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「今吹き結べ想像の息」

 

 物語は、如何にして己を物語るか。

 

   ◇

 

Particle  honest」紹介文

 

 雪風と共に生きることを望むことが出来た成瀬。

 人体を使用した生体兵器という、和平の裏に潜む暗部を隠滅しようと動き出した世界各国に対し、彼らは生き残るという強い意志を見せた。

(中略)

 雪風と成瀬はお互いを求めるが、それは仮初めの平和に過ぎなかった。

 音もなく忍び寄る敵。苦しくなる日常。

 そして、苦難を乗り越えた先には――。

 

Particle  honest」序文

 

 やっと、あなたが分かるのだろうか――。

 

   ◇

 

「よ、っと」

 挨拶なのかもよく分からない呻き声と共に、中村は文芸部と表札のある教室の扉を開ける。

「ん、早いね?」

「ホームルームが短かったからな、っと」

 言いながら中村は長机にカバンを置く。衝撃で机が曲がったような気もするが気にしないことにする。教科書のようなものが一杯入っているので、実は見かけよりもかなり重い。

「中身整理したら?」

 向かい側から声を掛けてくるのは押川夏緒。何度目かも分からない指摘だったが、今更になって従うのもどことなくおかしい気がするので無視にとどめる。椅子に座りながら、

「面倒だしな」

 あぁそう、と諦めた声色で夏緒は目を逸らす。

 中村は背もたれに体重を掛けて夏緒を見て、

「他に誰も居ないのか?」

「居ないよ、っていうかみんな執筆室の方じゃないの?」

 そうだな、と頭を掻く。

 執筆室というのは、図書館に付随している資料閲覧室の俗称で、文芸部の人間しか使用していないことに由来している。ちなみに、この学校は大学の付属高校なので図書室ではなく図書館である。大きい。

 そしてこの学校の文芸部の人間は真面目な人間が多いらしく、小説論文その他諸々の文章を執筆するために執筆室へ行っている、ということがよくある。

「ふーん」

 中村は呟きながら外に見える図書館の屋根の縁を見る。

 というよりは、執筆室の方にいる人員の方がまず多い。部室に相当するこの部屋は、文化祭時の部誌発行の打ち合わせや、部長の気分で行われる意見交換会以外に使われない。

「で、夏緒は向こうに行かないのか?」

 中村は、手元の紙束に視線を落としていた夏緒に声を掛ける。

 資料閲覧の手軽さと、静かさが執筆に適している理由である。そして夏緒は、最近「新しいやつー」とかなんとか奇声を上げていた。あの奇声は新作を書こうとしていたのだと思っていたのだが、違うのだろうか。

 中村が机の上に頬杖をつくと、夏緒が口元を歪めた。

「やっと聞いてくれたね!」

「あぁ、でも聞かない方が良かったような気がしてる。そこで喋るのを止めてくれたら俺は喜ぶぞ」

 夏緒は身長が低いというか、雰囲気が小さいので迫力は全くないのだが、こういう笑い方をするときには冷や汗を得る。さながら不幸を運ぶ悪魔の笑みだ。

 中村は夏緒から目を背ける。しかし、これだけで夏緒が黙るはずがない。

 それを証明するように、

「征司は喜ばなくてもいいよ、私が喜んでるの。それで十分だよね? それで、これこれ、」

「……落ち着け」

 さっきまでの落ち着きはこのためのバネだったのだろうか。堰を切ったように、部室が夏緒の言葉で埋まる。

 中村は、言葉を制するように右手を夏緒の方に向ける。

 だがしかし、

 なんか、気付いてないっぽいぞ。

 夏緒は喋る方に集中しすぎて周りが見えていないらしい。このまま帰ってもばれない、とかそういう感じなんだろうか。だが今日は帰れても明日は帰れない気がする。

 中村は髪を掻くと、窓の外に視線を移した。

 夏緒の気が済むまでにあと数分はかかるだろう。それまでは殴らない限り何を言おうが無駄なのだ。

 赤く射す光がグラウンドを染めている。

先月に比べると、暑いと言える程に温かくなった。日も長くなっていて、またしばらくすれば梅雨になるだろう。

なんというか、年月の経つのは早いものだ。小学校時分のよりは随分と一年が短くなった気がする。

「あぁ、聞いてるよ」

 中村は不意に呟く。あいづち代わりの呟きだ。時折こう言葉を投げかけないと打撃を食らう可能性がある。前、一度食らった。

そう呟きながら考えるのは、もう書き終わったんだろうな、という事だ。

 夏緒は文芸部内でもかなりの速筆家で、学業を傍らに置いているにも関わらず長編短編をいくつも作っている。単純な作業量で計算すれば、一般部員の三倍程度だろうか。

 恐ろしい程だ。が、それは尊敬に値することでもある。

 中村はそう思っている。

「聞いてるのっ?」

「痛ってぇ!」

 後頭部への打撃。

「ばかやろう、全力で殴るやつがいるか。殴るときは手加減するんだよ」

「だって征司が聞いてないんじゃん!」

「……いいか。お前、こーゆー時に真面目に聞いてると、後であれは忘れろって言いながら殴りかかってくるだろ。というか落ち着いたところでもう一回話直すからいいだろ。聞かなくても」

「うわ……」

「なんだよ」

 夏緒は思い切り仰け反りながら、その反動で思い切り机に突っ伏してくる。

 長机を勢いよく手で叩き、

「いい? よーく聞きなさいよ。女の子はね、ちゃんと話を聞いてくれる男の子を好きになるの」

「あぁそう。意外な事実だな」

 中村は机に対して半身になり、左側を椅子に預ける。これで少しだけ夏緒から離れた位置になる。

「で、そろそろ話戻せよ。書き上がったんだろ、読んで欲しいならそう言えよ」

 む、と口を膨らせてこっちを睨む。

 中村は椅子の背もたれを左腕で抱きながら右手を伸ばして、

「ほれ、寄越せ」

「読んでなんて言ってないもんねー」

「そのうち言いたくなるだろ。待ってるのも面倒だからその前に寄越せ」

 夏緒は紙束を胸に寄せて、そのまま抱きしめる。

「征司になんか渡すもんか」

「言ってろ。読んでやらんぞ」

 擬音が付きそうな仕草で目を逸らすと、夏緒はまた原稿に没頭する仕事に居直った。

 まぁ、いいか。

 言われるのは毎度のことだし、それにすぐに感想を求めに来るだろう。そう中村は思っている。

 今原稿を渡さなかったのは推敲を完全に終えていなかったから、とも。

 中村は身体を戻して背もたれに体重を預ける。

 夏緒が真剣に推敲を重ねている姿を確認して頭を掻いた。

「真似できないんだよな……」

 呟く。

 指の関節で額を突いてから、中村はカバンに入っていた筆箱とノートを取り出す。

 ノートは創作活動のためのものだった。中村が文芸部に入った理由は創作活動をするため、というものなので、論理的には間違ってはいないと思う。

 中村はノートを開いた。

背表紙がリングになっているタイプのノートであり、下敷きが無くてもある程度の書きやすさを誇っているのだが、そこには未だなにも書かれていない。一つの文字どころか、消しゴムの跡すら見えない。

 筆箱からいつも使っている安っぽいシャープペンを取り出す。そしてシャープペンの尻をノックしての芯を出すのだが、

 ……言葉が出てこないのはどうしてか、と。

 遊ぶようにシャープペンを指から指へと持ち替える。ペン回しは一年間でもの凄く上達した。

 だけど、と中村は考える。

 こんなことをするために文芸部に入ったのではない。自分がここにいるのは、モノを書くためだ、と。

 少なくとも自分以外の他の部員達は結果を残している。小説や詩、レポートや論文で。

 俺だけが出来ていないんだよな、そう考える間にも指先はシャープペンを弄んでいる。

「なんだかな……」

 他の部員達、特に夏緒からは、「とりあえず書いてみてよ」と言われる。「私はそーやって上手くなったんだから」と。

 確かにそうするべきなのかも知れない。

 でも、

 それでいいのだろうか、と思う気持ちの方がいくらか強い。

当然だ、と中村は考える。そうでなかったら、既に自分はなにかしらモノを書いているはずなのだから。

開かれたノートは当然最初のページ。雪原のように白しかない空白は果てしなさを感じさせる。それを中村は見つめるが、やっぱり文字の一つも浮かんでこない。

 怖いんだろうな、と中村は思う。もし自分が書いたモノが周りに認められなかったら、ということが。

 自分が作ろうとするものに自信があればあるほど書けなくなる。そういう状態に陥りつつあることを、中村は自覚していた。

 指先が空を掻く。シャープペンが指から離れて机に落ちた。

「…………、」

 埃の臭いがする部室の空気を深く吸った。

 中村は夏緒を見る。時折、右手に握った赤いペンが紙束に文字を記すのを見つける。

 彼我の差が広がっていく、そういう事ばかりを感じてしまう。

 ダメだな。心にそう呟いて中村は頭を掻く。そのまま時計を見ると、まだ十数分しか経っていなかった。

 

 そのまま、同じように十数分が経った時だった。

「……遅れてスマン」

 寝癖の髪をそのままにした本屋部長が現れた。

「あー、おつかれさまです」

 夏緒が会釈する。が、そのまま言葉と視線をぶった切って原稿に集中する。

 ん? と声を出しながら首を傾げた本屋部長が中村の方に寄ってくる。

「なぁ、おい。俺をスルーしたのは許してやるから、何があったか教えてくれよ」

「……気付けよ。夏緒、前の続編のやつ書き上がったんだろ?」

「ふむ」

 そう言って腕を組む。中村が本屋部長を見上げると、夏緒の方を向いたヒゲしか目に入らない。ヒゲを剃れよ。

 本屋部長。

 本名は本屋徳一郎。部長の冠が示すとおり、文芸部の部長という座に就いている。通称巨人。

 身長は182pであり、運動を巧みにこなして、ヒゲと寝癖を直せば格好も良い。しばしば奇怪な言動で周囲を惑わすということを除けば超人の名にふさわしいと言える。本屋という名字に導かれたのか、実家は本屋書店というふざけた名前の書店を経営している。長男であり、いずれは家業を継ぐことになるらしい。

 名前も外見も性格もおかしいが、文芸部員の執筆した文章に対して正確な評価を与える、という点においてのみ天才的な才能を発揮するのがこの人物だった。

 文芸部内の誰よりも文章というものに対して真摯だと自称している。しかしそれよりも恐ろしいのは、文芸部員の大半がそれに同意していることだ。

「じゃあ今回ので完結か。前編では謎が提示されただけだったからな。後半で風呂敷を畳めるかが気になっていた」

 

 言いながら椅子を引いて、本屋部長はそれに座る。ぎし、と椅子が軋んだ。

腕を組んでから本屋部長が夏緒の方を向く。

ふっ、と沈黙が部室に降りた。

両手どころか片手にすらやるべきことを抱えていない中村も、居場所を求めるように夏緒に視線を遣って考える。

 二次創作、という言葉がある。

 既存の世界観やキャラクターなどを勝手に拝借し、原作者以外の第三者が新たにストーリーを得ていく、ということであるらしい。言葉が表しているように、二次的な創作である。

 中村は以前、夏緒に同人誌というものを見せて貰った。そしてそれを見て驚いたことを覚えている。

 確か見せて貰ったモノ自体は漫画だったが、読んでいてあまりにも違和感がなかった。まるで作者がスピンオフとして描いたようにしか思えなかった。

 夏緒や他の文芸部員からの情報だが、その著者は有名な同人作家らしかった。この辺りになると段々とややこしくなってくる。

 だが確かに、そういう形式で自分を表現していくのもアリなんじゃないか、と中村は考えている。

 作品を通じて表現される作者の考えや理念をきっちりと把握して、その上で自分ができることを重ねていくということは、もの凄く手間が掛かり、また難易度の高い作業である。恐らく、自分で一からモノを作るよりも難しいのだと思う。

 作者の力が未熟だと盗作になってしまったり、そもそも自分の要素を濃くし過ぎて原盤が分からなくなったりするのだろう。

 かなり、と言ってもいい程に難易度の高いものだと思う。

 だけど夏緒はそれに挑戦した。だからと言って夏緒の技量が高いという訳ではないが。

 夏緒が赤ペンで原稿に修正を入れていく。本屋部長はまだ腕を組んでいる。

 今回夏緒が書いたのは、二次創作で前後編に分かれた内の後編。

 基本的に部活の範囲なので、長編だろうが短編だろうが掌編だろうが、好きに書いて好きに読ませればいい。なので前後編に分割する必要性は全くと言っていいほど存在しない。それでも夏緒が前後編に分けた理由は「気分で」とのことだった。ある種モチベーションに依存する作業でもあるので、書いている時の気分というのは案外大きな影響力を持つ。

 その内容は、ジャンルで分けるとしたらサイエンス・フィクションにあたる。

 原作の名前は「Particle  Parade」。

 反粒子を打ち出し、粒子との作用で「物質の破壊ではなく消滅」を目的とした兵器が存在する世界の話。

その兵器を小型化及び軽量化し、それを身体に搭載した少女がメインヒロインで、その少女を手助けするのが主人公であった。と思う。なにしろ中村自身は原作を読んでいないのだ。いきなり夏緒の書いた二次創作物から情報を入手したので、間違っている可能性は大いにある。

 ストーリーは、その少女の存在を隠蔽するためにロシアから送られてきた刺客を返り討ちにする、という調子だ。少女の能力の割に主人公が無力だったので、「セカイ系」にも当て嵌まるのだろうか。中村は、その辺りは専門外なのでよく分からない。

 そして、夏緒が書いた二次創作物のタイトルは「Particle  honest」。

大きな特徴といえば、兵器を搭載された少女の描写が妙に生々しかったことだろうか。

「上着を脱いだ少女の背は、ラジエーターの役割を果たす為に肉を貫いて貴金属の薄い板が飛び出している。

その薄板に冷えた空気が触れると、空気中の水分が白く変わった。

浅い呼吸と、首筋から伸びた青いコード類の先端が揺れるリズムが酷く似ていた。」

 戦闘などではもっと血肉が飛び散るような描写になっているが、それは止すことにしておく。

 ともあれ、搭載と言うよりも機械との融合に近い。夏緒がそんな描写をしたということが中村には少しばかり衝撃的だった。無茶な設定の割に、科学的根拠を伴う描写や説明があったという部分にも興味を惹かれた。

 しかしこれは原作の特徴でもあるのだろう。夏緒は執筆直前や最中に読んだ小説に影響を受けやすい。中村は夏緒自身からそう聞いたことがある。

 前編のストーリーは、原作の続編に近しいモノになっている。

「襲い来る刺客を倒し束の間の平和を得た主人公と少女、その間にも二人の関係は深くなっていく。しかしその反面、敵も着々と準備を整えつつあった、ついに少女を絶命せしめるために。(あらすじ抜粋)」

 さっき本屋の部長が言っていたが、前編では散らばった状態の謎が提示されていたままだった。後編では事態を裏側から見、そして事実が集束していくと思われるのだが、夏緒がどのような展開を考えているのかは現段階ではまだ分からないままだ。

 

 時計の針が動く音を除けば、部室内は未だ無音に満ちている。夏緒も本屋部長も動く気配を見せない。

 夏緒の挙動にそんなにも興味があるのだろうか、と中村が本屋部長を見ると、あのヒゲ腕組んだまま寝てやがった。

 頭を掻いてから肩の力を抜く。そのまま右手で頬杖をついた。

「ね、」

「ん?」

 すると夏緒が顔を上げずに呼びかけてきた。

 なんだ、と中村が視線だけを夏緒に送って反応を見る。

「ずーっとそうやってて……暇じゃないの?」

 そう言いながらも、夏緒は原稿を一枚めくった。

「想像に任せるよ」

 そう言って中村は首を竦める。

 確かに暇ではないと言えば嘘になる。だが、いま眼前に広げられたノートに書くべき文句は一つも見つからない。

 受動的に暇なのではなく、能動的に暇なのだ。そこには確固たる違いがある。

「私には関係ないからいいけどねー、別に。でも、」

 夏緒は疲れを騙すように首を回すと、中村の方を見た。

「見られてるような気がして、気になる」

「自意識過剰な自分を憎め」

 別に見ようとして見てるわけじゃないんだから、と中村は付け加える。夏緒は返答に不満があるのか、眉間に皺を寄せてこちらを睨んだ。

「またそうやって……」

 言い掛けたがそこで止まる。語尾を流すと溜息を吐いて、夏緒は推敲作業に戻った。

 夏緒がもうなにも言ってこないのを見て、中村も頬杖の下にあるノートに視線を下ろす。

 時間が経ってもそこに文字が書かれることはない。薄い灰色の罫線が幾つも幾つも引かれているだけだ。

 構想は、ある。

 どんなことを書きたいのかも分かっている。

 それでも文を書くことが出来ない。

 考えながら、中村はさっきと同じようにしてシャープペンを指先でくるくると回す。

 一歩を踏み出せない自分の勇気の無さが全ての原因なのだろうか。

 以前、本屋部長に言われたことがある。「本当にそれを書きたいと思っているのか」と。

 その時は、

「もし書きたいと思っていなかったら、こんなことで悩みはしない」

 そう言って本屋部長の言葉を切って捨てたが、しかし本屋部長の声は脳裏に焼き付いた。

 自分が書きたいと思うほど。

 その事について考えれば考えるほど。

 本当に、それは自分の意志から生じた衝動なのかと考えるようになった。

 体重が掛かって少しだけ痛い左肘のために、中村は重心をずらす。頬杖に支えられた視線が窓の外の景色を得た。

 分からない。

 分からなくなった。

 自分がなにを欲しているのか。

 今、自分が為そうとしているのは、この負の連鎖を断ち切るための一息に過ぎない。

 本当に自分がしたいことではないのだ。

「疑問を持てば、物語に対して誠実でなくなってしまう。そうなったら書けるモノも書けなくなるんだろうな」

 これも、いつかに聞いた隣で寝ているヒゲの言葉だ。

 内容に関して言っているのだろう、だが、それ以上に自分は「書くということ」にすら疑問を抱いてしまったのだ。

 おそらくは、自分の勇気の無いが為に。

 中村は沈みかけの夕日に視線を遣る。オレンジに染まった雲が西から流れてきた。

 物語に対して誠実でない。

 そう、きっと今はその状態にあるのだろう。中村はそう考える。

 本屋部長の言葉を切っ掛けにして生まれた疑念を、そのまま自分のモノにしてしまったから。

「どうすれば……」

 そう呟く声は窓ガラスの向こうに吸い込まれる。ふと気付けば、シャープペンは指先を離れて机の上に落ちていた。

 

「征司、起きてる?」

「寝てるように見えるか? これが」

 呟いてからさらに十分余り。日が沈んでそろそろ暗くなる頃に、夏緒が声を掛けてきた。

 中村は頬杖ついたまま夏緒の方を向くと、夏緒はそうだね、と小さく笑う。

「でも部長はたまに目を開けたまま寝てるじゃん?」

「そんな芸当が出来るのはこのヒゲだけだ。常人に真似は出来ない」

 ちなみに本屋部長はまだ腕を組んだまま寝ている。目は閉じているが夏緒の方を向いたままだ。

「そう? 私は気付いたら目を開けて寝てるってときあるけど」

「そこに自分で気付くとは中々強者だな」

 それで、と一呼吸置いて中村が夏緒を横目で眺める。

「終わったのか? それ」

「それ、って?」

「読んでやらんぞ」

 分かりました、と諦めた口調で呟かれる夏緒の声は少しだけ笑っている。

 原稿を一度胸元に引いて抱きしめる夏緒は、中村に視線を向けて、

「本当は新しく印刷した方が見易いんだけどね。早くしないと征司は寮に戻っちゃうでしょ?」

「気にするなよ、印刷するならしてきた方が良い。それだけの分量なら読むのにも二時間くらいかかるだろうしな」

 夏緒が抱えている紙束は二p強、一般的な文庫本に換算すると四百ページあるかないか程度だろう。中村はそれを読み終えるのに二時間程度の時間を要する。このスピードが速いかどうかは分からないが。

 時間はいいのか、と中村は窓の外を見る。

「んー、今日は色々やりたいことがあるから寮に戻るのは十時過ぎになるかも」

「そうか、どうでもいいが怒鳴られる前に帰れよ」

「どーも」

 仰々しく頭を下げる夏緒は、頭を上げると原稿を机に滑らせて中村に渡した。

「雑な渡し方だな。紙が悪くなる」

「いいの。だってまた刷るし」

 そう言うと夏緒は席を立つ。深く息を吐きながら手を伸ばし、背伸びをする。

「うー、なんか終わると疲れるよね。やってる時は気になんないけど」

「集中してるんだろうな。……それじゃ、とりあえず読ませて貰う」

 屈伸しながら悶えている夏緒は、震えながら「分かったー」と言った。

 二三飛び跳ねると、

「私は執筆室の方に行ってるから。あんまり変なところがあったら言いに来てね」

 夏緒は言い終えると、中村がなにかを言う間もなく扉を開けて行ってしまう。

 閉じられた扉を見ながら、中村は夏緒に言われた言葉を思い出す。

「だって、恥ずいじゃん?」

 その時に、自分のいない所で読んでくれ、と中村は言われた。恥ずかしいから、なのだそうだが、その理由は確かに正しいのかも知れない。一度、夏緒の前で新作だという小説を読んだことがあるのだが、こちらが一喜一憂するごとに夏緒が悶絶して気が散った。

「なんにせよ、書いたことのない俺には分からないことか」

 一人で嘯くと、中村は机の上に放置された原稿を手繰る。

 だが、

身体の前に引き寄せようとしたその時に、中村は気付いた。

「なんだ……?」

 一番上にある紙には、コーヒーをぶちまけたような模様が出来ていた。

 インクの黒と紙の白が、丁度コーヒーとミルクのように混ざっている。

 それだけでおかしいというのは直ぐに分かった。だが、それだけではなかった。

 

 なんで、この模様は動いてる?

 

 インクが水に浮いているわけでもない。しっかりと紙に接地している。なのに、

 コーヒーとミルクが温度差でおのずから混ざるように、その黒と白は模様の形を変えている。時折、修正に使われた赤ペンのインクと思しき朱が射す。

 あまりにも意味が分からない。なにがどうなっているか、これは一体なんなのか。

 中村は、いつの間にか震えていた唇を動かして深く息を吐いた。

 ページを捲るか。

 目が疲れているのかも知れない。次のページからこそ、物語の続きは紡がれているのかも知れない。もしこの予想が間違っていて次のページもこうなっているのなら、どういうことだ、と夏緒に問えばいい。

 中村はページを捲るために、紙に染み渡っている模様の端を抓んだ。

 その瞬間、

 中村はなにかに腕を掴まれ、そのまま原稿の中に引きずり込まれた。

 部長に助けを乞う暇もなかった。

 

     ◇

 

 本屋は部室を駆けめぐる異様な気配に目を覚ました。

 だが、誰も居なかったので再び目を閉じた。

 

     ◇

 

 許されない咎を背負った私を見て、あなたは私を恨むでしょうか。

 あなたと一緒にいるときだけが私の幸福でした。

 ですが、それを裏切ってしまったのも私でした。

 許して下さいと、口にするのも憚られます。

 私はこの世界に存在してはいけないのです。

 いつの日にか私と似た姿で生まれてくる子達の為に。

 私は今すぐに消え去るべきなのです。

 どうか、どうか私を――。

 

     ◇

 

 中村は、真昼の市街地に一人佇んでいた。

どことなく潮の香る通りだ。

「……今のは、なんだ?」

 中村は右手を目前にかざして、握ったり開いたりを繰り返す。異常はない。

 身体を一通り見回してみるが、特におかしいところは見当たらない。

 そう、おかしいところは見当たらない。それにも関わらず、現状に異常性をひしひしと感じる。

 さっきまで自分は部室にいたはずだ、と中村は考える。夏緒の原稿を待っていて、それから……書き終わった原稿を見ようとした。

 そして、その後。

 あれはなんだったんだ?

 紙の表面を滑るようにして黒と白の模様が蠢いていた、あの異様な光景を思い出して中村は声に出さず呟く。

 あの模様に触れた瞬間、なにかに引っ張られて身体を持っていかれた。最後の瞬間視界に映ったのは、赤ペンで書かれた丸っこい夏緒の修正の文字だった。

 原稿の中に引きずり込まれた、のだと思う。

 断定は出来ないが、そんな感じがする。

 中村は頭を掻いて周りを見た。

 大体、この光景自体がもうおかしい。

 高層ビルが建ち並ぶ市街地だ。ストリート自体の幅は広く、両側には街路樹とその外側には様々な店が建ち並んでいる。正面から緩やかに吹いてくる風からは潮の匂いがする。

中村はこんな場所を知らない。

 東京や大阪、名古屋、博多などの都市沿岸部はこのような景色なのだろうか。

 中村それらの土地に行ったことがないので知らないが、ここが日本のいずれの地でもないことは理解している。

 ここは、奥海市だ。

 奥海市。

Particle  Parade」、夏緒の「Particle  honest」の物語の場である。

 日本に実在しない土地ではあるものの、地理的には山形と新潟の県境辺りに位置しているという設定を中村は夏緒から聞いた。

 本来は漁業で発達した街だが、戦後は技術系企業の頭脳が集結する場所となっている。実は奥海市には国軍の研究所があり、安全かつ速やかに技術の供給が出来るように、と国が誘致したので発達したのだとかなんとか。

 恐らく、ここはその奥海市だ。

 なぜそう思うのかも分からないが、とりあえずそんな気がする。

 だがそれは、

「まるで……物語の中に入ったみたいだ、な」

 そんなことは有り得ないと思いつつ、しかし中村は呟いてしまう。言った後に自分らしくないと気付くが、呟かれた音は潮風に持っていかれてしまった。

 中村はとりあえず、と街路樹の傍にあるベンチに腰掛けた。

 その時だった。

 

『――あー、あー。ただいまマイクのテスト中、……感度良好? 聞こえてる? 中村征司』

 

 中村は、唐突に響いてきた少女の声が自分の名前を呼んだことに驚いて振り返る。しかし、そこには行き交う人々がいるだけだ。

 今のは一体何なんだ、と中村が思う間もなく次の言葉がやってくる。

『あ、あれかな? ようこそ! 「Particle  honest」へ!』

 遠くから全力で叫ばれているようでもあり、近くで囁かれているような声にも聞こえるが、どちらかと言えばどちらでもない。耳から聞こえてくるのではなく、頭の中から響いてくるような声だ。

 少女の言葉はそこで途切れ、ノイズの掛かった沈黙が降りる。

『あー……、聞こえてるよね? 反応がないからちょっと分かんないけど……

 中村は両手で顔を覆うようにして撫でながら、現状を考える。

 ここは夢か? それとも俺はどこのおとぎ話の中に迷い込んだのか?

 実は夢でしたという展開が最も心臓に優しいだろう。もし他のだったとしたら、……あとは知らん。

 だが、夢でしたと言ってしまうには、得ている感覚が現実的すぎる。

『どうしよう……。あ、……聞こえていたら真上を向いてウインクしてみて』

「街中でいきなりそんなことやれるか……」

『あ、聞こえてる? っていうか喋ってくれないとこっちに聞こえないから、お願い』

 中村は深く溜息を吐いて真上を見上げる。ウインクはしないが。

『こーゆー時は、』

 と、少女の声が改まって頭上から降り注ぐ。木陰の間から漏れてくる日光と似ている淡い声音だった。

『自己紹介とかするの?』

「俺に聞くなよ……」

 大体な、と言いながら、中村は上を向いて反った背中を猫背に戻す。

 勢いをつけて、響いてくる少女の声に問う。

「まず、こーゆー時ってなんだ? どーゆー時だよ?」

『んーとね……』

 声優になれそうなくらい声の表情が豊かだと中村は思う。声を聞いているだけで、少女がどういう振る舞いをしているかが分かりそうなくらい。

『お互いを知らない時、かな。私は征司を知ってるけど』

 今のは、

 夏緒の声か?

「お前……夏緒か?」

『……残念ながらいきなり人違いだけど、そっちは中村征司だよね』

 帰ってくる言葉の色は少し悲しそうな色を含んでいる。

 ん、と眉をひそめるが、中村にはなにも分からない。

『私は「Particle  honest」。呼ぶときは、えーっと……アニー、がいいかな?』

「待て」

『なーに?』

 どうしたの、と疑問の色をした少女の声が響いてくる。

 中村は額に人差し指の関節を当てて考える。

 なにがどうなってるんだ。ここは「Particle  honest」の奥海市で、頭ん中に響いてくる声は「Particle  honest」? だったらなぜ俺はここにいる?

 状況を問う言葉でさえも常軌を逸したものになる。全てが理解の外にあるからなにもかもが分からない。

 中村はもう一度周囲を窺う。こうもスーツ姿の大人が多いのは昼休みだからなのだろうか。軽食を手に持って急ぎ足でどこかへ行く姿もあるし、白衣姿が歩いているのもやはりこういう街なのだろう。違和感がない。

『どしたの?』

「意味が分からない」

『へ?』

「お前の言っている意味が分からない。どういうことだ? 一体なんだ? 「Particle  honest」だと? じゃあ俺はなんでここにいる!」

『き、急に怒鳴んないでよっ!』

 中村の声が周囲に波を立たせ、それに反応したらしいスーツ姿の何人かがこちらに振り向いた。

少女の声が今にも泣きそうに曇る。中村は塊のような空気を呑み込んだ。

「いや、……悪い」

『…………』

 それだけの言葉で少女の声音から戸惑いが消えた。今は薄い興味の色が息遣いの輪郭を為している。

 中村は肩を落として一息吐いた。

「ここは……現実か? 夢なのか?」

『ぐ、ぐも……愚問? ――愚問だね』

「お前、台本かなにかを読んでるのか?」

『そこは気にしちゃダメだよ。っていうか仮にどっちらかだと断定したら、それ信じる?』

 そうだな、と中村は言葉を返す。ふと見ると、両手に買い物袋を抱えて歩いていた白衣の男性が、慌ててこちらから目を逸らした。

 まぁ、傍目から見れば相当怪しいヤツに見えるだろうな。

 手櫛で適当に髪を直す。逆に乱れたかもしれないがそれはどうでもいい。

「というか場所変えないか? できれば人の少ない場所が良い」

『なんで?』

「普通一人でべらべら喋ってるヤツ見つけたら怪しいと思うだろ」

『ん、そーだね』

「適当に歩いて……いいのか?」

『あ、「Particle  honest」の前編は読んだ?』

「読んだけど、それがどうかしたか?」

『おーけー、それだったら大体この街のどこになにがあるか分かるはずだよ』

「どういう事だ?」

『とりあえず歩いてみよ? 私もこの街がどうなってるか気になるの』

 おい、と中村が声を掛けてみても、少女は『いいからー』と楽しげな声音しか出さない。

「まったく……」

 呟きながら中村は立ち上がり、とりあえず、と周囲を見回してみる。

ここの大通りは南北に延びているらしい。

南を見ると緑の山脈があった。ということは、北に行けば沿岸部に出ることになる。

どちらに行こうか、と中村が腕を組んで思案していると、そこに知っている顔を見つけた。

……だが、今のは、なんだ?

なにかがおかしいことは間違いないが、なにがおかしいのかは分からない。

混乱の中にそう思いつつも、中村の足は既にそちらを向いていた。

 

     ◇

 

Particle  honest」第四章 研究課雑務係 夏目健二(2)

 

 ダメだ。

 今日は完全に厄日だ。

 買い出しはいつものこととはいえ、買うものを間違えたり、つまずいたり、柚原さんに撃ち殺されそうになったりするのはただごとではない。

 その上、帰り道にはぶつぶつ独り言を言っている学生を見かけた。できるだけ見ないようにしていたが、ふとした瞬間に目が合ってしまい睨まれた。

 慌ててその場を離れたが、その学生はまだ独り言を呟いていた。

 自分とは関係ないとは思いたいが、こういう日常には存在しない異分子が介入してくると、大抵ロクなことが起きない。

 そう、以前もそうだった。

 確か、あの時も柚原さんに撃ち殺されそうになった気がする。あの人に銃を持たせてはいけないと個人的に思う。

 その後、演習中に雪ちゃんをロストしたり、ロシアの諜報員に命を狙われたり、ベーリング海でアメリカとロシアが艦隊戦を始めたりと段々とシャレにならないことが起きていった。

 ということは、恐らく今回もそういう事が起こるのであり、まず手始めとなる一歩が目前のこれだろうか。

「素粒子研究所のナツメだな?」

 うわ、雑務係とかじゃなくて普通に呼んでくれたなんて半年ぶりくらい。なんて嬉しがってる場合じゃない。

 いま俺に銃口を向けて立っている軍人さん達は、国軍の人じゃない。

 っつーことは、捕まったらこわーい人達につらーい拷問を受けたり尋問を食らったりする可能性があるわけだ。

「違うのか?」

 ここで違うって言ったら殺されそうだな、とか考える。

 だったら、まぁ、気は進まないけど精一杯抵抗して、……最悪の場合は自害かな。まいった。

 でも一応こーゆー時の為に携帯用のガスガンを持ってきてる。そーっと白衣の中に手を入れて……、

「何をしてる?」

「いやぁ、まぁ、なんつーか。ねぇ?」

 もうちょい。

「おっさんたち怖いからさぁ……」

 指先にグリップが触れる。……ここで最低ライン確保。

 ぎ、と靴が砂利を踏んだ。

「――正当防衛っ!」

 

 銃声が高らかに響く。

 それは、全ての合図。

 

     ◇

 

 どこからか銃声が聞こえた気がする。が、なにかの聞き間違いだろう。ここが「Particle  honest」の中だとしても、「Particle  honest」はいきなり銃撃戦が起きるような話じゃない。

 そう考える中村は南方向、つまり山へ向かって歩いていた。

 次第に飲食店よりも巨大なビル群の方が目立ってくる。時々学生の姿も見えるようになってきたから、この辺りには大学か高校でもあるのだろうか。

「しかし、な」

『どったの?』

「いや、どこもかしこも見たことある風景だと思って」

『そりゃそうだよ。だってここは「Particle  honest」の世界だもん。読んだことあるなら知ってて当然じゃん?』

「……お前はさっきからそればっかりだけどな、それが分からないんだ。いくら「Particle  honest」を読んだことがあるって言ってもな、所詮それは文章から情報を得てるワケだろ? こんなに明確な視覚的印象は有り得ないんじゃないのか?」

『……アニー』

 頬を膨らませたように聞こえる少女の声は、中村の耳を圧迫する。

「なんだよ」

『お前じゃないもん。さっきアニーって名前を考えたんだもん』

「別になんでも良いんだけどな、その名前はどっから出てきた?」

honestから、honesty。でもアネスティーって皆まで言うとくどいから、アニー』

 理由があったのか、と中村が呟くと、アニーが『馬鹿にしないでよ』と少し不機嫌に言葉を下ろしてくる。

『あのね、征司は本を読むときに……あ、じゃなくて、』

 中村の歩くタイミングで一歩分。沈黙ではなく間が空いて、考えたような口調でアニーが声を響かせる。

『たとえば、「ここに赤いリンゴがある。」っていう文章があるよね?』

「それが、どうかしたか?」

『うん。とっても重要なの。征司はこの文を読んだときに、「そこに赤いリンゴがある。」と頭の中で想像するよね?』

「……そうだな」

『でも、この文は詳しく説明してないよね? どんな形のリンゴなのか、色合いはどんな風なのか、へたはあるのかないのか、もぎたてなのか腐りかけなのか、大きさはどうなのかとか、……どんな場所にあるのか、とか』

「それは分かる。それで?」

『うん。でも、そういう細かい説明をしていないのにも関わらず、征司は「赤いリンゴ」を想像できたよね?』

 あぁ、と中村は考えながら足を動かしていく。

『さっきの「ここに赤いリンゴがある。」っていう文は自由性が高すぎるから実はダメなんだけど……、それでもやっぱり征司は自分の想像した「赤いリンゴ」について、細かい点を追求できるよね? 形とか、色合いとか……大きさとか。勝手に自分で設定した値があるよね?』

「そうだな、うん。成程」

『小説っていうのは文の積み重ねだから、もっと可能性は限定されるの。小説の中に書かれてなくても、街中にいきなりぶどうの果樹園があったりはしないよね?』

「なんでぶどうの果樹園かは分からないが、……それは、まぁ、分かる」

『良かった』、とアニーが嬉しそうに言う。もし姿が見えていたら、彼女は手足をばたつかせて飛び跳ねていただろう。

 中村は頭を掻いて周りを見る。段々と学生や白衣姿の割合が増えてきていた。

『この話を前提に聞いてね』

「簡単に話してくれ」

 中村がそう言うと、アニーが元気よく『任せてっ!』と言ってくる。だがこれは信じてはいけないフラグなのではないだろうか。

『あのね、ここは「Particle  honest」の世界なの。そこは大体分かってるんだよね?』

「それも話の前提だろう。知っているということにしないと話が進まない――」

 語尾を紛らせながらも中村はアニーに問う。

『ん。分かった。それで、さっきの話の続きなんだけど……小説を読んだ感想は一人一人違うよね?』

「まぁそういうことにしといてやろう」

『うー、感想じゃなくてさ、こう……さっきのリンゴみたいに、文章を読んで想像する物語の世界は、人によって絶対違うよね?』

「それはそうだろうな」

『でしょー? でね、ここは、中村征司の「Particle  honest」なの。分かる?』

「俺が読んで――その結果想像された世界が、ここか」

『うわぁ、優秀だね。こーゆー妄想してたの?』

「こーゆーのは俺の範疇じゃない。俺の他に得意な奴がいる」

『ふーん』

「興味がないなら聞くな。……それで、まだ疑問には至ってないよな? なぜこんなに矛盾のない、正しく成り立っている世界になってる? 俺はこんなに綿密に想像した覚えはない」

『いいとこ突くね。あのね、意識的には想像してないけど、無意識下で勝手に想像してるんだよ。でもやっぱり優先されるのは、意識的な想像なの。さっき征司がこっちに歩いて来たのは……登場人物を見かけたからだよね? その人は想像したまんまだったでしょ?』

「よく分かったな。その通りだが、……そういうことか」

『うん。あと分かり難いと思うんだけど……この世界は一定じゃないの。別の姿に想像されるとその姿に変わるんだよ。 これは実践してみた方が分かり易いかな』

 そう言うと、アニーは『ちょっとそこの曲がり角あるよね?』と、喫茶店の手前側にある、大通りと小道の交差を教える。

「あそこに行くのか?」

『ちょっと待って。えーっと、その気になって信じてね? 疑っちゃダメだよ?』

 そう前置いてから、少し楽しそうに言う。

『あの道は誰も入らないの、陰になってるでしょ? だから、……拳銃が落ちてるよ』

「……嘘だろ?」

『本当だよ。さっき私が置いてきたもん』

逡巡していると、『行ってみなよ』とアニーが急かした。ようやく中村はゆっくりとその道に歩いていく。確かにその道を使おうとする人は居ないし、誰かが出てくる気配もなかった。

 本当だろうかと思う反面、本当だろうなと思う自分もいる。喫茶店のガラスにはいつもの自分が映っていた。

 ふ、と息を吐いて大きく一歩。できるだけ外側から路地を見ようと動く。

 中には、

「おい……」

 アニーの言う通りに、拳銃が落ちていた――置いてあった。

『ありがと、信じてくれて』

「どういうことだ?」

『ん? だって、普通だったらこんなとこに拳銃が落ちてるなんておかしいじゃん。見つかる見つかる』

「待て待て待て待て、話が見えない。どういうことなんだ?」

『えっとね、征司が私の言葉を信じて、ここに拳銃があると思った――想像した。だから、ここには実際「拳銃が落ちている」ことになったの』

「意味が分からないんだが」

『よく分かんないかもしれないけどしっかり聞いてね。

あのね、さっきも言ったけど……この世界は、想像することで形づくられるの。ここは中村征司の「Particle  honest」だって言ったでしょ? それと同じ考え方。

 この世界は、征司が入った瞬間に決定されるんじゃないの。現在進行形で、「今の征司によって想像された姿」に変わってるの』

 ここまでは大丈夫かな、と疑問符つけてアニーが聞いてくる。

「成程。それで、俺が想像した結果が世界に現れたのか」

『そうそう』

「……しかしそうだとすると凄まじい世界だな」

『おもしろいでしょー?』

 どうだかね。中村が興味なさ気にそう呟くと、アニーが、む、と声だけで頬を膨らませた。

『征司には分かんなくても、ここはおもしろいもん』

「簡単におもしろいとかつまらないとかで言い表すのもどうかと思うがな……」

『なんか言ったの?』

 やや怒りを溜めた調子でアニーが声を響かせる。気にするなよ、と中村は呟いて頭を掻いた。

「それで、……説明の続きだ」

『……ん。でもとりあえず少し場所を変えよ? ここ、なんか暗くて嫌』

 分かった、と言って中村は振り返る。一歩を踏むと、すぐに明るく人通りの多いさっきのストリートに出た。

 適当に歩くか。そう思いながら再び山並みを見て歩いていく。

『たとえどんな人物でも、それが地の文で描写されていたとしても、正確な姿は分からないでしょ? 挿絵があれば容姿は分かるけど、……声までは分かんないよね。

 でも、ここにくるとそれが完全に意識下、または無意識下の想像によって補われるの。

 それでね、私達は……地の文で確定されていない事柄全てを、「想像の余地」って言ってるの。「Particle  honest」の前編で、今いるこんな場所は描写してなかったよね? それでも、現実にこーゆー場所があるのは、ここが「想像の余地」だから』

「……私達? 私達、って……お前だけじゃないのか」

『あ、……うん。そう、それも……あとでしっかり言うから』

 戸惑ったようで、暗い色。アニーが少しだけ落ち込んだ表情になる。

『今、征司が見たり聞いたり触ったりして感じてるこの世界はね、無意識の内に、「こうでなければならない」って思い込んでるから、こういう世界になってるの。大部分は、視覚から入ってきた情報に合わせて、聴覚、触覚、嗅覚の情報を想像する……って感じかな。

 現実世界なら、こーゆー時は脳の錯覚として処理されるんだけど、ここは世界自体が変わっちゃうから』

「それじゃあ俺は今、この世界に入ってきたということを切っ掛けにして現れた目前の情報に合わせて、受動的に想像してる、ってことになるのか」

『そうなるね。そして、受動的な想像があるということは、』

「能動的な想像もある。……それが、さっきの拳銃か」

『ごめーとー。このことをしっかりと覚えておいてね』

「覚えるもなにも、まず忘れるということが無さそうだが」

 印象的だからな、と中村は付け加える。いつの間にか見えていた芝生のある敷地は大学のキャンパスか。あの辺りになら座っても怪しまれないだろう。

『だから、景色を見れば、「どこかで見たことがあるような気がする」景色なんだよね。それは「Particle  honest」を読んでいて無意識下に想像された景色が再生されているから。……これで疑問は解消できた?』

「理屈は通っているし、体感もしたから信じないわけにはいかないが……」

 聞けば聞くほど疑問は満ちてくる。中村は肩の力を抜いて芝生の上を歩いてゆく。学生姿や恋人同士、家族連れなんていうのも芝生の上にいるのだから、一人くらい増えても構わないだろう。

 さく、と草を踏み、適当に陽の当たるところに来ると、中村は腰を下ろした。

『あの、いい?』

 それと同時に、アニーが戸惑いながら声を掛けてくる。

「なにも聞いていないのにダメだとは言えないな」

『ん……。あのね、……その……、えっと、』

「なんだよ、歯切れが悪いな」

『……この世界で、征司にやって欲しいことがあるの』

 言葉に沈黙が生まれる。中村は、どう反応すればいいのか分からなかった。

 頭に響いてくる声が、死に往くかのように悲哀で満ちていた。

「、……なんだ?」

『…………物語を、』

 声の狭間に揺れる息遣いは涙の一粒。それを呑み込むようにアニーは深く息を吸う。

『物語を、ぶち壊して欲しいの』

 

     ◇

 

   「Particle  honest」第五章 営業部第二実務係係長 柚原恭子(1)

 

 うーん、まずった。

 っつーか、なんで尾行されてたのかな。つまりそれは私が私だってばれてることなんだよね。早く情報源特定して穴塞がないと、大変なことになる。困るなー、仕事が増えるって。有給取れないじゃん。

 でも分かんないのが相手は素人だったってこと。すぐまいたし。

 分っかんないなー。何がどうなってるんだろ。

 またロシアなのかな? もう嫌だな、あの国。やるならはっきり宣戦布告して欲しいよね。地味っつーか……全力で殴っていいのか分からない状態っていうのが一番辛い。

 あーあ、やだやだ。最近は雪ちゃんもあれに付きっきりだし。あんな男のどこがいーんだか。撃ってやりたくなる。

(中略)

 さて、と。

 これか……、ってか大丈夫なのかなー。

 こんなに分かりやすい潜入形跡ってブラフの可能性もあるわけだよね。

 タンクとかレギュレーターとかダイビングスーツとか。海水浴場じゃないんだしさー、最悪燃やしておいてほしいよね。これじゃあガキの鬼ごっこレベルじゃん。

 いや、でも……ま、いっか。ブラフだったとしても――それはそれで使えるわけだし。

 

     ◇

 

「どういう事だ?」

 中村は疑問そのままを口にしていた。物語をぶち壊してくれ。そう言われても、理由も方法も分からない。

『そのままの意味なの。物語を、跡形もないくらいめちゃくちゃにして』

「だから、そのままの意味って言われてもな、まずそれが分からないんだ。分かるか?」

 中村がそう言うと、今度は沈黙が訪れる。芝生の上を緩い風が吹いていった。

 さっきまでは電話の向こうから聞こえてくるようなノイズが掛かっていた。だが、アニーが沈黙した今、それすらも聞こえない。それは、まるで息を潜めているような。

「……おい」

『ん。だいじょぶ』

 見るからに大丈夫じゃないだろ、と中村は言い掛けたが、そう言って夏緒に殴られたことを思い出す。もっともアニー自身は夏緒ではないし、実際は見えていないので、見るからに、という言葉は間違っているような気がして止めた。

 ふ、っとノイズが浮かび上がってくる。耳の辺りにくすぐったさを感じたから、アニーのノイズは息遣いなのかもしれない。

『あのね、征司はこの世界に来ちゃったのは事故なの。望んできたんじゃないもんね?』

「そうだな。有り体に言えば、引きずり込まれた」

『うん。それでね、多分、現実に戻るにはこの世界を破壊するしかないと思うの』

「……スケールの大きな話だな」

 だけど、と中村は息を継ぐ。

「この世界をぶっ壊す、って言ったな。現実世界に影響はあるのか?」

『…………ん、あのね、ここは中村征司の「Particle  honest」でしょ? だから、征司はこうやって色々想像してるけど……

 アニーの言葉に合わせて中村は周りを見る。手に触れる芝の感覚でさえ、現実のものと寸分違わなかった。

『「Particle  honest」に関する征司の記憶とか先入観はなくなっちゃうと思う。でも、もー一回読めば……変わんないよね?』

「そうだな、と……そう言っていいのか分からんな。もー一回読めばいいと言われても、記憶無くしてもう一回読んでみるまで感想は言えない」

 そう言うと、アニーが『そうだね』と落ち込んだ色で声を返してくる。

 おいどうした、と中村が言う間もなく、次の言葉が来た。

『物語と初めて出会う時ってとっても大事だもんね。……少し、考えていいよ。一時間くらいなら時間をあげられるから』

「――分かった」

 柄にもなく真面目な声音だった。だとしたら、中村の方も真面目さを欠くことは出来ない。

 考えるか、と心の中に呟くと、しかしすぐに一つの問題に突き当たる。

「一つ聞く。もし世界を破壊しなかった場合、……俺は現実に戻れないのか?」

『多分そうだと思う。なにしろこれは稀なケースだから。どうすればいいのか、私もあんまり分からないの』

「……その割には物語を壊せと言う」

『それは……、私の直感だよ。この世界は私の内側でもあるから、なんとなく分かるの』

 私の内側。

 その言葉が強く中村の頭に焼き付く。

「お前が死ぬ、なんてことは……ないよな」

『そんなのあるわけないじゃん。さっきも言ったように、中村征司から見た私はいなくなるけどね』

 聞こえてくる言葉の調子はやけに明るい。無理をしているような堅さや不自然さが滲んでいた。

 なにか隠していることがあるのだろうか。中村は考えるが、しかしなにを隠しているかが分からない。まさか死ぬつもりでもないだろう。

 沸騰し切らない水のようだと思案しながら、中村は風の吹いてくる方向に目をやった。

「それで、仮にこの世界を破壊せず俺が存在し続けた場合、だ。その時は現実に影響を与えるのか?」

『思い切りある、気がする。征司が登場人物として出ちゃったりすると思う。読む度毎に登場人物の動きが変わったりね』

「それは物語を破壊することにはならないのか?」

 中村がそう問うと、アニーが『んー』とあごに人差し指をつける動作で考える。

『細部の変化は破壊にはならないの。それは簡単な物語上の矛盾として、物語の機構が解決しちゃうの』

「それは……そっちでどうにかできないのか?」

『無茶言うねー。せーじは自分の免疫機構を自分の意志で動かせる?』

 そうか、と中村は頷く。

「だから思い切りやれ、ということなのか」

『ぶっちゃけるとそーゆーことだね』

 成程なぁ、と中村は芝生に寝ころんでみる。首や耳に触れるのは間違いなく緑色の芝だ。ちくちくと肌に触れるとかゆくなる。

 ここは現実ではないが……しかし現実でもある、か。鳥の鳴き声も、芝の上で談笑する声も、風の音も本物だ。

 どうしようか、と考えながら、空に右手を突き出して指を折っていく。

 現実に戻るには世界を破壊しなければならない。親指。

 その場合、「Particle  honest」に関する記憶は消滅する。人差し指。

 現実に戻らない、戻れない場合は小説の一登場人物になる。中指。

 この世界を破壊するときは、思い切りやらないとダメだ。薬指。

 と、そこで指を折る動きが止まる。

「……なぁ、物語をぶっ壊すんだろ? でもそれは並大抵のことじゃない。……だったら、どうやるんだ?」

『やる気になった? それじゃー教えちゃおうかなー』

「いや……まぁ、気になることではある」

『「Particle  honest」は、ある事件が根幹にあるの。っていうか、大体の小説が「ある出来事」を中心に組まれてるよね』

「前編しか読んでないからなんとも言えないが、まぁそうだろうな」

 確かにそういう風に書かなければ物語自体にまとまりがなくなる。奇抜さをウリにしたモノ以外は、自然と「ある出来事」を中心にした物語になるはずだ。

Particle  honest」は一人称視点で、夏緒は故意に情報を隠しながら淡々と進行させていたような気がする。前編でも「ある出来事」はあるのだが、それでも後編を読まなければ隠された真実は分からない。

中村はそう思いながら、掲げていた右手に疲れを感じて芝生の上に落とす。

『うん。それでね、もう分かってるかもしれないけど、その「ある出来事」が起こるのを防ぐ、もしくは登場人物達と接触させないようにする。もしくは、登場人物の行動を変化させる――』

「そんなことができるのか」

『できる、というか、やらないとダメだよね』

「具体的には、……どうすればいいんだ?」

『なんか、聞いてる分には征司やる気満々ですっ、って感じだけど。どう? やる気満々?』

「そう言われてもな。確かに現実には戻りたいが……」

 戻りたいが……、できるのだろうか。

「既に決められている――言わば運命のようなモノを、断ち切ることが出来るのか?」

 中村がそう呟くと、それを聞いたのか、アニーがやれやれと溜息を吐いた。

『忘れたの?』

 一息の間をもって、

 

『もう忘れないでね? 想像力は現実を凌駕するということを』

 

「…………、」

『そう、想像力。この世界は征司の想像するがままなんだよ?』

 さっき思い知ったばかりじゃん。

『想像すれば、拳銃も大砲もミサイルも手に入るんだよ? 粒子砲もビームもレールガンもだよ?

 それに、武器だけじゃないよ。

 雨が降ることを想像できれば雨が降る。雪も降るし、風も吹くんだよ? 征司にできないことなんて、……ないんだよ』

 背中を覆うようにしてある芝生が、中村の耳を掻いた。また優しい風が吹く。

『征司は後編を読んでないから、運命がどこへ行くのか知らないんでしょ? だったら好都合。運命を具体的に想像できない今、征司が運命以外のルートを想像すれば、みんなはそっちへ走り出す』

 だから、とアニーが呼びかけるようにして言葉を寄越した。

『もう一回言うよ、できないことなんかない、って。……分かってる? 征司』

「…………あぁ」

 確かに、できないことなどなにも無いのかもしれない。それでも、と中村は思う。

――自分に出来るのだろうか。

「いや、これじゃ――」

 考えた途端に口元に笑みが浮かんだ。これでは、二の舞になるだけだ。

 小説も書けないし、現実にも戻れない、か。

「どうしようもねぇな……」

『征司?』

 どうしたの。疑問の色でアニーが中村に声を掛ける。中村は身体を起こすと空を仰いだ。

「のどが渇いた。自販機か、なかったら喫茶店でお茶を飲むくらいの金はポケットに入ってるよな?」

『大丈夫だよ。でも、……どうかしたの?』

「話したいことと、聞きたいことがある」

 中村はそう言うと、身体に付いた芝を払ってから歩き出した。

 

 学生服のポケットには百円玉が五枚ほど入っている。

歩く度に音を立てる様子と同時に中村がそう考えていると、いつの間にかポケットに重さを感じていた。本当にあるのかどうかを確かめるために一旦それを取り出してみる。大丈夫、いつも財布に入っているのと比べても変化はない。仮にコレがいつもの百円玉と違っていたとしても、この世界で使えることを想像すれば良いだけだ。

 中村は肩で深く息をして、その五枚をポケットに入れた。

「なぁ、お前は「Particle  honest」なんだろ?」

『そうだよ。それが……、どーかしたの?』

「夏緒のこと、どう思ってるんだ?」

『どう、って。どういう?』

 途端にアニーの言葉が曇る。夏緒の話題の時だけ、叱られたかのように萎縮してしまうのは気のせいだろうか。

「夏緒は親のような存在なのか? それとも姉妹とか、親友とか」

『…………』

 泣くまい、と唇を噛んでいる姿が中村の眼前にありありと浮かんでくる。少し荒れた息遣いが、聞いているこちらにも辛い。

『あのね、……今征司が言ったのは、どれも正解なの』

「それは……有り得ないんじゃないか?」

『うん。だから、今の私は、夏緒を親友――あ、戦友、かな。そーゆー存在だと思ってる』

「今の? 昔は違ったということか」

『うん』

 そこでアニーの言葉が止まる。できれば言いたくない、そう訴えるような口調だった。

 どこかに自動販売機でもないかと適当に歩いていく。丁度、さっきの道を戻っていくような足取りになる。

 二歩、三歩と足を動かしても、アニーの声は響いてこない。

 ――なんだかな。

 だが、聞きたいことでもある。中村には分からない、アニーと夏緒にしか分からないことだ。

「なぁ、」

『うん?』

 そう、聞いておきたいことだ。ペン回しに疲れた指を思い出しながら、中村は視線を少しだけ上に向ける。

「俺もな、小説を……書いてるというか、まぁ、その前段階なんだが、物語を考えてるんだ」

『そうなの?』

 聞こえてきたアニーの声は単純に驚きの響きを含んでいる。

「そうなんだ、驚いただろ?」

『うん。すっごく。それで、どんなお話なの?』

 いかにも興味津々で、身を乗り出して話を聞こうとしている風。だが中村は、アスファルトを踏んで風を吹かせるだけだ。

 どんなお話、か。

「おおまかな部分は決まってるんだけどな、分からないんだ」

『分からない……?』

「そう、分からないんだ。今じゃ、なにが分からないのかも分からなくなりそうになってる」

『分からないんだ……』

 アニーは反芻するようにその言葉だけを呟いている。どうかしたのだろうか、と中村は眉をひそめた。

「……それで、少しお前の話を聞きたいんだ。話したくないなら別にいいんだけどな」

『ん、何を聞くの? それによって返事は変わるかも』

 あぁ、と中村は頷くような言葉を返した。

「物語は、作者に「創られる」のか? それとも、そもそもお前みたいなのがいて、姿を文字に「写す」のか?」

『――――』

 息を呑むのどの音が中村の耳の傍で聞こえた。くっ、という子供のような動きのある音だった。

 大通りを適当に歩いても、なぜか自動販売機は見つからない。もしかすると、そう想像してしまっているのだろうか、と中村は考える。

「物語に対して誠実でいろ、とな。これは知り合いの変態が言った言葉なんだが、俺はこれを、自分に正直でいろ、とかそんな風に解釈していた」

 だけど、

「お前に会ってから、どうもこの言葉は「そのままの意味」なんじゃないかと思うようになった。物語に対して誠実でいろ。重い言葉だ」

 中村が言うと、ノイズの残音だけが反響のように戻ってくる。

『あのね、』

 数瞬、息を継ぐような間をつくると、アニーは決心をしたかのように迷いのない口調で言った。

『征司の言葉は正解だよ。元々は私みたいな存在を、征司側の世界に具現させるために用いられるのが小説なの。あ、小説だけじゃないけどね』

 でも、と言葉を呑み込んで、アニーは苦笑いを浮かべる。ような声で言う。

『――っていう考え方もあるよ。ある意味でそれはとても事実に近いんだけど、私はそう思わない』

「やっぱりお前みたいなのがいっぱいいるんだな」

『身も蓋もない言い方するとそうなるね。間違ってないからそれでも別にいいんだけど……』

「できればもう少しまともな言葉遣いで言ってくれ、か? だが、そこに至るまでには俺には知らないことが多すぎるな」

『そうだね、うん。じゃあ……どこから話そうかな』

 顎に指を当てるような雰囲気でアニーが言う。中村は視線を下げないまま、潮風の吹いてくる方へと通りを歩いていく。

 自動販売機はまだ見つからなかった。

 

     ◇ 

 

   「Particle  honest」幕間その二 海軍第八駐屯基地奥海本部 P.P対策室にて

 

 長机の上には今にも雪崩そうな書類の束がうずたかく積まれている。だが、これらの全てが粒子兵器関連の情報であるという訳ではない。なぜなら、例の事件以後、情報の収集範囲が「雪風に関すること」にまで広げられたからだ。

それだけだはない。

 というか、それだけならまだましだ。

 問題は、米露両国が所有するP.Pの動向までにも注目をしなければならなくなったということだ。以前のままでも忙しかったのに、これでは身体が五倍に増えても未だ足りない。

 P.P対策室とは言え、室長を含めてまだ十人にも満たない数だ。それだけの人員でこんなにも大量の仕事が捌けようはずもない。

 こんなことを考えたのはどこのどいつだ。

 間違いなく人間の処理能力を大幅に超えている。

 そもそもP.Pなんてものを開発するからいけないのだ。それを人間に埋め込もうなんて以ての外――論外だ。

 それに、現状をまとめるだけでも一杯一杯なのに、なぜ研究者はどんどんとサンプルや新しい情報を送ってくるのだろうか。勘弁してくれ。っつーか研究を少し休め。

 溜息を吐くだけでも十分な休息に値する。それを考えてまた一つ溜息を吐く。

 そしてそこで気付いた。

 さっきから、レーダーに映ってる影はなんだ?

 

     ◇

 

『想像物、っていうの』

 アニーはその片言から説明を始めた。

『本来、世界は重複してるの。……んーっと、世界の中に二つの空間があると考えてくれたら分かり易いかな。私達の空間からは征司達の空間が見えるけど、逆は出来ないようになってる』

「お前は、つまり、現実世界でも俺達のそばに存在してるっていうことか? 見えないだけで」

『そんな感じ。でも、実際は地球上にはいないんだけどね。人工衛星が飛んでる辺りにふわふわしてるの』

「ファンタジーだな」

『そうかなー、いつもそうだとそーゆー感覚忘れちゃう』

「そんなもんか」

『そうだって。えっと、それでね、征司達の空間を現実と呼ぶのに対して、私達の空間を「想像域」っていうの』

「想像域、ね」

『そう。想像域は地球を中心に存在してて、さらに想像境界線っていうので二つに分かれるの。境界線の内側が地球で、外側は勿論宇宙』

「明確な境界線があるのか? ロープでも張ってあるとか」

『ん、目では見れないかな。記圧の有無が境界線になってるの。記す圧力で記圧ね』

「それで、……お前は記圧の中にいるわけか」

『あ、違う違う。私達は、記圧の外側にしか存在できないの。あ、んーっと、言い忘れてた』

「ん?」

『想像する人のことを、総じて想像者って言うの。たとえば征司もそうだし、「Particle  honest」を書いた夏緒もそう』

「成程」

『記圧っていうのは、想像者のいるところが最大で、一記圧なの。つまりそれは地表だけど。地表から離れれば離れるほど記圧は弱くなって、零記圧になるところに想像境界線がある。それが現実で言うと衛生の低軌道上くらいかな』

 中村は、地球の外側に膜のようなモノがあるのを想像する。膜の辺りには人工衛星が飛んでいるが、触れない。そこを境にして「なにか」が大量にいて、じっと地球の方を見ている。

『想像物っていうのは現実に存在できないの。想像域でしか想像できない。だけど、本当は現実に存在したい。これはもう理屈とかじゃなくて本能に近い想いなの。征司だって食欲も性欲も睡眠欲もあるでしょ?』

「……それはそうだが、」

『それでね、理論上は、想像物は一記圧地点に到達した時点で実存できるようになるの』

「理論上はってことは、」

 うん。とアニーは頷く。

『今まで、どんな想像物も一記圧地点に到達できたことはないの。諸説あるんだけど、元々想像物は記圧に耐えられるようにできてないの』

「へぇ、じゃあもし到達できたらどうなるんだ?」

『例えば「Particle  honest」なら、この世界の前提とかが想像力として現実に還元されると思う。一記圧地点に存在できるというのは、現実に存在できることと同義だから』

 中村は周囲を見回してみる。こんな雰囲気の街があっても悪くはないかもしれない。でも、自動販売機を探すのには手間取りそうだ。

『……でも、たとえそうだとしても、想像物は一記圧地点を目指すの。大記摩擦で身体がバラバラになる仲間達を見たとしてもね』

「シビアな世界だな。みんな自殺願望者か」

『うん。でも、これは原始の話でね。想像者が現れると、少しずつ事情が変わってくるの』

「――待った」

『ん、言うと思った』

「ということはだな、想像者がいるから想像物が生まれた、ってことじゃないんだな」

『そうだよ』

「想像者が、存在しない想像物を想像した場合……、いや、その前に想像者と想像物の関係ってどんなものなんだ?」

『それも聞くと思ったよ。征司って分かり易いねー』

「悪かったな」

 中村が言うと、アニーは軽い笑い声を響かせてきた。『冗談だよ』と。

『んとね、想像者が「想像」すると、その想像の先に存在する想像物と結ばれるの。これは比喩じゃなくて、そのままの意味。想像者と想像物を繋ぐ仮想伝線を想像到達線っていうの』

「存在している空間が違うのにか?」

『うん。それだけは例外だね。ちなみに結論だけ言っちゃうと、想像物は想像者に具体的なイメージを提供して、想像者は自分で想像した新たなイメージを想像物に送ってるの。こう言い切るのはどうかと思うけど、想像者が考えて、想像物が具体化するって感じ』

「それって……想像者にだけ利点があるんじゃないか?」

『そーでもないんだよ。想像物もね、自分が持っていない想像情報を受け取ることで、自分を進化させることが出来るの』

「進化か」

『うん。だいだい当てはまるのが、感情を得て思考を持つ、――頭が良くなる、だね。想像者の知識を受け取ることでもあるから、知識量が激増するの。それに想像物は、情報を自分の身体にフィードバックできるの。実体はないんだけどね。それでも、例えば翼生やしたり』

「それはそれで……。というか、想像物同士で情報交換はしないのか?」

『それもあるけど、伝え聞くのと体感するのでは情報の密度が全然違うから。それに、気取って物語りたがったりするから聞き取りにくいの』

「大変そうだな……」

 アニーの話にはどことなく誇張表現がありそうだが、それでも中村には知り得ないことだ。「本当なのか」と問うわけにもいかず、大人しく聞くことになってしまう。

『うん、大変だよ。それにね、……そう、始まりがあれば終わりもあるんだよね。――想像にも終わりは来るんだよ』

 中村に届く声が急にもの悲しくなる。夏緒の名前を呼ぶときのように、小さくて、空しさを含んだ悲しさに染まる。

「想像到達線だかが、切れるのか?」

『そう』

 えっとね、とアニーが深く吸い込んだ息を吐き出すように言う。

『想像物には三種類あるの、分かったよね?』

「三種類?」

『想像者と未接続な想像物、接続中の想像物、接続が切れた想像物』

「あぁ、まだ接続してない想像物と接続が切れた想像物を分けて数えるのか」

『うん。……あ、言わなかったっけ? 想像到達線は、一度切れたら二度と繋がらないの』

「そうなのか」

『だから、接続中の想像物を「続行せし者」、接続が切れた想像物を「完結せし者」って言うの』

「成程ね。確かに完結した小説のその先を想像することはあるが、それは実際には存在しない」

『ん。そんな感じ』

「……だとしたらやはり、想像物の姿を「写す」ことになるんだな」

『そうだね。想像物のイメージは想像到達線を通じて想像者に渡るけど、でも想像到達線は一記圧地点を通ってるから、そのままの姿で現実に現れることは出来ないの。だから、例えば小説なら文章で表現しなくちゃならないでしょ? そーゆー表現のバイアスが掛かった状態で存在することになる』

 でも、とアニーは言葉を区切った。

『信仰の上で、仮にイメージであるといっても現実に仮存在できたわけだから、それは嬉しいの。

 だから、……想像者は、己の姿を現実に写してくれた存在として崇められるの。まるで神様みたいに。それを読んだり――小説なら、だけど。そーゆー人は、神の使徒みたいな感じだったの」

「……だった。そうか、そういうことだったのか」

『うん。でも今は……。あのね、これは誰にも言わないでね。…………もし覚えてても、夏緒にも言わないでね』

「分かった。できるだけ言わないようにするよ」

『ありがと。「完結せし者」……接続の切れた想像物はね、悟るの。「あぁ、想像者も私と同じだったんだ」って』

「同じ?」

『ん。感じ方は想像物によって違うのかもしれないけど、私はそう思った。

 私だって夏緒だって、相手を助けるみたいに……慈善事業でやってたんじゃなかったから。どっちかが上から目線で見てるとか卑下するとか、ちょっと違うと思ったの。でも、……それに気付けるのは接続が切れたときだけだった』

「…………」

『「続行せし者」だった時は、こんなことを思いもしなかった。周りにいた「完結せし者」こそが間違ってるんだって思ってた。

 夏緒はきっと、私をそんな風に見てなかったと思う。でも私は違った。どこまでも一方的だったの。私は凄く後悔してる。なんであんな風だったんだろう、って。まるで裏切ったみたいだと思って』

 中村は言葉に詰まる。

 言葉の端から滲んでくる悲しさが、偽りではないことを示していた。聞いている中村でさえ心苦しくなる。

『征司も、物語を紡ごうとしてるんだよね』

 唐突に言われ、中村が反応する前にアニーの声が続いた。

『だったらね、自分を信じて、それから浮かんでくるイメージも信じて。そうすれば、きっと大切な一篇の物語が出来上がるから』

 ――信じて。

 ――物語に対して誠実でなくなってしまう。そうなったら……――。

 分かんねぇよ。中村はそう呟いた。

 なりたくてこういう状態になっているわけじゃない。できれば、そう夏緒のように、流れるように小説を書いていきたい。でも、

 それができないのは、物語を信じられないからなのか――。

 中村は、違う、と唇を噛む。痛みよりも理不尽さが身体を駆けめぐった。

 夏緒は、夏緒は――、あれでも自分に責任を持っている。自分のつくった世界に。つまり勿論「Particle  honest」にも。だから厳しい評価でも、それをちゃんと受け止めることが出来ている。

 それができないんだ。中村は考える。

 もし自分の小説に下った批評がそれまでの苦労を粉々に砕くようなモノだとしたら、きっと耐えられない。多分、……文章にした己ではなく、物語そのものに責任を転嫁してしまうだろう。

 それは自分の勇気の無きがゆえの行動であり、物語を信じていないからであり、さらにそれは……物語に対して誠実でない行動だ。

 だが、――本当にそうだとしたのなら、

 勇気を持って、物語を信じ、なによりも物語の真正面に居続けることが出来るなら、

「書けるのかも、しれないのか」

『征司?』

 アニーに名前を呼ばれても中村は応えない。そのまま大きな一歩を踏み出して道を進んでいく。

 前へ。

 もしかすると、ここは試すには最も良い場所ではないのだろうか。ここは現実ではないのだから。

「アニー」

『……へ?』

 中村がアニーの名前を呼ぶと、なぜだか間抜けた返事が返ってくる。一体どうしたんだと言わんばかりの混乱ぶりだ。なにも言葉がないのに、アニーが今どんな仕草をしているのか、ありありと光景が浮かんでくる。

 不敵な主人公のように、口元に笑みを浮かべてみせる。犯人を見つけた探偵のような口調で格好つけて。

「やってみよう。なによりも俺のために、だけどな」

『あ、……え? うん。…………なにが?』

 大丈夫、自動販売機も見つかった。あとはポケットから小銭を出して、投入口へ。

「物語を、ぶっ壊してやるよ」

『あ、……――そっか。そう決めたんだね』

 ああ、と頷いてから、中村は自動販売機を殴りつけた。ゴコン、と足元辺りで曇った音が響く。

 勇気を出して、信じて、物語を見つめ続けることが出来たなら、小説を書くことが出来る。そんな気がした。

 だから、

「勇気を出して、信じて、物語を見つめ続けるってこと。――それが出来るってことをここで確かめる」

 中村は世界に響くように、小さく呟いた。

 

     ◇

 

 押川夏緒は執筆室に向かっていた。それは、あのまま部室にいるのも恥ずかしいし、一通りの作業が終わったことをみんなにも知らせたいと思った、という二つの理由からだった。

 図書館の外はもう随分と薄暗い。それでも時計を見て、もうこんな時間かと驚いた。昼下がりの暖かさもそうだが、時折、思ってもいないところで春を感じる。

 丁度良かったかなー、なんて。

 夏緒は自分でそう考える。読む側のみんなには申し訳ないけれど、私としては定期テスト前に終わったのは嬉しい。期末テストではないといえ、高校のテストの難しさは一年のことに十分味わった。赤点にならないだけでも一苦労なのだ。

 そう。そう考えると、勉強ももうそろそろ始めた方がいいのかもしれないが、今は未だ征司の方が――というか、「Particle  honest」の方がまだまだ気になる。

 どーだろなー。

 心の中で呟く言葉も柔らかくしておくが、その実内心はすごくどきどきしてる。今だって、緊張の余り地に足が付いていない。転んでも気付かないかもしれない。

 いかんいかん。夏緒は両の手で自分の頬を叩く。手加減ができていなくて思いっ切りの衝撃がきたが、そのお陰で少し目が覚める。

「はー……」

 肩を落として落ち着いて。そして夏緒は扉を開ける。

 そこはもう執筆室だ。

 長机が三本並べてある。だがそれは四つの長机を横に並べたものを、なので、実際は机が一二もある。かなり広い。

 現在机に向かっているのは六人程。本を読んでいるだけ、という人間もいるが、そうだとしても出席率はなかなかのものだろう。

 夏緒が扉を閉めても、その存在に気付く素振りを見せる者はいない。少なくともそれだけ集中しているということだ。

 みんな、すごいんだよねー……。

 自分にはこんな真似は出来ない。自分では集中しているつもりでも、なにかと周囲が気になってしまう。それこそ、いつも以上に。さっきだってそうだった。推敲で、赤ペンで軽い修正を入れるだけだと思っていたのに、征司が来てからは征司が気になって気になって仕方がなかった。

 出来るだけ音を立てないように、と夏緒はこっそりと歩いていく。扉から一番近い椅子を引いて、そこに座る。

 きし、と霞むような音でさえ、静謐に満ちたこの部屋の中では大音量に聞こえてしまう。

 ――来たけど、話し掛けられないよね……。

 全力で疾走している人の前に飛び出て走りを阻害するようなことはしたくないし、できない。そもそも、私もそーゆーのをやられたら嫌なんだから、と夏緒は思案する。

 は、と長く息を吐いて溜息。それも、できるだけこっそりと。

 鉛筆やシャープペンで文字を書き記す音が聞こえる度に感じる、自分の中から消えていく書き終えたことに対する興奮。

 それと反比例するように沸き上がってくる感情は、物語に対する申し訳なさだ。

 その二つが天秤の両の皿のように浮き沈みするのはいつものことだ。が、

 辛いなぁ……。

 夏緒はいつも、「もっとやれたのではないか」という気持ちに追いかけられ続けている。今だってそうだ。

 ――自分は物語に妥協したのではないか? ――もっと力を、想いを込めることが出来たのではないか? ――……私は、物語を、「あるべき物語のカタチ」にしてやれなかったのではないか? ――私に書かれなかった方が、……良かったのではないか。

 囁くように呟く疑念は、ずっと耳元にいる。

 だから、と夏緒は考える。

 だから、自分は他人以上に頑張っているつもり。他人よりも速く、量をこなせば疑念を打ち砕ける日が来ると、そう信じてやって来た。

 でも、物語を書き終え、その分だけ力のついた腕で疑念を殴ろうとすると、まるで殴れない。霧に映った幻影でも相手にしているかのように。それどころか、呟く言葉はますます重くなる。

 それを解消するために、もっと速く書く。小説を一篇書く毎に、確かな技術の向上が感じられる。今度こそ大丈夫だろうと殴ってみると、やっぱり当たらない。

 ――そんなことをするためにお前は一つの物語を食い潰したんだ。

 そんな声が耳元から聞こえてくる。

 私は、一体なんのために物語を紡いでいるんだろう。

 少しずつ、分からなくなっていた。

 夏緒は机に伏せる。両腕で顔を隠すようにすると、髪型が乱れる感覚が薄く伝わってきた。

 ……嫌だなぁ。

 書いているときは楽しい。それは間違いない。

 でも書く動機が不純だし、書いた後は……酷い喪失感と疲労感に包まれる。今のように。

 額を、こつ、と机につけた。やっぱりそこからも文字を書くリズムが聞こえてきていた。

 思い出す。以前、本屋部長に言われたことがある。

「んー、なんつーかさぁ……。夏緒お前、楽しそうだよな。楽しそうだけどなんか……嫌なことを忘れるために書いてる、というか。……彼氏にフられたりなんかした?」

 恋人などいない。

 大声でそう反論した。その話題は笑い声で流されていったが、いつもどこかでこの言葉が引っかかるようになった。

 やっぱり、

「私は物語を書くために物語を書いているのではない」のだろうか。

 それはあくまでも個人的な見解に過ぎないけれど、なんだかいけないような気がしてたまらない。

 いつも耳元にいる疑念が呟くように、心の底からふっと浮き上がってくる悲しみが訴えるように。

 私はなんのために物語を書けばいいんだろうか。

 物語を書き続ければ分かる日が来るのだろうか。

 なんか、いやだな。

 

 まだみんなは自分のすべきことをこなしている。机から伝わってくる細かい振動や、本のページをめくる音が聞こえてくる。

 ふと、征司に渡した原稿のことが気になった。

 ――征司は今、どんな風に読んでるんだろ。

 分かるはずもないか、と夏緒は机に俯せたまま一人で笑った。

 

     ◇

 

「なぁ、ってことは結局、ここは……、あー、想像域だっけ? そーゆーとこなのか?」

 中村はおしるこの缶を右手左手に持ちかえて冷ましている。大分冷めたが、それでもかなり熱い。

 ここまで来て気付かない方もどうかと思うのだが、やっぱりこの世界はおかしい。なぜ自動販売機の商品が全ておしるこなのだろうか。無意識の内にそんなにおしるこを望んでいたのだろうか。しかしそれにしても、つめた〜いおしるこが存在するというのはなにか間違っているような気がする。

『んー、ここは想像域じゃないよ。そもそも想像空間じゃないと思う』

「だとしたらここはどこなんだ? さっきの話を聞いた限りじゃ、こんな場所は存在しないよな?」

『そうだね。んー……』

 悩むように腕を組んで首を傾げる。アニーはそのまま五秒ほど呻いていると、急に言葉を降ろしてきた。

『想像者と想像物は想像到達線で繋がってるよね? 現実世界に想像物の姿を仮転写したのが小説とかなんだけど、文字っていう縛りがあるから――っていうか一記圧地点を通るから、情報が薄まってるでしょ?』

「小説ならそうだろうな。漫画ならビジュアルイメージがあるから情報が少しは多いけど」

『そうそう。で、ここなんだけど……』

 断定はできないんだけど、と自信なさげに前置いて、アニーが言う。

『なにかの弾みで途絶えた想像到達線が繋がっちゃったんだと思う。それも、想像者である夏緒じゃなくて私の写し身である原稿に。

そもそもそれ自体が有り得ないことなんだけど、それに征司が触れた結果、……原液とも言える情報に呑み込まれて、無理に物語が再現されたんだよね、きっと。ここは多分征司の頭の中なんじゃないかな』

そこまで言うと、また確認するような間合いを取ってからアニーが腕を組んだ。ような姿が目に浮かぶ。

『「Particle  honest」の原稿を媒介にして、征司と想像到達線で繋がっちゃったっていうのが正しいような気がするけど……。あ、でも征司が想像したんじゃないから、逆想像到達線って言うのかな』

「でも想像到達線には変わりないんだったら」

 と、左手で投げたおしるこを右手で受け取りながら中村は考える。

『想像物である私と、受動的な想像者である征司が情報を共有してる状態、かな』

「やっぱりそうか」

 やっと飲めるような熱さになってきただろうかと中村は思ったが、実際に口に入れるともっと熱いのではないかという疑念が、おしるこのフタを開けるのを阻止した。

 しかし、と中村は思う。

「色々謎は多いんだが……、お前は想像物の中でも異様な存在だというのは理解できた」

『……異様な存在って?』

 む、と両頬を膨らませるようにしてアニーが言う。

「お前の話が全て正しいとした上で言うとな。まず、二度と繋がらないはずの想像到達線が再び繋がったこと。たとえ本来の想像者でなくてもな」

 それに、

「俺が「行った」のかお前が「来た」のかは分からないが、どちらにしろ俺は今「Particle  honest」っていう情報そのままの場所にいるわけだろ? これは一記圧地点を越えたことにはならないのか?」

『確かに、一記圧地点で情報が制限されるっていう概念は吹き飛んでるね。でも、それはここでのことだから。現実でも想像空間でもないこの場所で、そんな抜け穴みたいなことを見つけたって、想像物が――私が現実に到達できるってことじゃないよ』

 そういうことを言いたかったわけじゃないんだけどな。言葉を押さえ込んで中村は頭を掻いた。

「そうだな。でも……、実存力が他の想像物よりも抜きん出てるってことだろ? 他の想像物はこんなことはできない」

『……そうだね。実存力があるかどうかは別にして、とりあえず他の想像物にはこんなことできないね』

「そこまで能力のあるお前が、……いや、他の想像物にも言えることなんだが、何故、自分の姿を……自分の物語を自分自身で変化させないんだ?」

 中村がそう言うと、アニーが悲しげに眉を落として問うてくる。

『それは、自殺しろ、っていうことなの……?』

 言葉に詰まる。そんな風に解釈されるとは思ってもいなかった。

「あ、いや、そうじゃなくてな……」

『あのね、征司。想像物にとっても生命にとっても、身体って大事なものなんだよ? 征司は気に入らないからっていう理由だけで、自分の腕を引きちぎったりしないでしょ?』

「それは、……そうだが」

『それにね、気に入らないなんて事はないの。想像物は、想像物自身と想像者とで創るモノだから』

 アニーはそう言って緩やかな潮風を吹かせた。自動販売機を探している内に、随分と海の方へと来てしまったらしい。

「そうか、そうだな」

『そうだよ』

 

 中村はおしるこのプルを引いてフタを開ける。缶独特の甘い匂いが漂ってきた。

「というか、おしるこでのどを潤すなんて出来ないような気がするんだが。自販機におしるこしか無かったってのも、なにかの……夏緒の伏線なのか?」

『さぁ、どうなんだろ』

「白々しいな」

 中村が言うと、アニーはむっ、とさせてから言葉を投げてくる。

『だったら想像して飲めばいいじゃん。これはおしるこのあまーい匂いがするけれど、実は炭酸飲料だって』

「それも嫌な飲み物だな……」

 アニーの言葉通りの飲み物を想像してみると、世にも不味い炭酸飲料が出来上がった。これは飲めないぞ。

『そんな事言うなら自分で好きなように想像してよ』

 膨れっ面のままアニーが言ってくる。仕方ない、と中村は半ば諦めて、飲むことが可能なものを想像する。

 そうだ。これは……これは、あったかい緑茶だ。おしることお茶は同時に出されるから、甘ったるい匂いがあっても気にならないだろう。そう、これは緑茶だ。しかも、宇治の玉露。

 そこまで考えておしるこの缶を口元へ運ぶ。中村はそれを一気に飲むと、八割ほど吹き出した。

「おしるこじゃねぇか!」

『おしるこだね』

 むせんでいる中村に対して、アニーは至極冷静だ。それは、きっとこの状況を予想していたからなのだろう。

 中村は口元を拭うと周りを見た。幸いここにはあまり人がいないようだ。突然おしるこを口から吐き出して、「おしるこじゃねぇか!」ともっともな事を言いながら苦しんでいるという奇態を誰かに見られずに済んだ。

「……俺はお茶だって想像したんだけどな」

『うん。……でも、出来なかった。征司には何故か分かる?』

 突然にアニーが聞いてくる。不意の質問だったので答えられず、中村は咳を一つしただけだった。どうやら小豆がのどの奥をくすぐっている。

『あのね、これは誰だってそうなんだけれど、……完全な想像力を持つ人間なんていないよね?』

「は?」

『完全な想像力、征司にはある?』

「いや、……そもそも完全な想像力ってなんだ?」

 聞いたこともない単語だ。そもそも想像力に完全もなにもあるのだろうか。中村は息を整えながら考える。

『杞憂って言う言葉は知ってる? あることないことを心配すること』

「中国の杞の国……だっけか? その国の人が、たしか空が崩れ落ちてくることを憂えていた、と。元はそんな話だったか?」

『そうそう。よく知ってるね。

 それで話は元に戻るんだけど、完全な想像力って、そーゆー事なの』

 アニーは平然とそう続ける。

『次の瞬間になにが起こるかを想像し続ける……。今地震が起こったら? この近くで核弾頭が炸裂したら? 通行人が急に怒り出したり、突然笑い出したりしたら? そーゆー突拍子もないことを想像することができる力を、完全な想像力っていうんじゃないのかな』

 アニーの言葉を聞きながら、中村は残りのおしるこを飲む。やはりこれはおしるこだ。

『想像力は現実を凌駕する。でも、そこに至るには現実を乗り越える意志がいるの。

 征司はきっとプルを引き起こしたときから……、いえ、おしるこを手に取ったときから、それはおしるこなんだと実感してしまっていたはず。小豆の甘い匂い、パッケージの文字、缶から伝わってくるスープ特有の粘りのある温かさ、成分表示の隅々までもが、これをおしるこだと征司に訴えていた。

 征司はそれをお茶だと思って飲んだと思うけれど、変えられなかった。それは……征司の想像力が、世界から得ている現実感に負けてしまったから』

「…………」

 中村は口の中に小豆を感じた。それを噛んでから、アニーの言葉も呑み込む。

「例の……街中にぶどうの果樹園は無い、ってやつか?」

『うーん。そう、……だね。それも少し関係してくるかも。こーゆー都会の真ん中に、なんの脈絡もなくぶどうの果樹園は存在しない。でも、それを、――常に空が落ちてくることを想像できるように、ありえないことであっても容易く想像できるのなら……』

「できるなら?」

『世界は征司の思うがままに』

 一旦の間を置いて伝わってきたアニーの言葉を聞くと、中村は頭を掻いた。

「……なんつーか、小悪党に世界征服をそそのかされてるような気分になってきた」

『もしかして、私って小悪党に見えるほど威厳無い?』

 中村の言葉にショックを受けたような表情になる。ような声でアニーが言った。

「いや、でも、……少しは分かったような気がする」

 アニーの声を素通りし、中村は視線を上げつつアニーに言う。

「つまり、このおしるこみたいに、もう確実におしるこだ、って時は想像力も通用しないんだろ?」

『そうだけど……』

「なんだ、この解釈で間違ってるか?」

『えっと、そうじゃなくてさ。征司の考え方だと、おしるこだ、って実感した時点で、もうおしるこを飲むって諦めるしかないよね』

「あぁ、そうだな」

『そうじゃなくて、もっと想像力を活用しなきゃ。色々な要因があるからおしるこだって思うのなら、ちょっとずつでもいいからそれを無くしていけばいい。匂いだけでも、パッケージだけでも』

「いや、それは、……できるのか?」

『やってみればいいじゃん。丁度おしるこ持ってるし』

 言われて、中村は右手に握ったおしるこを見る。

 全体的に小豆色だ。大きく「おしるこ」と女の子のような癖字があり、その背景は写真で小豆。どこまでも小豆で押してくる。おしるこなのだから仕方ないとはいえ、こんなにくどいアピールをするものだろうか。

 ちなみに原材料は遺伝子組み換えでないらしい。

「じゃあ、まずはパッケージからにするか。視覚は簡単そうだ」

『そうだね。コツとしては、具体的なそのものを想像すること、かな。征司の想像を世界にフィードバックするのは私だから、想像があまりにも抽象的だとフィードバックができないの』

「そうだな、確かにお前が情報を受け取らないと世界は変化しない」

『うん。それと、変化を見ない方が簡単かもしれないよ。目を閉じている間に想像するとか、缶を見えない場所に置いてから想像するとか』

「目を開けたまま想像するとなにか不都合があるのか?」

『ないけど……それじゃあ、最初だし好きにやってみて』

 アニーが砂利を噛むように言う。中村は理由を聞くべきだろうかと思案したが、やってみてと言われたので、まずは右手に集中することにする。なにか事情があるのならば、また缶を元に戻せばいいだろう。

 右手に握ったおしるこの缶を見る。

 まずは別の色を想像してみるか。中村はそう考える。お茶に近づけるためには……、緑色。

 ハリウッド映画で、超能力者が水を凍らせるような場面があったはずだ。触れたところから徐々に白くなっていくような場面が。そんな風に変えていくのが簡単だろう。一から想像するよりも、なにかを応用した方が想像は容易い。

「エンドウ…………」

 そう、これは小豆じゃなくてエンドウ豆だ。緑色でも仕方がないぞ。

 中村は微かに呟きながら、缶を見る。

 手元から段々と緑に。緑で塗りつぶすのではない。あくまでも、全体の小豆色が緑色に変わるだけだ。

 お茶の葉を連想させるような、柔らかい緑に。手元から、少しずつ。

 変わっていけ……!

 中村はただただ右手に持つおしるこの缶のみを凝視する。自然と力も加わる。

「…………お?」

 力を入れすぎて、すこしだけへこんだ部分から緑色が染みてくる。

「すげぇな」

『自分でやったくせに……』

 そうなれば後はもう勝手に緑色が行き渡る。数秒もしない内に缶が緑色になった。パッケージの小豆もエンドウ豆に見える。

「いや、そりゃ驚くだろ? 自分でやったっていう実感もないぞ」

『そうかな?』

 アニーの疑問符に中村はそうだって、と返す。そして右手に収まる緑色の缶を見た。

『でも、征司って想像力豊かだよね。そのものを見ながら変化させちゃったわけだから』

「そりゃどうも。でも、こんなことが出来たってこの世界では全く意味がないんだろ? ものの色を塗り替えただけで世界が滅びるわけでもあるまいし」

 中村はそう言ってから右手に握ったものを口元へと運んだ。緑色になって少しでもお茶に近づくと思ったが、不気味になっただけだった。飲むのには躊躇していたが、味を確かめないわけにはいかないだろう。

 アニーは中村の声を聞いたのか、うーん、と唸っている。

『それはそうだけど……。でも、これが出来なきゃなにもできないよ? 武装した集団相手に普通の装備で立ち向かうなんてできないじゃん』

「おおっ?」

『なに? 一応話は聞いて欲しいんだけどなー』

「おい、お茶になってるぞ」

 

 中村はアニーにそう告げながら、口の中に広がる味を確かめる。間違いなくお茶だ。

 どうなってる、と考えながら缶を見ると、中村がいつも買っている緑茶のパッケージに変化していた。

「あれ……?」

『一気に想像したんだ。それとも無意識の内にその「緑茶」だと思った?』

「いや、それは、……まだそこまでは想像してないぞ」

 よく分からない。

 なにも想像していないのに銃が落ちているし、かと思えばおしるこを買ってしまう。おしるこが緑茶になっていると思ったらなっていなくて、まだおしるこのままだと思いながら飲んだら今は緑茶だ。

 想像が反映される空間ではなかったのだろうか。これだけ制御できないのなら、想像など役に立たないのではないか。

『えっとね、……今ので、おしるこで分かってもらいたかったことが二つあるの』

「二つ?」

 中村は鼻から新茶の匂いが抜けていくのを感じながら言う。おしるこを飲んだお陰で渇いていたのどが潤された。

『そう。一つ目は、物語に――この世界に新たになにかを登場させるには、既に存在している現実感を越える想像力を持たなければならないこと』

「それは理解したつもりだ。だから少しずつ夏緒の現実感を切り崩していくしかないんだろ? さっきやったように」

『うん。それは私もちゃんと説明したもんね。分かってくれなきゃ困るよ』

「分かってるから安心しとけ。それで二つ目ってなんだ?」

 中村はもう一度お茶を飲む。草原で風が吹いているような懐かしい味だ。

『えーっとね、それは無意識の想像。意識していなくても、征司は想像し続けている、っていうこと』

「それはそうだな。さっきの路地に落ちていた銃もだろ? おしるこがお茶になったのも」

『そうだね。銃は私が征司の想像力を誘導したから世界に表現されたんだけど、おしるこは違うよね?』

「そうだな、なんでこれがお茶になったか俺には分からない」

 言いながら、中村は右手に持った緑茶の缶を見る。さっきまでは不気味なエンドウ豆が「あったか〜い、おしるこ」という字と共にパッケージを構成していたはずだ。その段階では、確かにぱっと見はお茶に見えるかもしれないが、中身はまだおしるこだ。なにより自分自身でおしるこだと認識していた。

 それなのに中身がお茶になっていたということは、

『もしかして、って思うんだけどさ、そのお茶のデザイン、良くできてるよね』

「これか? そうだな、俺がよく飲むやつだ」

『やっぱり』

 そう言われて中村は腕を組む。アニーにはなぜお茶になったかが分かったのだ、と。

「なにがやっぱり、なんだ?」

『あのね、征司はそのお茶を変化させたときに、驚いてた割にはちらっと見ただけだったよね? 私が話し掛けたっていうのもあるんだけど』

「そうだな。驚いて、まぁ、そのままだ」

『そうなんだよね。だから、そのちらっと見たときに目に入った緑色のパッケージが、いつも征司が飲んでいるお茶のデザインによく似ていた。征司自身は意識していなかったけど、無意識下ではそれがお茶であるとイメージしたんだと思う』

「……それで、それがお前に伝わってフィードバックされた?」

 中村の言葉にアニーは頷く。ような声を降ろしてくる。

「成程。だが、それはまずいのか? おしるこがお茶になるような変化は歓迎するんだが」

『大問題だよ。だって、……例えばさ、征司が武装集団に襲われたとするじゃん? 征司は逃げ続けるんだけど、むこうは容赦なく銃を撃ち続けてる。自動小銃でフルオートだよ、弾が尽きるまで終わらない。そんな中征司は逃げていくんだけど、ちゃんと弾を除けてるのに、無意識下で当たったんじゃないか、って感じるだけで征司の身体には銃創が出来ちゃうんだよ』

「いや……それは前提がおかしくないか? もしかしてそういうシナリオがあるのか?」

 中村は言ってからお茶を全て飲み干す。缶の中身は完全に空になった。

『もしもの話だから。でも、私の言いたいことは分かるよね?』

「あぁ、でもそんな状況になったら、……いや、そもそもこの世界で俺が死んだら、どうなるんだ?」

 中村は慌ててアニーに問う。アニーの言葉を聞くまで、自分が死ぬという可能性について考えもしなかったということに気付く。

『うーん。死ぬんじゃないかな?』

「……無事では済まないようだな」

 頭を掻きながら空を見上げる。あまりにも他人事のように言われ、中村は少しばかりだが自分のことが心配になってくる。

『でも、仮に死にそうになったら、「大召喚、レヴァイアサン!」って叫んだらいいんじゃない?』

「限りなく意味が分からねぇ。それでなにか解決するのか?」

『最悪、レヴァイアサンが召喚されることによって物語は崩壊するよね』

 アニーはさらっとそんなことを言う。瞬間だけ絶句した中村は、直後に言葉を取り戻して呟いていた。

「…………最初からそうすればいいんじゃないのか?」

 

『え?』

「いや、だからさ、最初から「大召喚、レヴァイアサン!」しといたらいいんじゃないのか?」

 人通りが少ないとは言え、道の真ん中で「大召喚、レヴァイアサン!」と叫ぶのには抵抗を覚える。だが、中村はあまりの理不尽さに我を忘れて大召喚していた。

『だめだよ、それはだめ』

「どうして?」

『どうして、って。少なくとも、この「Particle  honest」は夏緒のものなの。今はまだ、ね』

 だから、とアニーは言葉を置いて、中村に語りかけてくる。

『征司の想像は「Particle  honest」には作用しないの』

「それは、……どういうことだ?」

Particle  honest」には作用しない? 今まで想像してきたのは一体何なんだったんだ?

『つまり、想像のみでの「Particle  honest」の破壊はできない、っていうこと。たとえば――

 征司がここで――「Particle  honest」内で活動することも、大雑把に言えば、想像してる、ってことになるの。

 そしてそれが受動的想像者として最も力の強い想像。想像即ち征司の行動だからね。

 そして、征司が頭の中で想像することも――想像だね。意味的にはこっちの方が正しいんだけど。

 それでもこれは征司自身の行動程に力を持たないの。

 だって――、

『夏緒が作り上げた物語に対応できるほどの想像、征司には出来る?』

「――無理だな」

 中村は言葉をそのままに返す。容易く至れるほど、素人と経験者の間に存在する壁は薄くない。それは分かっていた。

『……それに、私を経由しない方が、物語に直接的な影響を与えることが出来るの』

「成程。だから想像による云々よりも、自分自身で行動した方が強い影響を保つ、か」

『そうだよ。それに、その問題がなかったとしても――』

 そう前置いてから、アニーは潮風と共に言葉を響かせる。

『征司は大召喚できるの?』

 確かに、言われてみればレヴァイアサンの姿形も分からないし、どのように召喚されるのかも全く想像が付かない。

「……すぐには出来ないと思うが、でもな、それでも時間をかけてレヴァイアサンを練り上げれば、実際に召喚させられるところまでいくんじゃないのか?」

『でも、そんなに時間はないんだよ? 一定の時間内で物語は完結しようとしてる。征司は、その時間内に、ちゃんとしたレヴァイアサンを想像できるの?』

「今も、……こうして話してる時間も?」

『うん。だからさっき街で登場人物がいたんじゃん。少なくとも、それだけは時間が経っていると言うことだよ』

 さっき見かけた白衣姿とスーツ姿。確かにあの男女はそれぞれ物語の登場人物だろう。「Particle  honest」の前編を読み、自分の中で想像していた人物そのままの姿が街中を歩いていたという印象は強烈だった。中村はそれをしっかりと覚えている。

「あとどれくらい時間は残ってるんだ?」

『大丈夫。まだ「根幹を形成する事件」は起こってないよ。……でも、大召喚を想像してる時間は無いと思う。さっきのおしるこのパッケージを想像するスピードじゃ、きっと遅すぎるの』

 その通りかもしれない。中村は溜息を吐いて思案する。

 想像するのが遅い、か。

「そうだな、そうかもしれない」

 中村は呟きながら右手の空き缶に力を込める。少しだけ缶のへこむ音がした。

『あ……えっと、だから、いい? とりあえず天災や――そーゆー想像によって物語を崩壊へ導くのは難しいし、なにより私自身が嫌なの。だから、それ以外の方法を考えなきゃならない』

 こちらの行動を感じたのか、アニーが寸刻だけ戸惑って、それから言葉を降ろしてきた。

 

「話を元に戻すか。それで、……仮にそういう――武装集団に追いかけられるような状況になったら、どうすればいいんだ?」

『一番いいのはそーゆー状況にならないことなんだけどね。でも、もしそうなっちゃったなら……逃げるのが一番だね』

「逃げる、って、どこに逃げるんだ?」

『相手が追って来られないような所に逃げるんだよ、征司』

 アニーが不敵に微笑みながら中村に語りかける。そんな声が耳に届く。

「漠然とし過ぎてて分からないな。固定された場所なのか? どこかの建物とか、道とか。それとも人がたくさんいるところ、みたいに流動的な空間か? どっちにしろ見当も付かないな。ヒントは?」

『うーん、両方にあてはまるけど、どちらかと言えば後者だね。ヒントは想像力』

 想像力、か。

 中村は空き缶を右手左手と遊びながら一人呟く。

「すごく曖昧なんだけどさ、……たとえば、どこかの建物に入るとするだろ? それで、俺が入った瞬間に入り口を閉じてしまえばいい。手段とかはかなり不明確だけどな。こんな感じだろ」

『ん、……大体そんな感じ。だから場所として言えば、征司の想像しやすい所ってことになるね。地理的に定義は出来ないからはっきりとは言えないけれど、でも征司の想像しやすい場所ってあるでしょ?』

 想像しやすい場所か。かなり乱暴な言い方だけど、たしかになにもない草原よりは、込み入った路地の方がなにかと想像しやすいかもしれない。雑然と並べられた物を使っての想像が出来るからだ。中村はそう考えながら潮風を背に受ける。

「それはあるかもしれないな。……だけど、どうなんだ?」

『どうなんだ、って。なにが?』

「いや、「もしも」の話だとは分かっているんだが、それでもなにが起こるか分からないと、震えるもんだな」

 ましてや、物語そのものであるアニーから武装集団云々という話を聞いたのだ。これで怖がらずにいられるはずがないと中村は思う。

 自分が敗北することが微かに脳裏に映る。はっきりと想像する前に気を紛らわしてはいるのだが、それが気になって仕方がない。

「なぁ、話の内容は教えてくれないのか?」

『ダメだよ。さっきも言ったと思うけど、征司は「Particle  honest」がどんな結末を迎えるかを知らないから、物語の内容でさえも想像によって変化させられるの。それを知ってしまったら、征司はきっと想像せずにはいられない。それは、「Particle  honest」が「Particle  honest」として結末を迎えてしまうっていうことだから、ダメ』

 小さな子供のようにあどけなく言葉が響いてくる。中村は首を竦めると、自動販売機の横に置いてあるゴミ箱に空き缶を捨てた。その自販機には、ちゃんと様々な商品が並べられていた。

「そうか、……まぁ、なるようになるかな」

『うん。なるようになるって。征司なら大丈夫』

 アニーの言葉に中村は苦笑いする。いつもそんな言葉を夏緒にもらっていたような気がする、と、今更に思い出した。

 

     ◇

 

 あの人はきっとあそこにいる。

 私は他の誰ともと同じように、あなたのことをずっと見ていました。

 あなたにあこがれていました。

 他の誰かよりあなたは素晴らしい。

 他のなにかよりもあなたは美しい。

 信じて下さい。ずっとそう思っていたのです。

 ただ、あの日、あの時、少しだけ怖くなったのです。。

 知りたかった。

 あなたのことを――。

 

     ◇

 

   「Particle  honest」第三章 元実験用素体 朝倉紗江子(3)

 

 柚原さんが電話の相手にキレて受話器を銃撃した。危ない。

 というか、あの人は一体何を考えてるんだろう。受話器を撃つなんて八つ当たりにも程がある。

 今日の柚原さんは機嫌が悪かった。

 テレビの占いで最下位だったことを夏目君に八つ当たりしながら、書類の不備があったことを夏目君に八つ当たりした。工作員の侵入形跡を発見できなかったことを夏目君に八つ当たりして、そのまま丙種警戒令が出たことを夏目君に八つ当たりした。

 夏目君はその時点で「買い出しに行ってきマース」と逃走したけれど、きっとそれは好判断だった。良かったね、代わりに受話器が撃たれたよ。

 ボクと美紀は撃たれないから大丈夫なんだけど、他のみんなは戦々恐々の様子だった。確かに、仮に他人事だったとしても柚原さんの八つ当たりは見ていて怖い。

――あ、

そんな事を考えてる間に柚原さんが帰ってきた。なんだか雰囲気が重くなる。

おかしいなぁ、さっき「気分転換にメシ食いに行ってくる」って言ってたんだけど。まだ三分しか経ってない。どんな時間の使い方をしたんだろう。音速超過でメシ食ってきたのかな。

と、柚原さんがボクの方に近づいてきた。不機嫌そうに眉をしかめたままボクの隣に立つ。

「さえ、あのさ、……奥海に陸軍の特殊部隊って配備されてるっけ? あー……実働みたいなのじゃなくてさ、諜報の」

「えーっと……ありますけど。どうかしたんですか?」

「まーね。どーしよっかなぁー……」

「あ、そういえば、」

「ん?」

「防衛省のお役人がまた電話してきましたよ。柚原さんは今外に出てるって言ったら電話切れましたけど」

「…………マジ?」

 

     ◇

 

「基本的には、」

見たこともない光景を知っている。そんなデジャヴュじみた感覚に中村は慣れ始めていたが、それでもまだ身体のどこかで持て余すような不自由さを覚えることがあった。

「「Particle  Parade」ってどんな話なんだ?」

『あれ? 征司って「Particle  Parade」を読んだこと無い?』

「言ってなかったか? 俺は「Particle  honest」の前編しか読んだことがないんだ」

 ふーん、と意味のない感心を得たようなあいづちを寄越しながら、アニーが気付いたように言葉を降ろす。

『じゃあ、この景色ってなーんにも前置きがない状態での、完全な「Particle  honest」なの?』

「「Particle  honest」しか読んだことがないからそうなる。多少「Particle  Parade」の話も聞いたが、「Particle  honest」の世界観を左右するほどの印象は無かった気がするな」

 しかし逆に言えば、それは「Particle  honest」と「Particle  Parade」の世界観が合致しているということなのだろう。ただ、夏緒自身から聞いた話なので、ある意味で同じ印象を受けるというのは必然なのかもしれない。

『そっかぁ、これが「Particle  honest」か……

「夏緒本来のと比べて、……似てるのか?」

『ふふ、それは言わないことにする』

 嬉しさを抱きしめるようにアニーが声音を震わせる。柔らかい日差しが風と交わった。

 そのままいくつか歩を踏んで、溢れそうなほどの喜びに浸るアニーが言葉を降ろしてこないのに中村は気付き、頭を掻いた。

「それで、どうなんだ?」

『なにが?』

 なにがそこまで嬉しかったのかは分からないが、幸福の余り記憶が消滅したらしい。中村は上目で空を睨んで言葉を作る。

「だからさ、「Particle  Parade」のこと。どんな物語なんだ?」

『あ、えっとね。私は本人程には知らないんだけど、』

 そう前置いて言う。本人、というのは恐らく「Particle  Parade」のことだろう。

『「Particle  Parade」っていうのは、そもそもは兵器の名前なの』

「それは知ってる。あの……ナントカ粒子兵器のことだろ? 作品の中ではP.Pって略されてたか」

『反粒子兵器ね。説明はもう面倒だから適当に言っちゃうけど、なんかスゴイの』

 ズガーンというよく分からない擬音付きでアニーが光景を映し出す。「Particle  honest」中でもその兵器は登場しているので、中村も多少は理解しているつもりだ。

「それで、その兵器が雪風って奴に搭載されてる。理由は知らん。……で、ロシアが攻めてくるんだったな」

『すごい勢いで省略してるね。大体合ってるよ』

「で、そこからが分からない。アメリカがマジギレして参戦してくるんだったか?」

『アメリカは楽しそうに参戦してくるよ。えっとね、ロシアは反粒子兵器とその関連情報を狙ってくるの。世界情勢が相当ひっ迫してたんだろうね』

「実力行使に出るくらいだからな。それとも、……日本で戦闘を起こすことに意味があったのか――」

『どーだろ。でもロシアは若干軍事反乱入ってたし……まぁ、そこは置いとこ。「Particle  Parade」で一番評価されてるのが、そこからの戦闘シーンだから』

「そうなのか?」

 中村の疑問に、『そーらしいよー』とアニーが言葉を降ろしてくる。

 戦闘シーンの高評価か。確かにそれは一理あるかもしれない。「Particle  honest」の前編を読んだとき、最も印象に残ったのが――夏緒の筆が生き生きとしていたのが、戦闘シーンだった。夏緒が「Particle  Parade」から大いに影響を受けていることを考えれば、「Particle  Parade」自体の戦闘シーンも面白いのだろう。今度読んでみようか。

『うん。対ロシア軍との市街地でのゲリラ戦と、米対露の艦隊戦があるよ』

「戦争だな……」

『まーねー。でも、一般市民への被害は少なかったんだって。避難シェルターへの速やかな移動が為された、と』

「考えてみればそれもすごいよな。普通は混乱でパニックになると思うけど」

『でも、国軍は民間人の誘導を優先したからロシア軍との戦闘が不利になったんだよ。敵の処理に対する行動の初期動作が遅かったって。それが問題といえば問題になってるかな』

 アニーの声に中村は、へぇ、と返す。詳しく言われても、「Particle  Parade」を読んだわけではないので、今ひとつ状況が掴みにくい。

「それで、……って」

『ん?』

「主人公はどこで登場するんだよ。ほら、成瀬だっけ? あの男」

『成瀬は、……家族がね、反粒子兵器の開発に関わってて。で、保護された先で雪風と知り合うの』

 そこまで聞けば、その先は大体予想が出来そうな気もする。

「それで、雪風が兵器として扱われることに腹を立てて、……って感じか」

『そうそう。根も葉もなく言うと、結果としてみんなと和解するよ。納得はしないが仕方はない、って』

 まぁ、そうだろうな。

Particle  honest」を読んだ以上、多少は物語の流れが分かる。

「それで結局はどうなるんだ? 少なくとも登場人物は死なないだろ、「Particle  honest」に出てくるわけだし」

『少しは死人が出るよ、リアルな戦闘だし。それで、戦闘は、市街地のロシア軍と領海上の艦隊は制圧したところで終わり。その後、……みたいな章があって、そこで色々と細かな事後処理があるかな。伏線処理とか』

「伏線処理って、……お前から聞くとリアルで嫌だなぁ。というか主人公達はどうなるんだ?」

 華麗な舞台の裏側にある雑然さを垣間見てしまったときのような、妙な生々しさを突きつけられる。見たかったんだけど、見たくなかった。そういう不思議な感覚が。

『んー、征司の考えてるに近いと思うんだけどね。一応言っておくと、成瀬と雪風は、お互いの中に自分自身の居場所を見つけられた、……とか、そんな感じ』

「ま、そうなるよな。よし、大体「Particle  honest」で何言ってたのかが分かってきた」

 少なくとも「Particle  honest」は二次創作だ。その元となった作品を、概形だけでも知っておくにこしたことはない。

『うー……、自分で言っておいて何だけどさ、なんか釈然としないなぁ』

「なにが?」

 アニーが身体全体で悩ましげな声を響かせる。懊悩の吐息が潮風を生んだ。

『だってさ、……これだとすっごい適当な物語みたいじゃない? 登場人物にも過去があったりするのにさ、なんか、想像物として許せないなぁ』

「ま、会話だとこんなもんだろ。太宰治の人間失格だって簡単に言うと、ダメ人間の手記だろ?」

『そうかなぁ? なんだろう、すごく違和感があるけど……

「本質を語るには、そのものを読んでもらうしかないんだよ。だろ?」

 中村の言葉に、アニーは渋々ながらも同意する。少しだけ強い潮風が中村の背中を押した。

 

 時間が制限されていると言った割には悠々と過ごしている。

 感じたままにそう言った中村に、アニーは軽やかな口調で、

『ドカーンとくるから、それまでは適当にしてていいよ。束の間の「Particle  honest」を満喫しておいたら?』

 と告げただけだった。ただ、そのドカーンの部分がやけに迫力に満ちていたので、それなりの『ドカーン』があるのかもしれない。

 そんな事を気にしながら、中村は昼下がりになりつつある通りを歩いていた。

Particle  honest」を満喫しておいたら、と言われても、今ひとつなにをすればいいのかが分からない。

 そもそも、「Particle  honest」の舞台は日常ではなく戦闘なのだ。こんなに日和の良い市街地で何を探せというのだろう。主人公達がだべっていた喫茶店でも見てこればいいのだろうか。

 いや、と中村は思い直す。

 見るべきはそういうところではない。体感すべきは、このなんの変哲もない「想像の余地」だ。

 目前に広がる日常を日常として違和感なく流せているのは、まさしく自分がそうやって想像しているからだ。さっきの服屋から、路地裏のゴミ捨て場まで。想像の余地として切り捨てられている部分を意識して見られるのは、これが最初で最後だろう。

 どんなものでも創作活動に役立つかもしれない。中村はそんなことを考えながら、あまねく想像の余地に視線を遣っていた。

 その時だった。

『はい、ドカーン』

 アニーの言葉は、別の大音に掻き消された。

 中村の目前で普通自動車が爆発炎上した。

 

     ◇

 

   「Particle  honest」第六章 軍属奥海大学一年 成瀬智也(1)

 

 丙種警戒令が出されたことで研究所内が混乱している。いや、正しく言えばそれは違うか。

 実際は、なぜ丙種警戒令が出されているのかが分からないから混乱している、と言った方が正しい。

 当初は誤報の可能性も示唆されたが、それは違うようだった。なぜなら、奥海市内外の軍事関連施設のおよそ八十カ所で同時に誤報が発生するとは考えにくいからだ。

 確認のため、柚原さんが海軍基地奥海支部に連絡を取ったそうだが、そちらの方でも混乱が渦巻いているだけだった。現在の状況が確認出来次第、命令系統順に伝達されるという無意味な情報だけが手元に残った。

 前の時と似ている。

 そう、前の時とよく似ている。

 ロシアの私軍が奥海を襲撃したときも、その直前はこういう不穏な空気が漂っていた。なにも軍に関係している人間だけではない。民間人もどことなく妙な焦燥感を覚えていた。自分がそうだったから、良く覚えている。

 でも、だからこそ心配だ。

 雪風は海軍基地奥海支部の地下で練兵訓練をする予定だが、どうなっているのだろうか。

 まさか、とは思うが、

 この心配も杞憂だろうか。

 

     ◇

 

Particle  honest」第四章 研究課雑務係 夏目健二(3)

 

まさか……こいつら、なんてこと考えてやがる。

 フル装備の軍人に研究職の人間が太刀打ちできる筈もない。逃走には成功したものの、結局は捕まった。

だが幸運なことに拷問も尋問もないようだった。その代わりにかなり衝撃的な事実を聞かされたが。

「ま、あとは野となれ山となれ、ってやつっすね」

 拘束どころか猿ぐつわもされていない。ま、当たり前といえば当たり前か。ただ相手も真面目に仕事をやってるつもりらしく、こっちの言葉に返事は寄越してこない。

「俺もう知ーらない。いちぬけた、ぬけましたからね」

 言ってみても誰も反応しない。ある意味仕方ないか、身体を拘束されるよりはマシだ。

 それにしても、……とんでもないことを考えるものだ。

 銃を突きつけられた時は、もう本当にダメだと思ったわけだし。

 まさか騙されてるとは思わなかった。

 俺でさえこのざまなんだから、みんなの方はもう大変なことになってるだろう。あぁ、そうだ。柚原さんにまた八つ当たりされるかもしれない。

(中略)

 っつーか、さっき爆発音聞こえたなぁ。マジでやんのかなぁ、大丈夫なのかなぁ。

 うーん。

 

     ◇

 

   「Particle  honest」第一章 実験用試作機体・P.P搭載型 雪風(2)

 

 智也や柚原さんにまた怒られちゃう、かな。そんな事を考えながら、誰もいない街中を疾走する。

 ロシアの私兵部隊が奥海市を襲撃したときみたいな感じだ。

 あの時は夜で、そもそも人通りの少ない時間帯だったからまだ人気の少なさには理由が付けられたけれど、今は昼の正午過ぎ。企業群が居座る奥海市のメインストリートが賑わっていないなんて、異常だ。

 でも考えてみれば、人がいないということの方が安心できる。それは民間人が避難し切れている、ということだから。

 歩幅は大きく、足の回転は速く。

 全力を出せば百メートルを三秒で走れる能力がこの身体にはある。だから、限界を引き出して急ぐ。

 八カ所で同時爆破が起こったという情報を得たのが約四十分前。私はそれを聞いてなかったことにして、智也のいるはずの奥海大学へと走り出した。それが数分前。およそ四十分で民間人の避難が出来ているというのだから、これは軍備都市としてのレベルがかなり高いことを示している。異様なスムーズさだ。

 だけど分からないのが、相手は一体どこなのか、ということ。

 現状は同時爆破が行われた、としか情報が伝わっていない。それも、自動車やビルの中のゴミ箱が小規模な爆発を起こしただけだ。敵の――敵とするならば、だけど――兵士どころか、空にも国軍機以外の機影すら見えない。

 どういういうことなんだろうか? 深読みのしすぎで、実はただの爆破テロだったりするのだろうか。

分からないけど、少なくとも警戒しておくにこしたことはない。

 と、そうして走っている内に、奥海大学が見えてくる。あの中の一番大きな建物が物理学部で、そこに智也もいるはず。

 その寸刻だった。

 思考の直後に背面でP.Pが発動する。背中を押されるような感覚の刹那に、膨大な光量と音量が吐き出される。思考速度と反射速度を最高レベルにまで引き上げた。体感で十秒、実際はコンマ二秒。そんな速度で振り向くと、私に銃口を向けたどこかの国の軍人達がいた。

 いつの間に、と考える間もなく突進する。少なくとも、ただの歩兵で私の機動についてこられる人間は存在しないからだ。常人の三倍近い速度で移動、攻撃、回避を繰り返すことの出来る兵器に太刀打ちできる人材がいるとは思えない。

 眼球代わりのスローカメラで捕らえた映像は、こちらに向けた銃口が乱れた景色だった。一人の兵士の表情が驚愕で満ちる。

 仕方ないだろう、とは思う。練兵を経たとはいえ、それは相手が人間の場合の戦闘の訓練だ。私みたいなのが相手では、驚くのも無理はない。

 それでも向こうが所持している武器は自動小銃。撃たれ続けたらP.Pが冷却不能になってしばらく起動できなくなる。そうなったら、ただの回避で場を繋がなくてはならなくなるから――、それは避けたいところ。

 だから、と判断するのは右側への大跳躍。引き込まれるように身を返して、通りに面するように建てられたビルの側面を蹴り方向転換を図る。

 目標を見失ったらしい彼らを横から襲う。斜め上方から落下するようにして彼らの隣に急ぎ、両手で地面を支えながら足を伸ばして二人分のあごを打つ。勢いを殺さずに脚を閉じ、かかと落としの要領でもう一人の頭を震盪させた。脚を降ろした反動で上半身を起こす。そのまま腕を開き、唖然としている一人を殴るとようやく残り一人になる。定まっていない銃口を握って引き寄せ、相手の勢いを利用して鼻を打撃。

加減をしたので気絶はしていないだろう。呼吸もろくに出来ていない最後の一人に近づいて自動小銃を奪い、背後から抱きしめるように動きを拘束する。

装備もどこの国のものかが分からない。ロシア私軍のものではないし、……勿論国軍のものでもない。マスクの下の表情もよく分からないままだ。

「はじめまして、……だよね?」

 そう発音する言葉は英語。相手がどこの人間かも分からないから。

 苦しんでいる割に返事を寄越さないので、私は少し戒めをきつくする。胸の中で呻き声が一つ増えた。

「……色々と聞きたいことがあるんだけど」

 そう言ってから、何を問うべきだろうと思考した。聞きたいこととは別に、聞き出せることはなんだろうか、と。

 昼間の潮風が髪を撫でる。日差しの柔らかさだけを見ると、日常の光景そのままだ。私は周囲を窺って状況を探る。少なくとも一小隊だけでの奥海襲撃はありえないだろう。まだ仲間がいるはずだ。だけど、

「――残念だったな、」

 ふ、と気を抜いた瞬間のことだった。

 聞こえてきたのは日本語で、何故と問う間もなく再び背面でP.Pが発動した。強烈な爆音が光を巻き込んで膨張し、それでも背後からの連撃を阻止することが出来ないらしく、P.Pが秒間毎に音を立てる。

 まさか、……狙撃!

 思考がその可能性に至るよりも早く身体が動く。日本語を話した人間を手放すことは惜しかったが、まずはこの場を離れることが第一だ。後ろ手にしていた腕を外側に引っ張って吹き飛ばし、私は転がるようにして路地に入る。そのまま身体を叩くようにして起こし、前傾したままその場から離れた。

 P.Pが発動すると巨大な音と光が発生する。だから、音も光も無ければそれはP.Pが発生していないということだ。狙撃手はP.Pのことを知っていたのか、私が回避すると銃撃は止んだ。

 P.P副作用の強音による聴覚の遅れよりも敵兵が日本語を話したことよりも、なによりも背後からの攻撃に二度も気付かなかったことが堪えた。

 これじゃあ、なんにも進歩してないっ……!

(中略)

 だけど、と思う。そうだとすると彼らは国軍の人間なのだろうか。判断は出来ないが、それでも可能性は高くなる。

 ――クーデター?

 いや、と私は考え直す。この状況で軍事反乱を起こすメリットは存在しない。

 だとしたら、……一体何が起こってる?

 私の疑問に答えてくれるものは何もなく、ただ緩い北風が細いファイバーの髪を持ち上げた。

 

     ◇

 

   「Particle  honest」幕間その一 空の青さに呟かれる言葉

 

 まさか、俺がアレに当たるとはな。ついてねぇよ。

 ライオット弾も効かねぇしよ。っていうかあんなのだったら、どんな攻撃でも防御できるだろ。反則兵器め。

 畜生、大体あんな動きが出来るなんて――予想もしてねぇよ。

 後ろ姿は普通の女の子だったのにな。

 本当についてねぇ。

(後略)

 

     ◇

 

 いわゆる急展開というやつか。中村は誰もいなくなった奥海市街を、路地や物陰に隠れながら移動していた。

 目前で白い普通自動車が爆発したのが三十分くらい前。その直後、連続して街中から爆発音が聞こえた。人々は息を合わせたように逃げ出し、僅か三十分で街から人気が無くなった。

『みんな逃げたように見えるけど、実際は建物の地下に防御シェルターを設置してある所が多いから。あと、避難場所として設定されてる奥海大学とかはすごい混乱ぶりだと思うよ』

 そう説明してくれたのは楽しげになったアニーだった。言葉の響きは生き生きとし、花が繚乱するような溜息を吐いていたので、ここから物語が勢いに乗るということだろう。

 それにしても、と中村は思う。

 自動車が爆発や人々の混乱ぶりは、まるで映画の中に入り込んだかのようだった。それはつまり、そういう風に想像してたから、という事なのだろうか。自分で思うのもなんだが、多少の安っぽさは否めない。

 体感している時点でこれなのだから、仮に文章にするとなると……更に味は落ちるか。

 未だ小説という形で文章を残してはいないが、中村は自分の未熟さに改めて気付いた。

 想像することにも練習は必要だという事実を改めて認識することになる。そしてそれは――この世界に自分の思いを反映させる為にも必要な思考なのだろう。

 中村は人のいなくなった街の中で、色々なものの色を変えたり形を変えたりしてみた。確かに練習の度に変化の速度は上昇しているかもしれない。頭の中で思い浮かぶイメージも滑らかなものになっていった。

 それでも、まだ戦闘シーンに対する心構えは出来ていない。自動車の爆発を全身で受け止めるように体感してからは、「更にこの上をいく戦闘に闖入し、うやむやにしなければならない」という思考が身体を強ばらせていた。

 しかし、中村の想像は時間を遅らせる程の力を持っていなかった。

 着実に物語は近づいていた。

 

『――それで、もうそろそろ来る訳なんだけど』

「来る、ってなにが?」

 相変わらずアニーは楽しげで、そのテンションに比例して中村と物語の緊張感も増していた。

 来る、という多義な単語の真意を思考している内に、街の海岸方面から進んできたらしい足音が聞こえてきた。中村は自然と身を低くして息を殺す。来る、ってのはまさしくそのままの意味だったのか、と中村は理解するが、その理解は世界に影響をもたらさなかった。

 どうやら彼らは軍人らしく、それでいて奥海のメインストリートを南側――つまり山脈側に進んでいるようだった。武器である自動小銃を構えているのは、明確な敵がいるからか。

 いや、と中村は断定の前に思考を入れる。

 現地の保安軍かもしれない。そうだとするなら、敵がいるからどうか分からないから武器を持っている、ということになる。だが仮に襲撃元の軍だとするならば、保安軍に対抗するためのものだろう。

 どちらだろうか、という心中の問いに答えたのは「Particle  honest」だった。

 ――保安軍では、ない?

 浮き上がるようにして中村の中に出てきたイメージはそれだった。理解の直後に理解の原因を知る。恐らくは、ここが「Particle  honest」の中だと思ったときと同じような理屈だろう。知識としては得ていないが、理解はしている状態になる。

 しかし中村に思い浮かんだイメージは保安軍ではない、という情報だけで、彼らが何者か、という問いには答え切れていなかった。

 ということは、

 それが物語の核心に位置する事柄だということか。

 中村が息を押し殺したまま様子を見ていると、突然彼らが銃を構えた。膝を着けて銃を構えている者と立ったまま銃を構えている者がいる。それが基本的な陣形なのだろう。

「――――」

 良く聞き取れなかった。

 だが、恐らくは「撃て」とでも言ったのだろう。その言葉を切っ掛けに、一人が小銃をライフルに持ちかえ、中村の位置からは見えない目標を銃撃した。

 思ったよりも情けない音だった。菓子袋を叩いて開けたときの音を少しだけ強くしたような音が響いた。

 そして、何を銃撃したのだろうか、と中村が思考した寸刻だった。

Particle  Parade」の効果によって生じた光熱と巨大な炸裂音が周囲を埋め尽くした。

「な――――」

 なにが起こった、とアニーに聞くこともできずに音の巨大さに身体が吹き飛ばされる。路地裏に相応しいゴミ袋がクッションになって中村を拾った。

「――――。」

 耳が痛ぇ。中村はそう一人呟いたつもりだったが、声が出ていないのか、それとも耳がついてこれていないのか、言葉が耳に届かなかった。

『大丈夫? 耳抜きしたらちょっとは良いかも。ほら、早く起きないと……来ちゃうよ』

 一人だけ元気そうなアニーが急かすような勢いで言葉を寄越す。分かったよ、と言う間もなく中村はゴミ袋の山から身体を起こし、通りのど真ん中を見た。

 いや、……来ちゃうよ? ということは、まだ他に来るようなものがあるのか?

 中村に答えるように現れたのは、「Particle  honest」のメインヒロインである、

「雪風?」

 

 何秒、と時間をカウントするのも馬鹿馬鹿しくなるほどのスピードで戦闘は終了した。

 音と光に感覚が麻痺した中村が見たのは、ビルの壁を蹴りながら彼らに向かって急降下している雪風だった。その速度の余り、なぜそれが雪風なのか理解したのかも分からなかった。

 彼らは雪風の機動にパニック状態になっていたらしく、自動小銃を乱射している者もいた。気持ちは分からなくもない。

Particle  honest」の文章上では、雪風の運動能力は常人の二、三倍だと説明されていた。確かに数値的な面から見ればそれは正しいのかもしれない。ただ、実際にそれを目にすると、その能力はそれ以上だと感じてしまう。

 壁を蹴って急降下した雪風はそのまま彼らの集団に突っ込み、地面に手をつきながら身体を捻って脚を伸ばし二人を吹き飛ばした。そのままバネのような動きで上体を引き起こすと、その脚で一人を打った。地に足をつけた雪風は、左腕を広げて打撃をあごに命中させた。残りの一人は、自動小銃の先を掴まれて雪風に引き寄せられ、その勢いで顔面に打撃を受けていた。

 気持ちは分からなくもない。少なくともこんな怪物みたいなのが全力疾走していたら俺は逃げる。中村はそんなことを感想にした。

 その後、雪風に顔面を打撃された最後の一人は後ろ手に縛り上げられ、そのまま尋問を受けている様子だった。距離はあるが声は聞こえるだろうかと期待したのだが、さっきの大音量のせいで耳が空間の音を把握するに至っていなかった。

 二言三言交わした後に、雪風がまたP.Pを発動させた。凄まじい光量と音量が吐き出され、中村は再びゴミ袋のクッションに拾われることになった。

 起き上がって様子を見ようとした中村の目に入ったのは、十五、六人に増えた敵軍の人間だった。

 

「本音言うとな、あんな戦闘に常人の俺がついていけるとは思えないんだが」

『さっきから弱気だね。そんなに予想を超えた戦闘シーンだった?』

 中村は敵兵――これは都合上の言葉だが――が多数存在するらしいメインストリートを避けて、細い路地を抜けていた。出来るだけ人気のないところを進み、奥海大学に到達することを当面の目標にしている。

「確かに、アレは元々俺が想像した戦闘シーンだった。あの場面は俺も実際に読んだし、……まぁ簡単に言えば、目で見ることが出来たのは嬉しかったよ」

 けどな、と中村は間をつくる。

「やっぱり頭の中で想像してるだけってのと、こういう風に目にしたりするのは違う。全然違う。あのシーンを見てみてよく分かった」

『うーん。やっぱりそうなのかなぁ』

 アニーの少しだけ当惑するような声音が潮風を押し戻した。無音の次に潮が匂う。

 中村は道の壁際を歩きながら時々背後を振り返る。正直、敵兵に発見されていたら対処できるとは思えないが、少なくとも、見つかっていない状況ならば隠れたり逃げたりすることができるだろう、という素人考えからの行動だった。

「ま、それは俺の読書姿勢からきてるのかもしれないけどな」

『え? じゃあ……征司はちゃんと隅から隅まで読んでない、ってこと?』

「そういうことじゃなくてさ。ほら、小説を読むときに何を優先するのか、ってことだよ」

『うー……良く分かんないけど。征司は優先順をいちいち決めてるの?』

「決めてる、っていうか読書癖って感じだな。ちょっと違うけど、……擬音が嫌いだとか、会話文が多いと読めない、とか。あるだろ?」

 ちなみに中村自身は冗長な地の文が好きではない。夏緒は擬音を使わないし、本屋部長は……ヒゲはなんでも読むか。

『そーゆーのはあるかもしれないけど……』

「だろ? 俺の場合は、そうだな……咀嚼せず口に入れたらすぐ呑み込む、って感じの読み方なんだよ」

『えっと、一つ一つの文章じゃなくて物語そのものを読んでる――森を見て木を見ず、みたいな?』

「そうだな、そんなとこだ」

 中村がそう答えると、アニーは悩むようにして言葉を響かせた。

『分からなくもないけど、……想像物にとっては分かりにくいニュアンスかな。だって、征司がそーゆー風に読んでたとしても、想像はしてるんでしょ?』

「そうだけど、なんというか……意識的に想像してるわけじゃないんだよ。フィルムが小説で映写機が俺で、小説を読むと勝手に頭の中でそのシーンが再生される」

『それは少し分かるよ。でも、咀嚼せずに呑み込むような読み方なんだよね?』

 アニーの言葉は疑問で満ちていた。それは一体どういう意味なのか、と。確かに直に文章を読んでみなければ、こんな感覚は湧かないだろう。

「物語の先が気になるから、その場その場を早送りしてるようなもんだ」

 中村はそう言って声音を切る。そう言っておくしかないし、仮に感覚の全てを説明できたとしてもアニーが理解できるとは思えない。

 むにゃむにゃと猫が唸るようにアニーが悩んでいたが、中村はそれを無視して周りを覗く。この付近には全く人気がなく、敵兵の気配さえもがない。今のうちに素早く移動しておくべきだろう。

 全力を出せば息が上がる。気持ち速めの小走りで中村は奥海大学に向かっていく。

「――そうだ」

『なーにー?』

 アニーが間の抜けたような声を降ろしてくる。中村は陽光の柔らかさを頬に感じた。

「この身体で死んだらダメなんだろ? じゃ、……想像によって強化するってできるのか?」

 そうすれば致死率は下がるだろ。中村はそう付け加えてアニーに問う。

『死んだらダメってことはないよ、ダメな気がするだけで。あと、征司自身の強化は……できるのかなぁ』

 腕を組み、難しそうな音色の言葉でアニーが間を取る。

『出来ないこともないと思うけど、やっぱり……現実感に打ち克てるかが問題だよ』

 中村は壁を背にして幅の広い道の様子を見る。もうすぐで奥海大学に着くという感覚があった。

「現実感を越えられるって確信はないけど――さっき雪風の戦闘も見たしな、アレを真似してみたらどうかとは思うんだよ」

 そう言いながら、中村は雪風の超越的な機動力を思い出す。跳ね回るようにして一瞬にして敵集団を倒したあの動きと、「Particle  honest」の文章も。

 容易く真似できるとは言えないが、それでも自分でなにかやってみようと思うよりはまだ出来そうな気がする。

『跳んだり蹴ったり?』

「そう――」

 中村は言葉を返そうとしたが、しかし声を途中で切る。

『あ、気付いた?』

 アニーの声色に、中村は頷きを持って返事とする。

 奥海大学に随分近づいたが、しかしそれはある意味で間違いだったのかもしれない。今、中村の目前には、数十人という単位での兵士達が整然と並んでいた。

 だがそこに並んでいる軍人達は、先程雪風に倒された輩とは異なり、正規の保安軍であるようだった。

 成程、武器を持ち……攻撃してくる可能性があるのは単に敵兵だけとは限らない、ということか。

『で、この人達は敵じゃないとは思うけど。どうする? 迷子なんです、って大学に入れてもらうとか?』

 アニーが茶化すように言葉を震わせる。中村は数歩を後退り、更にそこからもう一つ細い道に入ってから建物に切り取られた小さな空を見上げた。

「……どうだかね。そう簡単にいくと思うか?」

『んー、征司がなんの為に奥海大学に入ろうとしてるのかが分かんないからなんとも言えないかな。何しようとしてるの?』

「大学の中には成瀬がいるだろ。雪風云々の話で外に引きずり出そうかと思ったんだけど」

『そっか。登場人物の行動をねじ曲げるのが目的かー。でも、どーだろ。大学の中に入れたとして……成瀬には会えるのかな?』

 そう。そこが問題なんだ。

 仮に大学の中に入れたとしても、有事の際の避難場所として設定されているなら混雑していて成瀬と会うのは難しいだろう。大学の中に入れても、成瀬が素粒子研究所のような一般人が立ち入れない区域にいれば尚のこと会うのは困難になる。

 中村は頭を掻いて考える。どうすれば――。

『確かにそれが手堅い方法ではあるかもね。柚原を始めとする職員達は研究所で、征司はもう立ち入れない。だとすると雪風か成瀬か……』

「そうか、雪風に会うっていう手もあるか」

『あれ? もしかして気付いてなかったの?』

 中村は適当に返事を渡して、「Particle  honest」を思い出す。頭の中で雪風の行動をなぞりながら言葉にしてそれを確認する。

「まず、爆発が起こる。基地から脱出し、奥海大学へ向かう。途中で敵の襲撃を受ける。敵から逃走する……」

 ここまでは中村自身の目でも見た。そして、

「ルートを変更して奥海大学へ向かう。向かう途中で柚原から無線で注意を受ける。この時点で戦闘が始まって――」

『今はまだ戦闘が起こってないね。ってことはそこからが予定ってことになるかな』

 中村はアニーの声に頷く。

「で、そこから大学に到着か」

 ということは、戦闘が始まっていない今はまだ雪風も大学に向かっている途中になるか。

 雪風を見つけられれば、そこからなんとかすればいいのだが、……さてどうするか。

 見つけると言っても、さっきの場所から奥海大学に来るルートなんて、細い道も含めれば数多に存在する。そこから運良く、偶然に雪風を見つけるなんて――――いや、待てよ。

「登場人物に接触せずに、想像して動きを操ることってできるのか?」

『多少は出来ると思うけど……、一般人が雪風みたいな動きをするとかは無理だよ。「Particle  honest」は「Particle  honest」で一応完成してるから、作品内での矛盾はある程度自動的に解消されちゃうの』

「雪風が近道をしようとして、俺の目の前の道を通ろうとする、ってのは?」

『できるかもね』

 そう答えたアニーの言葉にも笑みが含まれている。

 そうか、と呟いて中村は雪風を思い浮かべる。雪風が自分と出会うようなシーンを。

 

 想像は世界を駆けめぐり、やがて目前の景色として現れる。

 雪風が目前に現れる想像を結んでから、多少にも及ばない時間が流れた。中村は想像の結果が近づきつつあることを指先で感じていた。

「一応言っておくけど……俺は、雪風が目前に存在するってことは綿密に想像した。でもな、それ以外は適当なんだよ」

『分かる、分かるよ。征司の言いたいことはすごい分かる。私も、最初は征司がなに想像してるのか意味が分からなかったもん』

「俺もそう思う」

 今にも笑い出しそうなアニーの声に、中村は憮然と応える。

 結局は、想像をより綿密に立てれば良いだけだということなのだが、どうにも刻限がどんどんと近づいているような気がしてならないので止めた。中村は頭を掻いて壁にもたれる。路地を一つ出たところに雪風が現れる予定だが、まだ足音もない。

 空を見上げても、まだ戦闘の幕は開けていないらしく無音のままだ。いや、時々遠くで兵士の声が聞こえるか。

 ま、なんにしても……、

「もうすぐか」

 呟いてから、中村は雪風が来るはずの方向を見る。

――確かに気配は近づいていた。

『ドキドキするね』

「どうせなら落ち着けるような言葉をかけてくれ」

 言ってから、中村は唐突に道を飛び出した。

 

     ◇

 

   「Particle  honest」第一章 実験用試作機体・P.P搭載型 雪風(3)

 

(前略)

 その時に聞いた話によると、敵勢力は海岸沿いに集中しているらしい。仮にその情報が正しいとすると、敵は日本海から上陸したのではなく、元々奥海市にいたということになる。

 だって、私は奥海大学へ向かう途中で撃たれたんだし。

 それならば、……敵は内陸部から海岸へと向かっている、ということになるのだろうか。

 よく分からない。

 行動から推測される目的、というのが全く分からない。

 だが、昼間から襲撃するというのは、それ相応の理由があるということなのだろう。なんの理由もなければ――敵の目標が前回と同じようなものであるならば、襲撃は真夜中になるはずだ。

 戦闘自体に意味がある、ということだろうか。

 分からない。分からないが、

 今はただ走るしかない。

 は、と息を吸って私は大きく歩幅を取る。周りの景色は揺れるようなスローモーションだ。

 身体の動かしすぎで背部に装着したラジエーターが熱を生んでいる。今着ているのはP.P仕様の装備ではなくただの軍服なので、ラジエーターに接する部分が溶けて露出しているかもしれない。

 しまった。少なくとも代わりの服を持ってきておくべきだっただろうか。仮に背中がダメになっていたとしたら……すごく恥ずかしい。

 それでも熱を生まないような低速の走りは出来ない。恥は承知の元、まずは生きて智也に会わなければならない。

 と、

「え?」

 視界の端でなにかが動いた。

 ――敵?

 いや、と答を返してくるのは視界に映るなにかそのものだった。

 年齢は若そうで、高校生……か。よくわからないけど、なんだか無表情だった。

 あ、……というか避けられない!

 

     ◇

 

 流石だな、と中村は実感した。

 やはり想像と体感では違うものも存在する。常人の二、三倍の身体能力を持つ者に体当たりを食らうと、普通よりも五、六倍は痛くなるらしい。

「――――っぁ」

 痛ぇよ。声も出ないくらいに痛ぇよ。

 中村は雪風と衝突した衝撃で十メートル近く吹き飛びながらそう思った。

 

 中村が想像したのはよくある光景だった。ただ、よくあるといっても漫画やアニメの中で、だが。

 つまりは、「遅刻遅刻っ!」と絶叫しながら全力で疾走してくる少女と、一般人を装う少年が曲がり角でぶつかる、という典型的なシーンを再現しようとしたのだった。

 今考えれば他にいくらでもまともな出会い方がありそうだが、焦燥感のあまりに中村はこれしか思い浮かばなかった。

 イメージの貧困さに自分自身でも辟易したが、結局中村は雪風と曲がり角でぶつかる様を想像した。

 通常のバージョンでは少女の側がパンをくわえていたりして、ぶつかった後に多少のいさかいが起こるのが大抵だが、中村はそんな悠長なことをやっている場合ではないと判断した。

 少なくとも疾走状態の雪風と衝突すれば、たとえ知らない人物だとしても雪風が中村を心配するだろうとの考えから、それを行動にしたのだが、

 中村は地面の上を更に数メートル転がりながら、判断が誤っていたことをまさに痛感した。

 

「え、あ、っと、……大丈夫?」

 中村は現状を把握できていなかったが、その声の主は雪風だということは理解できた。

 だが、これで大丈夫なはずがない。もしかしたら雪風もどことなく抜けたキャラなのだろうか。中村がそう考えていると、雪風に頭を持ち上げられた。

「……いや、……大丈夫じゃないから」

『ま、そーだろーねー』

 首が楽になったところで言葉が抜けた。すぐにアニーの言葉が響いてきたが、それは雪風には聞こえていない様子だった。登場人物に例外はないらしい。

「そ、そうだよね。どうしよう……」

 雪風が戸惑うようにして中村の身体を見る。見られるのには恥ずかしさを伴ったが、痛みが強すぎて顔も赤くならなかったのは僥倖だった。

 とりあえず、と中村は一息を吸い込んで考える。

 ――不自然でない程度の日常的な会話から始めるべきだろうか。「あんた誰だ」とか「今何が起こってるんだ」とか。

 いや、……しかしどうするか。

「あの……?」

「ん? ああ、」

 雪風が心配そうに声をかけてくる。中村としても、いつまでも雪風に首を支えられているわけにもいかないので、言葉を渡してから身体を起こした。

『無理しても想像でなんとかなるはずだよ。がんがん無茶しようね!』

 嫌な励まし方だな。中村はアニーの言葉に心で呟いた。だが、何度でも言うが、能動的な想像とはそんなに容易いものじゃないのだ。痛みを実感している以上、それを越えて無痛を想像するのは難しいの一言では表現できない難易度がある。

「あー……あんた一体何なんだ? なんであんなスピードで……

 とりあえず問うべきはこの言葉だろう。中村は思考しながら声色を紡ぐ。仮に自分が一般人だとしたら、他には……。

「あ、いえ、それは、あの……全力で走ってたから」

「あぁそうか……、」

 大体それはどんな説明だ。確実に人間の運動能力を凌駕した動きだったぞ。中村は頭を掻いて、ふらつく足で地面を踏んだ。

「まぁ、それはいいよ……それより今何が起こってるんだ?」

『征司って演技下手だよね』

 さっきからうるせぇな!

 アニーに対する反応を表情に出すまいと中村は腕を組んだ。アニーの声を意識しないように、と注意深く雪風を見てみる。

 この服装は軍服か。「Particle  Parade」の中では女性兵士も珍しくはないのだろう、女性用の装備だ。妙に身体のラインを意識した装備の作りになっているのは……原作者か夏緒の趣味か、それとも俺の妄想の結果か。

 待っていても、悩みながらも表情を変えない雪風に、中村はもう一度声をかける。

「あんた軍人だろ? 前みたいにどっかの襲撃でも受けてんのか?」

「いえ……それは、まだ私達の情報も不完全ですから、答えられません」

 軍人、という中村の言葉でようやく少しだけ姿勢がよくなる。だが、答にもなっていない言葉で場を濁して雪風は顔を上げた。

「あなたは何故ここに?」

 ある種の鋭さを持った問いを向けられる。中村は溜息を吐いて腕組みを解いた。

 ま、それも気になることではあるか。多くの人間が避難している中、路地に隠れるようにして一人潜んでいたんだから。敵国の工作員と見なされても、……それはないか。

「迷子だ」

「はい?」

『え? そんな設定なの?』

 雪風とアニーがタイミングを合わせたかのように同時に反応した。

「……奥海には少し前に引っ越したんだけどな。大学が避難場所だと聞いていたから向かっていたんだが……」

『ふむふむ』

「武器をもった軍人が歩き回ってるしな、危なくて動けたもんじゃなかった」

 中村はそう言って雪風を見る。

 まぁ、今のも全部が全部嘘って訳じゃないしな。軍人が街中を闊歩してるのは事実だ。

 逡巡するような間をもって、雪風は言葉を紡ぎ始めた。

「そうでしたら……、一番近い奥海大学でよろしければ案内しますが、」

 よし来た!

『おー。良い感じ?』

 雪風が言いながら中村を見る。提案を受けるのかどうか、という問いかけるような表情に、中村は返事を渡す。

「よろしく頼む」

「分かりました。」

 と、雪風が不意に周囲を見回す。敵兵の気配でも察知したのだろうか。

「危険ですから、私のすぐ後ろをついてきて下さい。奥海大学かここからおよそ1キロ弱の地点です」

 歩けますね?

 雪風の問いに、中村は頷きを持って答えにする。

「それでは……、行きましょう」

 

『思ったよりも……、じゃなくて、思ったから上手くいくね』

 アニーは相も変わらずに楽しげな声音を響かせていた。中村は少し早い歩調の雪風についていきながら、その言葉に同意をする。

 ある意味で予想通りの展開が目前に広がっている。これはこれで享受しておけばいいのだろうが、どうにも地に足がついていないような気分になってしまいそうだ。

 いつでも気を張らせておかなければ、不測の事態が発生したときに対応できないのではないか。

 中村はそう思考していた。

 しかし、とも思う。

 アニーの言うように、「思ったよりも、ではなく、思ったから」というのがこの世界なのだ。

 意識しなければ浮かび上がってこないその感覚が、中村を憂えさせていた。

「残り、およそ半分です」

 唐突な雪風の声が、中村の意識を「Particle  honest」に呼び戻す。

「分かった」

 それだけを呟くと、中村は雪風に目をやる。

 義体だとは思えないほどの精緻さが雪風にはあった。髪も瞳も指先までも、人間の身体ではない筈なのに柔らかく見える。

 仮にこれが現実に存在し得たら……別の意味で怖いかもな。

 中村はそう考えながら、少しだけ早い雪風の歩みに小走りでついていく。

『うーん……』

 奥海大学が見えるほどの距離に近づいてくる。それでも大きな道を避けながら進んでいるので、建物の隙間からの光景だが。

 アニーが笛の音のような悩み声を出しているが、中村は雪風がすぐ傍にいる手前、答えられないでいた。なにかそんなに悩むようなことでもあるのだろうか。

 なにかを見落としているのかもしれない。思考を頭の片隅にとどめながらも、中村は雪風の後をついてゆく。

 

     ◇

 

   「Particle  honest」第五章 営業部第二実務係係長 柚原恭子(3)

 

 まずい。非常にまずい。最悪の場合、夏目が死ぬかもしれない。私の八つ当たりによって。

 現状、なんか兵士が湧いたように出てきて、奥海市街を一部占拠している。

いや、占拠ではないか。少なくとも一戦交えている状態を占拠しているとは言えない。

しばらく前に保安軍が出動した。やつらは海岸沿いの第三倉庫群周辺に集まっているらしく、こちらもそこに戦力をつぎ込むらしい。まぁ、私としてはそれはそれで構わない。倉庫街ならば多少派手なことをやっても損害が少なくて済むだろう。

それよりも問題なのは雪のことだ。

練兵訓練の中途で同時爆発があり訓練が一時中止されたらしいのだが、それ以降の雪の動向が掴めない。

夏目はいないし、さえにも美紀にもこのことは知らせていないので検索が出来ない。っていうか知らせたくないだけなんだけど。

初ロストしたのもこんな状況だったっけ。あの時は日本海沖で米露が艦隊単位でドンパチやってたなぁ。もうあんなレベルの後処理はしたくないんだけど。

うー、私の怒りゲージが溜まっていく。どうしよう。

せめて無線でも通じればいいんだけど……。なんで通じないのかなぁ。どっかの馬鹿がなんにも考えずに電波攪乱でも使ったのかもしれない。ほんと、常識ある人間なら私のことも考えて欲しい。

(中略)

 っていうか、まぁ、ね。

 言うだけのことはあるわ。民間人の避難は異様なスピードだし。避難場所の方でも混乱は少なくて居心地は悪くないんじゃないのかな。

 その割に軍部には情報がまるで到達していない、と。

 上の方もいい加減本気出してきたわねー。

 んー、向こうをどうやって見返そうかしら。

 

     ◇

 

   「Particle  honest」第六章 軍属奥海大学一年 成瀬智也(3)

 

「雪……? お前、な、どこにいたんだよ」

 戸惑う声は自分のもの。そして戸惑いを引き出したのは雪。

「……ごめんなさい」

 瞳に涙を溜めながら、俯いたままの雪が胸の中に倒れ込んでくる。

 心配したんだぞとか危ないことするなよとか、言うべき言葉は色々あったかもしれないけれど、腕の中に飛び込んできた安心感がそういう言葉を封じ込めた。

 雪の乾いた髪を撫でる。細かく震える肩にそっと触れた。

「ごめんね、……私、智也が心配だったから」

「分かってる。ありがとな」

(中略)

 反射的に雪を腕の中に隠す。軽い身体が少しだけ緊張に固くなった。

「な、今のは、機雷か……?」

 巨大と言ってもまだ足りない、異様な爆発音が耳を塗りつぶした。

 何の音なんだと問われれば、海軍との共同演習の時に経験した機械水雷の音だと答えただろう。街中でそれが聞こえるのは有り得ないことだったが、それでも機雷以外に経験し得ない爆音だった。

「――――違う」

 不安に震えた冷たい声が胸の中から聞こえた。雪だった。

「今のは、」

(後略)

 

     ◇

 

「今のは、なんだ?」

 中村は咄嗟にそう問うたが、アニーからの言葉は聞こえなかった。

 

 奥海大学へ到着した後も、中村は行き場もなく雪風について回っていた。そうしていればいずれは成瀬の元にも辿り着けるだろう。そういう判断からの行動だった。

 避難場所に設定されているという割には、奥海大学に混乱は生じていなかった。

講堂を始め、体育館、それぞれの学部棟に至るまで、そこかしこに民間人がいるようだったが、誰も彼もがそれほど緊張していない、という表情を浮かべていたのに中村は驚いた。

これは前回の教訓から来る動きなのだろうか。ロシア軍が奥海を強襲した際にも速やかな避難がなされた云々をアニーに聞かされたような気がする。

それでも今回のそれはスムーズにも程がある。現実味の無さを夏緒に指摘しようか。

そう思いながら中村は雪風について歩いた。

 流石に避難中とあっては成瀬も普段の場所にいないらしく、雪風もそわそわと妙な焦りを見せながらも捜していた。

 とは言っても、当てずっぽうに探し歩いていたわけではないらしい。二、三を見回ると、そこには成瀬の姿があった。

 雪風は、成瀬を見つけるやいなやその元に駆け寄って抱きついた。成瀬の方は驚いていたようだったが、雪風の言葉が届く度にゆっくりと雪風の身体を抱きしめていくようだった。

「ありがとう」だとか「ごめんなさい」だとか、それ以外にも聞いている方が恥ずかしくなるような言葉を抱き合いながら呟いていた。

 文字や絵にして読んだり映画やドラマで画面の中を見ているよりも、肉眼でそういう風景を見るのは異様に恥ずかしかった。直視できない――でも目を逸らすこともできない、中村はそういう嫌な気分になった。

Particle  honest」の前編ではこの場面はまだなかった、はずだ。雪風視点で物語られるシーンは、さっきの戦闘の後、成瀬の身を案じながらフェードアウトして終わる。

 だとしたら、後編にて語られるはずのこの場面は、ある意味で物語の核心に近い部分に位置しているはずだ。

 中村はそう思いながら、長く続く雪風と成瀬の抱擁を溜息混じりに眺めていた。

 一体あれに何ページ費やしてる――、

 んだ、と続く雑念は、轟音に吹き飛ばされた。

 

「今のは、なんだ?」

 中村は咄嗟にそう問うたが、アニーからの言葉は聞こえなかった。

 いや、

 聞こえなかったというのはまた違う。瞬間に受けた音が余りにも巨大すぎて、その次が追いつかなかった、という方が近い。

 雪風が発動させたP.Pの反応音よりも恢々とした音だった。ただ享受するしかない程の大きさだった。

 後からやって来た鼓膜をつんざくような痛みに、中村は思わず両手を耳に当てる。

「――――?」

 音に奪われていた景色が徐々に戻ってくる。唐突な暴音の襲来に、泣き声も上げることが出来ず唖然としている姿がほとんどだった。

 見れば、窓ガラスにひびが入っていた。

『――大丈夫?』

 ようやく追いついたアニーの声が心配そうに響く。中村は頷いてから返事を遣る。

「なんとか。だが、今のはなんだ?」

 受けた音が大きすぎて、自分の声はこれだけ小さくても大丈夫なのかと不安になる。それでも、その小さな声にアニーは言葉を響かせる。

『物語がラストスパートに入るタイミングを教える号砲――これを起点に物語は加速する、だけど』

 だけど? 中村は語尾をおうむ返しに呟く。

 うん、と思い半ばに生まれた吐息にアニーが考える仕草を見せる。

『ちょっと早いのが気になるかな……他にも、なんかちょっとずつ変わってるみたいだったし』

「物語の流れが?」

『そう、征司は気付かなかった?』

 思考を促されて、中村は周りを見ながら「Particle  honest」を思い出す。さっきから変わらない場所で抱きしめられている雪風が、なにかを思い知ったという表情で震えながら呟いていた。

「――――」

 聞こえない?

 中村の位置からは成瀬が見えなかったが、それでも成瀬が驚いたのは後ろ姿でも理解できた。なにか重要な文言だったのだろうか。

 ――いや、

 今はそれよりも、

「俺が思い当たるようなことで、物語の流れが変化してるところがあるんだよな?」

『うん。えっとね、……征司が雪風と会ったシーン辺りのことだよ』

 中村は、言われてそのシーンを思い出す。

 物語が変化しているといっても、自分自身が雪風と接触しているというのを持ち出すのは違うだろう。それ以外に、なにか変わっているところがあるはずだ。

 それでも、雪風と遭遇してから今に至るまで、別段に違和感を覚えたところはない。

 中村は腕を組みながら、目前の雪風と成瀬を見て考える。

「分からないな……、雪風自身がおかしかったということじゃないんだよな?」

 だが、雪風自身やその行動に異変があるようなら、遭遇した瞬時にアニーが気付くはずだ。

 違うだろうな、と思いつつも中村は部屋の天井を見上げる。

『うん。でも……そっか、征司が気付かなかったのなら別に大した変化じゃないのかなぁ』

「それはどうだろうな」

 それで、結局はどういう異変なんだ? 中村は、後編を読んでない俺には気付けない箇所かもしれない、と言葉を継ぎながらアニーに問う。

『えーっと、雪風視点ではさ、』

 まず奥海基地を抜け出した直後に襲撃を受けるよね。そこでの戦闘ではとりあえず勝つんだけど、狙撃されて一旦退避――、

 そこから道を限定して奥海大学へ目指す、っていう流れだよね。

 その時点から奥海大学へ到着するまでの間に柚原から無線で連絡を受けて、無線が切れたときから市街地でも戦闘音が聞こえるようになる。

 その辺りでせーじとも会うけど……そこは置いとくと、

 えーっと、雪風視点で描かれてるのはそこまでだっけ。だとしても、おかしいよね。

「柚原から無線……これは俺に会う前に受けたのかもしれないが、それでも戦闘の音は聞こえなかった――?」

 まくし立てるようなアニーの言葉に、中村はようやく口を挟む。

『そうなの。これは……「Particle  honest」が徐々にずれ始めてる、って解釈しても――いいのかな?』

「俺にはなんとも言い様がないけどな」

 中村は腕組みを解いて頭を掻く。周りを見ると、落ち着きと共に遅い恐怖が人々に到達したらしく、気付けば泣き声がこぼれてきていた。

『うん。じゃ、そういうことにしとこ』

 アニーが明るく言い切る。本当にそれで大丈夫なのだろうか。

 中村が表情だけを怪訝に曲げていると、アニーがトーンを落とした声で言葉を降ろしてくる。

『でも、ちょっと困るかもしれない』

「なにが?」

『ここに来て物語が確実に変化してるんだけど――というかそういうことにしたんだけど』

「なにか問題でもあるのか?」

『うん。初めに言ったよね、物語をぶっ壊すには思い切り、って』

「ある程度は物語上の矛盾として解決されるからだろ?」

『そうそう。結果として矛盾がないように物語は進んでいくんだけれど――ちょっと都合の悪い方向に解決を見出してる感じがする』

 それは一体どういうことだ?

 中村はもう一度天井を見上げてアニーに訊いた。

『物語が、思ったよりも早く終わるかもしれないの』

 

     ◇

 

    「Particle  honest」第五章 営業部第二実務係係長 柚原恭子(4)

 

(前略)

 雪ちゃんもまだ見つからないし。

 あーもう、なんでこんな時に夏目はいないんだろ。

 成瀬に連絡したけど夏目は向こうにもいないらしいし……ったく、どうなってるんだか。

 溜息を吐けども吐けども現場の情報が入ってこない。

 まったく、陰謀説でも信じてやろうか。

 

     ◇

 

「それは――物語がぶっ壊れる、ということじゃなく?」

 轟音の立ち去った空間の中には、泣き声の他に「何が起きてるんだ」とざわめきも増えてきていた。

『えっと、今の「物語が終わる」っていうのは、多少の変化があっても「Particle  honest」として終わるっていうことなの』

「あぁ、成程」

『うん。もう本来の流れからは外れてるから、私でもいつ物語が終わるのか詳しくは分からないけど』

 でも、とアニーは言葉を繋ぐ。

『物語が終焉に迫っている、っていうのは感じる。これまで以上にね』

「それまでに、なんとか物語をめちゃくちゃにしなければならない、か」

 中村は組んだ腕に指を叩いて考える。

『どうする? ……えーっと、征司は成瀬を外に引っ張り出すためにここに来たんだよね。そこからの予定はあったの?』

「いや、……そこまで事が進めばまたなにか思い付くだろうと甘く見てた」

 中村が溜息を混ぜて呟くと、アニーも悩むように柔らかい息を吐く。

「あと、どれくらいで終わりそうなんだ?」

『うーん、微妙なところだね。二時間……はないかな』

 でもそれくらいだと思う、とアニーが言葉を響かせる。

『これから征司がなにかしらの行動を起こせば、終わりまでの時間は長くなったり短くなったりすると思うけど――』

「中途半端に手間取ってる時間はないと思った方がいい、か」

『そうだね、余裕を持って行動した方がいいかもしれない』

 それで、と間を置いてアニーがこちらに言葉を寄せる。

『どうする?』

 ――どうする、か。

 考えている暇も惜しいが、それでも何も考えずにことを為す方が難しい。

 中村は腕を組み直してから雪風と成瀬に視線を遣った。二人はようやく腕の戒めを解き、不安そうな表情の裏に真相を隠して――、

 真相を隠して?

 寸刻に思い浮かんだイメージに、中村は「あぁ」と答を得る。「Particle  honest」と直に繋がっている以上、描写もまた再構成されるらしい。

 ということは、

「あの二人は、少なくとも一側面でも解答を知ってるのか」

『雪風と成瀬?』

 アニーの問いに中村は頷く。

「策を弄すのも面倒だし……何事もないように会話に参加してみる、とか」

『せーじがそれでいいなら別にいいけど……雪風と会ったときには初対面を装ってたよね?』

「物語は矛盾無く進んでいくんだろ? それなら、俺自身が矛盾を抱えた場合はどうなる?」

『んー、確かに征司が――雪風に与える影響は矛盾してるけど、なにか理由があったから征司は初対面を装ってた、って解釈されると思う』

「……面倒だな」

『まぁ、そこは仕方ないよ』

 アニーが苦笑しながら中村に言葉を掛ける。中村は肩を落としてから、もう一度雪風と成瀬を見た。

「ま、でも、そろそろ行動を起こさないとまずいよな」

 今までは「Particle  honest」本来の流れに則った行動だった。想像によって雪風とは出逢ったが、それも「Particle  honest」上ではありえないことではなかったはずだ。

 だが、物語を破壊するとなった時にはそれでは足りない。

Particle  honest」が流れていく上で、あってはいけないことを発生させる必要がある。そしてその為には、

 アニーの言った通り、想像ではなく自分の身体で物語を動かす必要がある。

「だけど、「Particle  honest」を前編だけしか知らないんだよな」

 そう呟きながら、中村は天井に目を遣った。

『でも、……前編の謎を解くためにあるのが後編だよ? せーじは推理小説を推理せずに読むタイプ?』

「推理しても当たらないタイプだ」

『それは真面目に考えてないからだよー。叙述トリックでさえ、頑張れば見極められるはずなのに』

「ミステリ好きにはよく言われるよ」

『うー、でもこれはミステリーじゃないもん。謎とは言っても軽い軽い』

 だから、とアニーが声を繋ぐ言葉を口にする。

『よく考えてみれば征司でも分かるはずだよ』

 背中を押されるような感覚と共に声音が響いた。中村は溜息に頭を掻きながら、もう一度二人に視線を落とす。

 前編で出てきたのは、雪風と……朝倉と佐世保――だったっけか。名前には今一つ自信がない。

 雪風以外の二人は、確か雪風のスペアみたいなポジションだったはずだ。共通してるのは頭のネジが一本抜けてる所くらいか。

 そこで語られているのは、

 どこの兵士かも分からないような奴等が奥海を襲ってきた。

 民間人の避難はすぐに終了。

 国軍関係? 諜報関係? 敵は日本海側から上陸したのではない――、と。

「思い出してみると……分かってるのは、敵が襲ってきたことと避難がすぐに終わったことくらいか」

『それが重要だから、じゃない?』

「それは……襲われてなかったら小説になる必要もないしな」

『そうじゃなくて……、いい。後編についての推察はなにか、ない?』

「後編か。流れとしては、前編と同じように登場人物がその視点でものを語る。そんな感じだろ」

『そうだね。そこは合ってるよ』

 そうだろ、と中村は眉を上げながらアニーに応える。

 だとしたら――、

 後編でピックアップされそうな登場人物は、「Particle  honest」の主人公である成瀬は勿論、あとは……夏目や柚原か。

 それならば、前後編で三人ずつとなって丁度いい。それに――、

 柚原に関しては、前編でも事の真相を知っている風をほのめかしていたな。

 夏目は、……柚原に撃たれそうになって逃走してそのまま行方が分からない。なにかに巻き込まれている、か?

 成瀬は立場的にも何も知らないだろう。とすると、雪風と成瀬がペアの形で物語の全体像を明かしていく――?

 いや、そう都合よくもいかないか。

「知らないものを無茶苦茶にする、ってのは難しいな……」

『だいじょーぶだって。適当にやったらなんとかなるよ』

「……的確なアドバイスをありがとう」

 眉間にしわを寄せながら、中村は腕を組み直す。

「じゃあ……適当にやることを決めてみるか」

『ん、分かった』

「柚原に会うのは厳しいよな。雪風や成瀬に連れられても――兵器の研究所には入れないとは思う」

『本来的にはそうじゃなくても、今は征司がそうやって想像しちゃってるしね』

 そうだな、と中村は頷く。

「だから、まずは雪風と成瀬を外に出して、夏目を探すことにする」

『夏目? なんで?』

 さも不思議だというようにアニーが声色を響かせる。中村は腕組みを解いて壁にもたれ掛かった。

「夏目は前編の途中からいなくなった――時系列的な問題はあるかもしれないが、それでも、いなくなったのは襲撃の少し前だ」

『そうだね。複数の視点が同時進行する形だから分かり難いけど……たしかに時間はその辺りだよ』

「夏目がいなくなった理由は――、襲撃を知って身を隠しているか、負傷しているか、拉致されているか。このどれかだと思う」

 パシリみたいな役柄だったし、仮にも戦闘に参加しているとは思えない。中村はそう続けて視線を天井に向ける。

「夏目は前編で視点を持たなかったから、後編でものを語るんだろう。ということは――、」

『ということは?』

 アニーの相づちに中村は頷いて、更に言葉を乗せていく。

「もう既に知っているのか、まだ知らないのかは断定できないが――夏目は、真実を知ってるということになる。多分」

『……もう知ってるなら会った時点で真実を聞けばいいし、まだ知らなくても一緒にいれば真実を知れる、と』

 そうだ、と中村はアニーに言葉を返す。

「物語の途中で雪風と成瀬が真実を知る。これが物語崩落の決定打となれば幸いだし、「Particle  honest」本来の流れだとしても――、俺が物語の真相を知るってことで、物語は破壊しやすくなる」

『中途半端に二段構えだね』

「中途半端とは何だ。半端とは」

『えー、だって……、仮にそれが「Particle  honest」本来の展開だった場合はさ、確かにせーじの言うようなメリットはあるけど、やっぱり行き当たりばったりなことは否めないよね』

 どう? と自慢げなアニーの言葉遣いに、中村は溜息を吐く。

「…………ま、今考えたわけだしな、それくらい見逃せ」

『ふふ、分かった』

 アニーが笑みを湛えて一つそれをこぼす。それで、と更に言葉を投げてくる。

『どうやって夏目のところに行くの?』

 

     ◇

 

   「Particle  honest」第六章 軍属奥海大学一年 成瀬智也(3)

 

(前略)

 誰だ?

「君は――、」

 そう思った瞬間に、雪が驚きの表情のまま言葉を放った。知り合いなのだろうか。

「いきなりだが、尋ねたいことがある。失礼しても?」

「構わないけど……君は?」

 僕が彼を見ながら言うと、彼は一瞬戸惑ってからまたこちらを見据えた。

「言えない」

「なんだって?」

「言えないんだ。そこは理解してくれないと困る」

「さっきの言葉は……――、」

 彼が言い放つのと同時に雪も彼を睨んだ。さっきの言葉? 一体なにを言っているのだろうか。

「……ある意味で迷子だ。そこは間違いじゃない」

 軽く笑いながらの言葉に僕と雪は視線を交わす。二人で首を傾げてから、もう一度彼の方を向いた。

「大したことじゃないんだが、」

 そう言って彼は一つ間を置いた。

 何故だろう。次に呟かれる彼の言葉を聞いてはいけないような気がした。

「あんた達の知り合いの夏目が今どこにいるか、知ってるか?」

 

     ◇

 

『結構、無理にいったね』

 楽しげなその声に、中村は心の中で頷いて返事にする。

「……君は誰だ?」

Particle  Parade」の主人公であるらしい成瀬が、疑念をそのまま言葉にして中村に寄越す。中村は息を吐いてから言葉を思った。

「だから、言えないし、これ以上は何も言わない」

 そう言った中村に反応したのは雪風だった。雪風は人工物とは思えない髪を揺らしながら、考えるように声音を紡いでいく。

「……人違いではありませんか?」

「人違いではないな」

 そう来るか、と中村は二人に聞こえないように舌打ちする。

 物語の登場人物というだけで、どんな物事にも首を突っ込んでくるような奇怪な好奇心をもつ性格だと思いこんでいたが、それは違うらしい。確かに考えてみれば、登場人物がみな同じ考え方であるのはおかしい。心中では物語の流れを拒否しているような登場人物もいるだろう。

 しかしどうやって言いくるめるか。

 人違いではないと言い切った手前、それなりの証拠が必要になるんじゃないか――。

 いや、……そんなのはどうでもいい。とりあえずは二人を外に連れ出すことだけを考えよう。

『せーじだいじょーぶ? ジャムった?』

「……あんた達は雪風と成瀬だな?」

 考えるような仕草で間を繕って中村がそう言うと、二人はその身体に緊張を与えてから再び中村の方を向いた。

「誤解は無い方がいいな……。一応言っておくと、俺は敵じゃない」

 先に言っておくべきだっただろうかと思案しながら中村はそう告げる。それでも、二人の視線から疑念の色は消えなかった。

「信用出来ないな」

 威圧感を放ちながらこちらを睨んでいる成瀬が口を開く。どことなく成瀬の背に隠れるようにしていた雪風も、それに同意の色を見せた。

『信用、か』

 耳朶に囁かれるアニーの呟きに、中村は俯き加減で言葉を練る。

「一朝一夕で信用を築けるとは思えないけど、そうだな……俺はあんた達の上司の柚原を知ってる」

 短気な上、すぐに銃を乱射するという到底現代人とは思えないキャラ設定ですぐに覚えることができた。主人公二人よりもキャラが濃い。

 中村は「Particle  honest」を思い出しながら雪風と成瀬を見る。

「不機嫌になると銃撃してくるだろ。あとは――メシ食うのが早いな」

 メシ食うのが早いっていう描写はあったはずだが、……それがキャラの内なのかは知らない。とりあえず柚原についての知り得る知識を披露しておく。

「……もう一度、名前を尋ねます」

 眉根を微かに解きながら成瀬が中村を見据えた。

「それはだめだ」

 そこまで考えてないし、……第一本当のことを言ったらまた話がこじれる。

 ――適当なこと言っとくか。

 中村はそう思いながら成瀬を見ると、力を解いて笑ってみせる。

「柚原に知られると、また撃たれるかも知れないしな」

 

     ◇

 

   「Particle  honest」第六章 軍属奥海大学一年 成瀬智也(4)

 

(前略)

 ただ、僕達としても夏目さんの居場所を知らないのだ。

 問われても答えられない。僕がそう言うと、彼は表情を俯けてなにかを考えているようだった。

「潜んでいるだけなら連絡はあるはずです。つまり、負傷しているか身柄を拘束されているか――」

「厄介な二つに絞られたな」

 彼の呟きに、僕は頷いて返事の代わりにする。

「場所を特定できるだけでもいいんだが――、なにかそういう類のものはないのか?」

「そう言われても、」

 仮にそういったものがあれば柚原さんが使っているだろう。僕は首を横に振って彼の言葉を否定する。

 と、服の端が二、三ひっぱられる。誰だろうと思う間もなく雪だと分かった。

「……あるよ」

「ん?」

「だから、夏目さんの居場所が分かるかも知れない。今思い出した」

 そう言いながら雪は軍服の袖をまくり上げて、隠れていた右腕を露わにする。肘の内側辺りを雪が親指で強く押すと、右手首が呻くような音を立てる。僕と彼は、何事かとその光景に目を見張った。

「これが緊急用の信号弾。信号は研究所の地下と営業部と、柚原さんと夏目さんに直接伝えられて――」

 言いながら、雪は腰から吊り下げてあった携帯パックの一つを開く。

「柚原さんと夏目さんの携帯情報端末から、通信位置が逆算されてここに表示されるの」

「変わった仕様だね」

 携帯パックの中に詰められていた端末を覗きながら呟くと、雪が「そうだね」と返してくる。

「元々、私が重大な危機に瀕した時のために使うものなんだけど、……柚原さんと夏目さんはドジってやらかしそうだから、この機能もこっそり付けてもらってたの」

「あぁ、だから柚原も知らなかったのか」

 思い出してくれて一苦労、という表情で彼は雪に語りかけた。

「ともかく、これで位置は割れたね」

 僕がそう言うと、二人は頷いた。

 三人の視線が集中する先に夏目さんの現在位置が表示される。そこは――、

(後略)

 

     ◇

 

 この機能は「Particle  Parade」にも登場するのだろうか。それならば安心できるが、……夏緒が「Particle honest」の為だけに据え付けた機能だったとしたら、

 ――この二人がこれを使って夏目を助けに行くのは「Particle honest」本来の流れ、か?

 考えすぎだろうか、と中村は呼吸と共に瞬きをする。だが、いずれにしろ夏目に会うが当面の目標なのだ。

「港の傍にある……、第三倉庫群?」

 成瀬の呟いた言葉に寄せて、中村も雪風の手元を見る。

 視線の先には情報端末らしいものの画面があり、そこには簡単な地図が映されている。地図の中に赤い点が一つあるのは、恐らくはそれが夏目の現在位置だからなのだろう。

 遠くはない、な。

 奥海の地理は分からないが、中村は感覚の奥で距離を掴む。雪風と成瀬に視線を移すと、彼らも同じような判断をしたらしい。

『さて、位置が分かったとなると、あとは……――』

「救出は可能か否か」

 中村はそう一人呟きながら雪風に目を遣る。そうだな、と間延びした声でのどを慣らしながら言葉を紡いでいく。

「雪風、あんたならどう考える?」

 中村の言葉に雪風は身体を硬くする。成瀬の腕を掴んで寄り添ったまま、俯き加減で中村を見た。

「難しいよ。倉庫群の周辺は既に戦場になってるから、……ソロで突破するのは簡単だけど、救出となると難易度が格段に上昇する」

『言うなれば一騎当千だしねー。でも、確かに暴れるだけよりも、なにかを守りながら戦う方が難しいよね』

 雪風の声に重なりながら聞こえてくるアニーの言葉に首肯する。

 だが本音を言うと、別に救出する必要はないのだ。夏目から真実を採集するだけで、あとはもう物語の成り行きに任せればいい。

 夏目の救出が「Particle honest」に存在しないなら、救出をするメリットは大いにあるけどな……

 中村は手の甲を鼻先に付けながら、二人を見て考える。

「……不可能ではないんだな」

「難しいよ」

 繰り返される雪風の結論を、中村は「よし」と肯定に変ずる。

「不可能ではない以上、俺達で夏目を助け出そう」

 あいつは――、

「なにかを知ってるはずだ」

 

     ◇

 

Particle  honest」第四章 研究課雑務係 夏目健二(4)

 

(前略)

 これは雪ちゃんの緊急信号?

 一体どうなってるんだ? もしかして雪ちゃんも拿捕されたのか?

「やばいなぁ」

 この信号が間違ってないとすると、……向こうは雪ちゃんと同等か、それを凌駕する戦闘能力を持つ人物――人物? を連れてるってことになる。

 そんなバケモンみたいな連中を相手に、今の奥海が太刀打ちできるはずもない。

「その上、奥海外からの支援も期待できないとなれば――」

 勝てる確率は限りなく低い。

 結局の思考に溜息を吐きながら、軍用トラックの荷台という少し狭い空間に横になる。

「俺が動けたらちょっとは戦況が変わったのかなぁ」

 出来ることは雪ちゃんの後方支援くらいだけど。呟かれた言葉は潮の匂いに解けていく。

 それでも支援がないよりはましかもしれない。雪ちゃんが緊急信号を発信するような事態にはなっていなかったかもしれない。

 まーた柚原さんに怒られるな。

 明確な形を持って登場する未来に苦笑しながらもう一度溜息を吐いた。

 雪ちゃんからの信号がミスであることが、奥海にとっての一縷の望みだ。

 そうでなければ、奥海は、

(後略)

 

     ◇

 

「で、ここからが問題だな」

 中村は雪風の後ろ姿を見ながら、その肩の向こうに広がる光景に溜息を吐いた。

 奥海大学は正面から抜け出せなかったので、窓から脱出するという無茶な方法をとった。ビオトープに隠れるようにして構内から出たお陰で、保安軍にも見つからず大した騒ぎにもならなかったことだけが幸いだった

 夏目がいるのは、奥海港の傍にある第三倉庫群という倉庫が密集した――いわゆる倉庫街らしい。ただ、現在の主たる戦闘はその第三倉庫群で行われているということなので、近づくのも容易くはない、ということだ。

 確かに、近づいていく度に銃声や怒鳴り声が不協和音となって響いてくる。だが保安軍の奮闘の結果か、その第三倉庫群外では戦闘が全くないようだった。

 そのお陰でギリギリまで近づくことが出来る。そこで中村が見たものは、焦土と化した倉庫の群れだった。

 

「さっきの爆発のせいか……」

 あれだけ巨大な爆発音が聞こえたのだ。それ相応の威力がなければ物語にはならない。

「そうですね。でもあれは、」

 中村の呟きに、背後の成瀬が言葉を寄越してくる。中村は身体を捻って後ろを見ると、成瀬と目が合う。

「国軍が開発中の兵器だと思うんです。そしてそれを奥海海軍が使うとは――それ以前に保有してるとも思えない」

「軍が造った兵器を何者かが奪取した……?」

 成瀬は頷いてから、中村に向けて人差し指を立てる。

「もう一つ。この襲撃を行ったのは国軍だ、という可能性もあります」

「まさか。装備が国軍のものじゃなかった」

「装備だけならばいくらでも変えようがあるのが問題。一度接敵したときに相手との会話を試みたけど、……彼らは日本語を話してた」

 中村が反論すると、それを包むように雪風が言葉を掛けてくる。

 ――そういえば、

Particle  honest」では雪風が敵と戦闘をした際に、一時的にだが一人を捕まえていた。あの時向こうが話したのは日本語だったな。

 思い出した、と中村は額に指を置く。

「だとしたら……、仮に国軍がこの戦闘を起こしたんだとしたら、一体これは何のための戦闘なんだ?」

「分かりません。それに、彼らがこの地区だけにとどまっている理由も理解できない」

 雪風の後ろ姿の向こうに見える倉庫の群れに目線を映しながら、成瀬は中村に語る。

「彼らが何者であったとしても……、この場所で戦闘を続けるメリットがどこにも見当たらないんです。短時間で戦闘が了するとも思えませんが、それでも気の抜けた訓練みたいに延々と続いてる」

 まだあります、と中村は成瀬に近づかれる。

「現状は奥海だけで敵と戦っている状況です。支援どころか、外からの連絡も乏しいなんておかしい。まるで隔離されてるみたいなんです」

「それはおかしいな」

 中村は俯いてから少し考える。確かにこれはただの戦闘ではないようだ。

『ちょっとずつ真実が見えてきた?』

 ふと見上げた瞬間に響いてきたアニーの楽しそうな声に、中村は細く笑って応える。

 込み入った真実なら、夏目に会いに行った時点で「Particle honest」が崩壊してくれるといいんだけどな。これ以上複雑にされても面倒になるだけだ。

「分かった。夏目さんがいるのは――ここからだと少し分かり難いけど、敵側だね」

 夏目の存在位置を確認していた雪風が、こちらを振り向きながらそう言った。成瀬がそれに眉を動かした。

「そうか、やっぱり……夏目さんは拉致されてたのかな」

「倉庫群を東西に二分したときに敵兵がより多いサイドだよ。ゲームじゃないから、陣地を構築してるわけじゃない」

「あ、はい」

 雪風に言われて成瀬が気を落とす。危うく同じことを言いそうになった中村も、背筋を正して雪風に向かった。

「奥海が圧してる方だったら、あんた一人でもなんとかなったかもしれないが……敵側だとそうもいかないか」

「そう――――」

 なるね、と言おうとしたのか、それでも言葉はそこで止まった。

「伏せて!」

 なにが。

 思考を口にする間もなく成瀬に身体を引っ張られて、そのまま地面に叩きつけられた。痛いと感じるその前に、大光音が中村の感覚を塗り潰す。

 感覚と切り離されて冷却された思考が、雪風の焦りに満ちた表情をようやく映し出す。

 あぁ、見つかったのか。――どっちに?

 追いつかない思考に苛立ちを覚えて、中村は目前の光景を確かめようとした。

 寸刻、離れていく地上に取り残された兵士達が見えた。

 

 高速で移動する身体からは感覚がすり抜けていく。視覚や聴覚を得ても、頭に届く前に身体は次の場所に進んでいる。

 切れ切れになった思考の端で中村がようやく捕らえたのは、雪風に抱えられているらしいという状況だった。

 奥海か――それとも敵の方に見つかったのかは分からないが、少なくともどちらかには見つかったのだろう。

P.Pは反物質によって物質の消滅を目的とする兵器だが、消滅に際して強烈な光と音を発生させる。スタングレネードのような使い方も出来るのだ、と「Particle honest」の中にあったはずだ。先程の光音は、そういう使い方をした結果なのだろう。

 それにしてもどこに向かっているんだ?

 倉庫街から離れれば、少なくとも保安軍以外からは逃げ切れるはずだ。しかし高速で過ぎていく視界で捕らえられる光景は、倉庫群の中に向かっていくようにも見えた。

 一体、雪風はなにを狙ってる?

 中村が疑問を言葉に起こした直後だった。

 抱えられた成瀬と中村と、雪風自身がなにかに激突した。

 

     ◇

 

Particle  honest」第四章 研究課雑務係 夏目健二(4)

 

(前略)

 な、え? 何? 今のなに?

 え?

 ……今のなに?

 

     ◇

 

「な……、雪ちゃん?」

 これは、夏目の声?

 考えながら中村は身体を起こす。あごを思い切り打たれたような鈍い痛みが全身に回っていたが、視界だけは澄んでいた。

 ここは倉庫の中か?

 あの爆発の中でも生き残っていたということは……少し外れたところにあるのか。

 それでも窓ガラスは吹き飛んでいて、骨格も全体的に歪んでいるような気がする。危うい均衡を保っている倉庫の天井には、侵入してきた痕跡である穴が開いていた。そこからは薄く一筋の光が射している。

 軍用のトラックが数台並んでいて、その一台の荷台から夏目が降りてきた。

「無事ですか?」

「僕はね。そっちの二人は?」

 雪風の問いに、夏目は成瀬と中村を見た。雪風は安心した表情を見せると、成瀬の傍らに寄った。

「君は……どっかで会った?」

「いや、俺はあんたを見たことがあるが、あんたは俺を知らないだろう」

 ケガはない? と夏目が片膝を付いて中村に手を伸ばしてくる。

 ――あぁ、物語の序盤で目は合ったか。

 夏目の手を借りて起き上がると、中村はふらつく身体を押さえるようにして足を踏む。

「早い内に脱出したいと思うけど……。流石に三人を抱えて走るのは難しいかな」

 成瀬の腕を抱きながらの雪風が言った。夏目がそれを聞いて、眉を少しだけ上げる。

「あ、だったら僕は残ってもいいよ。ストーリー上はもう死んでるみたいなもんだし」

「ストーリー? まさか、……Particle  honest」のことか?」

「ん? そういう作戦名なのかな?」

 言いながら夏目が倉庫の扉に視線を遣る。途端に倉庫の外が騒がしくなってくる。

「とは言っても、長く話してる余裕は無さそうだね。どうする?」

 夏目が柔らかい表情を中村の方に向ける。流すように、寄り添う二人の方も見た。

 中村は腕を組んで考えようと形を作ったが、首を振ってから扉の方へと歩いていく。

「どうするの?」

「……つまり、外の奴らが中に入れなければここは安全なんだ」

『あ、』

 中村が問うてきた雪風に、振り向かずに答えるとアニーも言葉に気付いて声を響かせる。

『そっか、うん。いや、よかった。私の説明が役に立たなかったら、ってさっきからずっと考えてたの』

「俺もそう思ってた。よかったな、使いどころがあって」

 小声で呟くと、中村は扉の手前に近づいていく。

 ――もし武装集団に追いかけられたとしたらさ、

 聞いたときは具体例がおかしいとは思っていたが、それでもシチュエーションが成り立つのは予想されたからああいう話をしたんだろう。

 大召喚をする事態にならなかったのは幸いだ。中村は心の中でそう呟くと、金属の扉に手を触れる。

 引き違いで、高さは三メートルくらいか。

 とりあえず溶接でもしとけば入れないだろう。

 目を瞑りながら想像する。

 触れた部分から溶接されていく……。そうすれば、向こうはどんなことをやっても入ってこられない。

 熱も音も、それに伴う臭いも想像する。現実を乗り越えるには、現実を越える現実感を想像に与えればいい。

 想像する。

 

 中村は閉じていた目蓋を開けると、それと同時に扉に当てていた手を上に滑らせる。

 思い切り引っ掻いたような音の直後に、左右に分断されていた扉が中央で一つになっているのが見えた。ゴムの焦げるような臭いが漂ってきたが、それを無視して三人の方に振り返る。

『派手だね』

「こんなもんだ」

 倉庫の中で跳ね返る嬉しそうなアニーの声に、中村は唇を動かさないように呟いた。

「さて、それじゃあ話してもらおうか。ストーリーってのはなんのことだ?」

 

「今、なにやったの?」

「溶接」

「……どうやって?」

「聞くな」

 中村はそこまで言うと深く溜息を吐いてみせる。重要なのはあんたのことだ。そう言ってから、もう一度夏目に目を遣る。

「……ストーリーってのはなんのことだ? お前はなにを知ってる?」

「多分、この訓練の全貌を。彼らの話が嘘じゃなかったらっていうのが前提だけどね」

 夏目がトラックの荷台に腰掛けて呟いた言葉に、その場が凍る。

 ――訓練?

「訓練、ですか」

「あれ? 柚原さんに――あぁ、聞いてないか。そう、これは訓練だよ」

 座り込んだ成瀬が夏目を見上げるようにして呟く。ウィンクを飛ばしながら夏目は成瀬に答えた。

「そんな、……この戦闘も? 死傷者が出たらどうするつもりなんですか」

「いやそれは僕に言われても。というか事実はどうであれ、公には死人はいなかったことになるんじゃないかな」

「えげつないな」

 中村が頭を掻きながら夏目を見る。夏目もその言葉に頷いた。

「問題はなぜこの訓練が行われたのかってことだと思う。君等の疑問もそこだろう?」

「そうだな、訓練だとは思いもしなかったが。二人も知らなかったんだろ?」

 中村は成瀬と雪風に問う。成瀬は首肯してから雪風を見た。

「私もなにも聞かされてなかった。海軍の方でも戸惑ってたから」

「だろうね。今回の一件は完全に奥海に対する抜き打ちテストなんだよ」

「……抜き打ちにも程があるだろ。もうちょっと程度を考えた方がいいんじゃないのか」

「ここまで大規模な訓練を、――それを市民も巻き込んでのものをできる、っていうのも世界に見せつけたかったんじゃないのかな」

 それでも、と成瀬が首を傾げて言葉を挟んだ。

「この前の襲撃で奥海の情勢が不安定になってるときにやる必要は無かったんじゃないんですか? いや、それよりも、なぜ奥海で?」

「この前の襲撃があったからだよ」

 言いながら、夏目が「Particle  Parade」のシーンを言葉で映していく。

「ロシアの私軍が襲撃してきたときにはさ、僕達の――奥海の軍の初期動作が遅かったって評判だったよね。それは、今回みたいに民間人の避難を優先してたからなんだけど……」

 あの事件の後、柚原さんもだけど軍属施設のトップが集められてね。避難は警察に任せ、軍は敵と相対することに集中しろって御達しが出たんだよ。

 研究施設にそんなことを言ってどうするんだ、って柚原さんは呆れてたけど――。

「つまり、その御達しが効いているか、ってのを確かめる為の訓練なのか?」

 中村が言葉を遮ると、夏目は、その通りだ、と結論に至る。

「だけどそれだけじゃない。情報の程度は前回よりも低い、そんな状況でも前回以上の動きが出来る。そういうのを示して奥海を元気づける、っていうのもあるはずだ。兵器の実験場も欲しかっただろうしね。費用対効果が期待できなかったら、そもそもこんな訓練はやらない」

「そんな、でも」

「まだ信じられない? 成瀬君の危惧ももっともだと思うけどね、でも、……この襲撃が訓練だと公になることはないんじゃないかな?」

 夏目の一言に成瀬が表情をしかめる。

「まさか、だって……少なくとも僕達でさえその可能性には気付いたんですよ? 箝口令を布くわけにも――

「ま、個人でそういう陰謀説を論ずる分には構わないと思うよ。あくまで国軍はそれを認めないだろう、って話だから」

 というか成瀬君はもう気付いたんだ? 口調を驚きに変えながら夏目が眉を立てた。中村は三人を見ながら、腕を組んで思考を形にしていく。

 つまり、

「ストーリーってのは、訓練の流れということか」

「そうなるね。僕は捕らえられた時点で、――仮に実戦だったら死んでるから。役職も大したことないし重大な秘密も知らないし」

「……この訓練はどういう形で終わることになるんだ?」

 中村は一旦天井を見上げてから息を吸う。深く呼気として吐き出すと、再び夏目に目を据える。

「んーとね、もう他から援軍来てる? まだ?」

「今は奥海が単独で戦闘している状況です。他から援軍が来るんですか?」

「来るよ。でも……だけど、もうアレを使い終わったなら……」

 両手の指を忙しなく動かしながら夏目が一人呟く。

「あー、ま、でももうすぐかな。援軍が来た時点で、援軍と疲弊した奥海とで入れ替わるんだけど、その時点で敵、――まぁいいや、敵が降伏する手筈になってる。で、僕等にとって重要なのは――」

 これはサブイベントみたいなもんだけどね。そう言いながら夏目が雪風に目を遣る。

「なぜ僕がこんな分かり易い場所に捕らえられてるのか、ってことだけど――」

「まさか、」

 気付いた表情の成瀬が唇を噛んで俯く。なんだ、と中村が思う前に、夏目が成瀬の言葉を継いだ。

「もう一つ、訓練の意味合いを保つ戦闘があるんだ。それは、P.P搭載型の全身義体者に対する戦闘……つまり、雪ちゃんとの闘いだ」

「誘い込まれた……?」

 ――いやそれよりも、だとしたらこれは物語の展開に沿った行動だったのか?

 中村は髪を後ろにかき上げてから内側で頬を噛む。

「誘い込まれたのは確かだね。ただ、時間的な問題があるから……人員を割いてまでこっちに回してくるからは分からない」

 その言葉が終わるのと同時に、四方から音が聞こえてきた。

「人員を割いてまでこっちに回してきたらしいね」

 周りに目を遣ると、重装備の兵士達が上部の窓から侵入してきているようだった。夏目もそれを見たらしく、雪風に振り向く。

「三人抱えて走るのが無理だったら、僕は置いていっても構わないよ」

「それは……」

「残る必要はない」

 雪風が惑うよりも先に中村が言い切る。P.Pがある以上、銃口を向けられていても回避できないことはないだろう。そう考えながら。

「あんたは成瀬を、俺は夏目を持って逃げる」

「そんな、無理です」

「狙いが雪風だとしたら、俺達に向けられる銃口は少ないはずだ。それに……俺は雪風よりも強いぞ」

『すごいこと言うね。ある意味では本当だけどさ』

 中村の言葉に成瀬が黙する。

「この状況を抜けられさえすればあとは簡単だ。Particle  Paradeを使えばここはどうにかなるだろ?」

 手遅れにならない内に逃げ出したい。そう続けてから雪風を見た。

「五秒後にParticle  Paradeを発動させて目眩ましに、続けて倉庫全体を破壊してくれ。こっちは適当に逃げるが……いや、互いに場所は分かるか」

「了解」

「了解しちゃった……って、え? 本当に逃げるの?」

「耳を押さえておいた方がいい」

 焦る成瀬と夏目を横に、中村は想像を身体に寄せる。

 ――大丈夫だ。速さはもう体感した。

 雪風に引っ張られていたのが、今度は自分で走ることになる。ただそれだけのことだ。雪風の細い身体でもあの速度が出せる。外見の変化は必要ない。内側に溜まる力を引き出せば雪風に辿り着ける。

「……1、0、」

 想像は世界を巡って身体に宿るんだ。

『いっけぇぇぇぇぇええええ』

 そして、光と音に彩られたアニーの叫びが空間に響く。

 

 不意に受けるのと予め知らされているのでは、いかにP.Pとはいえ衝撃には雲泥の差がある。

 そしてそれよりも、今の中村には想像力と想像から受ける力があった。

 雪風の呟くカウントが了する寸刻に、踏み込んで身体を前傾する。そのまま夏目を右腕で引っかけるようにして前進しながら全身で加速。

 背後から迫ってくる光と音の圧力を感じながら、それに巻き込まれないようにと身体を捻って衝撃から逸れる。

 身体を横に捻った瞬間に、右側――雪風方向からの銃声が耳に届いた。

 ――対雪風戦を想定しているならばP.P対策もしてあるのだろう。目眩ましや強音は効かないと思っていたが、

 やはり正しかったな。

 雪風には銃撃は効かないだろう。P.Pで無効化できる上に、身体能力の高さで単純に避けることが出来る。成瀬を抱えて走ると考えれば、今は後者か。

 だが問題はこっちに飛んでくる銃弾だ。雪風と同等の身体能力を体現しても、中村は銃弾を避ける受けるに慣れていない。

 だから、と中村が選択したのは、

 銃弾が避ければいいんだ!

 想像によって、銃弾は中村を避けるようにして中村の足元に突き刺さる。口紅のような巨大な銃弾がコンクリートの床を打ち抜くと、その破片が中村の足に降り掛かった。

 これで攻撃を受けることはない。そして――、

 と思考した瞬間に、寸分前に受けた衝撃を呑み込んで余りある、強烈といってもまだ足りない強さの震動が中村の足元から浮かんでくる。

 来たか。

 光景を思考に、思考を言葉に直すその時間の短さで、光と音が熱を持って膨張する。

 中村は右腕にいる夏目をもう一度強く確認してから、その圧力に身を任せた。

 

「あああああああああああああぁぁぁぁあ!」

『飛んでるぅっ!』

 夏目の絶叫とアニーの感激を聞きながら、中村は空中に身を躍らせていた。

 だが、それは何秒と数えることも出来ないほどの短い時間で、背中を押されるような感覚から地面に向かっていく感覚に切り替わる。

 ――着地するときは膝を曲げて衝撃を緩和。

 全身の血液が逆流してくるような嫌な感触と共にアスファルトの地面が近づいてくる。マニュアルを読むような義務的な声音で思考を棒読みすると、棒読みそのままの行動を起こす。

「痛っ――――てぇ!」

 着地と同時に、足の裏にムチで叩かれたような痛みが広がってくる。だが、それに躊躇って速度を緩めてしまえば、――捕まる。

 だから、と衝撃を緩めるための膝の位置をそのまま利用する。曲げていた足を伸ばして、その勢いで加速直進。

 あとは片足毎を地面につけて更にスピードを上げていけばいい。

 その時だった。

『せーじ、気をつけて! 後ろ、なんか来てるよ!』

「なにが!」

 耳に直撃して壊れていく風の音を無視して、アニーの声が中村に響いてくる。なにが来てるんだと問うまもなく、銃弾が中村を避けて目前のアスファルトを穿った。

「この速度についてくるのがいるのか!」

 大声で怒鳴ったが、それで敵がいなくなるわけじゃない。

 この速度でも逃げ切れないのなら、さらに速くするよりもさっさと倒した方がいい、のか?

 分からないが、それでも逃げ切った後に見つかる方が面倒だ。

 倒すか、と中村は思い、それに乗じて想像をアニーに渡す。

「後ろに何人いる!」

『三人――三体くらい!』

 三体? 人じゃないのか? 中村の思考に疑問が浮上してくるが、それを切り裂いて銃弾が肌一枚の距離で中村を避けた。

 考えている暇はないか。

 仕方ない、と中村は倉庫と倉庫の合間に飛び込んだ。なぜならそこには――、

 

 銃があるからだ。

「やっぱりこの街は危ないな。誰も通らない道には銃が落ちてる」

 高速で迫ってくる側面に注意を払いながら、中村は地面に落ちていた自動小銃を左手で拾う。そのまま路地にふさわしい木箱の上に乗って、側面を蹴りながら相手の背後に回る。

 ――なんだこのゴリラ共は。

 空中で転回して小銃の弾をばらまきながら、中村は追ってきていた三体を見る。身長――全高二メートル強で、身体全体に鋼色の筋肉がついている。

 機械? じゃないな、……これはパワードスーツか。

 自動小銃のマガジンは充足した状態のもので、弾数はおよそ百五十発弱。銃弾を雨のように受ける三体……三人は、中村に銃口を向けようとしたが、それより先に装備が音を立てる。

 一つ音が鳴ると、連鎖的にいくつも不吉な音が機械の身体から聞こえてくる。最後に丸太が割れるような音が三つ重なって響くと、膝を緩めて自然体になった後に動きが止まった。

「終わり、か?」

「死ぬ……」

「まだ意識があったのか。気絶したかと思ってた」

 大丈夫、と右腕の中で弱っている夏目が小さく呟いた。

「これが対雪風用の装備か。あんた、知ってたか?」

「……いや、これは初めて見たよ。値段張りそうだから、壊したのが君でよかった」

「いくらぐらいだと思う?」

「さぁ、正確なスペックが分からないからなんともいえないけど、機動性から考えて……億いくかなぁ」

「戦車よりはコストパフォーマンスが良さそうだな」

「……なにと戦うつもり? ま、でもとりあえず人工筋肉と強化骨格だけでも相当なもん使ってあるよね」

 そうなのか? 語尾を疑問系にして中村が夏目に言うと、夏目が頷いた。

「ただ……これだけの銃撃に耐えられなかった所は残念かな、もうちょっといい防弾材使えば――」

『あ、』

 そこで言葉を止めた夏目は、中村の背後を見たまま動きを止める。

「どうした?」

 アニーの言葉もある。またなにかあったのだろうか、と中村が振り返ると、そこには巨大な火柱が迸っていた。

「やっ――――、」

 背後に位置する夏目がなにかを言い掛けて、やっぱりやめて舌打ちと共に中村を路地へと引っ張る。

 中村は夏目に引き摺り込まれたのを理解すると、夏目が三人の身体を路地の内側に隠そうとするのも見た。

 直後、空気と熱と圧力の塊が空間に叩きつけられた。

 

 耳元でなにかが千切れるような嫌な音が響いた。

 

 P.Pの衝撃波とは比べものにならない爆風が、倉庫を回って路地にまで侵入してくる。熱いというより痛い。中村も目を閉じて耳を塞いで衝撃から身体を守っていたが、それでも空気の赤さが目に入ってきた。

「――――」

 音なのか声なのか、それすらも分からない悲鳴のような呻き声のような響きが空間そこら中から聞こえてくる。

 いつまで続くんだ。

 そう思った次の瞬間に音が止む――音が止む?

「っあ、いい加減にしてくれよ」

「……今のはなんなんだ?」

 服装から髪型まで熱と風圧によって乱された夏目が、深く溜息を吐きながら立ち上がる。中村が声を掛けると、夏目は手招きをしながら路地から出た。中村もそれについて外に出る。

「君たちが僕の所に来る前にとんでもない爆発があっただろう? あれは国軍が開発中の新型兵器……ま、平たく言えば新しい爆弾なんだけど、今のもそれだね」

 見てみて。そう言いながら夏目が目前の景色をあごで指した。

「焼け野原だな」

「そういう言い方も出来るね」

 夏目は肩を降ろして呟くと髪をかき上げる。中村は足元にまで広がる光景から目を離せずにいた。

 夏目と会う直前に見た、焼けた倉庫の群れよりも生々しい傷跡が広がっていた。中村はそこから振り返ると、更にひどい景色が広がっているのに気付く。衝撃を直に受けた側の壁や建物の表面は、ただれていたり溶けていたりしていた。

『倉庫街とはいえ、これ街中で使ったんだよね……』

「そうだな。誰がどう判断したらここまでの被害を許す訓練ができるんだと思う」

「ん? どうかした?」

 アニーの言葉に溜息混じりに返事を返すと、声に気付いたのか夏目が中村の方を向く。

「なんでもない。それより、」

 思いついた、と表情に出さないように夏目に声を掛ける。

「雪風と成瀬がどうなってるか確認は出来るか? 爆発に乗じて逃げてるだろうとは思うが」

「場所は分かるよ。待ってて」

 そう言いながら、夏目は懐から携帯の情報端末を取り出す。指が忙しなく動いているのは、雪風達を探すためだろう。

『えーっと……』

「なんだ?」

 アニーから再びの声が聞こえる。返事をしながら、中村は夏目を背後にするような位置をとった。

『気付いてない?』

「なにが?」

 中村が間髪入れずに言葉を投げ返すと、アニーが深く溜息を吐きながら諦色の声音を響かせる。

『ぱんぱかぱーん。物語の変更は確定されました』

「……棒読みだな」

 中村は呟きの間際に、いや、と切り返して空を見上げる。

「どこで――あー、そうなったんだ?」

『今の爆発が起こった瞬間だよ。ホントに気付いてなかったの?』

「……それは、誰だって爆発の方に気をとられるだろ?」

『そうかもしれないけどさー』

「あのー」

 アニーが声を響かせるのと同時に、夏目が肩越しに言葉を寄越してきた。中村は振り向いて夏目の手元を見る。

「……通話中だった?」

「いや全然。二人の場所は分かったのか?」

 一応ね、と少しだけ慌てながら夏目が爆心地からややずれた方向を見た。

「直線距離で三キロくらい。生体反応あるし、そもそも雪ちゃんも成瀬君も頑丈だし生きてると思うよ」

「頑丈、ね」

 言葉は悪いがそういうことなんだろう。夏目の示した方向を目で見て確認すると、何歩か後退って助走距離をとる。

 ――義理はないが、それでも少しは付き合ってやろう。

 引きつる夏目の表情を余所に、中村は速度の限界をイメージしながら加速した。

 

 物語の束縛から解き放たれた感覚は、加速する感触をも心地良いものに変えてゆく。

 中村は夏目を抱えながら、建物の屋上を踏み台に二人の元に馳せた。

「無事でしたか?」

「なんとか。ちょっとこいつを頼む」

 服の端々を黒く焦がしていた雪風に、中村は右腕の夏目を投げる。気絶しているのか扱いに諦めを感じているのか、宙を舞う夏目は静かに飛んだ。

 等身大のマネキンのような夏目はそのまま雪風に抱かれて受け止められる。雪風はそのまま夏目を地面に落とした。

「どうすればいい?」

「任せる。柚原にでも迎えに着てもらったらどうだ? 夏目の話が正しいとするなら、じきに戦闘も終わるだろ」

 分かった。そう言うと雪風は成瀬を見る。視線を回された成瀬は戸惑いながら中村を見た。

「君はどうするんですか?」

「事情が込み入ってるんだ。時間に余裕があれば、また」

 成瀬が言葉を継ごうとするが、中村はそれを聞かずに目前の建物の壁を蹴って向かいの建物の屋上に乗る。

 肩を降ろしてから空を見上げた。

「で、あとはなにもしなくていいんだよな?」

『もうここは「Particle  honest」じゃないからね。大丈夫、……かな』

 ――なんだ?

 アニーの言葉と共に少し冷たい風が吹いた。中村は眉をひそめてから、雪風達がいない方の道へと飛び降りる。

「――それで結局、なにが物語破壊の決定打になったんだ?」

 中村がそう問うと、アニーはあごに人差し指を付けるような声色で思考を世界に映す。

『ネタバレするとさ、「Particle  honest」では、雪風と成瀬が夏目に会いに行くけど、救出は出来ないんだよ』

「そうなのか?」

『そうなの。それで、……なんかいっぱい兵士が来たじゃん? あれに撃たれて成瀬がケガして、雪風が一人で夏目を助けて、柚原が激怒して夏目殴って終わり』

「……ラストおかしくないか?」

『でも大体そんな感じだよ。せーじが介入したから成瀬がケガしなかったし……それ以前に夏目も助け出せたし、あと雪風がやったのか、それとも物語からすこし逸れたところだったのかは分からないけど、すごい爆発あったし――、』

 言葉を風に吹かせながらアニーが言葉を続けていく。

『「Particle  honest」のテーマ、――テーマっていうのかな。でもとりあえずそーゆーのは、せーじが無茶苦茶にした所に詰まってるんだよ』

 だからさ、とアニーが一言を置くと中村の周りに潮風が流れた。

『実を言うと、その場面は見てもらいたかった――っていう気持ちもあったんだよ。言わなかったけど、ね』

「そーゆーことは早く言え。時間が迫ってるってずっと思ってたから、あれでも余裕はなかったんだ」

 ま、でも、

「元に――現実に戻ってからゆっくり読むことにするよ」

 中村が通りを歩みながら空を見上げると、アニーはそれに応えずに――ただ柔らかい日差しを重い雲で隠した。

 

『そのことだけど、征司、……ちょっといいかな?』

 今にも身体をすり抜けてしまいそうな細い声でアニーが中村を呼んだ。

「どうかしたのか?」

 手首を掴まれるような、どこまでもひたむきな声に中村は思わず振り返る。

 いや、……アニーはこの世界には――「Particle  honest」には、いないんだ。

 振り向いた先には誰もいなかったということを思いながら、中村はまた前を向く。

 そこには、

『征司、』

Particle  honest」がいた。

 全身に一枚の白い布を纏った雪風のような姿で、浮いていて、半透明だった。

「夏緒……?」

 そして、「Particle  honest」は夏緒の似姿だった。

『征司……っ!』

 両目一杯に涙を溜めながら、透けて見える表情を崩してアニーが中村に歩んでくる。

 眉尻を下げて、大きな瞳に比例する大粒の涙をこぼしながら。

「なにが、どうしたんだ?」

 わけが分からなかった。

 何も聞かされてはいない。今目の前にいる幽霊じみた存在が「Particle  honest」だということも、アニーが夏緒に似ていることも、泣いている理由も。

 中村は戸惑いながらアニーを見る。

 頬を濡らしながら、それでも唇を噛んで嗚咽を呑み殺そうとしていた。

『征司っ、――――ごめんなさいっ……!』

 声が目の前から響いてくる。言葉が頭の中から伝わってくる。意味は、中村でさえ胸が苦しくなるほどに分かった。

 謝っているんだ。

 でも、何故? どうして?

「なに謝ってるんだよ、らしくないな」

 それがどんなものであろうとも、謝られるに値するという事実を手にしたくはない。その一心で、中村は笑いながらアニーに言葉を渡した。

 それでも、アニーは首を振って中村を見続けている。

 声を上げずに泣きながら。小さな肩を悲しみに揺らしながら。

『ごめんなさい……、私っ、征司に、……嘘ついてたのっ!』

 ――嘘。

 寒くなるような感覚と共に、アニーのごめんなさいという言葉がもう一度大きく響いた。

 右腕で涙を擦ってから、アニーはまた中村を見据える。

「嘘って、……どういう」嘘なんだ?

 語尾が抜けてもそれでも気付かない。中村も、アニーの粗涙に赤くなった双眸を見る。

『ものっ、物語を壊したらっ、……物語は、消えちゃうのっ!』

 意味を掴むのに時間が掛かった。

 いや、そうじゃない。

 意味はすぐに理解できた。でも、どうしてもそれを理解したくなかった。間違いだと思いたかった。間違いだと信じたかった。

 でも、と中村は思う。

 アニーの言ってることは、本当なんだ。

「消える、って。……どういう、消えるっていうことなんだ?」

 中村が言葉にならない言葉でそう問うと、アニーは漏れ始めていた嗚咽を抑えながら答えた。

 

『消えちゃうの! 想像空間からも、現実の世界からも、――――夏緒の記憶からも!』

 

 わめくようにして訴えるアニーの言葉に偽りはなく、でもそれ故に中村は感情を得た。

 だったら、

「――だったらなんで俺に物語を壊させたんだよ!」

 怒りというよりも理不尽の声が自然と出る。

ふざけるなよ、今までの苦労はなんだったんだよ、お前はどうなるんだよ、――意味が分かんねぇよ!

『全部、全部私のせいなのっ! 夏緒は悪くないのっ! 全部……私のせいなのっ!』

「分かんねぇよ! 分かるように話せ!」

 

     ◇

 

 人が大地の上に生まれるように、想像物は想像空間に発生するよね?

 そして、やっぱり人と同じように想像物にも――寿命があるの。

 ううん。違う。

 想像物の寿命はね、それが途絶えても物語……現実世界に転写された想像物の似姿は残るの。

 でも、想像空間に漂う想像物としての姿形や意志は消えちゃうんだよ。

 そう、それが寿命。

 それで、やっぱり人間と同じようにね、想像物の寿命もそれぞれで異なるの。

 想像物の寿命っていうのは人間とは違って、ENDROLEしてから数えられるの。産声を上げたときからカウントされる人間と違ってね。それには想像物に対しての寿命の定義が人間と違うって事が関わってるんだと思う。

想像物にとっての寿命は、生まれてから――ROLEINしてからENDROLEになるまでに掛かった時間とイコールなの。

 それが、全ての想像物に等しく与えられたピリオドの位置。

 自分が自分であることを実感できる唯一の時間。

 ENDROLEになってから自らの寿命を終えるまでの短い――或いは長い時間にね、想像物は駆け抜けるの。

 想像空間を。

 そして、どんな想像物もいない想像域の辺境を目指すの。

 それは――。

 それは、想像物が全体的な意味で死なないっていうことから由来しているんだと思う。

 なんて言えばいいのかな。

 あのね、想像物は死んでも想像空間に還元されるの。身体も知識も感情も、全て。

 つまりそれは、いずれ生まれ得る次の世代の想像物達にバトンを渡すということ。

 想像物の美点も醜点も全て受け継がれる可能性があるということ。

 ある意味で全ての物語が「過去の物語達」を踏襲してるのは、これが一因なのかもしれないね。

 征司には少し想像しにくい話になるけど……、

 多くの情報は、想像物が寿命を全うした時点で存在していた地点――位置座標の周囲にばらまかれるの。そして情報が多いところには、次なる想像物が生まれやすくなる。

 いわゆるジャンルやカテゴリーの広域化の為にENDROLEは想像空間を飛び回るの。

 うん、それで――。

 

 それで、ここからは私の話。

 私が生まれたのはつい最近なんだよ。生まれてからすぐに夏緒と繋がって、……嬉しかったなぁ。

 想像到達線で結ばれる前の私は――とは言っても他の想像物も同じだと思うけどね、なんにも知らなかったの。そう、なーんにも。

 目の前にあるあの青い綺麗な場所はなんなんだろう、って。そんなことも知らなかったの。

 それでも、まさに生まれたてだったから、動くことも出来ずにしばらくその青い宝石を見ていたの。

 次の瞬間だったような気もするし、少しだけ待っていたような気もする。

 ふ、と気付いたらね、その青い綺麗な場所の名前が分かってたの。地球、って。

 あぁ、あそこに夏緒がいるんだ――って。

 それが、夏緒とリンクしたときの最初の感想かな。

 あれ、私、なんでそんなことが分かるんだろう――。

 すぐ後にそう思ったときから、堰を切ったように知識が溢れ出てきたの。

 言葉のこととか、文字のこととか。物理法則から心理学の用語までも。それに、

Particle  honest――私のこと、とか。

 想像空間内での私の仮想身体が人型……雪風の姿を模し始めたのも、多分この辺りから。

 それからは楽しかったなぁ。

 実は、想像空間内でも秩序を保つための軍隊とかがあるんだけどね、私はそーゆーのには関わらずに、月からも離れたところでこっそり夏緒とリンクしてた。

 私は幼くて……夏緒から送られてくる情報や知識の一つ一つが楽しくて仕方がなかったの。

 日々進化してゆく自分の仮想身体と、鮮やかになっていく感性や感情。

 それは全て夏緒のお陰。

 征司に聞かれたときに、私は答えたよね?

 Serializerにとって、想像者は神に等しき存在だって。読者は使徒に等しき存在だって。

 結局それは――勘違いだったんだけど、それでもその時の私はそれを信じていた。

 でも、完全には信じ切れていなかったのかもしれないね。

 私は怖くなったの。

 なんで夏緒は私を選んでくれたんだろう、って。

 夏緒が「Particle  honest」という物語を望むのなら、どうして私みたいな不出来な想像物を想像してくれたんだろう、って。

 私は夏緒にテクスチャを送らなければならないけれど、力不足なんじゃないか、って。

 勘違いも甚だしい考え方だったんだけどね。それでも、――その時の私には、その思考を打ち砕く程の強さがなかったの。

 私は――。

 私は夏緒のことが信じられなくなった。

 神様は私のことを弄んでるんじゃないのかって、ね。

 最悪だよね。

夏緒は一所懸命に「Particle  honest」を完成させようとしてたのに、私はそれに応えられないばかりか、その言い訳を夏緒に押し付けて……裏切った。

それでも神様だったら――夏緒だったら、すぐに私の態度に気付いてくれるんだろうと思った。

なんか変だな、物語の展開をどうすればいいんだろう――?

戸惑って、すぐに私の方に視線を向けてくれると思ったの。

でも、違った。

夏緒がそう考えるよりも前に、想像到達線が途切れたの。

ふっ、って。

視界から赤いものが消えた。熱に浮かされてた自分が、そこでようやく見えたの。

夏緒の本当の姿も。

真実はどこを見回しても残酷で、私はそれを受け容れられなかった。

夏緒は神様なんかじゃなかった。

一途に「Particle  honest」を思い続けてる、ただ一人の想像者だった。

 

 私はどうしようもなく愚かで、哀れで、仕方のない存在だって思い知らされた。

 想像空間の中の、誰にも見つからないところを探し続けた。

 そしてそこで……ずっと地球を見ていたの。

 私を信じてくれていた、夏緒にもう一度会いたかった。

 

     ◇

 

「…………」

『私は思ったの。もう、誰にもこんな辛い思いはさせたくない、って』

 嗚咽の収まった身体を抱いて、アニーは泣き腫らした目を中村に向けて微笑んだ。

『だから、私は想像空間に情報の破片として還元されることを望まなかった。だって、もしそうしてしまったら、……また、夏緒と私のような不孝行な想像関係を持つ想像物が生まれてしまうかもしれないから』

 中村は何も言えなかった。

 悲嘆にくれた独り身の告白に、ただ圧倒されていた。

『でも、その望みが想像到達線と私の似姿をリンクさせたの』

 涸れた小川の底のような消えかけた笑みを浮かべてから、アニーは少しだけ俯いた。

『想像到達線が再び繋がったっていう話は聞いたことがなかった。だから、……それは、私みたいに切羽詰まった想像物はいなかった、ってことなんだよね』

 もう一度表情を中村に向けて、アニーは言葉を紡ぐ。

『想像到達線が繋がったことで私は安心した。でも、それと同時に……失望もした。やっぱり夏緒と私は、他の想像者と想像物の関係とは一線を画するような想像関係だったんだ、って』

 透き通る髪を潮風が持ち上げた。中村はどうしようも出来ずに、ただそこに立ちつくしていた。

『想像物は自分自身を――物語を自分で作り替えることは出来ないの。あくまでも想像者が想像し、想像物はそれにふさわしいテクスチャを送るだけ。

 でも、もし仮に本来的な想像者とは異なる想像者とリンクできたのなら?

Particle  honest」は「Particle  honest」として完成しているから、多少も物語が変更されることはない。でも、極端な変更があれば――それは物語が……想像物が否定されたということになる。結果として存在が消滅するの』

「俺は……お前を否定したつもりはない」

 中村は絞り出すようにしてようやく言葉を生んだ。それでも、言葉の不自由さに声は続かない。

『ごめんね……ずっと、嘘をついてたの。でも、大丈夫だから。征司は現実に戻れるから』

 乾燥にひび割れた大地に水が染みるように、アニーの言葉が空間ににじんだ。

「それはいいんだよ。…………でもなんでそこまでしなきゃいけなかったんだよ。夏緒に会わせる顔がねぇよ……!」

 本当に消えなきゃいけなかったのか。

 中村は両の拳を握りしめて、目前に幽かむアニーを見た。

『ごめんなさい……。でも、想像空間で一人地球を見てたときは――もっと辛かったの』

 それに、とアニーが繋げて言う。

『私よりも夏緒の方が辛かったと思う。想像到達線が途切れてしまった今は、もう夏緒の気持ちも分からないけど、それでも』

 ね? とアニーが首を傾げて涙の一粒を落とした。

 中村がもう一言を告げる前に、アニーがまた一度音色を紡いだ。

『だからもう、誰にも、この悲しみを知って欲しくない。私は想像空間に巡ってはいけないの』

 

 まだ――。

 まだ、なんとかできるだろう。今からでも物語を直せば……全ては元に戻るだろう。

 中村はそう思考して、力の抜けた身体でアニーに背を向けた。

『……征司?』

 風鈴の音のような、どうしたの、という言葉が中村の背後から響いてくる。

「まだ……、今からでも「Particle  honest」を元に戻せばなるようになるだろ」

 だから雪風を見つけて成瀬を見つけて――――なんとかするしかないだろ。

『せーじ…………』

 消え入るような、悲しみに満ちたアニーの声が中村に響く。

 そんな声で……俺の名前を呼ぶなよ。

「普通じゃない――逆想像到達線で無理矢理ここに連れてこられたんだとしてもな、俺とお前は繋がってるんだよ」

 だから、

「お前の悲しみは分かるんだよ、指先が痺れそうになるくらいに分かるんだよ!」

 中村はアニーに背を向けたまま一歩を踏み出す。

「でもな、俺は夏緒のことも知ってるんだよ!」

 楽しそうに物語を創ってる夏緒を

 俺やヒゲの批評を聞いて一喜一憂する夏緒を。

Particle  honest」を書いている夏緒を。

「想像物が消滅した時点で夏緒の記憶からも「Particle  honest」が消え去るのなら――

 震える拳を諫めて、中村は立ち止まる。

 アニーを振り返らずに言った。

「それは、させない」

 

     ◇

 

   「Pa??ic?e  h?ne??」第五章 軍属奥海大学四年 成瀬智也(0)

 

「柚原さん、聞こえますか? こちら成瀬です」

 夏目さんを救助した後、僕達は奥海港から最も近い位置にある駐在所へと駆け込んでいた。そこから柚原さんに連絡を付け、真実を告げようという算段だ。

『あ? なんでそこにいんの?』

 繋がった時点でいきなり不機嫌モードだったがここでひるんでいてはいけない。中途半端にひるんで言葉でも噛んでしまったら、後からなにをされるかも分からない。ここで大切なのは、要点だけを簡潔に述べること。

「柚原さん、こちらで夏目さんを保護しました」

 そして、

「これは訓練です。もう一度言います、この襲撃は訓練なんです」

 僕がそう言うと、無線の向こうの柚原さんが無言になる。

 おかしいな、もっと激しい反応があると思ったんだけど――。

『それ、どっから聞いた?』

「僕は夏目さんから聞きました。夏目さんは捕まったときに事情説明を受けたそうです」

 僕はそう言いながら夏目さんを見る。柚原さんへ告げる僕の言葉を聞いたのか、夏目さんは頷いていた。

『そう……それじゃあもう末端にまで情報がいってる可能性もある訳ね……』

 そう柚原さんが一人呟いた。

(中略)

「それじゃ……」

『そう、私が直接知ったのは襲撃の六時間前』

 そう言うと、柚原さんはノイズの混ざった溜息を吐いた。

『ま、六時間でなにが出来るわけもないし、……雪ちゃんだけは確保しとこうと思ってたんだけど、夏目がいなくなったお陰でロストしちゃったよね』

「え? なんですか、それとなく僕に責任を押し付けてません?」

 柚原さんの声を聞いた夏目さんが慌てて首を振っていた。雪が少しだけ申し訳ないという表情になる。

『今回はケガが無いだけで十分、かな』

「柚原さんにそう言わせるなんて、……そんなに大変でした?」

 猫が優しく唸るような声が無線の向こうから聞こえる。

『どうだろうね。でも、やっぱり向こうは大したものよ。奥海の諜報も情報を掴めてなかったみたいだし、民間の避難がこんなにも早かったのも――役所が企業系に強く働きかけたからなのよね』

「成程。だから避難がスムーズだったんですね。上手くいきすぎてるとは思ってたんですけど」

 避難場所指定の奥海大学でさえ混乱は見られなかった。異様に落ち着いているとは思ったが、その裏では民間企業の支えもあったらしい。

『今一番興味があるのは――事後処理なんだけどね。どうやって誤魔化してくると思う?』

「そこは……どうなんでしょう。テロとか?」

『さぁ、でも……こんな面倒なこと仕組んだ人達には、別の機会で痛い目を見てもらうことにするわ』

 

     ◇

 

 でも、どうすればいいんだ。

 中村は奥海の海港付近を走っていた。体力は保つ。速さも雪風に並ぶだろう。一度経験してしまえば、その想像を取り出すのは容易いことだ。

「くそ……っ!」

 それでも、誰に向けることもできない腹立たしさが自分に返ってくる。

 なんで登場人物達がいる場所が分からないんだ!

 中村でさえ物語の終焉を皮膚一枚で感じ取っていた。少なくとも想像到達線で繋がっている以上、ENDROLEに近づいていく感覚は二人で共有できる。

 それが中村にも感じ取れるほど強くなっているという事実を除けば、概ね事態は良好だった。

 焦燥感が中村の背中を押す。

 口の中が痺れるような感触が気持ち悪かった。

 

 想像しろ。

 少なくとも、もう「Particle  honest」は「Particle  honest」じゃない。

 ならば夏緒が想像した基盤よりも、今俺が想像したものの方にアドバンテージがあるだろう。

 中村は考えながら、奥海街道を駆けていた。

 焦りにかられた息遣いを抑えながら、「Particle  honest」の雪風の章を読んだときに想像した速度を保って疾走する。

 もう夏緒の想像はその力を発揮できない。だから、そこに付け入る隙はあるはずだ。

 しかし、と中村は思いを巡らせる。仮にこちらの想像も通じなかったら……やはり現場に行くしかない、と。

 ならばどうするか。どんな状況であることにすればいいのか。それよりもまず、登場人物達はどこにいるのか。

 身体に衝突する空気の圧塊を忌まわしく思い、それでも中村は想像した。

 今は……成瀬と雪風、夏目の三人は偶然にも奥海の通りを歩いている。そう断定する。

 俺が雪風に言った通り、三人はそこに至るまでに柚原か――他の誰かに連絡して事の次第を説明しているはずだ。だが柚原はそれを知っていて――。

 それから、どうなる?

 自問の答が詰まるのにも苛立ちながら、中村は足を止めずに走り続ける。走り続ければ求める解答に辿り着けるかのように。

 それから――、

 それから、柚原も三人に状況を話すはずだ。戦闘が海港付近の倉庫街で行われているならば、市街部は無事で……それを聞いた三人は奥海街道を戻って帰ってくる、か。

 ここまでの流れに不自然さはないはずだ。矛盾があっても無理矢理展開を引きつけるしかない。だから、

 想像しろ……!

 

「とまれぇぇぇぇえええええ!」

 ある意味で物語の最後にはふさわしいだろう。成瀬と雪風、夏目は三人並んで街道を歩いていた。

Particle  honest」というこの世界から圧力を受けているような息苦しさを中村は覚え始めていた。それでも屈することは出来ずに、中村は呼吸荒く姿勢を正す。

 怒鳴るような声を三人にかけると、三人は驚愕の表情で振り返った。

 高速の疾駆を止め、靴の裏でブレーキをかけるようにすると、都合の良い位置で風が止んだ。

 中村は両膝に手をつきながら、世界に色と速度が戻ってきたのを実感する。目前には唖然とした二人と戦闘体勢に近い一人がいた。

「なに? 今のなに?」

 動きに対して得た疲労はゼロに近しいが、風圧を受けたことに対する身体の疲弊はあったらしい。ここまで来ても想像は未熟なのかと苦笑しながら、中村は面を上げた。

「早く戻れ、お前ら」

「戻れって、……どこに?」

 白衣のポケットに突っ込んでいた手で頭を掻きながら夏目が言う。

「――――……二人は大学まで戻れ、あんたは倉庫の――軍のトラックに乗ってろ」

 中村はそう言ってから、膝についた手を放して深く息を吸い込んだ。

「……どうしてだ?」そう言ったのは成瀬で――、

『そんなことしても……、なんにもならないよ……っ!』

Particle  honest」の主人公が声を放つのと同時に、アニーも中村に声を響かせた。

 身体のどこかで繋がっている想像到達線を探しながら、物語の先を求めながら、中村は目の前を見つめた。

「なんでもいいだろう! 早くしてくれ、このままじゃマズイんだよ!」

 口任せに言葉を吐いた中村の視界には成瀬がいて、雪風と夏目がいて、その後ろには涙を溢れさせたアニーがいた。

「なんでもいいだろ、って言われても……ね」

『よくないんだよ……っ!』

 同じ瞬間に別の言葉。頭の中と身体の外から響いてくる二つの声音を聞きながら、中村はそこに立っていた。

 段々と粘り気が増してくる空間の中、中村は口を動かして言葉を紡いでいく。

「いいから早くしろって言ってるんだよ! 説明は後からいくらでもしてやる!」

 だから、

「はやく、戻ってくれ!」

 中村はそう言うと、三人のその先に佇むアニーを見た。

『だめだよ、できないよ……。たとえ登場人物の位置が元に戻っても……物語は振り返らないんだよ』

「…………分かった」

 アニーの言葉に気取られている内に唐突に言葉が聞こえてくる。意味を問う前に意味を理解して、声の主である雪風に目線を移した。

 何を言ってるんだ、と驚くような二人を余所に、雪風はただ中村に言葉を寄越してくる。

「もう一度だけ……あなたを信じる。――――行こう、智也」

 それだけを言うと、雪風は成瀬に手を伸ばす。寸刻だけ戸惑った成瀬は、それでもたじろがない雪風を見ると頷きながらその手を握った。

「…………分かった。それじゃあ、僕も信じてみよう。君を」

 手を握った二人は中村に振り向く。夏目は困ったように表情を傾けて腕を組んでから僕を見た。

『なんで……っ!』「なんで……、」

「いつも僕を無視して話が進んでくのかな? そう思わない?」

 その声と同時に泣き声が響く。中村は内側から漏れ出すような悲しみが身体の中に広がっていくような錯覚を覚えた。

 分かってるんだよ!

 中村は悲しみを折り潰すように顔を俯けて拳を握る。

 どれだけ悲しいのかも、どれだけ辛いのかも。でも、だからこそこれ以上アニーに夏緒を裏切らせるわけにはいかないんだ。

 拳を握る痛みで思考を掻き消して、中村はもう一度深く息を吸う。顔を上げて、こちらを訝しむ三人を見た。

「夏目は俺が連れて行く。それと出来れば――これが訓練だということを、忘れてくれ」

「それは……これが訓練だということを知られていては不都合がある、ということですか?」

「その通り、忘れるんだ」

 中村はその先も言いたげな成瀬の言葉を切って止める。夏目の腕を引っ張ると、本来夏目が存在すべき場所を見た。

『せーじ、もうここは夏緒の「Particle  honest」じゃないんだよ……、だから想像で物語を変えられる。でも、もう止めてよ……っ!』

「別に引っ張ってくれなくても……自分で歩けるよ?」

 感情と声音が同時に響いてくる。それでも感情に振り向くことが出来ずに、中村は見つめた先に進んで行く。

「ダメなんだよ……! まだなんとか出来るだろ!」

『出来ないんだよっ! もう止めてよ……! もう、夏緒の物語を壊さないでよ!』

「えーっと、……何が? 歩くのが?」

 戸惑う夏目を無視して中村はまた一歩を踏んだ。

 ゆっくりと加速する。

 

 登場人物とはいえ夏目のポジションは通常の人間で、つまりは高速動作に対する耐性は無いに等しい。

 中村が夏目の腕を掴んで疾走したので、最終的に夏目は風にたなびく鯉のぼりのような姿勢で高速移動することになった。

 中村は夏目が本来いるはずの軍の車両に夏目を放り投げると、手足をロープで縛る。

 状況としては、これが「Particle  honest」の位置取りだ。

「あとはなにが――」

 物語を巻き戻すのに必要なんだ。

 思考しながら中村は踵を返す。空気が粘り気をもったように身体が動かしづらい。

『もう嫌だよ……! そんな征司の姿なんて……見たくないよ』

「――辛いのがお前一人だと思うなよ。お前が消えたら一番悲しむのは誰だか考えろよ!」

 中村は潰されそうになる感覚を追いやるために声を放つ。

 それでも、

 それも、

『分かってるよ! 夏緒が一番悲しいんだって分かってる! それでもこうしなきゃいけないんだよ!』

「だったらなんで!」

『それも言ったよ! もう、誰にも、何にも、こんなに悲しい思いはさせたくないんだよ!』

「その為にまた夏緒を裏切るのかよ!」

 中村は呼気を荒げながら、すぐ前にいたアニーを睨む。

 中村の捨てた言葉にアニーは悲しげに微笑んで、中村に向かってゆっくりと歩んだ。

 それはね、

『私は――――』

 

     ◇

 

   「?a??ic?e  h??e??」第五章 軍属奥海大学四年 成瀬智也(9)

 

 急に彼を信じる気になれたのは何故だろうか。

 雪も理由無く彼を信じたようだった。雪らしくないが、それでも……今の僕には分かる気もする。

 人を引きつける魅力というか……いや、それは少し違うか。

 なんと言えばいいのか分からないが――信じてもいいような気がした、という漠然な気持ちが今ここにある。

 僕と雪は、奥海大学に戻っていた。

 彼の言葉を信じて大学に戻ったのは良いけれど――そこからが問題だった。

 このまま待て、ということなのだろうか。

 雪は柚原さんに事の次第を説明した。雪越しに聞こえる柚原さんの声は不満だらけだったけど、通信相手が雪だったお陰で激怒までには至っていなかった。

「心配してくれてるんだよ、柚原さんも」

 どうしてあんなに怒りっぽいんだろうと言うと、雪が苦笑しながら言ってくれた。

 それはそうかもしれないけど、と僕は返しておく。

 確かに柚原さんも柚原さんなりに雪を心配してくれてるのだ。傍から見ててもよく分かる。

 それに――、

「智也、そういえばさ、」

 雪の声で僕は現実に落下した。なに、と隣に膝を抱えて座る雪に声をかける。

「気のせいかもしれないんだけどね。なんだか――」

「ん?」

 細く消えた語尾を連れて雪が腕に顔を埋めた。どうしたんだろうと思う暇もなく、雪が呟いた。

「もう…………」

 恥ずかしそうに顔を上げて、頬を染めながら雪が僕を見た。

 

    ◇

 

 焦燥感が世界に映る。

 息遣いを荒くしても戻らない物語に、中村は身体を動かせずにいた。

 目前には涙をこぼしながら微笑むアニーがいる。

『私は、夏緒を信じてるから』

 鬱屈とした時間の流れが吹き飛ぶような透き通る一言だった。中村の視界に柔らかい潮風が吹く。

 ――――そんなのは、

 なにが自分をこんなにも追い詰めるのか分からない。でも、それでも中村は耐えきれずに自分の唇を噛んだ。

 そんなのは、卑怯だ。

 俺にはまだなにかを信じることが出来ていないのに。夏緒を信じているからなんて。そんなことを言ったって。

 ……俺には分からない。

 握り締めた拳からは一つの骨音が響く。単音が空間に響くと、アニーが音を受け取るように首を傾げた。

「それは、そんなのは――――俺には、分からない」

 心の多く底から浮かんでくる響きだった。中村は俯いてから、地面を睨むようにして息を吸う。

「分からないんだよ……っ!」

 沈黙と呼ぶには音の多い無音を得てから、アニーが中村に近づいてゆく。

『大丈夫。大丈夫だよ、征司』

「なにが!」

『征司が想像物を想うのなら――想おうとするのなら、きっと彼か彼女は応えてくれる』

 だって、想像物はあなたといるだけで楽しいんだから。

 いい? と確かめるようにアニーが眉尻を下げて言う。

『想像到達線はただの知識や情報を繋ぐリンクじゃないの。想像到達線リンクは、想像者と想像物の心を結ぶ』

 言いながら、アニーは透ける手の平で自分の胸に手を当てる。手の平越しに見たアニーの身体も、どこまでも透けていた。

『今、私と征司は繋がっている。だから征司が嬉しくなれば私も嬉しくなる。征司が悲しくなれば私も悲しくなるし――怒ることもある。

 分かるよね。

 この鼓動の行く先には、征司がいるんだよ』

 それと同じようにね、とアニーは幼子を諭すような柔らかい音色で語っていく。自らの左胸を触れていた透明な手が、中村の左胸に触れようとする。

『征司が想像物を信じようとするのなら、想像物も征司を信じようとする。それは絶対だから、忘れないで――』

「…………っ!」

 言葉にならない感情以上の感触がアニーの手から流れ込んでくる。

 悲しみや苦しみ。そのものだと呼べる実体のないそのものが、アニーの手から色を伴わずに中村に侵入した。

 視界が黒く塗りつぶされて、それでもまだ感情の行き場が足りない。むしろこのまま潰れて死んでしまった方が気が楽になるんじゃないのかと思えるほどの痛みが、中村の胸をのたうった。

 ――夏緒。

 は、とさっきとは異なる意味の呼吸の荒さを得る。中村は、既に手を放していたアニーを見た。

『ごめんね、もう死ぬっていうときには……誰かに全てを残したくなるみたい』

「今のは、」

『うん。やっと落ち着いて……それでもまだ、夏緒に会いたいって思うの。それができないと分かっていても、それでも』

 アニーが呟きながら、腰を折り曲げて何もないところに座った。薄く白い指先が遊ぶ。

『――――ふ。もう、だめ』

 それだけの言葉の意味も、今の中村には理解できた。

 悲しいとか、辛いとか。言葉はそれを表すためにあるけれど、それでもその意味を表すのにはまだ足りない。

 そういう、言葉以上の輪郭のぼやけた感覚をアニーは溜息として吐いた。

 何もないところに一人だけ。

 すり抜けてしまいそうな身体で、一人寂しそうに指先だけで遊ぶ姿が。

 ――分かってるんだよ。

 誰よりも己に近い人を裏切ってしまったという罪悪感も。

 赦される時が来るのかも分からずに、それを待ち続けるのも。

 それが辛いということも。

 中村はなにも言えないままに、悲しみの極限に位置する一人を見ていた。

「分かったんだ。お前が辛いってことも」

 それでも、肌で感じられる終わりを目前にして言わずに別れることは出来ない。

 アニーが中村の声に面を上げた。一筋の涙が、頬を伝っていた。

「それを知ってもまだ……夏緒の記憶に「Particle  honest」を留めておきたいっていうのは、俺の傲慢だろうか」

 中村がそう言うと、アニーはもう一度微笑んだ。

『ごめんね。夏緒には、内緒』

 

     ◇

 

   「?a??ic??  h??e??」終文

 

 そして、ようやくあなたに気付けるのは――。

 

     ◇

 

 もう身体が動かなくなる。中村は「Particle  honest」が次第に固まっていくのを感じていた。

「……動きづらいな」

『うん。もうすぐ、かな』

 それは多分言葉通りの意味なのだろう。

Particle  honest」の柔軟性がなくなったということであり、物語の行く末が固まったということであり――

 それはつまり、もうすぐ「Particle  honest」が「Particle  honest」でなくなるということ。

 中村は空気の粘度が加速度的に上昇しているのを体感していた。アニーも気付いているらしく、それでも最期の時に交わすべき言葉が見つからない。

 なにを言えばいいのかと、掛ける言葉も返される言葉もアニーは知っているのではないかと中村はおぼろげに考えていた。

「なぁ、夏緒はお前のことも――「Particle  honest」のことも忘れるんだよな?」

 それでも言葉と声でしか気まずさが埋まらない。

「夏緒はなにかを書こうとしていた、ってことまで忘れるのか?」

『うん、多分そうだと思う。でも……夏緒なら、またすぐに新しく物語を紡いでくれる』

 どことなく自分に言い聞かせるような口調でアニーが呟く。そうか、と中村が返すのと同時に、一つ思案が壁にぶつかった。

「原稿とか、文字として残ってる「Particle  honest」はどうなるんだ? 消えて無くなるのか?」

 夏緒が中村に渡した原稿がある。あれは一体どうなるのか――。

 アニーが花を咲かせるような溜息の沈黙に中村を振り返った。

『それは……分からない。文字も消えるのか、文字だけが消えるのか。それと、』

 アニーは寸刻だけ俯いて、陰に顔が隠れない内にまたまっすぐを見た。中村はアニーの瞳に映る自分の姿に気付く。

『征司は、忘れないから』

「なにを――」

 なにを忘れないんだ、とそう言うつもりだった。

言えなかった。

『「Particle  honest」はその存在を強制的に変化させられて「Particle  honest」でなくなる。でも、それだけじゃ記憶が消えるという理由にはならないよね。「Particle  honest」が記憶に残らないのは、そう、例えば――

結構極端な話になるんだけど、とアニーが細く白い指先で空中を指す。

『記憶には名前がある、って考えてみて。名前と記憶の中身が一致して初めて記憶たり得るの。そのどちらかが欠けても記憶には成り得ない』

 アニーの指先に潮風が触れる。水に波が立つように、空中に薄い白波が生まれた。

『「Particle  honest」の名前は記憶の中にあるけれど、記憶の中身にはもはや別の「Particle  honest」がある。言葉の上では少し分かりにくいけれど、記憶の名前とその中身とでもう差異が生まれてしまっているの』

 だから、と中村を柔らかい横目で射して言う。

『本来の「Particle  honest」しか知らない人の記憶からは消えて、今の「Particle  honest」を知っている征司の記憶からは、消えない』

 それは、と中村は言い掛ける。たとえそうだとしても……それは文字も消える根拠にはなりえないんじゃないか。

『そうだね、私もそう思う。だから今の話は「なぜ「Particle  honest」の記憶がなくなるのか」ではなく、「なぜ征司には「Particle  honest」の記憶があるのか」っていうことなんだよ』

 でもね、とアニーが細やかに笑った。

『私がそうやって考えてみても、きっと本当の理屈は間違ってる。だってこれは単なる記憶云々の話じゃないから』

 そうだな、存在に関わるのは記憶だけじゃないんだ。

『うん。でもちょっとずるいよね、結果だけが分かってるのって。そこに至るまでの理屈が分からなきゃ、なにも出来ないもん』

 でも、それも、なんとなくそんな気がする、ってだけなんだろ?

『そのなんとなく、がその通りになるんだよ。ここは、どんな意味でも想像が通じる所だから』

 想像が通じる場所か。そうだな。

『ん? なにか思い残したことでもあるの?』

 いや、なにも。

『嘘。今の私はせーじとリンクしてるから分かるもん』

 あぁ、だからか――。

 アニーの方から問いが飛んでくる。なにが、と。

 それでも中村は気持ちだけで首を振った。実際には数ミリも首は動いていなかっただろう。

 ――それじゃあ、遅すぎるの。

 いつに言われた言葉だったか。まったく別の意味で使われていたが、それでもこの場にはよく似合う。

 中村は考えながら数えていく。

 自分が物語を変えてしまったことも。

 アニーが言い様のない悲しみを得ていたことも。

 物語が終焉を迎えるということも。

 想像到達線で繋がっているということも。

 全て、今更になって理解できた。

 

 想像到達線がすり減っていくものだとしたら、その過程は心を削られるのと同義だ。

そして想像到達線が削られていった結果、その中を行き来する情報がついに世界に漏れ出していく。

 中村は「Particle  honest」に溶け出す自分の思考を眺めていた。それは有色の文字のようであり、踊るような音色でもあった。

 仮に他人から見た自分の思考というものがあるとすれば、こんな風なのだろう。それはありえないことだが。

 それと同時に、アニーの思考や感情も唐突に途絶えてしまった。

 身体や思考なんてものじゃなく、もっと深い部分でずっと共にいた存在がついと消えてしまったような感覚を得る。もの悲しいとはこんな時に使う言葉だろうか。中村はぼんやりと思った。

 もうアニーの声も聞こえてこない。目前に佇む透き通った存在が、突然にどこか遠い国にいる見知らぬ人のように見え始める。

「――――」

 唇も動かない。

 潮風も動きを止め、波の音も聞こえなくなる。いつの間にか、やけに静かになっていた。

 中村はそれでもアニーを見る。

 悲しさに微笑んだ佳人は、どこまでも透き通る瞳に中村の姿を映していた。

 ――これが、終わりか。

 中村はアニーの瞳に映った自分を見つけると、どこかに呟いた。

 至る所に別れの悲しみが詰まっている。それを見たくないが為にどこからも目を逸らしてはいるが、

 そう考えながらも、中村は無音を聞く。

 想像到達線が途切れるというのを経験した以上、その悲しみに身を預けないということは出来ない。

 いっそ涙を流してしまえば、楽になれるかもしれないな。

 更に固くなっていく世界の中、中村は最後にそう思った。

 

 瞬間、「Particle  honest」に光が満ちる。

 

     ◇

 

「ここは、」

 どこだろう、と問う前に答が返ってきた。

『ここは、エピローグだよ』

 柔らかい日差しが声音と共に降りてくる。アニーが傍にいるという感覚はなかったが、それでも耳元で呟かれる言葉には懐かしさを感じる。

「急に身体が軽くなった気分だ」

 中村が軽く笑いながらそう言うと、アニーも賑やかな笑い声を響かせた。

 ここも、やはり奥海市だ。

 物語本編よりも少しは時間の経過が見られるような気がする。人々はいつも通りの日常を展開していて、その陰には襲撃事件や件の訓練の面影はない。

 それに、季節が過ぎ去っていくような独特の寂しさがある。

 中村は、物語が終盤に近づくにつれて読むのを止めたくなると思うことがある。物語が終わってしまうことをどことなく恐れている。

 だが、終わらずに長々と続いているのも気に入っていないという、矛盾した趣味もある。

 ここには、――このエピローグにも、やはり物語が終わりに近づいているという独特の雰囲気というものがあった。エピローグに入る直前にも中村はそれを感じていたのだが、今は改めて別れを告げられるような、そんな気分だった。

『エピローグも……全部見られたらよかったんだけどね』

 そう言いながら、アニーの語尾は中村の視線の先に向けられる。

 そこには、手を繋いで歩く雪風と成瀬の姿があった。

「恥ずかしくなるくらいありがちなエピローグだな。これも……俺の?」

 妄想の結果がここに来て露見したのだろうか。仮に今再現されている光景が中村のものだったとして、なにが悪いというわけではないが、無意識の内にこんなことを考えていたのだとしたら――その可能性しかないわけだが――恥ずかしくなる。とても。

 だが、想像とは逆に、アニーは落ち着いた言葉で事実を返してきた。

『ううん、これは……夏緒のまま』

「そうなのか?」

 そうか夏緒もこんなベタなラストを描くんだな、と中村は二人を眺めながら考える。

 雪風と成瀬は手を繋いでいるだけで十分だとでも言うように、なにをするでもなく歩いていた。

「……いや、でもこういう最後も好きなのかもな、夏緒は」

 今どんな話を考えてる? と夏緒に問うと、大抵はこういうラストに近しいものが聞ける。短編だと変化しているものが多いが、長編だと存外にラストシーンの偏向はあるものだ。

 夏緒を思い出しながら中村がそう言っても、そうなんだ、と呟くアニーの声色は薄い。別れ際だからだろうかと中村が考えていると、アニーが、ね、と声を掛けてきた。

「なんだ?」

『征司は……――夏緒のこと、好き?』

「は?」

 中村は思わず眉根に皺を寄せる。ついに耳がおかしくなったんだろうか。

『だから、征司は夏緒のことをどう思ってるの? 好き? 嫌い?』

 それでも繰り返してくるアニーの言葉は変わらないままだ。いや、少しは噛み砕けた表現になったが。

 好き、か。

 もう想像到達線でリンクしていないからなのか、アニーの真意は掴めなかった。人と想像物という区別をしなかったら――それこそ、まるで夏緒と話しているかのようだった。

「それは、どういう意味で?」

『どういう意味って、意味も何もそのまんまだけど……』

 いやそうじゃなくてさ、と中村は考えながら、間をつくる言葉を置く。

 どう言えばいいのか。

「例えば、人間としてどうなのか、とか。作家――同人作家としての好き嫌いなのか、それとも……男女間の意味なのか」

 色々あるだろ? と中村はアニーを促す。

 アニーは考えるような溜息を漏らしながら、声色を降ろしてくる。

『全部、かな。征司にとっての夏緒を知りたいの』

 だってさ、とアニーはそのまま続けていく。

 中村の視線の端で雪風と成瀬がその姿を消した。あの二人を見ていても、ずっとあのままだろう。なにをすることもなく一日中街をうろついているだけに違いない。

『征司は……私の知らない夏緒を知ってるから。夏緒を悲しませないように「Particle  honest」を元に戻そうとしたんだよね。だったらそれは、征司が――夏緒のことを好きだからなのかな、って』

「それは、」

 どうなんだろう。

 噛み切れないような気持ちを両手に、中村は思う。

「改めてそう言われると、別にそういう感情があるから、って訳じゃないんだよ。多分」

『ふーん、じゃあ、どうしてあーゆーことをしたの?』

 白々しいとでも言うように、アニーが冷ややかな音色を言葉に響かせる。中村は苦笑しながら空を見上げた。

「もし自分が夏緒の立場だったら――勿論、俺は未だに小説は書けないけどな。でも仮にそうだとしたら、やっぱり自分の作品、ってのは忘れたくないもんだろ」

 中村がそう告げると、アニーは沈黙を潮風に変える。

「でも、やっぱり夏緒の物語だったから、っていうのも無いとは言えない。夏緒が執筆している時の苦しみや楽しみを見てきてるわけだからな。他の人間が書いた物語だったとしたら……なにもしてなかったかもな」

『そっか、』

 中村は言葉を風に乗せてから、初めてここに来たときと同じように木陰のベンチに腰掛けた。

 潮色の溜息が街路樹を揺らして、温かい眼差しのような日の柔らかさが中村を包んだ。

『――で、結局征司は夏緒のこと好きなの?』

 と、

「え?」

 今ので満足したんじゃないのかと中村が思っている中に、アニーが声だけで入り込んでくる。夏緒が悪巧みをしているような笑みを含みながら、また言葉を響かせた。

『どうなの? 好き? 好き? 大好き? 超愛してる?』

「あー、えっと、それは……何が? 一応言っておくが、女としては見てないぞ、あれは」

『えーなんでー?』

 こいつ本当に夏緒じゃないのか? 話題が夏緒以外のことだったら、まさに夏緒と話しているような感覚に陥りそうになる。

「あれは性差以前に頭ん中が子供だ。譲歩して妹レベルだな」

 譲歩って一体何だろうと中村は自分でも思ったが、口から出てしまったものは仕方がない。実際にあんな妹がいたら家に帰りたくなくなる気がしてならないが、……まぁそんな所だろう。

『そっかー、恋人よりは家族みたいな関係なんだ』

 それはちょっと違うぞ。

 変な言い回しを使ったせいで、夏緒と中村の関係に対するアニーの見方がおかしくなってしまったような気がしてならない。中村は肩を落として一息を吐く。

 夏緒とは……友人だな、やっぱり。

 友人、と言葉にしてしまえばまた固い印象になるが、それでもそれ以上でも以下でもない。強いて言えば仲間か。

 でも、夏緒の仲間と言って思い出すのは文芸部の女子勢の方だ。なにが彼女達を結びつけているのかは分からないが、彼女達の結束は鋼鉄よりも固い。一体いくつの戦場を駆け抜けてきたのだろうと思えるほどだ。

 だから、と中村は思案する。

 夏緒と俺は、友人だな。

 ここまで考える必要はあるのだろうかとも寸刻に感じたのだが、アニーの言葉を妙に引きずって夏緒に会う方が気まずい。自己完結してから会った方が……無理はないんじゃないか、と中村は思う。

『――……よし、私はもう十分。もういつでも黄泉路に旅立てるよ』

 ふ、という幽かな風と共にアニーが呟いた。

「心残りだったのが夏緒と俺の関係か?」

『違うよ、征司が「Particle  honest」を戻そうとした、あの原動力のことを知りたかったの』

 あぁ、と中村は揺れる景色に一人ささめいた。

「なんだろうな。状況としてはさっきの方が終わりっぽかったのにな、今の方が……もう、この先がない、って気がする」

『だってエピローグだもん。「Particle  honest」のメインを形成する事件は本編で終わるから、ある意味ではここはおまけみたいなもの』

「必ずしも、最後は最後らしくあるわけじゃない、か」

『ふふ、そう思うんだったら――ちょっとはラストっぽくしてみよっか』

 それだけ言うと、アニーはノイズを残して存在感を絶った。

 ラストっぽい、とはどんなものなのだろうかと中村が思い巡らせていると、足音が一つ目前から聞こえた。

 それは、終わりを誘う音で。

 それは、花を咲かせるような音で。

 それは、悲しみをどこかに隠した音だった。

 中村が面を上げると、そこには姿おぼろげなアニーがいた。恋人を待たせていたような表情で、それでもゆっくりと歩いてやってくる。中村は頭を掻いてから一つ視線をアニーに向けた。

「それじゃ、ラストっぽい演出を頼む」

『そういうことは言わないの』

 微笑むアニーに中村は立ち上がった。丁度、手を伸ばせば届くような近さにいる。

 一歩を踏んで、アニーが手を伸ばした。

 また一歩を踏んで、中村がその手を取る。透き通った身体を貫かないように気をつけながら。

『身体が透明だから抱き合えないけど……ちょうど時間的にはぴったりだから』

 なにが、と中村が問う間もなく、目蓋を閉じたアニーが中村の目前に迫っていた。中村の肩に手を掛けて、少しだけ背伸びをしている。

 触れることのない唇が、中村のそれに触れた。

 実体はなくても――感覚は想像の元に世界を巡ってやってくる。

 確かな感触が、そこにはあった。

『こんなのは、どう?』

 中村の首の後ろで指を結んだアニーが、ややぶら下がるようにして目前にいた。微笑みながら、目尻に涙を溜めている。

「……ラストっぽいかもしれないな。たしかに」

 中村は言いながらも、今の状況に少しだけ震えていた。それを見たらしいアニーが笑う。

『ちょっと震えてる』

 中村の首から腕を解きながらそう言うと、アニーは一つだけ後退った。

 ありがとね。

『「Particle  honest」を壊してくれるのが征司で良かった。最期の最期でも夏緒に会えない、っていうのは残念だけど――

 でも、

『これで私の願いは叶えられる。もう、想像者と想像物の間に疑念はいらないんだよ』

 だから、

『征司も――自分の物語を信じてあげてね。きっと応えてくれるから』

 そう、そして、

 そう言いながらアニーは中村に手を伸ばす。今さっきのように。

 中村もそれに応えようとして手を伸ばした。

 それでも、届く前にアニーが光の一粒一粒に解けていく。気付けば、周りの景色全てが――世界が光の一粒になろうとしていた。

 手が届くはずもなく、それでも中村は手を伸ばす。

 世界に流される髪をそのままに、表情も光に包まれる直前に、アニーが最期に呟いた。

 

『征司、本当にありがとね』

 

     ◇

 

 一瞬に音が消え、その直後に無音を孕んだ轟音が叩きつけられた。

 どうなるんだと思う暇もなく、身体がどこかに引っ張られていく。

 消えゆく世界に思いを馳せる暇もなかった。

 

     ◇

 

「は、」

 中村は、原稿用紙サイズの白紙が舞う部室の中に佇んでいた。

 部室だということは直感したが、それでも原稿用紙が舞っているお陰で何が何だか分からなかった。

 自分の身体を見てみると、しっかりとそのままだ。まるで――白昼夢をみていたような感触を覚えていた。

「征司っ!」

 部室の引き戸が開かれる音と共に、中村は自分を呼ぶ声が転がり込んできたことを理解する。

 声の方に振り向くと、舞い散る白紙に顔を隠された背の低い夏緒がいた。

「なにこれ」

 低い声でそれだけを呟くと、不規則に舞う白紙が夏緒の表情から外れる。呆然と立ちすくむ夏緒と目があった。

「征司、」

「なんだ」

「なんでこんなに散らかってるの?」

「さぁ、今の今まで……気付かなかったな」

 中村が視線を逸らしながらそう応えると、「はぁ」と割り切れない、という声で夏緒がその場にしゃがむ。

 どうでもいいけどさ、と床に落ちている原稿用紙を一枚拾ってから、中村を見上げた。

「征司も、片付けて、……よ」

 言葉を生んだ夏緒の瞳には涙が溜まっていて。それが頬を伝って溢れると、夏緒も困惑した表情を浮かべて手の甲で涙を拭おうとする。

「あれ、……? なんだろ」

「……おい」

 中村が声を掛けると、夏緒は涙を溢れさせたまま中村を見上げた。恥ずかしいからこっちを見るな、と顔では言っているが、それよりも悲しみの方が強いらしく、涙はとどまることなく流れていく。夏緒と中村を繋ぐ視線が、舞い踊る原稿用紙でふ、っと途切れた。

 なんで涙が、と笑いながら顔を伏せた夏緒は、その手に持っていた原稿用紙を握り締めていた。紙の折り潰される音が部室に響く。

「私、なんで泣いてるんだろ」

 おかしいな、とそれでも夏緒は自分の涙を否定する言葉を紡ぐ。ゆっくりと立ち上がる夏緒を、中村はただ見ているだけしかできなかった。

 は、と夏緒の息遣いにも次第に嗚咽が混ざってゆく。

「夏緒……」

 ――一体、なにがどうなってるんだ。

 中村はアニーの言葉を思い出しながら、目前で涙に濡れる夏緒を見る。

「なんで、だろ……」

 悲しみよりも戸惑いが涙に拍車をかける。立ち上がることで薄くなった夏緒と中村の距離を、夏緒が見上げていた。

 なぜと問う夏緒に応えられずに、ただ中村は夏緒の泣き声を聞いていることしか出来ない。

 夏緒はなにをやっても溢れてくる悲しみの感情を抑えきれないらしく、それでも中村に振り向いて気丈に微笑んで見せた。

「なん、でっ……涙が、――」

 …………、

 息を吸う間に思考が止まる。濡れた微笑みの痛々しさが中村の心に突き刺さった。

 寸刻に思う暇もなく、気付けば夏緒の手を引いてその華奢な身体を抱きしめていた。

「ごめん、夏緒」

 なぜ謝っているのだろう。

 理性では分からなかったが、それでも夏緒の耳朶にそう呟くことしかできなかった。

 原稿用紙の舞い散る部室に夏緒の泣き声が響いた。

 

     ◇

 

 本屋が目を覚ますと、部室は白く染まっていた。

 そして部室の白の真ん中には、抱き合って動かない中村と夏緒がいた。

 本屋はもう一度目を閉じた。

 

     ◇

 

「っと、せーじ? 早いじゃん」

 部室の扉を開けて入ってきたのは夏緒だった。中村は一度夏緒の方に視線を遣ってから、椅子に置いた身体ごと向き返る。

「ホームルームが短かったからな」

 いつもよりね、と中村の言葉に夏緒が付け加える。夏緒は左肩に背負っていたカバンを机に降ろして、中村の目前に座った。

 文芸部に伝わる「バグった状況で告白事件」から二週間経った。

 あの光景を誰かに見られていたのは一生の不覚だったが、それよりも口伝されているネーミングセンスの悪さに絶句した。どこの馬鹿がくだらないことをやってるんだと問い詰めたところ、馬鹿は本屋部長だった。あのヒゲめ、起きてやがったか。

 夏緒自身でさえよく分かっていなかった上にテストを合間に挟んだこともあり、その噂は尾ひれが付くよりも前に消滅した。それなのに、夏緒と対面すると居心地が悪くて逃げてしまう、というのが癖になってしまった。

 ――だけど、ここまで凝視されると逃げることもできないな。

 中村は身体を斜に構えているが、夏緒は睨む勢いで中村を凝視している。

「征司、それ」

「ん?」

 中村が夏緒の方を横目で見ると、夏緒はなぜか机に広げられたノートを見ていた。

「もしかして、小説?」

「あぁ、書いてるな」

 うわ、と夏緒が身体をのけぞらせる。中村は眉をひそめて夏緒を見た。

「なんか嫌な反応だな」

「いや、別に……っていうか……、うわぁ」

 そう言うと夏緒は口元に手を当てる。神妙にものを考えていたらしく、夏緒は一頻り懊悩した後中村に居直った。

「…………聞いてもいい?」

「なにを?」

「いやー、それ……どんな話なの?」

 問われて中村は沈黙する。言ってしまってもいいものか、と思いながら夏緒に視線を遣った。夏緒はといえば興味津々だと言うように瞳を輝かせている。

 ――いや、

 一言を片隅において中村は思考を閉じた。笑みを含みながら夏緒を見て、そうだな、と言葉を紡ぐ。

「お前には、内緒」

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