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「目眩く不安と不快と奇怪の世界」

 

 

 

 神ノ木義人

 

 白く息を吐いて坂道を歩いていく。

「いや、結局は……、まぁ今から考えれば案外あっけなく終わったんですけど」

 飛島が缶コーヒーを二つ手に持ってこちらに急ぎ足で向かってくる。その内の一つを差し出して、

「どうなったんですか? 結末を教えて下さいよ、……あれだけ勝手に盛り上げといて」

 プルトップを開けて音を立てて。たちまち香ってくる匂いに温かさを感じる。飛島を横目で見て、

 ふむ、とわざとらしく考え込んでみせる。

「そうだな、……それもそうだ」

 考え込む様がそのままその行為に繋がって。何から話そうかと思案して、缶コーヒーに口を付ける。黒い液体に香料を混ぜただけのようなコーヒーを喉から滑らせながら深く息を吐いて。

「……何もかも、気持ち悪いくらいに上手くいった」

「そうなんですか?」

 未だ開けていない缶コーヒーを両手で遊ばせながら飛島が意外そうな顔をする。

「そうだ。いや、……だからこそ、かもしれんが、俺とあの女がとった手段は本当に最良のものだったかと迷う。今になってな」

 二口目、安っぽい味が舌の上を転がって。でも味わおうとする間に胃腑に落ちる。

「片倉滴は死んだ。北方軍勢は侵攻を中止した。――一人が死んだ以外は、全部元通りだ」

「……、」

 坂の上から冷たい風が降りてきて短髪を揺らす。寒さにもう一度缶コーヒーを飲んで。

「いや、笠野が自分自身を自動人形だと自覚したか――、それは、……どうでもいいな」

「どうでもいいんですか? それ」

「どうせ忘れてるだろ」

 大体俺が興味を持ってるのは自動人形であって笠野じゃないんだ。言ってから目線をたゆたわせて。白い息を目線で追う。

「……いやそれは無いと思いますけど、……まぁ話の続きを」

 飛島が声に合わせて缶コーヒーを開ける。熱そうな中身に戸惑った表情をして。

 思う、その時の事を。

「自動人形の素体を持って行っただろ。三日目の時に」

 その時片倉はもう死んでるって意見が多かったんだが実際は二人とも生きていた。

 風韻と共に姿を現した少女姿、喉元に突きつけられた傷だらけの腕。「誰? 何しに来たの? 邪魔しに来たの?」「、……違う」

「施設前で待ってたら一時間も待たない内に片倉滴が出てきて殺されかけた。――流石に死ぬのは免れたが」

 じゃああなた一体何死にたいの殺されたいの今すぐここで? そんな自殺願望はないお前らのせいで一般市民が巻き添え食らうから解決法を持ってきた。言った瞬間、差し出された腕の筋肉が音を立てて膨れあがっていた。

「自動人形持って来たっつってもあいつ信じなくて説得に時間が掛かった。……当然だ、という気もするが」

 で、その中に悪質なプログラムが埋め込まれていない可能性はゼロって言えるの? いつもより高い場所だったからだろうか、強風にたなびく髪が片倉の顔を別人に見せていた。

「そんなもんがお前に効くかって言いたかったな。でも言ったら殺されそうだったし止めた」

 ぐだぐだ言ってたらこの場でこの自動人形ぶっ壊すぞみすみすチャンスを逃す片倉滴じゃないだろう? 片倉滴の教育係とかいう白衣姿の男が、短銃を人工皮膚の額に付けてそう言った。試してみろ、俺が言ってるんだ間違いじゃない。

「その男の言葉にそんなに信憑性があるかと疑問に思ったが、……信頼されてるんだろうな、」

 俺が驚いたのは、片倉滴が自動人形に入る時だ。坂道から階段に入って、一段一段を確かめながら呟く。

 実は片倉もロマンチストだったのかもしれん。

「……、こっちで設備用意してたのは知ってるだろ? でもあいつそれすらも信用ならんとか抜かしやがってな」

 いい、今やるから。

 そう言って白衣の男から自動人形奪い取るとあいつそのままキスしたんだ、自動人形に。

「考えていた以上に別格の生物だよ、あいつは」

 正直そんな方法で脳の機能を転移させるなんてできると思わなかったしそれ以前に思い付きもしなかった。言って、缶コーヒーの残りを一気に口に含む。

「五分ぐらいか、……しばらくそのままにしていたと思ったら、いきなり片倉滴の、……元の身体の方が制御失って倒れた」

 それと同時だな、まぶたを閉じていた自動人形が起きたのと――、

「目を開いて微笑んだ瞬間に自壊したのが。――俺達の予想通りに、な」

 そこまで話して空を見る。寒さの所為か雲のない寒空を。階段の一歩を確かめながら空き缶となった容器を握りつぶす。

 あれは、――見なくて良かったよ、お前。

 散乱した部品を思い返しながら、後からついてくる飛島に言う。自動人形とはいえ……、死体には違いないんだ。

 破れた人工皮膚、そこから突き出た細い制御棒、弾性を失ったスプリング、破砕したガラス球、欠けた歯車と最期の情報を伝達したワイヤー。……、赤く染まって見えたのは体液代わりの液塩。

「そんなに酷かったんですか?」

「……言っただろ、死体だって」

 含みながら階段の最後を勢いで抜ける。毛細血管のように張り巡らされた坂道階段路地小径、その中の一つを選んでから飛島を見て。

「――、飛島」

 なんですか、面倒だと言うように気の抜けた返事が戻ってきて。

「俺はあの死体を見たから思ってるのかもしれん。……、もっと別の方法があったんじゃないか、とな」

 不審そうな目でこちらを見てくる。なんですか、飛島が一つ息を吸って。

「らしくもないですね、過去のことを悔やむなんて」

「後悔の一つでもするさ……、どんな身体を持っていたって人間には違いなかったんだ」

 決して命を軽んじていた訳ではない、いやむしろ尊ぶべきものだと考えていた。それなのに、

「自分を守るため、周囲を守るため。なんだかんだ理由付けて俺は片倉滴を殺したんだよ」

「……、」

「分岐点まで戻る、なんてことはできない。ゲームじゃないしな。……だから今更考えるなんてのは不毛な事だって分かってる」

「……それでも、ですか」

「正解が分からない事に対する煩わしさってのを……、あまり経験したことがなかったからかもしれん」

「……、部長」

 いつも言ってるじゃないですか。後ろから流れてくる飛島の声を聞きながら、本日何度目かの空を見る。

「数学でさえ、それが真に正しいなんて言えない。ならば、と短絡は出来ないが、やはりどんな問題であってもそれに対する答えは一概に正しいと言えない――って。らしくないですよ、なんか」

「……、……そう、だな。やめとくか、この話」

 言い切って白く溜息吐いて後ろを振り向いて。

「あー、……最後に一つだけ」

 手を擦り合わせながら、飛島がそれに息を吐く。

「片倉、……って、どうなったんですか?」

 問われた言葉に苦笑して。

 長い黒髪をなびかせた片倉の、後ろ姿を思い出す。

 

 

 

 飛島行

 

「……、ん……おはよ」

 出迎えたともの服装はまるで寝間着のような簡素な服装。髪だけは手櫛で直したようだが、いつもの感じではない。呆けながらその姿を見ていると声が掛かった。「上がって、……どうぞ」

 言われるままにして、部屋を案内するともについていく。

 どうだろうか。あの三日間からともの様子が少しおかしくて。メールは何度かしたもののいつもの覇気が無いというか。やっぱりなにかあったんだろうとは思うけど何もしてやれなかった自分に目がいってまた何もしてやれなくなって。無意味な螺旋が出来つつあるのを笠野に指摘されて、それはいけないかと思い切ってともの家に押しかけた。

「あー、……ごめん、片付いてないけど」

 躊躇いがちにドアノブに手を掛けて。どうぞと促されたその部屋は言うまでもなくともの部屋だった。……入ってもいいのか?

「……どうかした?」

 戸惑い混じりに問われた言葉に、いやなんでもないと返す。無意識のうちに頭を掻いて。部屋に入って。

 廊下からも少し見えたけれど、想像していたよりも思いの外簡素な部屋だった。年頃の女子高生の部屋はこんなにシンプルなのか、思いつつ、どうすればいいのかということに思い及んでともを見る。

「ん、……そこ座って」

 指さされた所には暖色の毛布が丁寧に畳まれたベッドがあって。眉を上げて戸惑ったつもりだけれどもそれは察せられなかったらしい。勝手に出ようとする溜息を無理矢理飲み込んでそこに座った。柔らかい。で、

 隣に座った、ともが。

 無闇にともから香ってくる匂いに思考が麻痺する。うわこれ危ないぞいろんな意味で。緊張の余り背筋がよくなって、それにも気付かずに思考する。

「今日は、……、どうしたの?」

 違う違う違う違う違う違う。そう思っても、ともの声が撫でるような囁きに聞こえてくる。

「あー、いや、そのな……、あー、……あ、あの時から元気ないな、と思って」

 無駄に口乾くしどうしたらいいんだこの状況。自棄になりたいのを抑えて、出来るだけともの方を見ないようにして。

「……、ありがと」

 そこで言葉止まってついでというように会話止まってそれと併せて沈黙が始まって沈黙のせいで体中が痛くて。

 鼓動が近い。

「あ、のさ……、その……聞いたら悪いかもしれないけど、何があった?」

 近い。

 言うまでもなく近いけどそれでももう一度言葉にしたくなるくらい近い。全部が。

「――、」

 であっ、ちょっと、待て、いや、っていうか、……じゃなくて! 何か言うべきだろうかと思ったが突然過ぎて何も言葉が出なかった。……抱きつかれた。

「ごめん、」

 突然のことで何の心の準備も出来て無くて、心の準備が出来てたらなんだと言われたら別になにがあるわけでも無いけれど。全身で覆い被さる勢いで抱きついてきたから体重のやり場が無くてあやうく押し倒される体勢になるところだった。

「あ、……、いや」

 部屋の中に閉じこもってた三日間の内にともと触れ合うことには慣れたのだが、笠野や橋本やバカが居たからある意味で自制が利いていた。二人の時となると手を握るだけでも全身から汗が噴き出すのに、全身となると。いやいやいやいや落ち着けよ自分。

 なんでこの状況で自分だけが煩悶しているんだろうと若干自己嫌悪に陥りそうになったが、それを横切ってともが身体を寄せてくる。どちらに転んでも困ったことになる状況に、どうすればいいのかという思考がどうにでもなれに切り替わりそうになった。

「ひし、……、……ゆ、行」

 絞るような声が胸元から聞こえてくる。潤んだ瞳と目が合って。ともがこちらから目線を外して唇を噛んでという複雑な手順を踏んでもう一度こちらを見た。

「わ、たしは……、行のことが、好き」

 名前で呼ばれていたことに気付いて好きだと言われたことに気付いて再び身体を寄せられたことに気付いて。一体どれから対処すればいいのだろうかと思考がパンクして。間抜けた声が出た。

「あ、……いや、……、うん。――、痛っ!」

 腹に一撃が決まった、強烈な。なにかまずいことを言っただろうか、考えながら何も言えていないことに気付いて。

「ごめ、ん……、……ありがと」

 物理的な感謝の気持ちだったようだ。聞こえた言葉に安堵して肩で溜息を吐く。

「私は……、最悪、だ――」

 え?

 真意を理解する間もなくともが涙をこぼし始めて。形のない嗚咽が次第に輪郭を得ていく。

「……、……っ」

 匂やかな額で細い頭突き。その柔らかさに、あぁ本当に泣いているんだと遅い理解をした。

「……だ、って……、だって!」

 こっちが謝りたくなるくらいの勢いでともが咽び泣く。嗚咽に言葉を邪魔されながらも、思い切り襟元掴んで口を動かして。

「……、最初は! 怖かったけど。……でも、……行に、会えたら、抱きしめたら、怖くなくなって」

 あぁ、そうか。

「……、一緒に、いれるのが、……ずっと一緒が、良かったから、」

 文章要素を満たさない痩せた単語で伝えてくる。でもそれが妙に嬉しいというか、なんというか。いつも隣で歩いてたともの身体が、今は小さく見えた。

 だから!

「部長にも……、笠野にも、……わがまま、言って、」

 いつも一緒に歩いてたんじゃない、歩かせてたんだ。ついてこようとしてくれるその気持ちにも気付かずに。

「もっと、大変な、……ことが、あった、のに。……私が、」

 わがままで行と一緒に居たかっただけで。恐怖に怯えているだろう私を慰めてくれていた行の気持ちを利用してずっと一緒にいた。そんな自分が嫌で落ち込んでたのにまた行が来てくれて。ダメだと思ってもそれを嬉しいと思ってしまう自分が悔しい。

 吐き出すようにそこまで言って。後半発音が潰れかけていたけど表情で何が言いたいのかは伝わった。

 無意識の内にともを抱きしめていた。すすり泣く声と熱い吐息を首筋に感じる。

 とも。

「……、ん、……な、に?」

 ともが左手で瞳を擦りながらゆっくりと、本当にゆっくりとこちらを見上げる。

 こういう時はなにを言うべきなんだろうか。その次の言葉を考えていない事に気付いて。

「……、とも」

 躊躇いがちにもう一度声を掛けて。なに、と眉で返事をしたその表情をもう一度確認する。

 顔を半分隠すともの左手を握った。

 無抵抗だったことに今更ながら驚いて、

 ゆっくり近づいて、

 唇で接触する。

 自分が何をやったのか、それに気付くまでそれからしばらく時間が掛かった。

 

 

 

 緒方瞬

 

 現在クリスマスプレゼントの吟味中。

「んー……」

 矢端川駅地下のショッピングモールを適当に歩いていく。メリークリスマスと掲げられた垂れ幕の言葉に焦燥感を得ながら。次――はい、次。

 ちなみにこれでも現物派。オンラインショッピングはいかがわし過ぎてどうにも相成れない。ずらりという効果音が流れそうな程並べられた色鮮やかな様々をみながら考える。

 いつもは、

 そこで一旦区切って。お、これいいんじゃないか。

 いつもはもっと余裕を持って、しかも志帆とクリスマスの買い物をする。だけど今回それが出来なかったのは――、

「高い、な……」

 値札を見て呟く。なんだよこれ五万って高いにも程があるぞ畜生め。

 三日間、外に出られなかったから。

 クリスマス付近の三日間って思ってよりも案外大きい。それを使うことが出来なかったから、今回は更に三日間の重要性を知った。

 手に取った実質五万円を元の場所に戻して。

 頭を掻く。

 腕時計を見る、午後四時四十八分。

「――、」

 溜息吐いて考える。三日間のことを、別視点で。

 思い返してみてもやっぱり実感は沸かない。むしろ思い出すほどに、夢や架空現実での仮体験のように手応えが無くなっていく。

 旅行だと思っていたのは俺一人だったらしい。故に、と言っていいのか迷うが、むしろあの場のテンションについて行けなかった。

 片倉がクローンって。

 安っぽいSF小説じゃないんだから。今でも、……いや今だからこそ妙に信じることが出来なくて苦笑する。

 結局その時は部長だけが部屋から出た。むしろ出ることを許された、と言った方が正しいのかもしれないが、部長以外は自発的に出ようとしなかったので結果としてはどちらの言葉も同じだろう。

 そう、誰も部屋から出ようとしなかった。

 状況が今ひとつ掴めなかった俺はその流れに身を任せたが、飛島や笠野が部長についていかなかったのには疑問が残る。

「……ん?」

 ……、これも高いな。

 異様な雰囲気だった、ってのは分かる。俺は動いたらダメだ。無意識の内にそう考えてしまうような空気だった。

 部屋の外には危険がいっぱいだ。

 無言の内にそう説かれているような。妙に外と内の境界がはっきりしているような。――、

 部長の言葉が自動再生される。「だったら聞くが、日常と非日常の境界はなんだ?」そうかこれは。「不定、だ。そんなものはどこにでも無い、だがどこにでもあり得る」「故にまずは境界線を探すことからすべてが始まる」「そして大切なのは、思い切り、だ」「日常をぶち壊す気概がなければ、境界を踏み越えることは出来ない――、つまり非日常に入り込むことは出来ん」「入り込んだ後の事? 知るかそんなものは」

 そうか、

 だからあの時、部長だけが外に出ることが出来たんだ。日常を破壊する気概もない人間には踏み越えることの出来ない境界を易々と踏み越えた後ろ姿を思い出す。

 紛れもなくあのドアは日常と非日常の境界で。

「――、」

 物価上昇中なのだろうか、目につくもの全てがいちいち高価だ。

 お前はここまで。

 例えそれがどんな安っぽいSF小説でも、折角そこまで読んだのにそこから先のページが千切ってあるなんて少し悔しい。

 中途半端にストーリーの概要を聞かせられて、でもオチはおあずけ。

 そのもの自体は印象に残るけど、顛末を知り得ない以上、記憶の中でその輪郭は融解する。

 あれが現実だったのか、なんて馬鹿馬鹿しい自問をしてしまうくらいに。

「……、お?」

 いやでもこれは……、どうなんだ。情けない笑いを抑えて心の中で呟きながら目の前にあるそれを手に取ってみる。

 うわぁ、別の意味で溜息が出そうな程に似てるぞこれ。笠野に。

 デフォルメされた姿に、極め付けの謳い文句が、「夢見た小人がここに。最新オートマタ」

 三十センチにも満たないその自動人形を見ながらこみ上げてくる笑いを飲み込んで。

 いやでも……、これはだめだろ。なんか。人として。

 元の位置に置こうと手を伸ばして。

 まいったな、一人呟いて頭を掻く。

 困ったことに、安かった。

 

 

 

 橋本志帆

 

「で、あれはあんたが仕向けたの?」

 緩めの音楽が流れるファミリーレストランの一席でともが紅茶をかき混ぜながら夕夏に問うた。

「――、ん? あれって? 何かあったのかな?」

 楽しいのをごまかす様に、かみ殺した微笑みが溢れた夕夏が言葉を返す。安そうなフォークでパンケーキの一切れを細切れにして。

 何かあったんだろうなぁ、と単純に思う。ともに言葉が戻ったんだからそれ相応の何かが。私には見当もつかないけど。

「おもしろい冗談ね、それ」

 ともが夕夏にやたら優しい微笑みを向けて。言いながらシュガースティックの端を指で千切る。なんだろうこの寒気は、考えながら夕夏を見ると、ともの表情を見たまま固まっていた。

 迷いのない動作で細長い紙筒の中に詰まった砂糖の全部を夕夏のパンケーキに振り掛ける。

「あああっ! 一瞬にして高カロリーになってしまった! どうするんですか萩原さん!」

「次は置いてある近さ的にコショウが降り掛かるけど、どうする?」

 一瞬にして悪魔的所行を為したともは、不敵な微笑みと共に夕夏に語りかけた。演じるような動作で夕夏がパンケーキの皿をともから遠く離して、ついでにコショウの小瓶も遠くに追いやって。それからフォークを使って、ともに振り掛けられた砂糖を払い落とす作業に取りかかり始めた。

「正直に言いますから勘弁して下さいよー。ただでさえ運動してないから体重切実なのに……」

「……、えーっと、一応聞いとくけど……、なんの話?」

「、……あ、いや、それは、……その」

 私の言葉を聞いて初めて私に気付いたかのような反応をして。頬に紅葉を散らして、でもそれをごまかすようにともが紅茶に口を付ける。

「ん? なんか……訳あり? 気になるなぁ」

「気になるよねー、志帆も。ともの口から何があったか聞きたいなぁ」

「……、ラー油?」

 さり気なく混ざってきた夕夏の言葉に反応してともがラー油を手に取る。が、夕夏も条件反射でパンケーキの皿を腕で隠した。

 ラー油が夕夏のコーヒーに入った。

「ひ、ひどい! これは飲めないですよ萩原さん!」

「次は容赦なく塩がいくよ」

 うわぁ、心の中で小さく悲鳴を上げながら思う。今の言葉は絶対本気で、だから容赦なくって言うのは一瓶丸ごとの可能性が。

 あぁご勘弁を、夕夏が言いながら中の液体の表面を眺める。無表情でカップを除けた辺り、相当だったのだろう。

 笠野が大きく溜息吐いて。

「うん、まぁ……ともの所に行けって言ったのは私だけど――」

「だけど?」

「う、……何があったか知らないけど私はその後のことに関して一切関与していません。多分」

 多分、のところでともが柳眉を逆立てる。というか、

「えっと、飛島君が?」

「そうそう」

 夕夏が水を飲みながら答える。最近ともの調子が悪そうだったからさぁ、飛島に直させようと思って。

「、……あーもうっ」

 へー、口で呟きながら妙に感心している間にともが両手を顔で隠した。

「でも、ともが直ってしかもこんな反応があるって事は、――」

 言いながら嬉しそうにともの様に両の手で頬を隠して夕夏がはしゃぐ。

「ちゅーはしたの? ちゅー。どうですかそこのところ萩原さん。それとももっとやっちゃった?」

 やっぱりそういう話題に進むよなぁ。思いつつ、普段は色気のないともが恥ずかしがっているのを見て。でも恥ずかしがってるだけなのにそれでも可愛く見えるのは羨ましいなぁ、とか。……茶化してやろうか。

「舌入れた? それとも違うとこに入れた?」

「もしくは入れられた? どうですか萩原さん」

 私に乗っかって夕夏が言葉を続けた。見えないマイクでインタビューする形で腕を差し出して。でも何も答えないともの指の間から見える表情は、嬌声が聞こえてきそうな感じだった。

「うー、……お前らぁ……」

 ……実際は低いうなり声だったけど。

「くっ、そんな怖い声で脅したってだめですよ! 真実を知るまでは圧力に屈しない!」

 そこまで叫んで我に返る。うわここファミレスだった。恐る恐る周囲を見ると、くすくすと笑うどこかのアルバイトだけが店内にいた。せ、せーふ。

「……、う、うるさいなっ、そんなのどうだっていいでしょ」

「えー、ダメですよ萩原さん。……っていうかもうちゅーはしたって事でいいですね?」

 嘘を吐けないところがともの可愛いところで。今回ちゅーしたとは言っていないが、して無いとも言ってない。してないならしてないって言うはずだからしたんだろうなぁとか。っていうか、したとかしてないとかはしたないなぁ。

「う、あー、もうっ、……いいっ! した! キスの一つや二つ誰だってする!」

 ほらさっそく言っちゃった。

「うわぁ、ということは何回も何回もちゅーしたんですね? 合計何分ぐらい?」

「そ、そんなにしてないっ! もうっ……嫌、……

 薄い涙浮かべて顔真っ赤にして。それでも無理に澄ました顔を作ろうとして目を閉じているのが初心で可愛い。

「ここまで来たら全部言っちゃいなよー。ってことで、ぶっちゃけどこまで進展しました?」

「進展って……、キスしただけ! それだけ!」

「本当ですかぁ? もう諦めた方が楽ですよー?」

「ゆ、……飛島は、そんなんじゃないから! 多分……

「押し倒されたりとかどさくさに紛れて胸揉まれたりとか、そういうのないんですかー?」

 二対一で延々と言葉責め。いつもとは違う構図だったからなんか妙に楽しくて。ともの頬を真っ赤に染めたまま、この後二時間もこの場所で過ごすというある種の暴挙に出た。

 今まで溜まってた不理解とか不安とか不快感とか。そういうのを吐き出すすごい良い機会だったと思う。

 言うまでもなく、楽しかった。

 本当に。

 

 

 

 萩原とも

 

 今でも感触が残っているというかなんというか。妙に気恥ずかしいのが逆に嬉しくもあるけど。

「……、……」

 暖房のついていない部屋に戻ってきて、一段落という風に溜息を吐いた。一瞬思案した結果ベッドの上に座って。

「うー……」

 そのまま倒れ込んで顔を腕で隠す。思い出したくない記憶に限って自動再生されるのが嫌だ。夕夏と志帆には後で適切な仕返しをしなければならないだろう。思いながら、

 呻くような声でベッドの上で寝返りをうって。

「あー、……もうっ……」

 気付いたら行の表情が鼻先にあって。それにも驚いたけれどそれ以上に行が真顔だった事にどきりとした。何か言おうとしたんだけど、ろくに見ることのない行の真顔に見惚れて時が止まった。

 涙を拭う仕草を止められてそれでも無抵抗だった私は一体何を考えていたんだろうか。

 何も考えていなかった、のだろうか。

 それも間違いではないだろう、間違いではないけれど……、されるがままだったその時のことを考えるとやっぱり自分から無抵抗だったという方がなんか雰囲気的にありなんじゃないかとか――ダメだ何を考えているんだ私は一体。

 右手で拳を作ってベッドに叩きつける。

「……ん、」

 あまりにも長くてこのままでもいいんだけどでもやっぱりどうしよう。鼻で呼吸するのも少し……、あれだし。数瞬前まで泣いていた事も忘れて思案して。逃げたとか避けたつもりじゃないけど息が詰まって喘ぐような声が出た。

「あ……、ごめん」

 変にか細い声が出てしまった事が恥ずかしくて。唇を離した行の目を見ることができなかった。

 左手を掴まれたままだったけど平常心を保たないといけないような気がして深く息を吸って。

「とも……?」

 うわ冷静な頭で改めて名前を呼ばれるのってこんな感じなのか。早鐘を打ち鳴らすような鼓動に自分で動揺しながら落ち着いた姿を見せようとして。

「……う、うん? なに?」上擦った。

「え、あ……いや、あのさ――」

「あ、謝らなくても、……いい、から」

 うわまた声の向きがおかしくなった。目を合わせられないまま思惟して左手の温かさを感じて。

「……」

「……」

 沈黙。

 どうしようどうすればいんだろうこの状況。一秒二秒の短い時間な筈なのに無性に長い時間に感じられて。さっきよりももっとどちらかが先に切っ掛けを作らなければならないのになんで私は何にも出来ないんだ。

「あ、のさ」

「……うん、なに?」

「あー、……なんていうか、ありがとな」

 無理矢理に行の方を向かない体勢のまま言葉を聞いて。それ先に言われちゃったら私はなんて言えばいいのか分かんなくなるじゃない、それでも視界に映っている行の足先を見ながら思う。

「……、うん」

 告げられた言葉に頷くことしかできないのを疎ましく思う。でも疎ましく思ってもそれ以上がなくて振る舞えないのが私であって。恥ずかしさ全開、身じろぎ一つで行に向き合った。

「……もう一回。して」

「ん、」

 少しだけ見上げる位置にある行の表情がいつもより少しだけ格好良かったのは見間違いじゃないだろう、多分。

 いつもだったらこんな言葉恥ずかしくて言えたもんじゃないけど。なんでだろうその時は沈黙が二人の間に染みるより、言ってしまった方が随分と楽だった。

 甘い餌を待つように行を待ち望んで。触れた瞬間に頭の後ろが麻痺したみたいになる。

「ん……、」

 むしろ無意識の内に私が押し倒すような雰囲気になって。思い切り安い体重を掛けて行の胸の辺りを空いている右手で掴んだ。

 そのまま全力で身体をくっつけて。言葉にならない声が隙間から漏れた刹那に、口腔内に温かい感触が入り込む。

「……っ!」

 行が目を見開いたのが分かった。それでも今を止めたくないと押し続ける、身体が身体を身体で。舌先が解け合ってもうどれが自分なのかが分からなくなって。

 このままで、ずっとこのままで良い。のに、

「っあ……、……」

 唾液が糸を引く。半ばで繋がりの解けたそれが唇に付いた。

「――、は、ぁ……」

 そんなに激しいことをしたつもりは無いのに行は肩で息をしていて。鼻先を掠める位置にある表情を見つめる。

「あ、……いや、その」

 行が顔を真っ赤にして目を逸らす。いつの間にさっきとポジションが入れ替わったんだろうかと不思議に思いながら、

 左頬を行の右頬に触れさせて、耳朶に囁いた。

 大好き。

 

 

 

 笠野夕夏

 

『一応聞いておくが、自動人形になった気分はどうだ?』

 テーブルに置いた受話器の向こうから声が聞こえてくる。どうだ、って言われてもなぁ。

「さぁ……? なんか実感とか全然無いから分かんないけど」

 っていうかホントに私って人間じゃないんですか? 手首切っても血が出ないとかそんな感じですか?

『それはやめとけ、お前死ぬぞ』

「そこが分かんないの。下半身だけ機械とかそんな風じゃないんでしょ?」

『それは義肢に近い。お前は自動人形、いや広義には義肢に入るが……、分かるな?どう違うか』

「義手と自動人形の違いは分かるけど……」

 言い淀んで考える。機械化されたのが全身か一部か、という感じな気がするけど。

『言ってみろ』

「だから、その……機械化されたのが全身か一部か、っていう違いじゃないの?」

『……ちなみにそれは両方とも義肢の範囲に入るぞ』

 ええっ、そうなの? 驚いて、それなら一体自動人形とは何なんだろうかと考える。やたら偉そうに振る舞う受話器を睨んで腕組んで。

「……降参しても?」

『……、ヒントをやる。作られた目的だ』

 白旗上げるのも禁止らしい。間抜けたような声を出して頭を掻く。私なんかに分かる訳ないのに、聞こえないように呟きながらイスの背もたれに体重を預けて。間を空けないように適当な言葉を投げた。

「……作られた目的、ね」

『そうだ』

 大体お前は自動人形だって言われて動揺している所にその質問はないだろう。

「分かんない、やっぱり。答え教えてよー」

『……、自分で考える癖を付けた方が良い』

 受話器をぶっ壊してやろうか。あんたの問いに一々答えないといけない義務でもあるのか私には。向こうには見えないだろうから思い切り舌出して馬鹿にしてやった。

「……で、答えは?」

『作られた目的、だ。義肢は身体の欠損を補う為に作られるが、自動人形はそのものの為に作られる。……少し考えれば分かるだろう?』

「そりゃあ、聞けば。あぁ成程って納得するけど……っていうかそんなのはどうでも良くてさ」

『あぁ、……そうだったな』

 もう一つのイスに脚をのせてだらけた姿勢ー。居間に誰もいないことを確認してから机に顎をのせて。

『思い切り簡略化して言うとだな、外側から順に、薄い肉、自動人形の機体って感じだ』

「いやなにその説明。適当にも程があるって言うか、しかもなんかよく分かんないし」

『お前、幼児期に肺炎に罹っただろ?』

「ん、うん。覚えてないけど」

『覚えてないのは当然だが、その時死んだんだよ、多分。推測混じりに言うが、珍しい症例で脳以外が死ぬってのがあってな。人工臓器付けまくって延命させてたんだろう……だが、何らかの事情によって自動人形にその脳を移転することになった』

 まぁその方が色々メリットはあるしな。メンテナンスも一気に出来るし。

 聞こえてくる説明口調に後悔が少しだけ沸いてくる。なんか、変に……心苦しいというか、その、……嫌だ。

『約十五年前だろ、その頃にプロトタイプだが外見が人間に近い自動人形の素体が開発された。使用例は……主に、お前みたいなやつの為に、な』

 涙がこぼれてくるなんて知らないよ。テーブルに突っ伏したまま袖を濡らす。

『そう、……もういいな? 細かく定義するなら人工臓器の集合体とでも言うべきだが……、大して変わらんだろ』

「あ……っく、……っひ、ぁ……っ」

 うわ、その言い方は少し酷い。文句の一つでも言ってやろうと口を開いたが出てきたのは嗚咽だけだった。それが止まらなくて。

『……、落ち着け』

「うっ……、ぁ、っく、……んっ、ひっ、」

 そんな言葉で落ち着けるんならもうとっくに落ち着いてるから! 言葉になって欲しいのに形にならない。原因も分からないのに無闇に悲しいと思う自分が嫌だ。

『身長、伸びてるだろ。お前』

 耳に触れる言葉が急に優しさを帯びる、……やめてよそんな声、似合わない、から。

『丁度いい言葉が見つからんが……、お前、親御さんに愛されてるよ』

 卑怯だ、そんな事言うなんて。

『成長する自動人形なんてそこらの小金持ちには変えない』

 お前の親は元々の生活なげうってまでお前にその身体を与えたんだよ。……だから、卑怯だから、もう分かったから、言わなくても、いいから。もう溢れる涙を止めようとする気力もなくなって。そのまま任せようとした。

『自動人形が狭い領域に同時存在すると誤作動の危険があるってのは知ってるだろ』

 昔あった、ペースメーカーが携帯の電波で誤作動起こしてたのと同じような原理でな。

『だから、自動人形がいないであろう矢端川に引っ越してきたんだ。分かるな? 全部、お前が大切だからそうされてきたんだ』

 ずるいよ、そんな事言うなんて。

 乾いた思考に泣き濡れる。予想していなかった部長の声に戸惑って、言われた事実があまりにも切なくて。

 自分が自動人形である、というその事実が、

 何故だろう、胸が痛い。

『笠野、』

 ――、何?

『……いや、……謝ろうと思ってな』

「うっ、ぁ……っん、く、……あっ、」

『すまなかった。……自分自身が自動人形だなんて知らなくてもいいことだもんな』

 嫌だ、言わないでよ。

「わたっ、私はっ、……っく、ぁ、っは……、自分が、ぁ、人形、……だって、……それ、を、知れて……っぁ、良か、った」

 だから、もうそれ以上は。

「謝らないで、よ……、っん、……っく、もう、」

『そうか、でもな――』

「……部長、切っ、ても……いい?」

 受話器から発せられる声を聞くだけで、もう、ダメだ。声を遮って返事を聞かない内に切断する。

 電話が切れたことを示すノイズが、私しかいないリビングに流れて。反響する自分の泣き声に涙がペースアップする。

 あぁ、言わなきゃ。唐突に頭に浮かんできたその衝動が、私の視線を上げた。

 私のこの幸運に。

 そこに連れてきた物理法則に。

「……ありがと」

 一人呟くように言ったそれは、反響することなく消えた。

 誰に言うでもなく発したその言葉は、

 自動人形の性というものがあるとするならば、それなのかも知れない。

 唐突に浮上して、瞬く間に潜ったその衝動の残像を胸に手繰る。

 泣き顔に、歓びの色が薄化粧のように彩られた。

 安堵のような、そんな気持ち。

 

 

 

 片倉雫

 

 ずっと一緒にいたかった。最初で――最後の、

「先輩は、……本当は私を自動人形だと思っていたんでしょう?」

 なんでそんな他愛もないことを言うんだ私は。もっと言いたいことが沢山あるのに。言わなくちゃならないことがいっぱいあるのに。壊れそうな微笑みを向けて。夕日で赤く染まり始めている景色をその向こうに見る。

「よく分かったな……、自動人形の情報を仕入れたときに丁度転校してきたから、な。どうしても目がいった」

 みんなにはもう会えないだろう。神ノ木先輩に会うのももうこれが最後だろう。

 二度と会えないっていうことが、どんなに苦しいくて辛いか、もう知ったから。

 滴が死んで。その亡骸を見た時の喪失感。

「飛島君と話してたのが、聞こえちゃったんです」

 言って、内緒だというように人差し指を唇の前で立てる。でもその仕草もすぐに崩れそうで。

「あぁ、成程な。……いやすまんかったな、変なところで疑って」

 殺させない為に殺さないと、そう思っていたのに。完全に敵だと思っていたのに。私を恨んでるって、ずっとそう思っていたのに。

 壊れていなかった滴の表情は、笑ってた。

 間違ってたんだって、その時にやっと気付いた。もっと別の、みんなが幸せになれる方法があったんじゃないかって。

 風になびく黒髪を手で押さえて先輩の方を見る。どうしたんだ、言うように眉を動かして。

「いえ、……もう、会えないんだなって、……っ、思うと、その、……っぁ、く……悲し、くて」

 言葉を紡ぐことさえ、震える。あぁなんでこんな風に人間はできているんだろう。もっとしなければならない事が、言わなければならない事がいっぱいあるのに、できなくなる。

「……、」

 息が詰まる脚が震えるお腹が痛い涙が止まらない。崩れた仕草をまだ使おうとして。

「みんな、……優し、くて」

 涙を拭って最後だからと姿勢を正そうとして。でも、それが出来なくて。

「こ、んな、……っく、……っあ、私、にもっ、……優しくて」

 私達の変なわがままにも何の文句も言わずに付き合ってくれて。自分勝手だと分かってるつもりなんです。

 濡れて揺らめく朱い景色の中で、ただそこに立つ先輩の姿を見て。

「だからっ、……、いや、ですっ……できれば、っく、……ずっと、一緒に……、みんな、と、」

 一緒にいたい。

 言葉になっただろうか、できただろうか。

 全てが涙に濡れて、自分の声さえも確かめられない。

「……雫、」

 直ぐ後ろで聞き慣れた声が悲哀を含んだ感情で私を呼んだ。肩に手を置かれる。でももう何もかもが悲しくて。触れたその優しい手つきでさえ涙を誘い出す感触になる。

「うぁあっ、……、っう、……あっ、く……っぁ、」

 心の準備が出来ているからなお辛い。言い残す時間が与えられているからなお辛い。

 もうどうすることもできなくて。両の手で涙を払うしかできなくて。

 夕方の空に響く泣き声が、胸を締める。

 避けられない別れの時が迫ってくるのが、それが分かるのが辛い。

 ……泣くことしかできない自分自身が嫌だ。

「っあ、ぁ……せんぱ、い……」

 抱きしめられた。温かい腕に。

 力強く、思い切り。

 吹く風が身を冷やしていたこの場所が、温かくなった。

「うああああっ、せんぱ、いっ、……っあ、っくぅ……、」

 なんでこの人は。最後まで。

 思い尽きて。でもそれでも足りずに抱きついて温かさを全身で感じて。

 目前にある身体がついに涙でにじんで。何を言えばいいのか分からなかったけど先輩の顔を見上げようとして、

 頭に柔らかい衝撃がきてそれが遮られた。

 撫で、られた。

「――、」

 もはや慟哭に近い声音だけの悲しみの表現。なんで。

 こんなに温かい人がすぐ近くにいるのに。

 離れないといけないって。

 嫌だよ。

「片倉、」

 耳朶に熱い吐息がかかる。はい、とらしくもない弱い返事をして。先輩の身体を掴んで。

「ありがとう」

 聞こえてきた言葉に今度こそ全てが止まらなくなった。

 同じ言葉を返さなければならないと思って息を整える。

 深く息を吸って、震える両手で先輩の服を掴んで。

 もう一生乾かないんじゃないかと思えるほどの涙で満ちた瞳を上へ向ける。

 やっぱりそこには神ノ木先輩の顔があって。

 でも先輩の顔とみんなの顔がだぶって見えて。

 もうこれ以上泣くまいと必死で唇噛んで。

 夕夏に、飛島君に、ともに、志帆に、緒方に、そして神ノ木先輩に、

「ありがとう……っ、……」

 精一杯の全力の感謝の気持ちがそこにあった。

 告げた言葉に戒めが強くなる。

 抱きしめられたその心地よさは、両手をすり抜けるような悲しみを含んでいた。

 先輩をもう一度だけ見る。

 微笑まれたことがなによりも嬉しくて。

 だから言った。もう、ここまでにしようと思って。

 絶対言いたくなかったその言葉を。

「……、さよなら……っ」

 背中に回された温かい腕を振り解く。

 絶対に、泣かないから!

 思いながら、白衣が立つ施設への入り口へと早足で向かう。

 唇を噛んで。長い髪は風に吹かれるままにして。

 もう、会えないことを思いながら。

 立ち止まりたいその衝動を無理矢理踏みつけて。

 そして、私はみんなの前から姿を消した。

 最初で最後の――、友達の前から。

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