を望むみんなを羨む気持ちもあった。でも、……申し訳なさが先行したよ」

 だってな、そうだろ?

 望んでもいない私の写真が、みんなに、一番だ、と評価されるんだ。

 これは自惚れかな。そう言って部長は顔を伏せた。表情に影が落ちる。

「……」

 私はなにも言えない。

 部長の言葉は更に続く。

「理由は、……――もう一つある」

 喬木さんに、直接会ったんだったよな。

 部長はそう言うと、顔を上げ私の方に視線を寄越した。私は頷きで返答とする。

 私の頷きを見、部長は肩を落とす。

「あのな、」

 喬木さんには、私の生きる目的をつくってもらったんだ。

 喬木さんは、

 私の姉の写真を持っていた。

 言葉がトリガーを引いた。

 あの写真のことを思い出す。

それは、若い女性の写真だ。

子供のようで、利発そうで、綺麗というよりも可愛いの部類に入る女性だろう。光の加減で茶がかかったように見える髪は短く、直ぐ下には上目遣いをしている栗色の瞳がある。膝を抱ええながら両手が持つのは、温かい飲み物が入ったカップだ。彼女は息を吹きかけてそれを冷まそうとしていて、そしてその光景を写真に撮られるのを気恥ずかしく思っているらしい。尖らせた唇は、撮影者がなにか茶化したのだろうか、少しだけほころんでいる。

 その写真を、思い出す。

「家族の写真は、喬木さんの持っていたあの写真しか無かったんだ」

「――え?」

「火事だよ」

 私はその一言で全てを理解した。

「私はあの時全てを失った。……なんで私も死ななかったのか、と月並みな後悔もしたさ。自殺だってしようとした」

 部長は唇を曲げる。笑ったつもりなのだろう、しかし私にはそうは見えなかった。

 むしろ、過去に固執する様を隠しているようで怖かった。

「喬木さんは、……」

「死ぬなら、姉さんの写真を見てからでも良いだろうって言ってくれた」

 私の言葉に部長が続いた。

 そうなんですか、と初めて声が出る。

「じゃあ見せてくれ、って言ったらな、見たいなら写真部に入れ、だとよ」

 窓の外に視線を逃がして苦笑する。目元に影が落ちていて、私からは表情が窺えなかった。

 それでな、

「姉さんの写真を見たら、……死のうと思ってたんだぞ。私は」

 私は目を見開いた。

 ――桜を見上げていた。

 ――私と目を合わせてくれなかったのは、

 ――あの時死ぬつもりだったから、なのだろうか。

 部長はこちらを横目で見る。

 少しだけ、微笑んでいた。

「篠原がいたから、誰も追ってこないと思ってたらな。……お前が来やがって」

 姉さんの好きだった桜を見て、もうおしまいにしようとしてたのにな。

 なんで、

 なんで、

「なんでお前はあの時あんなことを言ったんだよっ……!」

 部長は叫び、目に涙を浮かべながらちちゃぶ台に伏せる。両の拳には力が入っていて、小さく嗚咽が聞こえてくる。

「部長……」

「お前が、……私は、写真が嫌いだったのに! お前が、お前が、あんなことを、言ったせいで!」

 部長は涙を言葉にしながら私を睨む。きつく噛んだ下唇からは血が滴っていた。

 私がなにかを言おうとするのを、部長が遮る。

「姉さんを、逃げ道にしてっ、……写真を、好きに、ならないように、してたのにっ!」

 お前のせいで!

「写真を、生きるため、……って、利用してきたのに、それなのに、あの、アルバム……見たら、」

 

 少し、好きになってる自分がいたんだよ!

 

「誤魔化そうとして、さっさと、死のうと思って! そんなときに、お前が……お前がっ!」

 涙を袖で拭おうとする。左腕の内側が深く濡れていた。

 呼吸のために一つの間を取る。

 

 嘘付いたんだよ、さっき。

 写真が好きじゃないんだって。

 あれは、嘘だ。

 姉さんを逃げ道にしてきたんだ、ずっと。

 本気で、好きだ、って言う勇気が無いだけなんだよ。

 嘘で通そうとしたけど、無理だった。

 あの時も無理だったし、やっぱり今も無理だった。

 お前には負けっ放しだよ。

「なぁ、……お前、やっぱり……写真、好きだろ」

 そう言って、部長は私を見る。

 やっぱりあの時と同じように、私は条件反射で答えていた。

「はい」

 私の答を聞いて、部長は笑んだ。

肩を竦めるようにしてから大きく笑んだ。

 

     ◇

 

 写真は過去を、その中へと閉じ込める。

 それが幸福だろうと不幸だろうと、見境もなく。

 変わることは無い。

 未来永劫、ずっとそのままだ。

 人は、写真を眺めて過去を想う。

 それは、過去に執心しているということなのだろうか。

 どうなのだろう、少なくとも私は――。

 

 部長の写真が私を虜にしたことについて、私は一つの考察を持っている。

 それは、

一、      別の過去に執心しているゆえに、撮影している現在進行形の過去には撮影者として影響しなかったから。

二、      部長の選択する被写体が、そもそも完成していたから。

三、      二も含めて、そもそも部長が天才だったから。

四、      私の目の錯覚。

 これらの内のいずれかだろう。

 他の選択肢があまりにも適当なので直ぐに分かると思うのだが、やはり本命は一である。

 その証拠にほら、ここにある写真はあの後すぐに部長が撮ったものなのだが、その写真からはなにも感じられなかった。

 

 二人の女が肩を組んポーズを決めている。一人は私服姿で、もう一人は制服だ。

 一人は部長で、もう一人は――。

 

                                     (終わり)

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