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坂と段差の街、矢端川。 見下ろす景色は爽快で、 まるで空を飛んでいるかのようだった。 季節は冬、見上げる空は乾燥の元にどこまでも青い。吐く息はそろそろと白く消えて、毛糸のマフラーが口元を隠す。 「寒ぃ……」 季節に遅れっぱなしと笑われた秋色の裾長コートを羽織ったまま、学校裏手に流れる用水路の高い段差に腰掛けている。 「ほんとに寒ぃ……」 虚空を視線で掴みながら同じ言葉で繰り返す。ただそれは感情の表現ではなく意味無い仕草の人間らしさ。同系色のセーターのおかげで小指の付け根まで隠れた両手を温めようとそれを擦り合わせて熱を生ます。 「あー……」 三度目の声は音だけで意味はなく。日常と今とが乖離する。 「集合する不安定な要素と潜る時計」 片倉雫 「ねね、どこから来たの?」 数えていないが今日で十数回は聞かれた。数が増えれば意味は無くなり、好奇心の露呈は愚問に落ちる。 「元ドイツ、今はあの辺り崩壊気味だけど」 元より感情込めてなどいないが繰り返せば更に無機質になる。それが現実に近いほど、日常から遠いほど。 「……凄いとこから来たんだね」 感慨深げに言葉を返す。理解不能な事実に対しての返答だろう、何度も同じやり取りをした。 一定の言動に対して返される同じく一定の言動、短時間でその返答系が推定できるモノなど人間と呼んでいいのだろうかなどと考えてしまう。或いは単純化することで社会に生きる複数個体としての道を選択したのだろうか。自動人形とは反対に。 「……えっとよろしくね、これから」 形式の礼節かと肩を落とす。しかしそれでもこちらが礼を欠くわけにもいかないと適当に微笑みつくって返事をする。 向こうからもそれが返って、 それで満足したらしい。片手で軽く手を振って自分の場所へと戻っていく。そこには既に何人もの彼女の友人達が待っていて、おそらく今の会話から得られた情報と人間性を確認しているのだろう。平均的な学生の多くは日常に侵入してきた他生命体に対してそのような行為を行い友人に相応しいかどうかを共同体を形成する共通人格と協議するそうだ。そんなような事を誰かから聞いたことがある。 でもそんな事は正直どうでもよくて。 今の自分に必要なのは、社会から排他されることなく、いわゆる平均的な日常とか言うものに寄生する事。必要以上に他人と近づくこと無くしかしそれでいて他人と生活できればいい。日本における平均的な他人というものがまだ理解出来ていない今、それが如何なる難易度を持つのかも分からないが、しかし命じられて事をやるだけであって。 無意味な仕草でありしかしそれでも人間らしさとかいうモノを演出するために必要であるらしい溜息を吐く。それがあるだけで性格的な協調性の無さを認められることもあるらしい。理由は知らない。とにかくそんな風に溜息を吐いて、その後決定的にやることが無くなった。 あんまり、こんな時間は無かった。 そう、時間に暇するようなことは滅多にない。ここでそうかと思っては早計かもしれないが、やはり学生というモノは何もすることがないという時間、そんなものが多いのかもしれない。 しかし、 何をすればいいのだろうか、と思う。通常このような空いた時間には休息を取るが、しかし場所が場所、急に眠り始めるわけにもいかないだろう。ともすれば何が相応しいか。短時間で効率よく時間を潰すことが出来、且つ学校の教室という場所でも可能な事。 頭の中で何が適するかなぞっていく。 この地域での放射線の確認値が適正であるか観測するか、 この地域での時間の流動性に対する重力変動値を確認するか、 空気中の塩束量を他飛沫物質に対して適正であるか調べるか、 低地に対して気圧差で発生する放射状塩害を調査しておくか、 しかしどれをやるにしても目立つ事をして他人と違うと思われるのははあまり良い事では無い。 平均的な学生の多くは、一応の義務である勉強及びそれに準じる行為を嫌い、対逆に存在すると信じられている遊ぶという行動をし続けるらしい。それならば、突然大気中の塩束量を調べ始めたらよく思わない者も出てくるだろう。それは避けるべき事だ。 ふ、と、 溜息を吐いて天井を見る。 する事も無く辺りを見回す。とは言っても目線を端々に渡らせるだけ。 直方体型の空間に三十と数人が各々自己領域を展開している。個体によって存在位置は違い、尚且つ教室という限定的空間であるのに人口密度は様々で、多人数が密集している中の更にその中心に居る人物はいわゆるカリスマ性とかいうモノがあるのだろうか。 推測する。 空間で小規模な共同体をつくっている個体の幾つかが、先程からこちらからも分かるように私を観察している。私という存在自身が日常に不適合であるという事を見破られてはいないだろうが、視線を感じる事に些かの不安を感じる。しかし、恐らくそれも簡単な原因から発生する行動という名の結果。つまりは、 弱小である共同体をより大きなモノにしたいという根源的な意思から生じた現象であろう。個体が複数集合して生成されたモノは、それが生命を持たなくとも遺伝情報を持つという事が言われている。例えば鳥類の巣、昆虫がつくる社会形態。 それと同じ事だと思う。ならば人間がつくった共同体というシステムも人間の遺伝情報を受け継いでいるのであり、より延命する為にそれを大きくしたいという意思は不自然でない。それに、共同体というものに参加できる適当な機会が訪れるかもしれない。一概にそう言ってはいけないのかもしれないが、よい傾向であると判断できる。 視線は更に教室内を泳ぐ。 非生命体も多々存在する事が確認できる。例も表さずとも目に付く順から、消し残りのある黒板、誰かの荷物が置かれた教卓、皆同じである制服、木製の机、鉄の脚が錆びた椅子、出入り口を構成するドア、半分曇ったガラス、それぞれの筆箱、よく分からない魚が泳いでいる水槽、くすんだ色のスリッパ、塩束体観測棒、放射線感知警報機、車輪、用途不明の刃物、黒い布で隠された箱、汚れた雑巾、放られたままのちり取り等々。もはや上げればきりが無い。物質が多ければ各々の性質の把握は困難になる。それでなくとも少し見渡すだけで使途も意図も不明な道具が見当たる。これではひとつひとつの個性を活かす事が出来ないのではないかとも思ってしまうが、 無作為に放られているという事を確認すると、やはり存在位置が理解できているのだろうか。そうでなければ、そもそもそんな非効率的な行為はしないだろう。 しかしそれも無意味な推測かもしれない。そもそも相手の思考が自分と全く違うのだとしたら? いやそれ以前に何も考えずに条件反射のように日常を過ごしていたのだとしたら? その仮定が真実であれば推測の意味は無くなる上に、尚且つその仮定を否定する要素が見当たらない。大体、人間を含む他生命体の思考など理解することは出来ないのだ。そもそも他者の思考などという不確定なモノが存在すると推測すること自体がおかしいとも言える。どれ程人間らしく振る舞おうとも、その振る舞いの奥に潜む「意識」が在るかどうかなんて他者から見て把握することは出来ない。人間を自動人形に見せることもできるし、自動人形を人間に見せることも可能なのだから。 自動人形か、思い至った事実の不安定さに視界は色を落とす。 この地域には自動人形は存在しないだろうと思う。技術系再開発の土地改造から完全に取り残された場所。最先端の科学技術を取り入れて一応の体面を取り持っているものの、土地改造という前提条件の改善に恵まれなかった地域。 自動人形の生存は、人間の生存より困難だと言われている。特殊な動力源の確保、機体のメンテナンス、生存目的の維持、そして最たるものに人工知能に対して施される特殊法律。物理的にも社会的にも生存が容易ではないし、存在維持に掛かる費用が人間百五十人分に値するとも言われている。 即ち、と単純にイコールでは結べないが、 世辞にしても富裕層が住しているとは思えないこの地域で自動人形という高価な思考存在体を使役する人間が居るとは思えない。自動人形が自動人形を遣うという場合も考えられるが、一般的な主従関係でない上に自動人形の存在密度が上昇すると誤作動を起こす可能性が発生すると言われている。不安定な状況下で精密機械を使う事を望む者は多くないだろう。壊れると分かっていて機械のスイッチを押す者はいない。 溜息吐かずに時計を見た。 授業が始まる。 笠野夕夏 大抵の場合は運で生き残ってきた、と思う。何故かよく分からないけどピンチになるとそういうよく分からないものが助けてくれることが多いような気がする。テストは延期されるし落雷を避けたこともあったし。学校裏の五十五階段から落ちて無傷だった上にメトラノの暖房装置が静電気で爆発したときも軽い火傷で済んだ。塩束傷も付いたこと無いしそもそも私が居る場所で塩束量の基準値を超えた事が無い。飛行機で旅行をしようとしてそれがちょっとした用事で行けなくなって、乗る予定だった飛行機が整備不良で爆発炎上した事もあった。 そんな、命に関わるような事だってよく分からないけど助かってきたのに、 今、すっごくピンチなのに、 誰でもいいから、何でもいいから、よく分からないものでもいいから、助けてよ! 何故と思考する間もなく他力本願な思いが閉じる。もうダメだと心の隅で思いながらそれでも手を伸ばせば届くかもしれないと奇跡を夢見る。限界まで手を伸ばして、肩から指先まで完全に張って、体勢も崩して着地の失敗覚悟で。 あぁでもダメだダメだダメだ絶対ダメ! もー人生終わり。 目の前で手のひらサイズのガラスの小瓶が垂直抗力失って地面に自由落下、迷う素振りも見せずに重力加速度に従って床に向かう。 どうか割れないで絶対割れないでお願いだから割れないで! 透明の殻の内側に満ちた透色の液体。揺れて向こう側がたゆたって見える。 それが、 静かに波紋を生んで、 それから廊下の床に吸い込まれるようにして、 そして容易く生命が死ぬようにガラスの小瓶も壊れる、はずだった。 壊れなかった。 「れ?」 物理法則を完全に無視したガラスの小瓶の位置を目で探して、驚いた瞬間に地面にぶつかって二度驚く。 「んがっ!」 受け身とる間もなく地面と衝突。どこから落ちたのだろうかやたら腹部と脚が痛い。条件反射、右手で痛い部分をさすりながら左手で床に手をついて。取り敢えず起き上がろうかと左手に力を入れて、 そのまま起き上がれずに腰が抜けたように座ってしまった。 尻に来た衝撃の予想外の強さで、現実感が綺麗に抜け落ちた。挙動と状況と予想と事実、接点があまりにも日常を超越していて込み上げてくるものはもはや笑いだけ。笑わずにいてどうしろと言うのか、むしろ笑わなかったら物理法則に失礼だ、と私を救った全事象に対して感謝する。それと幸運に、それと、 「あはははっ、ありがとっ」 座り込んだ私の目前でガラス瓶を握っている女子生徒に。あの状態からどのようにしてガラス瓶を捕ったのだろうか、私を見つけて思い切り走ってきて助けてくれたのかもしれないし、目の前にいたから助けてくれただけでそれが集中しきってた私の目に映らなかっただけなのかもしれない。でも、どっちにしてもすごい有り難い存在であることは間違いない訳であって。 「えーっと、それ」 初対面での言葉がいきなり無礼だったのか、少しだけ本当に少しだけ見下ろされているような気がして頭が冷えた。そんで、実際そうだった。立ってるのと座ってるのと、という物理的な状況じゃなくて、精神的な気分的な社会的な人間的な立場みたいなのが。 その言葉を座りながら言っていた時点で私はまだ頭が混乱していたらしい。とりあえず落ち着いたよと口調と仕草で訴えながら、ありがとうだからそれ頂戴と表情で言ったつもりなんだけど、周りからというか彼女から私を見たらバカだという結論以外に何が出るだろうか。非常に恐怖を誘う推測だけれど天地が逆さになっても頭が良さそうだとか格好いいという風には見えまい。 という変な推測は当たったのか当たらなかったのか、とりあえず真意は通じたらしくガラス瓶をこちらに向ける。 で、 「これ」 と言ったところまでは良かった。その後、綺麗な形の眉を寄せて、言った。 「どこから盗ってきたの?」 完全に目が覚めた。頭も覚めた、ついでに全身に冷や汗というか何か脂汗っぽい嫌なのが。 とりあえず、覚めた視界は広くなってより深い範囲も注意することができる。弾が入っていない拳銃でロシアンルーレットをやっているのを見て、それじゃダメだと全弾装填された状態の拳銃を渡してくれたのが彼女、引き金を引くかどうかは私に係っている、でも。 引くわけにはいかないじゃない。 その為にはとりあえずこの重い拳銃を返さなきゃならない訳で。つまりは下手な言い訳でやり過ごすのはダメだ、と。 「……あ、えーっと、それうちの部長に言われて理科準備室に取りに行ってた、んだけど」 とりあえず言っておくのは真実。嘘を言ってもばれることがあれば面倒だし。 「高純度の塩化ナトリウム」 う、中身まで言い当てられた。 「液状だとグラム単価で十五万円近くする、使用許可されたの?」 いきなり核心突かれて狼狽する。成分表示どころか物質名が書かれたラベルさえ無いガラス瓶、どうやって中身を知ったのだろうか。全部諦めて、そもそも眉一つ動かさず冷静にこの状況を判断できる彼女が間違ってる、と思いたい。 「一応、薬品棚の鍵と薬品を個別に保管する箱の鍵、二つあるけど……」 言って、制服のポケットから一纏めにされた二種類のカードキーを取り出し見せる。それでも、と思う。あれが正面から許可願いを出すわけもないだろうし、そもそも使用許可が下りるはずがない。大体彼女もこんな程度のモノで納得するような人間ならそもそも突っ掛かってこないだろう。 「あなたは何部?」 取り出したカードキーを見ながら彼女が問うた。そしてそこでそうかと思う。面倒だからあれに話をして貰おう、と、命じたのはあれだし、と。それで一気に問題は解決するだろう。正直に言ってこれ以上状況が混乱することはあり得ない、むしろ言わない方が面倒になる、と。 「あ、えっと、……科学部」 不思議な事に、 そう言った時、彼女は嫌な顔をしなかった。 飛島行 「純粋な塩を食ってみたいからだ」 成程、と納得する。言動の奇怪さはついに限界を突破したらしい。っつーかなんだ塩食いたいって、一般的に売ってるのでいいでしょうが。 「眉間に皺が寄っているぞ一般人、あくまでも俺は純粋な塩と言ったんだ」 この人読心術でもやるのか、溜息を吐く。いや簡単に表情で思考を読まれた俺もどうかと思うんだけど。……いや待て待て待て、それ以前におかしいところが一つある。 「部長と比べたら誰だって一般人でしょうが、というか部長にとって一般人の定義って何ですか?」 目前で小汚い椅子に座りながら目を瞑って問答をしている生物に聞く。 「愚問だな、お前からそんな幼稚な質問が聞けるとは思っていなかったぞ。一般人の定義は即ち俺以外の人間、以上」 返ってきた答えにやはりかと溜息を一つ。しかし考えてみると、控えめに言ってみてもそれってバカだとしか言い様がない気がする。それでも一般人という言葉に低俗さをイメージさせる態度がすごいか、演じるのではなく素であれなんだから。 「ま、事実に対する意味の設定は個人の自由ですからね。そんな意味分からない定義は不利益生むと思いますけど」 あれのおかげで利益が生まれたらそれこそ世界の終焉だろうと考える。どんな状況を想定してみても、世界がその選択をする可能性を見出すことができない。 「その通りだとも。しかし間違いがある、俺の行動に無意味はない」 俺の妄想思考実験をあっさりと否定する。ま、覆されること自体は想定済みだけど。悔しいが頭脳を使う事については勝てる気がしない。でも、それにしてもあれが役に立つとは思えないが。 「信じてないな? 信じてないだろう? 信じてないが信じてみたい?」 「最後のは違いますけど」 口元に笑みを浮かべながら問いまくる部長に対し危険を感じて適当に答えを返す。一年二年の短い仲だが、経験上こういう口調の時はろくな事が起こらない。 「やたらテンション高いようですけど一体何があったんですか?」 毎日を特別気に留めるような事が何一つ無い日常と言って憚らないこの人が、今は内面に笑みが充満しているようだった。他人から見れば立ち振る舞いはいつも通り、奇怪な言動挙動はいつものように理解するのに時間が掛かる。しかし、と突っ掛かってみる。感じるのは違和感、慣れてしまった奇怪な人格を更に奇怪だと感じるのは何故だろうかと。 二次元的な動きを超越した生命の働きは数学を無視する。逆の逆は正ではなく別方向へと進んだ結果なのかもしれない。それを共通認識として持っている一般人ならそれを適用できるし、一般人ではない変人の動きなら結果は予測不可能に転じる。 「何があったか、か。その問いに対して俺は何かがあったんだろうな、としか答えることが出来ない」 体は動かず言葉だけ。乾いた空気が窓から入った。 「なんで?」 「俺がただの日常如きでテンション上がると思うか?」 問いに対して問いで答える。問答として成り立たないなと考えながらも、その内容に頷きの仕草。 「その通り。ではもう一つ、日常から非日常に変移する為の条件はなんだ?」 日常から非日常へ変化する為の条件、か。何をどう感じるかはその人次第だから何とも言えないが、 「日常には無いモノ、としか言い様がないと思いますけど?」 「ふむ、その通りだな。日常にはない要素、紛れ込んだ不安定な粒子が非日常を導く」 分からなくも、ない。いつも方程式のxに同じ数字を入れていたのに、何かの拍子に全く違う数字を入れてしまったら? 完全に違う数字でなくとも、小数点第百位の数字が違っているだけで発生する解は異なってくるのだから。 「日常を構成する要素、全てを詳細に観察して尚かつ理解しているか? 出来ているはずがないだろうな、俺でさえ出来ていないのだから。日常の要素を理解していないから非日常を誘う要素も見つけられない。しかし、だな。その要素とやらを知らなくても日常か非日常かは判断できる。分かるな?」 やたらと他人を下に見るような言い方をする、そしてそれが事実なのが更に悪い。部長の言葉を例えるならばやはり方程式。非日常の要素が何であってそれがどこにあるか、それを知らなくても、計算の結果、即ち発生した解は違うと判断できる。 「んー、まぁ」 理屈ではそうと理解してもなぁ、どうも心情的に理解できないというか、したくないというのか。 「それで、なーんも心当たりはないんですか?」 というか根本的な問題はそこだろう。なければないでいいが、部長のテンションの原因である非日常を発生させる要素とかいうものを知ってみたい。 「最有力候補はあれだな、転校生という奴か」 「あー、一年のですか? 笠野の隣のクラスでしたっけ?」 「そこまでは知らんが」 「……あ、あと一つ聞きたいんですけど」 何だ、と視線も向けずに部長が問う。一つだけ、気になることがある。部長だけが気付いた些細な、本当に小さな事。 「日常ではないと感じた……なんというか、違和感とでも言っておきますか。いつそれに気付きました?」 計算量が大きくなれば元の解と導かれる解の差は当然大きくなる。部長の機嫌を切っ掛けとして非日常に気付いたが、それの原因である部長自身はいつ、何を切っ掛けに非日常に気付いたのだろうか。 「お前もおかしいと感じなかったか? 笠野がじゃんけんに負けただろ」 それか。じゃんけんよりもその罰ゲームに気を取られて気付かなかった。確かに考えてみればそうかもしれない。 「でもあれは笠野が強すぎるのがおかしいんじゃ? 初めて勝ったような気がしますけど」 「笠野が勝つのが日常だ。ま、じゃんけんは運に因るところが大きいがな。それでもあれが負けるのは十分に異常と判断していいだろう」 この人は笠野のじゃんけんの腕前に絶対の自信があるのだろうか。科学的なのか非科学的なのかよく分からない。 「んー」 「それほど気にすることもないだろう。いずれにしろ勝手な推測にしか過ぎないんだ」 溜息に反応して部長が笑う。言葉の通りだとは思うが、どうにも。 「根拠も何も無い話なんだ。取り敢えず今は、そうだな……笠野が持ってくる塩でも待とうじゃないか」 思い出したように話を変える。ま、これ以上意味不明で尚かつ意味のない問答をしても時間潰し以上にはならないし。丁度いい時間でもあるか、考えながら欠伸をして。 無音になった理科室、ヒーターで暖められた空間に隙間から乾いた風が入ってくる。 「っつーか、今日笠野と俺達だけですか? ともとかは?」 「知らんよ、お前は聞いてないのか?」 いや聞いてませんけど、言ってそこで会話が終わる。続けようとしているわけではないのだが。 思ってやることはあったかと思案する。確か数Uの課題がやたらと多かったような気がする、うろ覚えだが。記憶を探るだけで暗鬱な気持ちが収束してくる。やるべき事だと押しつけられるのがたまらなく嫌いなのは俺だけではあるまい、考えて取り敢えずの区切りにと、 三度の溜息を吐く。 やることもなし、課題を片付けるかとカバンから筆記具を取り出すところだった、 理科室前方のドアがノックされたのは。 萩原とも 胸にあるのは奇妙な爽快感、とでも表現しておくか。実際それ以外の形容詞が思い浮かばないし。 歩きながら思うのは、時間で表して一時間ほど前の事。部長と飛島と笠野、それと初見の女子が理科室で奇怪な討論会を催している所に遅刻気味に割入った。見たままの雰囲気は部長対その初見の女子といった感じで、飛島と笠野でさえ完全に蚊帳の外だった。私が理科室に入った頃の論議は既に高温高圧で、その時点から逆算して事の発端を辿るという事が出来ないような状態で。もはや一般人には理解できない、仕入れ元すら疑いたくなるような根拠の応酬だった。 「で、なんで部長があんなにご機嫌だったわけ?」 見知らぬ人間とあれだけ白熱する様な人種ではない。だとすれば機嫌が良いか悪いかのどちらかで、言葉を見た限り機嫌はよい方向に傾いていると判断できた。 「んー、何かよく分からなかったけど、日常から非日常になったんだとさ」 隣を歩く飛島が答えて。街並みが夕暮れに染まり始めた下り坂、不規則な動きの影を引き連れて欠伸をした。 「非日常、ね。部長が考えそうな事だわ」 口癖がつまらない、のあの人にとって、未だ知り得ぬ非日常とは大きな魅力なのだろう。ん? でも、 「あの変な女子が部長にとっての非日常?」 そう考えるのは短絡だろうか。部長達の論理的というものは意味を取り違えているような気もするが、毎度それを聞かされて自分が間違えているような気になってくる。 「さぁ、そこまでは。でも今の部長にその質問したらイエスで返ってくるかもな」 「なっ……な、なんで?」 予想していた答えの内、低確率のモノを示されて動揺する。確立はゼロでは無いと思いつつも感情でそれを否定していたからかと思案して、自分の浅薄さに視線を上げる。 「そこで動揺するなよ……。まぁ色々あったんだが。俺が関係あると思ったところから説明するか」 飛島が気怠そうに足を動かしながら、暗くなりつつある坂道を見る。 「今日の部活の時な、余りにも人が居ないからじゃんけんで罰ゲームをしようかっつーことになって」 「ん? 部長とあんたと笠野だけ? 志帆とかバカとかは?」 「三人だけ、あいつらは陸上でもやってんじゃないのか? で、珍しく笠野が負けてな、それも一発で」 「笠野が負けたの? 天変地異の前触れじゃないのそれ」 「……あのなぁ、お前話を聞きたいのかしたいのかどっちだよ」 しまった、つい違和感なく言葉を挟んでしまった。会話から言葉で目的地に連れて行けばいいのだが、冗長になると言って飛島はそれを嫌っている。分からなくもないが、私としては会話をしながらの方が楽だから、つい。 「で、罰ゲームが薬品保管庫から液状の高純度塩化ナトリウム持ってくるってやつでな」 とりあえず話を続けてくれるらしい。その事実はつまり飛島にとっても興味深い事実という事か。 「勿論、薬品保管庫プラス薬品を種類ごとに管理する箱で二重に鍵はしてあるんだが、部長がカードキーを持っていてな。どっから盗ってきたのかは知らんが」 理系棟の部屋の鍵に関しては部長が全てコピー済みだと言っていたような気がする。随分前の話だったが、というか一生徒にキー情報を奪られる学校側のセキュリティはどうなっているのだろうか。 「で、そっからは笠野の話に依る。無事、罰ゲームを済ませて理科室に戻る途中、転けたらしい」 「はぁ」 余りにも間抜けな言葉につい言葉が抜ける。笠野は運が良いのか悪いのか、まぁどっちにしろバカなのには違いない。 「薬品は液化してガラスの瓶に詰めてあるだろ、ま、転けたら割れるわな。そこであいつ、あー、片倉なんとかってあいつだ」 吐き出す息は白く、そして熱がある。空気の寒さで頬が赤くなっているのだと思いたい。 「空中を舞うガラス瓶を片手キャッチ、そこまではまぁ許せるが、その後だ。そのままガラス瓶を開けずに中身を当てたらしい。ガラス瓶には個体を識別するラベルは無し、そういう状態でだ」 ちょっと待て、と思う。 「笠野はどうやって判断したの?」 「あぁ、それな。何故かは知らんが箱から取り出した後ラベル剥がしたらしい。勝手な推測だが、他人に見つかってもただのガラス瓶であるとアピールできると思ったんじゃないか?」 聞いて成程、と思う。笠野はどうでもいいが問題は片倉ナントカの方だ。話の元が笠野だから全てを鵜呑みするわけにはいかないが、それでも不可思議な話だ。中身の物質を判断した材料は笠野が気付かなかっただけでしっかりとあるのだろう、まさか人間に目視だけで物質を判定する能力があるはずがない。 「塩化ナトリウムだけじゃなく、純粋なそのものだけってのは価値があるだろ。部長と片倉ナントカとの話によるとグラム単価十万以上するそうだ。学校にそんな高価なモノがある方が問題だが」 その通りだと思う。セキュリティが紙の如く薄い学校にそんな高価な物質を保管しておくのは心臓に優しくない。 「ま、普通なら使用許可とれんだろうなってことであれが理科室に来た。許可を取っていない部長も部長だが」 「成程、今回は部長が悪いってことね。私があの場に着いた頃には何が何だか分かんなかったけど」 述べるのは率直な感想、そこに含まれるのは当事者でなくて良かったという思い。笠野には申し訳ないが傍から見ているのが一番おもしろい。 「あれについていけるのはそれこそ違う意味でバカだろ。普通なら諦める」 「理屈なのか単なる屁理屈なのかも分かんなかったからね」 議論の密度が高すぎて正直聞き取れなかったという事実もあるが、一般人という位置にいる私から見れば向こうの言動が異常。 「そして興味深いことに、だ。件の片倉は転校生らしい」 「ん? そうなの?」 初めて聞いた情報だったが、それと何が繋がっているかが把握できない。 「あいつらが理科室に来る前に部長と二言三言交わして、日常から非日常になったっつー事を聞いた」 「大分端折ってるだろうけど、まぁいいわ。で?」 「非日常っつーことは日常に違和感があるって事だ、で、その違和感の原因を部長は見知らぬ転校生だろうと予測した」 「いい線いってるね」 言ってからそうかと気付く。部長は自分の推測が当たったからご機嫌だったのか、と。ついでにその転校生本人にも面識が出来た。 「んー、部長のご機嫌の原因が分かった気がする」 「そうか」 飛島の素っ気のない返事が乾いた空気に流されていって。 下り坂が一旦終わり、目を遣ればその先に上り坂。惚けながら歩いていれば平衡感覚を失くしそうな町を、無意識の内に歩いていく。冬の景色が一番綺麗かもしれないな、思って道沿いの風景を覗く。赤く焼けた空気が西側から町を照らしている。紅葉が一切枯れ落ちた木々、買い物袋を提げたどこかのお母さん。誰も彼もが白く息を吐きながら通りを歩いていく。 「冬だね」 「ん? ああ、もう十二月だからな、十分寒い」 返ってくる言葉に苦笑する。言葉の続いていなかった間飛島は何を考えていたのだろうかと考えながら。 「さ、それじゃまた明日ね」 「風邪ひくなよ、いや一日で風邪はないか」 言葉に対して手を振って、大きな坂道の通りを繋ぐように編み込まれた細い階段の一つを上っていく。冷えた指先を温めるように手の平を擦り合わせながら。 神ノ木義人 「通信終了、か」 |