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「おっかえりー」

 山県梓(やまがたあずさ)が家に到着したこの時、もう予兆があったと言える。

 午後八時。部活を終えて、泥のように疲れた身体で帰宅すると、姉の佑(ゆう)が山県を出迎えてくれた。

「……た、ただいま」

 山県を出迎えるどころか、そもそもいつもは家に帰らない姉を前にして呆気にとられていると、満面の笑みを湛えた姉が山県の肩に掛かっていたエナメルバッグを両手で抱き上げた。

「ほーら、なにつったってんの? ご飯できてるよ」

 嘘でしょ?

「え? だって、父さんと母さんは出かけてるんじゃないの?」

「……私だって料理の一つや二つは作れます」

 エナメルバッグを持ったまま得意げにそう言うと、姉はリビングに歩いていった。まだ靴も脱いでなかった山県は、慌てて靴を脱いで姉の後に続く。

 しかし、一体どんな風の吹き回しなんだろうか。

 姉が家にいて、山県が帰宅したときに「ご飯作ってー」と言うのならまだ分かる。そしてその時姉はソファに寝ころんでテレビを見ているだろう。それは可能性として非常に高い。

 だが実際は、姉は玄関で山県を出迎え、尚かつ既に料理は作ってあるという。

 姉が料理を作るというのにも驚いたが、何より驚いたのはその振る舞いだ。きっとなにか悪いことをしたのだろう。

 ではどんな悪いことをしたのだろうかと山県が考えていると、姉が「手ぐらい洗いなさいよ」と言ったのが聞こえた。

 ……忘れてた。だめだだめだ。あまりにも現状が果てしなさ過ぎて動揺が大きい。

「ん、ついでに着替えてくる」

 とキッチンの奥深くでなにかやっている姉に声を掛ける。

 一つ肩で息をしてからリビングを出て階段を上る。自分の部屋に入ってクローゼットを開けた。

 で、

 姉がやった悪いことはなんだろう、と山県は考える。

 なにかを壊した、ということかもしれない。それが私のものだったら、姉の態度が不自然なことにも説明がつく、かも。

 それでも姉の態度の不自然さは尋常じゃない。山県は心の晴れないまま灰色のジャージに着替えると、姉の待つ一階に下りた。

 

 ナポリタンとミニトマトの入ったサラダ、コーンスープと、あとはいつもの煮物。

「煮物は冷蔵庫に残ってたやつだから」

「うん、それは分かるけど……お姉ってこんなに料理出来たの?」

 一見した感じではどれもレトルトではないようだ。あと、コーンスープにパセリが振ってあったりと芸が細かい。

「ちょっと失礼ね。大学通ってる内に出来るようになったのよ」

「練習した、って言わないところが胡散臭いけど……」

 眉間に薄くしわを寄せた姉が、さっさと食べなさいと急かした。山県は分かったよとフォークにナポリタンを巻く。パスタは一々食べ方が分からない。これでいいんだろうか、と思いながら口へ運ぶ。少し辛めのケチャップの味が口に広がった。

「……ちょっとおいしいかもしれない。くやしいけど」

 あんまり言いたくなかったその言葉だが、思わず口に出てしまったくらいのおいしさはあった、ということにしておこう。

 フォークでミニトマトを突き刺しながら姉を見ると、やっぱり得意げな顔になっている。

 だめだめ。料理のおいしさに騙されるより前に、一応聞いておかないと。

「……それで、なにやったの?」

「なにやったの、とは?」

「とぼけたってダメだよ。お姉がなんの理由もなくこんな料理作ったりさ、玄関まで迎えに出てくるわけないじゃん」

 うーん、まぁそうかもしれないねと姉は言って目を細くして笑う。髪を指先でいじってから、実はさ、と話し始めた。

「ちょっと梓に頼みたいことがあるんだ」

 頼み? そーゆー方向だとは思わなかったかな。

「内容にもよりますよ、そりゃ」

 ナポリタンをもう一口食べる。やっぱり自分が作るのよりも何倍もおいしいと再確認する。どーやって作ったんだろうか。

「ウチの会社でまた新商品を開発してるんだけど、そのサンプルを採取したいんだよね。社員だけじゃちょっと少なくてさ」

「……んー」

「おやおや乗り気じゃない? 意外だなー、酒匂(さこう)にも会えるよ?」

「う、うるさいなっ、そーゆーことじゃないの!」

 顔は赤くなってないだろうか。一瞬で熱くなった身体を冷まそうと、山県は冷たい麦茶を飲んだ。

 実は、山県は以前姉の会社でバイトをしたことがある。今回姉が山県に依頼した内容と殆ど違わないバイトだった。そういう意味では経験者と言える。

 姉の会社では何を作っているのか。

 一言で言えば、アクセサリーである。そしてそれは猫耳であり、尻尾であり、肉球である。

 勿論それは猫のものだけではない。犬であれば犬種を越えてかなりの数があるし、爬虫類の尻尾もあったはずだ。

 魔術によって精巧に再現され、装着されるこれらの品々は、まるで猫耳が本当に生えているかのように思えるほどの出来である。

 一見すればあまり需要が無さそうなニッチな商売にも思えるが、姉によるとどうやらそうでもないらしい。

 現在、姉の会社がこの業界を独占していることを念頭に考えると、まず全国各地の遊園地、またイベントでの使用が売り上げの八割ほどを占める。また、映画や舞台で使われることがあると、宣伝も兼ねてかなり売り上げに関係するらしい。

 そして忘れてはいけないのが個人需要。一体なんに使うのかと思いがちだが、この世界にはコスプレというものが存在する。

 猫耳屋の社長も、そもそもは漫画を見ていて思いついたというのだから原点でもある。コスプレイヤー達にしてみれば、よりリアルな猫耳、尻尾を着けたいと思うのは心情なのだろう、きっと。

 その辺り、山県自身には疎遠であったのだが、姉が家にいるときはその話ばかりをするので覚えてしまった。

 まぁ、本当の理由はまた別にあるのだけれど……。

 手に持った麦茶のコップを置く。冷たい感触がまだ右手に残っていた。姉を見ると、まだ口元が笑っている。目を合わせないようにしよう。

 姉が言っていたサンプルの採取、というのは、簡単に言えば猫耳を装着することだ。

 魔術で人体と仮融合させるということは、猫耳のついたカチューシャを頭につけるという簡単なことではないということ。アレルギー、という程のものはないが、人によっては魔術の効果が早めに切れてしまうなどの不都合がある。そういうサンプルの採取は、新製品の開発には欠かせないものなのだろう。

 バイトをやっている身としては、力仕事でもないし頭を使う仕事でもない、言ってしまえばただつったってるだけなので、楽と言えば楽である。

 ただ――、

 ただ、山県には一つ気がかりなことがあった。

 酒匂先輩のことだ。

 酒匂先輩は猫耳屋専属の魔術師だ。姉の同僚であり、山県自身とはなんの関係もない。先輩、というのもただ呼んでいるだけで深い意味はない。

 ただ少し、ほんの少しだけ、かっこいいかなと思うくらい。

 やめとこう。

 どうも酒匂先輩のことを考えると胸が痛い。身体が熱くなるし、気付いたら唇を噛んでる。

 そういうのは、少し苦手だ。

 今回も、姉の頼み事を断らずに猫耳屋まで行けば、必ず酒匂先輩に会うことになるだろう。なんと言っても、あの人が猫耳装着の担当だから。

 会えること自体はとても嬉しいと山県は思っている。

  でも、何故だか分からないけど、ためらう気持ちも多少にある。

 どうしようかという思案の長さが、麦茶に浸る氷に音を立てさせた。

「なーんで止まっちゃうかな」

 姉が下から覗き込むように山県を見る。その声で山県は我に返った。

「別に、なんでもない」

 慌てて姉から目を逸らして、フォークにナポリタンを巻く。どうも巻き方が良くなかったらしく、フォークがかっこ悪く太ってしまったけど仕方なく口に持って行く。口の端に少しだけケチャップがついた。

「明日か明後日、梓の都合がつく方でいいからね」

「なんでもうやるってことになってるの?」

 薬指で口の端についたケチャップを拭く。そのまま舌で指先を舐めた。

「やらないの? バイト代もちゃんと出すけど」

「う、そりゃ、やる……けどさ」

「けど?」

「……明後日の方がいいかな。明日部活あるし」

 そういうことを言いたかったんじゃないんだけどな、と思いながら山県は麦茶を飲んだ。

 でもなんて言えばいいのか分からない。分からないから、つい別の言葉で誤魔化してしまう。

 悪い癖かな、と山県は楽しそうに笑う姉を見る。

「じゃあ日曜日ね。とりあえず連絡だけするから、ちょっと待ってて」

 そう言うと、姉は携帯を持って椅子を立った。

 はいもしもし山県です、ごめんねーこんな時間に。

 仕事の話とも思えない、笑いながらの話だった。

 電話の向こうは誰だろうか。酒匂先輩だとしたら……、あれだけ楽しそうに話せる姉が、少し羨ましい。

 

「うん、はい分かりましたー、それじゃあそういうことで」

 山県がナポリタンを食べ終わる頃、ようやく姉が携帯を切った。やれやれと眉を降ろして椅子に座り、一瞬なにか考えるような仕草を見せて、多分こっちの視線に気付いたのだろう、山県の方を見た。

「あのさ、ちょっと言い忘れてたんだけどさ」

「なに?」

 携帯を閉じて机の上に置いた姉が、申し訳なさそうに眉尻を下げて、でもちょっと楽しそうに口元に笑みを浮かべて山県を覗いた。

「猫耳と尻尾つけて、ついでに酒匂とデートして来てくれない?」

 ん?

「えーっと、なんだって?」

「だからー、ちょっと酒匂とデートしてきてって言ってるの。別にいいでしょ?」

 ちょっと何から考えればいいか分からない。酒匂先輩とデートしてきて……って言った、よね?

 酒匂先輩と、か。

 あ、だめだ。

 やっと言葉の意味を理解して、それから身体が熱くなる。きっと顔は真っ赤だろう。ついでに耳が熱い。

 山県は何も言えなくなって、姉の顔からも目を逸らして、飲んでいた麦茶をコップ一杯分飲み干して、それでもまだ足りなくて、やかんの麦茶をコップに入れてそれを一気飲みしてぬるいと思ってからようやく少し落ち着いた。

「あの、だから……なんで?」

 それでもまだ体中は熱いままで、今体温計ったら何度くらいあるんだろうとか無理に思考を反らせながら山県は姉を横目で見た。

「そりゃ、こっちにも事情があるワケよ。大人の事情が、さ」

「全っ然答になってないよね?」

「梓もデートくらいなら別にいいでしょ? それとも彼氏がいたりする?」

「いないけどさ、……違う! なんかそういうことじゃなくて!」

「うるさいわね。早くコーンスープ飲んでサラダも食べちゃって」

 もうちょっと時間が掛かるって言ってたのに、と呟きながら、テーブルの向かいに座っている姉は横を向いてしまった。きっともう答える気はないのだろう。

 山県はむにむにと言葉の出ない口を動かしてサラダを食べる。

 一体姉は何を考えてるんだろうか、と思いながら。

 

 

 

 日曜日。

 大丈夫、緊張してないから。

「宣伝も兼ねて、って意味もあるけどね」

 どうして酒匂先輩とデートしろと言われたのか。

 酒匂先輩が姉に頼んだのか、姉が酒匂先輩に無理を言ったのか。そういうことをも含めてどうしても気になって、山県は姉に尋ねた。

 金曜の夕食後は姉が自分の部屋に閉じ籠もってしまって聞けなかったし、土曜は部活があって姉と会えなかった。家に帰ってからでも、と思ったけれど、家に帰ったらいなかった。

 だから今日、猫耳屋に向かう姉の車の中でそのことを聞いた。

「でも、なんでデートって……」

「いーじゃん別に。梓だって酒匂のことを好きでしょ? 向こうだってそんな感じだし」

 そんな感じって一体どんな感じなんだ。

 聞くだけで反射的に顔が真っ赤になる。山県は両手で頬を押さえながら運転席にいる姉を横目で見た。

 酒匂先輩を好きかどうかは分からないけどちょっと格好いいなとは思う。だから酒匂先輩も私のことをちょっとだけでも可愛いとかばかみたいだなぁとか思ってくれてるんだろうか。

 耳が熱い。なんでか分からないけど心臓が破裂しそうなくらいに早く動いて、どこを触らなくても、ただ座ってるだけで自分の鼓動が分かる。

「もちろん他にも理由はあるよ。屋外での耐久性能を試したいってのが第一だし。商品開発は酒匂がやってるし、そもそも猫耳屋には酒匂以外の魔術師がいないんだ。だから、酒匂が一緒に行く必要があるの」

 姉の言葉が右から聞こえてくる。

 山県は聞こえてるふりをして適当に頷いた。でも、身体が熱くてなにも分からない。

「ま、あんまり会う機会無いしさ、精一杯遊んできたら?」

「……分かった」

 山県が瀕死の声音で返事をすると、姉は楽しそうにのどを鳴らしてアクセルを踏んだ。

 

 

 

 猫耳屋は駅前のビルの三階にある。姉はそのすぐ傍のコインパーキングに車を止めた。

 歩いて五分もかからない距離だが、どうにも足が動かない。見かねた姉に引っ張られて山県は猫耳屋に足を踏み入れた。

「おーい、連れてきたよー」

 姉は山県の手を握ったまま受付に座っていた佐藤さんに声を掛ける。佐藤さんは「早かったね」と言って受付を離れた。

 猫耳屋にはバイト以外でも何度かやって来たことはある。佐藤さんは常に受付にいるので、多少顔なじみになった。

 久しぶり、と佐藤さんに微笑まれて緊張する。やっぱりこの人綺麗だ。

「こ、こんにちは」

 なんだかあまりに綺麗な人だから目を合わせられない。見れば見るほど自分の幼さが際立つ気がして、どうしても目を逸らしてしまう。

「あれ? 酒匂は?」

「ん、さっきいたけどね。どこに行っちゃったんだろ。おーい、酒匂!」

 佐藤さんがスーツ姿をひねって奥にいるらしい酒匂先輩を呼ぶ。どうも仕草の一つ一つが色っぽい。

「はーい、今行く!」

 酒匂先輩の声だ。

 声を聞いただけで、手が汗でびっしょりになって背筋がぴんと伸びた。ちょっと意識しすぎなのかも知れない、と山県は深呼吸する。

「や、久しぶり」

 ちょっとだけ寝癖みたいになった髪の、優しそうな酒匂先輩が向こうから歩いてきた。

「あの、お久しぶりです」

 ちゃんと目を見よう。逸らさない逸らさない。

 顔が真っ赤になってないかとか、声が上擦ってないかとか、見つめすぎてにらんでる様になってないかだとか、そんなことばかりが気になる。

「それじゃ、早速やっちゃって」

「はいよ、それじゃこっち来てね」

 酒匂先輩についていく姉に引っ張られていく山県は、もう世界中に対して為す術が無く、呼吸困難に陥りそうな緊張の中で酒匂先輩にかっこ悪いと思われたくないと、ただそれだけを考えていた。

 ビルのワンフロア全てを使っているとはいえ、猫耳屋はそんなに広いわけではない。

 撮影所も兼ねた写真屋の造りとよく似ているかも知れない。入るとすぐに受付があり、その奥は、右手に事務の仕事場が、左手に行くと猫耳と尻尾を装着する簡単な脱衣所のような場所になっている。

 猫耳についてはそのままの格好で簡単にくっつけられるが、尻尾についてはそうもいかない。客が男性ならばことは簡単なのだが、女性だと少々問題がある。

 尻尾をつける場所を考えてもらいたい。姉が表現するには、限りなく尻に近い腰、という部分だ。

 客側が、もうちょっと腰の辺りで、と依頼すれば、勿論腰に尻尾をつけることはできる。多少不格好になるが。

 しかし、猫耳屋にまで来る人々はそんな安易な妥協はしないだろう。だから、骨盤の下辺りに尻尾をつけることになる。

 となると、尻尾を着けるときにボトムを少し脱がなければならないわけで、尻を全部見せる、ということにはならないけれど、それには相応の恥ずかしさというものが一応伴う。

 だから、その場所にはカーテンで仕切られた試着室のような小さな部屋がある。あらかじめ自分で尻尾を仮止めしておいて、もう一度しっかりとスカートやズボンを着直した後で、酒匂先輩が魔術で身体と仮融合させる、という風になる。

「あ、じゃあ先に自分で尻尾を貼ってきて」

 これね、と酒匂先輩に尻尾を渡される。柔らかい黒色でふさふさした触感が心地良い、猫というよりも犬の尻尾のようだった。

 分かりました、と試着室に入ろうとした山県を姉が引き留めた。

「な、なに?」

「服はこれ着ておいで。いつもの白衣よりは可愛いやつだから。靴下も」

 あ、そうか。

 ありがとう、と姉から渡された服を受け取る。グレーの……なんだろう、ワンピース、なのかな。

 山県は犬の尻尾とグレーの服を抱えて試着室に入った。

 カーテンを閉める。

 さて、と。

 どうして姉が服を用意していたのか――このままの服装ではいけないのか。

 それには、やはり尻尾が関係してくる。

 尻尾をくっつける位置は少し下の方なのだと、さっき説明した。となると、ボトムをそのまま着てしまうと必然的に尻尾がかわいそうなことになってしまう。なるべく自然な位置に尻尾をくっつけたら、スカートやズボンのベルトよりも下になってしまうのだ。だから尻尾が押されて上に向かって飛び出すようになってしまう。

 だから尻尾をくっつけるときには、尻尾の場所に穴の空いた服――とはいっても親指の太さ程もあれば十分だけれど、そういうものを用意する必要がある。

 猫耳屋では事前にそういう説明もしてあるし、尻尾もつけたいとやって来る人は大抵根性があるので、自前で衣服を用意してくる。

 山県がいつもバイトをするときには簡単な白衣に着替えるのだが、それで外に出るのはやはりためらいがある。山県自身は酒匂先輩のことで頭がいっぱいで、服装については気が回らなかった。だから姉が服を用意してくれていたことは、嬉しかったし、驚いたし、ちょっと安心もした。

 酒匂先輩から渡された尻尾には、身体にくっつくける方に透明のシールがある。とりあえずそれで尻尾の位置を決める、という為のものだ。

 それじゃあ失礼して、と、山県はスラックスを脱ぐ。それを畳んでから、尻尾のシールをはがして適当な位置にぺたっと貼り付けた。湿布みたいな感触で、ちょっと冷たい。

 変な位置にくっついてないことを姿見で確認してから、半袖のシャツを脱いだ。

 姉が用意したグレーの服は一体どんなのだろうと、山県は両手で広げてみる。

 それはやっぱりワンピースだった。スカートの裾にピンクのラインが入ってる。膝上で太腿が涼しい。ちょっと短いな、と思うくらい。靴下はワンピースと揃うような、やっぱりグレーとピンクのストライプのニーハイソックス。

 姉が選んだものだからそれなりのものなのだろう。自分で服を選べないのもくやしいけれど、自分のセンスはちょっと怪しいので、ありがたいところもあるかなと思う。

 山県はワンピースを着ると、襟を直してから、手を後ろにやってスカートの下に隠れていた尻尾を出す。ニーハイソックスもふらつきながら片足で立ったまま履いた。

 これで大丈夫だろうか。

 姿見を見て、スカートの裾をちょっと払って、髪の毛を手櫛で直す。

 大丈夫、だよね。

 うん。大丈夫、そういうことにしておこう。

 ずっとこの中で迷っていても仕方ないと、山県はカーテンを開けた。

「お、サイズも合ってるじゃん。よかったよかった」

「そう、かな……?」

 姉に言われて、じっくり見たはずの自分の姿を思わずもう一度見てしまう。

「コンセプトはなんだろうね? 可愛い妹って感じかな」

「実際私の妹だしね」

 佐藤さんにも言われて恥ずかしくなる。手が遊んでしまうのが嫌で、ついつい着慣れてないスカートの端を握ってしまう。それもみっともないんだとは分かってるけれど。

「いいね。回れ右して、尻尾見せてみて」

 酒匂先輩が指を回しながらそう言った。山県は、はいと返事をして、言われた通りに後ろを向く。まだ完全にくっついてない尻尾が身体の動きに合わせて揺れた。

「いいんじゃない? 尻尾の位置とかも大丈夫でしょ?」

「そうだね。見てる側としてはいい位置にあると思う。――身体動かしてみて変な感覚とかない?」

 山県は問われて息が詰まる。慌てて首から上だけで振り返った。

「大丈夫です。一応、慣れてますから」

 そうだよね、と酒匂先輩が笑ってくれた。どうしよう嬉しい。

「じゃ、くっつけちゃうよ」

 そう言うと、酒匂先輩は尻尾の辺りに手をかざした。後ろを振り返っていても見えないから、と山県は潔く前を向く。

 尻尾を貼り付けたところが段々と温かくなる。尻尾のシールに引っ張られるような感覚が消えていく。

 酒匂先輩がなにか小さく呟くと、背筋が伸びてしまうような感覚が身体中を巡った。

「よし、いいよ」

「じゃ、さっそく」

 尻尾が身体にくっついたらしい。酒匂先輩が告げたその瞬間、山県の尻尾が握られた。

「うわあっ!」

 腰でもなく尻でもない。今までになかった部分を触られる感覚は、少し新しすぎた。

「なに? 誰?」

 悲鳴を上げた山県は、尻尾を押さえて慌てて振り返る。そこには屈んだ体勢の姉がいた。

「結構敏感だね。こんなもんかな?」

「なに? なにが?」

 一体なにがどうなってるのか全然分からない。今までの山県の経験では、尻尾を触ろうが思い切り握ろうが感覚は伝わってこなかったので、尻尾でなにかを感じる、というのは予想もしていなかった。

「いきなり触ったらびっくりするのが普通でしょ」

 佐藤さんの言葉に姉がそうかと納得する。

 しかし山県は全く納得できない。どうして尻尾に感覚が通っているんだろう。

 山県が驚いたままでいると、それに気付いたらしい酒匂先輩が楽しそうに笑った。

「ごめん言ってなかったね。感覚を同期する尻尾っていうのを新たにつくってみたんだ。ここにいる二人はもう体験してるんだけど、誰よりも敏感な反応だった」

「ドキドキするね――で、どう? 尻尾触られた感じは」

 そういうことだったんだ、と山県は後ろにやった両手を動かして尻尾を触ってみる。

 うーん。

 尻尾がふさふさしてて温かいのはいつものことだ。しかし、尻尾で掴まれる感覚を得るというのは初めてなので、なんて表現すればいいのか分からない。

「……ちょっと新しいと思う。触られてる感覚のあるところは背中でもないし腰でもないし、お尻でもないから……尻尾っていう感じではある、よね」

「なかなかいい感じ。佑もこうやって答えたらよかったのに」

 うるさいね、と佐藤さんの言葉に姉が反応する。佐藤さんを叩いてる姉を見ながら酒匂先輩が笑って言った。

「キミのお姉さんは、お尻の皮が伸びたみたいって言ったんだ。感覚としては分からなくもないけど、それじゃあちょっと想像するのが難しくて」

 姉が言いそうなことだ。自分に直接関わりのあることではないけれど、少し恥ずかしい。

「もういいじゃんそれは。尻尾つけた人に分かれば十分なの。梓は早く耳つけてもらって酒匂と遊んできなさい」

 分かったよ、と酒匂先輩が机に置いてあった耳を手に持った。

 カチューシャに猫耳がついた装身具のように見えるが、これも魔術で肉体と仮融合させるので、尻尾と同じように本物の質感に近くなる。

 酒匂先輩は、カチューシャを山県の頭に両手で慎重に乗せた。

 つっ、と耳に触れた酒匂先輩の手が温かい。

「お?」

「え?」

 なにを見たのか、姉が声を上げた。嬉しさと恥ずかしさで視線を上げられなかった山県は、一瞬だけ遅れて姉を見る。

「なに?」

「ん、あ、なんでもない。似合ってるよ、耳」

 そうかなぁ。

 着替え室の奥にある姿見で自分の頭を見てみる。一応、尻尾にあわせた黒い耳。どうして黒なのかな、とも思ったけれど、耳を見て分かった。

 髪の色に合わせてるんだ。

「場所とか、自分で見てみて変だと思ったら言ってね。直さないといけないから」

「酒匂に気を遣わなくていいよ。たまに本気で間違えるから」

 佐藤さんの言葉に、酒匂先輩がそうかなぁと首を傾げる。その姿になんだかすごく安心できて、山県は大丈夫ですと言った。

「佐藤さんから見ても、……大丈夫ですよね?」

 山県が問うと、佐藤さんは山県の周りを歩きながら耳を見て、大丈夫なんじゃないかな、と言った。

「それじゃ、くっつけちゃうよ」

 酒匂先輩に、山県は、はいと応える。

 頭に乗せるようにしたカチューシャに酒匂先輩が手をかざした。尻尾の時と同じように、柔らかい温かさが伝わってくる。

 春の日差しの中にいるようで心地良い。酒匂先輩が近くにいるという緊張が少し和らいだ。

「よし、いいんじゃないかな」

「それじゃあ、また」

 酒匂先輩が手を引くのと同時に、姉が手を伸ばしてきた。また、と思い、山県は反射的に肩を竦めて目を閉じる。

 が、

「うそだよーん。こっちにはなんにもありませんでした」

「ひっ、ひどいよ今のは。悪質な手口だよ」

 咄嗟に身を屈めてしまった自分が恥ずかしい。少しだけ頬が熱くなってる。楽しそうな姉の姿がちょっと憎たらしい。

 ほれほれ、と姉が払うように手を振った。

「耳もつけたんだから、早く行ってきなさい」

「あ、ちょっと待って」

 姉の言葉を聞いて、佐藤さんが山県に近づく。

「猫耳つけたんだから本物の耳は隠しとかないと。髪の毛触っていい?」

 はい、と山県が頷くと、佐藤さんは山県の両耳を髪の毛で隠した。

「これでよし、と」

 ついでに前髪も手櫛で直してくれる。

 そんなもんかな、といつの間にか椅子に座っていた姉が立ち上がりながら山県を見た。

 佐藤さんが山県の髪を触っている間に、酒匂先輩も外出の準備をしたらしい。いつの間にか耳と尻尾を付けていた。

「……酒匂先輩も耳と尻尾を付けるの?」

「あったり前じゃん。折角尻尾をつけて外に出るんだから宣伝してもらわないと。男性の個人需要は少なくてさ、女性客ばっかりなんだ」

 確かにそうかも知れない。

 でも、そもそも男の人だったら耳とか尻尾とかをつけたいと思う人の絶対数が少ないんじゃないのかな。

 山県はそう思いながら酒匂先輩を見る。

 今自分についてる黒毛と違って、酒匂先輩のは大人しそうな茶色だった。尻尾だけが自由に動いている。まるで、本物の尻尾みたいだった。

 山県と酒匂先輩を見た佐藤さんは、酒匂先輩に、ちょっと並んでみてと言った。

 酒匂先輩が言われた通りに山県の隣に並ぶ。二人を見て姉が口を開いた。

「これで梓も猫……じゃなかった、犬人間だね」

「尻尾見ていて思ったけど、やっぱり犬だったんだ。でも、なんで猫じゃないの?」

 猫耳屋というくらいなのだから、猫耳と猫の尻尾をつけるものなのばかりだと思っていた。

「今回は色々事情があってね、尻尾を犬にする必要があったから、ついでに耳も犬にしたんだ」

 酒匂先輩がそう言って、佐藤さんもそれに首を振って同意する。そんなものだろうか。でも、猫耳でも犬耳でも、違いはあんまりわからない。

「よし。梓、ちょっと」

 こっちに来て。そう姉に言われて少しだけ歩を踏む。ジェスチャーを見て、山県は姉の方に耳を向けた。

「……酒匂に抱きついたりとかキスしてもいいからね。言っとくから」

「え、ちょっ、あの、それは」

 戸惑う山県をよそに、姉は酒匂先輩に歩み寄って耳打ちした。神妙に聞き入る酒匂先輩だけれど、本当に姉はそんなことを言っているのだろうか。

 折角、なんか、こう、緊張が和らいできたのに。

 分かった、と姉に応えた酒匂先輩は、山県の身体に近づいて手を握った。

「じゃ、とりあえずお姉さん方の目の届かないトコに行っちゃおう。視線が怖いからね」

 だめだ。また身体が硬くなる。

 酒匂先輩の手は温かくて、少し大きくて、やっぱり男の人の手なんだな、と再確認した。

 姉に引きずられて猫耳屋に入ってきた時みたいに、今度は酒匂先輩に導かれて猫耳屋を出る。

 手汗大丈夫かなとか、そんなことだけを考えてしまう。

でもそれ以上に、この後どうするのか、それを考えてないということの方が心配だった。

 

 

 

 嬉しいことではあるけれど、握った手を放すタイミングが無くて、山県と酒匂先輩は猫耳屋を出てからもずっと手を繋ぎっぱなしでいた。

 できればずっとこのままでいたい。

 恥ずかしいとか、そういう感情をちょっと忘れて酒匂先輩を感じていたい。

 山県が歩きながらそう考えていると、手を握ったまま、山県の方に顔を傾けて酒匂先輩が聞いた。

「さて、出てきたのはいいけれど……梓ちゃんはどっか行きたいところとかある?」

 思わず目があって、なんの考えもないけれど口が動いて、あの、と言ってしまった。

「どこでも、いいです」

 目を逸らさないようにと思っていたけれど、酒匂先輩の透き通るような眼を見ていたら、自分のことが恥ずかしく思えてしまって目を逸らしてしまった。

 素っ気ないと思われただろうか。

 だから慌ててもう一言付け加える。

「……酒匂先輩と一緒なら」

 フォローの言葉にしてはちょっと恥ずかしすぎたかもしれない。

 自分で言ったのにも関わらず、山県は頬に差した赤を見られたくなくて俯いてしまう。

「あはは、ありがと」

 冗談だと受け取られたのだろうか。酒匂先輩は笑ってくれた。

 本当です。

 そう言うことができれば、胸を締め付ける感情もほどけるのだろうか。

 分からないまま、山県は酒匂先輩の手を強く握り直した。握った手から伝わってくる温もりを辿って酒匂先輩を見る。

 そういえば、と紅葉の散った頬を空に向けて山県は口を開いた。

「お姉はなんて言ってたんですか?」

「ん? さっき? さっきのはね、手を繋いであげてね、って言われた。女の子と手を繋ぐのは久しぶりだから、大義名分が出来てラッキーだったかな」

「それだけ、ですか?」

「それだけじゃ……あ、手、繋いだままでよかった?」

 そう言うと、酒匂先輩は山県と手を繋いだ手を少しだけ持ち上げた。山県は慌てて首肯する。

「それだけじゃないんだけどね。あとは内緒」

 酒匂先輩は、繋いでない方の手の人差し指を立てて口元に持ってゆく。

 一体姉は何を言ったんだろうかと心配になる。まさか本当に、……あんなことなんかは言ってないと思うけれど、でも姉のことだから何をしでかすか分かったものではない。

 どうしようかと山県が悩んでいると、酒匂先輩が山県を見た。

「よし、じゃあ尻尾を見せびらかしつつ、とりあえず歩き回ってみよう。おもしろいものが見れるかも知れないよ」

「おもしろいもの、ですか」

「……そんなに期待はしない方が良いかもしれないけど」

 そう言って酒匂先輩は困ったように笑った。山県は首を傾げて思う。

 おもしろいものって、なんだろう。

 

 

 

 おもしろいと言えばおもしろいかもしれない。ただ、山県としてはおもしろさより驚きの方が優先した。

 二十三人。

 これまでに写真を撮ってもいいですかと尋ねてきた人の数だ。

 聞かれる度に酒匂先輩は山県に確認を取る。恥ずかしくもあったけれど、山県は酒匂先輩の手前断ることはしなかったし、誰の写真であっても自分と酒匂先輩が一緒になって写っていると考えると、少し嬉しくもあった。

 ちなみにその中でも外人さんは八人だった。確かに外国には猫耳や尻尾っていう考え方はあんまりなくて珍しいのかもしれないけど、どうも日本が誤解されてしまいそうで、そこが気になる。

「はい、チーズ」

 フラッシュがたかれて一瞬だけ眩しさが視界を覆う。短い電子音が聞こえるのはシャッター音だろう。

 デジタルカメラの画面で今撮ったばかりの写真を確認すると、山県と酒匂先輩のツーショットを写真に撮った女の人は「おっけーです」と言った。

「ありがとうね」

 そう微笑む女の人に酒匂先輩は猫耳屋のビラを配る。さっきから写真を撮る人撮る人にビラを配っているけれど、一体どこに仕舞っているのだろう。

「猫耳屋をよろしくお願いします」

 酒匂先輩はそう言うと山県の手を繋ぐ。結局手を放す機会が無くて、手を繋いでいるのが一番自然な状態、という風になってしまっていた。山県にとって嬉しくはあったけれど、あまりに嬉しくて恥ずかしくて、言葉に詰まってしまうという点では悪くもあった。

 歩き出した酒匂先輩は山県の歩みに歩調を合わせてくれる。そんな細かいことに気付く度に、やっぱり酒匂先輩は酒匂先輩なんだと思う山県だった。

「んー、そろそろ飽きてきた?」

 ふと思い出したように酒匂先輩が山県に聞いた。山県は慌てて首を左右に振る。

「そんなことないです。歩いてるだけで、……楽しいです」

 言葉を選んだけれど、楽しい、っていうのはやっぱり行き過ぎた表現だろうか。山県はそっと上目遣いで酒匂先輩の表情を覗く。

「写真も撮ってもらえますし」

「うん、まぁ、確かに見知らぬ人に写真のモデルとして頼まれるっていうのは貴重な体験かも知れないね。……写真は手元に残らないけど」

 それでもいいんです、と山県はちょっとだけ深く握って酒匂先輩に訴える。多分、酒匂先輩が気付くことはないだろうけど。

「ん?」

「どうかしました?」

「あー、いや、なんか……あ、そっか」

 要領を得ない酒匂先輩の言葉に、山県は酒匂先輩の視線の先を見る。そこにはちょっとした人だかりが出来ていた。

「おいしそうな甘い匂いがしてると思ったら、こんな所にクレープ屋ができてる。食べてみない?」

 クレープ!

 素敵な響きだと山県は思う。この世で一番おいしい言葉かも知れない。

 慌てて山県が背伸びをすると、確かにそこにはクレープ屋さんがあった。

「もしかして、梓ちゃんってクレープ大好き?」

 そんなに言われるほど夢中になってなかったとは思う。けれど、それは多分自分で思っているだけで、傍から見たら一目で分かるくらい精一杯クレープ屋さんを見つめていたのかもしれない。

 酒匂先輩の言ったとおりで、山県はなんだか妙に恥ずかしくなって真っ赤になった頬を隠すために俯いた。

「それじゃ丁度よかった。並んじゃおう」

 山県が何を言う間もなく、酒匂先輩はずんずんと進んで列の最後尾に並んでしまった。並ぶ前からも既に多くの人に見られていたけれど、更に見られるようになってしまう。

 今更見られることがなんだ、と思う気持ちもある。

 言ってしまえば、猫耳屋を出た瞬間から周りを行く人みんなの視線を浴びていた。耳と尻尾はそれなりに目立つ。写真を撮られるときも結構目立っていた。

 でも、どうも恥ずかしい。それは、きっと周りにいる人が山県と同年代だからなのだろう。友人たちがこっそり紛れていたら、と思うような緊張感がある。

「やっぱりチョコとバナナが定番なのかな」

 そんな山県を知ってか知らずか、酒匂先輩がメニューを見ながら呟いた。

 

 

 

 これは山県が個人的に抱いている感覚なので、一般的な感覚とは異なるかも知れない。

 クレープにアイスクリームが入っていると食べにくい。

 そういうメニューがあって、山県は以前注文したことがある。小学生の頃だったという記憶があるので、そもそも食べ方が拙かったのかも知れない。

 クレープを食べていると、気付いたら下から溶けたアイスクリームが滴ってくる。そうなると幼いなりにも食べ方を工夫しようとするもので、クレープを持ち上げてアイスクリームの垂れてくる下から食べようとした。けれども、一番下を食べたところで、そこまでに溶けたアイスクリームが全部顔に降ってきた。

 それなりに悔しい思いをした。

 だから山県はアイスクリーム入りを注文しないし、酒匂先輩にもとりあえずそういう事情を言っておいた。

 山県が頼んだのはバナナにチョコとクリームの組み合わせ。酒匂先輩はチョコじゃなくてキャラメルソースにした。

 山県が代金を払おうとしたら酒匂先輩が先に払ってしまっていた。申し訳ない気持ちになったけれど、酒匂先輩は「こんな時くらいしか先輩らしさを発揮できないから」と言ってクレープを食べ始めてしまった。

 クレープ屋さんの隣にベンチの空きがあって、山県は酒匂先輩の隣に座る。一口噛んだクレープは柔らかくて幸せな味がした。

「なかなかおいしいね。これくらいなら並ぶかもしれない」

「そうですね、おいしいです」

 そう言ってから一口二口とクレープを食べる。ずっと喋り続けてきたから、口の塞がっているその数秒がやけに長く感じた。

 山県は酒匂先輩の表情を見る。それに気付いた酒匂先輩が眉を動かして山県に目を移した。

「そういえば」

 酒匂先輩が身体を少しだけ反らして山県の背中を見た。

「気にせずに座っちゃったけど、やっぱり尻尾は勝手に避けてるね」

 確かに尻尾をお尻の下に敷いた感覚はない。山県は身体を出来るだけねじって背中を見る。そこにはベンチの背中の隙間から顔を出した真っ黒な尻尾があった。

「勝手に動くんですか?」

 動くかな、と思いながら山県は尻尾を動かしてみる。うわ、少し動いた。なんだかお尻が涼しい。

「動く、ね。一応感覚が通ってるからさ、踏まれたりするのは頑張って避けるようにしてる。ま、ある程度以上の刺激は遮断するようにしてるけどね」

 それはなかなかすごいことのような気がする。山県は魔術が使えないからなんとも言えないけれど。

 山県は身体を戻して酒匂先輩を見ながらクレープを食べた。

 クリームが柔らかくておいしい。

 山県を見ていたらしい酒匂先輩が小さく笑った。

「おいしそうに食べるね」

「そうですか?」

 山県は首を傾げる。そんなにがっつくような食べ方はしてない、と思う。それどころか、酒匂先輩の前ということでかなり大人しく食べてるはずだ。いつもならもう食べ終わってる。

「そうだよ、だってほら」

ついてる、と言った酒匂先輩の人差し指が山県の口元を拭った。山県が何を言うよりも先に、酒匂先輩が指についた白いクリームを舐めてしまった。

「わ、あの、……えっと、あれ?」

 酒匂先輩の行動に緩急がありすぎて何を言おうとしたか忘れてしまった。こんな時にどうすればいいのか本気で分からなくて、とりあえず身体の思うままに酒匂先輩から顔を逸らしてしまう。なんかお尻が涼しい。

 一つ息を吸って、吐いて、落ち着いてないけど、ともかく山県は視線だけを酒匂先輩の方に遣る。

 酒匂先輩はおいしそうにクレープを食べていた。

 まるで、なにも無かったかのように。

「あの」

「ん?」

 酒匂先輩だから、なのかもしれない。

 相手の口元についたクリームを指で取って自分で舐めるなんて、オトモダチ同士程度ではやらないだろう、と山県は一瞬だけ思った。だから酒匂先輩は山県のことをちょっと想っていてくれてるのかもしれないなんていう都合のいい妄想もそこから少し広がった。でも、酒匂先輩はちょっとでも表情を変えることなくクレープを食べている。ポーカーフェイスなんだ、というのはあまりにも都合がよすぎるだろう。

 だから、きっと、酒匂先輩だからあんなことができるのだ。

 あんまりに山県に無頓着なんだろう。

「いえ、なんでもないです」

 酒匂先輩と見つめ合いながらそんなことを少し考えて、山県は息を吐いて肩を降ろした。

 それからしばらくもしない内に、二人とも、同じタイミングでクレープを食べ終わった。

 

 

 

 考えてみると、姉の話ばかりをしているような気がする。

 それは気のせいではないと思う。

 クレープを食べ終わると、やっぱり山県と酒匂先輩はとりあえず足の向くままに歩いていった。手を繋いだままでいたり、写真を撮ってもいいですかと聞かれたり、とりあえず適当なお店に入ってみたり、そこにはこんなにうさんくさいものがあるって笑ったり。

 ただ、そのどんな話だって、気付いたら姉の話と混ざってしまう。

 仕方ないことなのかもしれない。

 だって、山県と酒匂先輩を繋ぐものは姉しかないのだから。

 大人しくしているタイプじゃないから、姉についての話は分かりやすくて場にあげやすいし、二人とも接している時間はそれなりに長いから話題が尽きることもない。

 でも、ちょっと悔しいかもしれない。山県はそう思う。

 姉の話をしてるときの酒匂先輩は楽しそうで、山県自身も楽しいんだけれど、なんだか……そういうことじゃない。

 どうなんだろう。

 もしかしたら、とは思う。けれど、そんなはずは無いとも思っている。

 酒匂先輩は姉のことをどう思っているんだろう。

 

 とはいっても、山県としては、あこがれと言ってしまえば少し過ぎた表現かもしれないけれど、やっぱり少しだけ想いを寄せていた酒匂先輩と共に一日を過ごせるのは楽しくあった。

 ちなみにお昼はファストフードだった。

 できればもっと普通のところでゆっくりと食べたいけどね。前にさ、猫耳と尻尾つけて店に入ろうとしたら、勘弁して下さいって追い出されたんだ。流石に梓ちゃんの手前そんな格好悪い姿見せるわけにはいかないから。

 そう言って酒匂先輩はハンバーガーを大きな口で食べた。

 クレープを食べたから、と山県はいつもよりも少なめに注文したけれど、歩き回っていたせいでそれなりにおなかが空いていた。ただ、だからといって酒匂先輩の前でハンバーガーを二個も三個も食べたりフライドポテトを山ほど食べるのはまずいんじゃないか。部活もやってるし高校生っていうのは案外女の子でも食欲は旺盛なんです、酒匂先輩にそう言い訳するのも情けない。そう考えて注文も少なめにした。

 食事を済ましてからは、やっぱり二人は街を適当に歩いていった。

 他愛ない話をしながら笑ってみたり、手を繋いでなにをすることもなく歩いてみたり。

 酒匂先輩がそばにいるっていう、ばかみたいな朝の緊張感はいつの間にかなくなっていて、ただあまりにも気を抜きすぎて、まるで同姓の友達と話をしている時みたいに腕に抱きついたりしてみて、酒匂先輩だったと気付いて恥ずかしがってみたり。

 不思議な感じだった。

 酒匂先輩と手を繋いでいることになれてしまって、話してるときにはなんとも思わないのに、たまに我に返って気付いてみれば、酒匂先輩と手を繋いでいることにやたら驚きを感じて、恥ずかしさとか嬉しさとかが入り交じった感覚が背筋を駆け上ってくる。

 まったく、これだから油断ならない。

 照れてると思われたくないから真っ赤になった頬は見られたくないし、恥ずかしがってると思われたくないから言葉を詰まらせたくない。

 そういうドジな姿を可愛く見せる方法を山県は知らないから、ひたすらに自分をクールに見せようとしていた。

 

 そして、それが無意味だと知ったのは最後の最後のことだった。

 教えられるまで山県は気付いていなかった。本当に。

 空模様が怪しくなってきたのは夕方頃で、その時山県と酒匂先輩は疲れた足を休めるためにお茶を飲む店で休んでいた。窓側の席でなく、店の内側にいたのが悪かったかもしれない。

 雨が降っていることに気付いたのは、店を出る直前で、その時はまだ小雨だったからまぁいいかと店を出た瞬間に、図ったように大粒の雨になって降り出した。山県と酒匂先輩は慌てて一番近いコンビニに駆け込んだ。耳を隠してる髪が濡れて、首筋に張り付いたのが分かった。

「参ったな。天気予報は雨が降るのは夜からだって言ってたんだけど」

 そう言って酒匂先輩は山県を見る。

「予定が狂っちゃったから、とりあえずお姉さんに電話しちゃうけど、いい?」

 予定?

 そんなものがあったんだろうか。山県は疑問に思ったが、とりあえずは頷いて返事にする。

「じゃあちょっと待ってて」

 酒匂先輩は携帯を取り出して姉に電話を掛ける。山県が外を見ると、雨脚はさらに強くなっていた。

 なにかしら目的のある行程ならば、雨が降っていてもある程度は進むかもしれない。でも今回はちょっと違う。なんの目的もなくただとりあえず歩き回ってる、という程度だ。酒匂先輩が言っていた予定というのがどれくらい形のあるものかは分からないけれど、もうすぐ酒匂先輩との一日が終わりそうだということは雰囲気で分かる。

 これでお開きなのかな。

 そう考えるとなかなか心残りがある。山県は携帯で話をしてる酒匂先輩を見た。

 結局、ちょっとだけ仲良くなったくらいで二人の関係には進展もなにもない。緊張のあまりろくに言葉も話せなかった朝と比べたら随分な進歩かもしれないが、そもそもまともに会話できるのが普通の関係だと山県は考えているから、山県としてはそれを進展だとは思っていなかった。

 手を繋いでいたのも放すタイミングが見つからなかったからで、そんな理由で手を繋いだままでいたのはまるで小学生だ。

 都合良く酒匂先輩が山県を想ってくれているのではないかと考えたりもしたけれど、それにしては酒匂先輩はいつものままの酒匂先輩すぎた。

 だから、ばかみたいにはしゃいでたのは山県だけで、やっぱり酒匂先輩は仕事で一緒にいるだけなのだろうか。

 そんな考えさえも浮かんでくる。

 なんとも思われてないのかな――。

「帰ってきてもいいけど、迎えには来ないんだって。ちょっと酷いよね」

 思案にふけるあまり、酒匂先輩が携帯をしまったのにも気付かなかった。驚いた勢いで頭が上がって酒匂先輩と視線が合う。

「あ、えっと、それは、……どういうことです?」

 一旦深呼吸して落ち着いて、それから考えても意味が分からなかった。山県は思わず首を傾げる。そもそも帰ってきてもいいけど、というのが分からない。

「雨の中二人で歩いてきなさい、って言われた。晩ご飯食べていってもいいけど、食べた後に濡れて帰るってのも嫌だと思って」

 どうしようか、そう酒匂先輩が山県に聞く。

 それはつまり、姉の嫌がらせなんだろうか。

「でも、ここから歩いて二十分くらいありますよね、猫耳屋って」

 そうだね、と酒匂先輩が頷く。

「なんとかして迎えに来てもらうってできないんですか?」

「……ちょっと難しいかもね」

「タクシーで帰って、代金はお姉に払ってもらうとか」

 山県がそう言うと、酒匂先輩が困ったように笑う。その笑顔があまりに申し訳なさそうなものだったことに気付いた山県は、慌てて酒匂先輩に尋ねた。

「お姉に……なんて言われたんですか?」

「うーん、言っていいのかな」

「大丈夫です。怒らないようにとお姉に言っておきますから」

 山県がそう言うと、酒匂先輩は、参ったなと笑った。

「じゃあ帰りながらでいい? それが最後のご要望だから」

「ご要望?」

「そう、注文されてるんだ。とりあえず傘だけ買ってくるね」

 そう言うと、酒匂先輩は二百十円の白いビニール傘を買った。二人が身体を重ねるくらい近づいても、きっとお互いの肩が片方ずつ濡れてしまうくらいの大きさだろう。価格以上に安っぽい傘だった。

 外に出るといつの間にか空が暗くなっていた。まだ夜ではないと思うけれど、雨を降らせる分厚い雲のせいでいつもより空が暗い。

 酒匂先輩が傘を差す。酒匂先輩一人だけを守るのにも精一杯な傘の下に、山県も慌てて入った。

 猫耳屋に向けて歩き出す。

「改めて聞いておくけど、今日一日どうだった?」

 酒匂先輩が視線だけを山県に向ける。顔を向けるだけでも、その動きに揺られて雫が傘の骨を這って二人の肩に垂れるからだ。

「……楽しかったです」

「ホントに? 歩いてばっかりだったけど」

 いじわるな声音で酒匂先輩が返す。山県は酒匂先輩の腕に抱きつく勢いで近寄った。

「本当です。だから、その……歩いてるのも、色々」

 酒匂先輩と一緒にいられることが楽しかったんだと、そう言えない。

 朝は勢いに任せて言うことが出来たけれど、今言ってしまったら、間違いなく酒匂先輩に聞こえてしまうだろう。

 言い淀む山県を見て、酒匂先輩は微笑んでくれる。

「うん。本当に楽しそうだった。僕は適当に歩いてるだけだったけどね、それが申し訳なくなるくらい本当に楽しそうだった」

 自分で言ったのにも関わらず、そんなに簡単に酒匂先輩の同意を得られるとは思っていなかった。ゆっくり頷く酒匂先輩を見ながら、山県は首を傾げた。

「えっと、私そんなにはしゃいでました?」

 言いながら、山県は今日一日を思い出す。確かに心の底から嬉しかったし楽しかったけれど、跳んだり跳ねたり――そこまでいかなくても、見られて分かるような派手な喜びの表現はやってない、と思う。思ってるだけかもしれないけれど。

「はしゃいでる、というよりは喜んでる、って感じだね。それを一発で見分ける方法があったんだ」

「それをお姉に聞いたんですか?」

「それが違うんだ。……ところで、今日はなんで耳と尻尾をつけてって言われたの?」

 時々向けられる酒匂先輩の瞳に吸い込まれそうになる。山県は気付かない内に酒匂先輩の服を引っ張っていた。

「新しいのが出来たからサンプルをとりたい、って。屋外での耐久性能とか、色々」

「うん。やっぱり打ち合わせ通りだね。山県も佐藤も僕も、聞かれたらそう答えるように、って話をしてあるんだ」

「そうなんですか?」

 それは知らなかった。

 というよりも、なんでわざわざそんなことをするんだろう。

 山県は疑問をそのまま言葉にする。

「それは……なんでそんなことを?」

「耳と尻尾をつけてもらう本当の理由を梓ちゃんに知られたら困るからだよ」

 本当の理由。

 なんだろう、と山県は考える。姉がまた変ないたずらを思いついたのかもしれない。

「ポイントはね、尻尾だよ。どうして猫の尻尾じゃなくて、犬の尻尾なのか」

「猫の尻尾じゃダメ、っていうことですか?」

「その通り。まぁ、魔術機構を埋め込んであるとはいえ人の作るものだから別に猫でもいいんだけど、普通は犬だよね」

「うーん」

 酒匂に言われて山県は考える。

 犬にしかないもの、ってなにかあるかな。

 あ、

「例えば、……犬って、喜んだら尻尾、振りますよね?」

「気付いた? そう、だから梓ちゃんの尻尾にもその機能を付与してあるんだ」

 やっぱりそうか。

 しかし、考えてみると相当恥ずかしい。

 手を繋いでるときもずっと尻尾をぱたぱたと振ってたんだろうか。喜んだり嬉しくなったりする度に、顔や態度ではクールに見せてるけど、その実は全力で尻尾を振っていたんだとしたら、それはもう思うのもはばかられるくらい恥ずかしい。

 それに、そんなのは酒匂先輩に気持ちが丸見えじゃないか。

 自分でもどのタイミングで尻尾を振ってたのか皆目見当がつかない。酒匂先輩が隣にいるというだけで、ずっと尻尾を振ってたんじゃないかとも思える。

 言葉では言ってないんだけれど、それは酒匂先輩に延々と好きです好きですと言い続けてるようなものじゃないのか。酒匂先輩に引かれちゃうくらい尻尾を振り続けてたかもしれないと思うと、山県は暗澹たる気持ちになった。

「お姉さんの提案で作ったから商品化はしないかもしれないけどね。コマーシャル・メッセージとしてはすごい効果があると思う。なにしろ尻尾を振ってた時の梓ちゃんはかわいかったし」

 山県は俯けていた顔を少しだけ上げて酒匂先輩を見る。

「例えばね」

 と、酒匂先輩がいきなりビニール傘を投げ捨てた。頭に冷たさを感じたのは一瞬で、そのあとはもうよく分からなくなった。

 酒匂先輩に抱きつかれたんだと思う。

 背中と頭を支えられて、ゼロに近かった酒匂先輩との距離が本当にゼロになった。

 酒匂先輩の顔が右頬に当たってる。吐息が耳朶にかかっているのが分かる。温かさに囲まれて、それがあまりにも心地良くて、山県も酒匂先輩の背に手を回そうとした。

「ほら」

 そのすんでに酒匂先輩に言われて、山県は我に返った。一体どうしてこんな状況になったんだろうと改めて考える。考えている内に、また酒匂先輩の言葉が右頬に触れた。

「尻尾。結構な勢いで振ってるよ」

慌ててお尻の方に手を回す。案の定尻尾は元気よく動き回っていた。

 ちょっと分かった気がする。

 尻尾が動いている時、お尻の方がちょっとすーすーする。感覚としてはかなり薄いものだから、気付かなかったのもある程度は仕方のないことだったのかもしれない。

 しっかりと握って尻尾の動きを封じ込める。

「どう? 分かった?」

 そう言いながら酒匂先輩が傘を拾う。跳ね上がった心拍数はまだ落ち着かなくて、自分を冷やすために出来ればもうしばらく雨に当たっていたかった。

 酒匂先輩が、ごめんね、と山県の方に傘をやってくれた。山県は傘に入る。

「ず、ずっとこんな風だったんですか?」

「うん。見てる分には楽しかったよ」

 ビニール傘を叩く雨粒の音を聞きながら歩く。右肩が濡れるのを感じて、山県はもう少しだけ酒匂先輩に寄る。

 見てる分には楽しかった、か。

 それはそうだろう。山県だって自分の尻尾ではなくて酒匂先輩の尻尾が感情にあわせて揺れていたら、目が奪われてしまうかもしれない――。

「酒匂先輩の尻尾も、ですか?」

 もし、

 もし酒匂先輩のつけている尻尾も、山県のものと同じように喜びや嬉しさにあわせて踊る尻尾だとしたら。

 酒匂先輩の尻尾がぱたぱたと揺れているところを、山県は見た覚えがない。

「大丈夫、僕のはただの尻尾だよ。だって僕の尻尾の揺れを見て梓ちゃんが気付いちゃったら、まったく意味がないからね」

  そういえば、猫耳屋で耳をつけた時にもすぐ振ってたよ、あの時はお姉さん方が梓ちゃんをなんとか誘導して鏡を見せないようにしてたけど気付いた? それから――――。

その後の言葉はもう聞かないことにする。

 酒匂先輩の言葉を聞いて、山県の眉が自然と下りた。肩の力も抜ける。

「よかった……」

 そのままの勢いで全身の力が抜ける気がした。倒れそうになって慌てて酒匂先輩の右腕に抱きついて、やっぱり地に足がついてることを足の裏で実感してから我に返って、抱きついた酒匂先輩の腕から跳ねるように離れた。

「ご、ごめんなさい」

 酒匂先輩が山県の方を見る。

 二百十円のビニール傘を叩く雨の音は、今までに聞いたことがないくらい柔らかかった。

 

 

 

「おっかえりー」

 はいタオル、と姉は山県と酒匂先輩に向かって二枚のタオルを投げた。二人の帰りを待っていて、しかも一応タオルを用意していたというのは姉なりの誠意なのだろうか。

 距離はそんなに無かったのだけれど、やっぱり歩きだと時間が掛かる。

 猫耳屋まで帰る途中、山県と酒匂先輩はかなり濡れてしまった。

 山県といえば灰色を基調にしたワンピースを着ていたから、雨に濡れるとすぐに分かってしまって格好が悪い。出来るだけ早く着替えたいと思っていた。酒匂先輩も酒匂先輩で、傘を持っていたけれども、山県を濡らさないために自分自身が濡れてしまっていた。これが仕事だから、と酒匂先輩は言っていたけれど、雨に濡れることのなにが仕事なのかは山県には分からなかった。

「……ただいま」

 山県は投げられたタオルを受け取る。酒匂先輩を見ると、もう既にタオルでわしゃわしゃと髪を拭いていた。時々タオルから逃れた犬の耳がぴんと立つ。

「お姉、聞いたよ」

 早い内に怒っておこうと姉を見る。山県の声を聞いた姉は、眉をひそめて酒匂先輩を見た。

「なんで言ってくれなかったの? 恥ずかしかったよ!」

「……だってその方がおもしろいじゃない」

「おもしろがってるのはお姉だけじゃん! なんでこんな……その、あんまり意味無いことやらせたの?」

 バカ酒匂。姉はちっちゃい声でそう呟くと、酒匂先輩をにらむ。

 酒匂先輩は困ったように笑って、ごめんごめんと適当に返した。姉は深く溜息を吐いて山県に目を移す。

「――ホラ、でももういいじゃん! 早く髪乾かさないと風邪引くわよ?」

 そんな分かりやすい誤魔化しにのるもんかと思ったけれど、姉が強く背中を押すので猫耳屋の奥までそのまま連れて行かれてしまった。

 わぁびしょ濡れじゃない。

 そう言いながら姉は山県が持っていたハンドタオルをひったくると、とんでもない勢いで山県の首から上を拭きだした。無茶苦茶な勢いだったから、なにを言うどころか息をするのも精一杯で、ちょっと痛いというか、かなり痛かった。

「で、」

 唐突に両腕の動きが止む。タオルの隙間から見える姉は、どうやらまだ猫耳屋の玄関にいる酒匂先輩を気にしているようだった。

 よし、と呟いた姉は山県に目を合わせる。

「どうだったの?」

「な、なにが?」

「なにが、って……色々あるじゃない。抱きついたりした? ちゅーは?」

 ばか。

そんなの出来るわけがないっていうのは朝の様子で分からなかったのだろうか。

「そんなの……やってない!」

 山県が小さく大声で言うと、姉はくやしそうに両手でタオルを動かして山県の髪をこする。

「なにやってんの。もう……折角お膳立てしてあげたのに。こう、酒匂にぎゅーっとされたんじゃないの?」

 あーもう勿体ない。姉はそう呟く。

「あ、あれもお姉がやれって言ったんでしょ!」

 酒匂先輩の言葉を思い出しながら山県は姉をにらむ。背中と頭を抱き寄せた酒匂先輩の腕の温かさを思い出して、顔が真っ赤になった。

「そんなことはないよ。うん」

 山県の視線を避けるように姉が横を向いた。その視線だけが山県を見る。

「そういうことは、……しなくていいの」

 山県は少し目を伏せる。タオルに隠れた本物の耳がちょっとだけくすぐったい。

「酒匂のことが好きでも?」

「……うん」

 なんて言えばいいのかは分からないけど。

 抱きつくとかキスするとか、そんなに分かりやすい表現じゃなくても、一緒にいるだけで、それだけでいい。

 そんな気がする。

 こと酒匂先輩に限って言えば、隣を歩いてるだけでもっと幸せな気分になれる。

 酒匂先輩自身はどう思っているんだろうとも考えるけど、嘘を言わない酒匂先輩が尻尾を振る山県をかわいいと言ってくれたのは、やっぱり山県と過ごす一日がそれなりに退屈しなかったからなんじゃないかと思う。

 ふーん、と品定めするように姉が山県を見る。濡れた髪の湿気を吸い取ったタオルが山県の視線を遮った。

「色気付いた?」

「そ、そんなことないっ」

 どーだろーねー、と姉は楽しそうに首を傾げて、山県の頭に被せるようにしていたタオルをそのまま少し降ろして首に掛けるようにした。

 着替えはそこに置いてあるからと姉の指差した先を見ると、そこは試着室のような簡易脱衣場だった。奥のカゴには山県が朝来ていた服が入っている。

 お姉、と山県が言い掛けたそこにはもう姉の後ろ姿しかなかった。あれだけの会話でもう興味が無くなったのかもしれない。それか酒匂先輩に八つ当たりに行くのか佐藤さんとこっそり話でもするのか。

 山県は肩に掛けられたタオルを両手で背負うように持つ。とりあえず着替えようと思った。

服が濡れてるっていうのは格好良くない。

 

 

 

 犬耳を取って、そのまま尻尾も取った。

 その後佐藤さんが宅配ピザを頼んでくれて、そのまま小さいパーティーみたいになった。

 マルゲリータと四種類のチーズのピザとソーセージデラックスとアスパラとトマトのピザ。

 無茶苦茶な量の注文だと思ったけれど、姉と佐藤さんが思っていたよりも沢山食べた。むしろ殆ど二人で食べたんじゃないかと思うくらい食べていた。

 酒匂先輩の隣に座らされて、佐藤さんに一日のことを根掘り葉掘り聞かれた。

 一体どれくらい恥ずかしいことをしたのかと延々と聞かれたけれど、実はそんなに恥ずかしいことをしていないので、事実を話しても佐藤さんはつまらないと文句を言った。

 酒匂先輩に抱きつかれた話に至ると、どうしてそこでキスをしないのかと説教をされた挙げ句、今やれさあやれ早くやれとはやし立てられた。樽で計れるくらいの量のビールを飲んでいたから、姉と佐藤さんは酔っていたんだと思う。

 勿論、キスはしなかった。

 

 猫耳屋はそれからある程度繁盛しているみたいだった。ただ、元から活気のあるところなので、山県のお陰かどうかは甚だ疑わしい。

 酒匂先輩とは、あれから何度も連絡を取っている。姉に内緒で会ってみたりもした。

 それから誰もが忘れているであろうあの二百十円のビニール傘。あのあとこっそり山県が家に持って帰って使っていたけれど、何度目かの雨の日に、部活の終わりに誰かに間違えて持って行かれてしまった。

 あの安っぽいビニール傘で、誰かと誰かが相合い傘をしてくれてたらいいな、と山県は思っている。

 ちょっと夢の見過ぎかもしれないけれど。

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