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Teacher プロローグ 四月。桜が咲き誇る季節に俺こと東野聡は今まで勤めてきた学校から転任して、この学校にやってきた。 新しい学校でいろいろ緊張することはある。それよりも新しい生徒たちの出会いに期待があるのも事実。 数週間前までのドタバタは嘘のように消え、今はスクーターで道路を走っている。この道がこれからの俺の通勤路。いろんなことを考え、思い出しながら走るだろう。そして今日は転任するときの一騒ぎを思い出してみる。 ◇ 三月の暮れ。俺は二年間生徒たちに勉強や社会について教えた学校を転任することになった。 少しは寂しい気持ちもあった。自分が受け持った授業を受けてくれた生徒たちと会えなくなる。そう思うと涙がでそうになる。しかし、中学は三年間しかないのだ。出会えば必ず別れが来る。逃れようのない運命だと割り切れば何とでもなる。大切なのはこれからの出会いのほうだ。 別れは一時的なもの、出会いは一生もの。そんな風に思える自分に焼きが回ったのか、と苦笑する。 正直、こんな風に思えるようになったのは最近の話。当時はそんな余裕なんかなく、ただ荷物整理に追われ、時間が過ぎていた。 今までは自宅から通勤していたわけだが、今度は自宅から通える距離でなくなった。そうなったらどうする? もちろん俺の収入でも借りられるアパートを借りるわけだ。教員に寮があれば、と何度悔やんだことか。そんなこと言っても詮方ないのは解っている。渋々だが安アパートをどうにか探し出して借りた。 引越しの荷造りも始まって、起きている時間は全て次の学校のために割いた。 学校の荷物整理もあらかた終わり、荷造りも終わったころ、母さんがボソッと呟いた。 「聡、体壊さないようにね」 そんな一言に俺は親の気遣いの気持ちを見出して、心の中で感謝した。ありがとう、母さんって。 自分らしくないって自分でも思うけど、心に沁みる言葉だったんだ。 引越ししてからはほとんど学校へ荷物を送ったり、部屋の荷物を片付けたりで消費した。 まあ、いろいろあったなって数週間前のことなのに随分前のことのように感じて感慨深くなったりする。学校ではいきなり三年生のクラス担任を任されるわ、最初の授業の準備があるわ、で忙しかった。 ◇ スクーターで朝の空気を切る。焼きが回っているな、と考えつつ。 学校の敷地内に入るとスクーターのエンジンを切って、駐輪所まで押す。清々しい朝の空気を肺に満たす。春の朝は気持ちがいい。 職員室は二階にあるので、職員玄関から入ってすぐの階段を登る。登りきるとすぐに職員室がある。荷物のカバンを机に置いて、リターン。今度は校門へ。 この学校の生徒たちの雰囲気が知りたい。 転任してすぐの俺にとって、生徒の雰囲気、学校の雰囲気というのは大変興味がある。これからの生活は生徒と関わらないことなんてない。教師という職業は生徒がいてこそ成立するのだから。 初々しい顔、楽しそうな顔、気だるそうな顔。様々な表情をした生徒が歩いてくる。俺はその子達に、 「おはよう!」 と元気に挨拶して、コミュニケーションを取るだけだ。 「おはよう、先生」と登校してきた子が挨拶を返す。 しっかり挨拶を返してくれる子ばかりで嬉しい限り。挨拶のできる学校はいいところばかりだ、と誰かが言っていた気がするが、本当にそうなんだ。俺はこの学校での生活に期待できそうだ、と思った。 第一話 初担任は三年生 1 初めて担任する学年が三年生だなんて、新米の俺には早いんじゃないか? と疑わざるをえない。まだ二年間しか教師として勤務していないし、それで三年目、やっと担任するクラスが決まった、と思ったら三年生だ、なんて。 しかし俺だって大人だ。任された仕事ぐらいは完遂する責任を負うし、力不足だ、なんて罵られようが確かにその通りです、と反省するだけだ。いつも通り、熱心に教職者という仕事を全うするだけ。 職員室から出て自分のクラスへの経路。責任感に潰されそうになりながらも歩いてこれるのは一重に、俺の生徒たちが待つクラスという、今までになかった響きに俺自身酔いしれていたからなのかもしれない。責任が伴うのはどんな仕事でも当たり前。担任するクラスがあるのは今までの俺が頑張ってきた努力が認められただけのこと。 そういう、責任感がある仕事が与えられたことを嬉しく思う。 教室の戸に手をかける。 これが、この一年、俺が受け持つクラス。そう、しみじみと思い、元気よく挨拶をして入った。 「おっはよー、先生」 挨拶ができる子が多いって、本当、いい学校だよ。こういうことは校長先生とかがよく口にするが、確かにそう思う。挨拶とは人間関係の最も基礎となるもので、挨拶ができる人間は相手を思いやる気持ちなどがあるといっても過言でない。実体験に基づくものだから信頼性は抜群。 「よぉーし、出席取るぞー」 出席簿を教卓に広げ、一番上から生徒の名前を読み上げる。 元気のある声、眠そうな声。基本的にみんな元気そうで、何よりだ。眠そうなのは昨日夜更かししていた子だろう。この年頃ならよくあることだし、起きて授業に望む態度はよろしい。まぁ、眠いから授業中に起きていることで精一杯で授業の内容は全然解らない、って状況だけは勘弁して欲しいけど。あと、夜更かしのせいで授業中に寝るのも勘弁して欲しい。授業中に寝るなら、家でしっかり寝てから学校に来るべきだ。 これが、俺が受け持つクラス。みんなの顔を必死で覚えた名前と一致させながら出欠を取る。 「よぉーし、みんないるから先生の自己紹介をしようかなー」 人間関係において挨拶は人と知り合いになる手段。ならば自己紹介は他人に自分を知ってもらう手段だ。知ること、知ってもらうことは他人との距離を縮めるただ一つの方法だ。それを疎かにするとコミュニケーション能力のない人間と認識されてしまう。だから俺は自分を知ってもらいたい相手に自己紹介し、その人との距離を縮める。 チョークを右手に持って、黒板に『東野聡』と自分の名前を書く。 「まぁ、読めるよな? そうそう聡だよ」 静まり返る生徒たち。 見事にスベッた。昔はよくそうやってからかわれたんだけどなぁ。それ以外には『はじ』って呼ばれたこともあったな。『はじ』って呼ばれたときは本気で怒った。自分の名前を気に入っている証拠だ、とも思う。 「と、冗談は置いておいて、東野聡って名前で、趣味は数学、読書、音楽かな。 そうだった。メールアドレス教えとくから質問とか相談とかあったらメール送って。気軽に送ってくれていいからなー。 担当教科は数学。昔から数学は好きでさ。先生だってかなりできるほうだったんだけどさ、同じ数学の先生を目指してるやつにはもっとすごいやつがいてさ。何ていうか、才能の差、決定的なセンスの違いってやつか、埋めることのできないものを見せ付けられたんだ。それでも数学の先生になるって夢は変えなかった。何故か解る?」 黙りこむ生徒たち。さっきとは別の意味で静まり返った教室。静謐な空気で満ちる教室で俺は深呼吸をして、結論を言う。 「ひとりでも多くの子供に数学を教えたいって思っていたから。 みんなも今年、受験がある。人生初の選別の試験だ。どんなに厳しい試験でも夢があるとそれを追い求めて努力するだろ? そういう努力が大事だから、みんなも努力して、夢を掴もうな」 最後にどうすることが大事かを教える。こういうことも教師の仕事。自分の体験を元にするから説得力、信憑性ともに抜群。頭の片隅に残って、こんなこと言った先生がいたな、と思ってくれればいい。 真剣な眼差しで俺を見る生徒たち。感心してくれたのかな。もし感心してくれたのならとても嬉しいことだ。 「先生、質問でーす!」 「何かな?」 ビシッと手を挙げる生徒を当てると、その生徒のほうを見る。 「彼女いますか?」 「いきなりそんなこと聞くなー! ってこれが答えになるしッ!?」 「そうですか」 さっと引き下がる、質問をした生徒。妙に潔い生徒だ。 いい年なのにね、とか肯く生徒一同。おい、俺に彼女いるかいないなんて、お前たちには関係ないだろ。いや、欲しいんだけどさ、苦手だしなぁ。縁のない話だなって感じです。 「まぁー、先生の恋人の話なんて終わりにして、クラス委員決めるぞー。 立候補する人、いるかー?」 当然静まり返る生徒たち。 生徒の自主性を尊重して、自分から名乗りを上げる人が出てくることを望む。時間がかかってもいい。自主的にリーダーになれる人はそれだけで社会に出たとき、リーダーシップがあって、人を引っ張っていくタイプの人になれる。そういうタイプの人はそれだけで尊重され、多少のミスだって仲間が助けてくれる。それに責任のある仕事につくことが人を成長させることだってある。 「いないのか?」 だから、催促するだけで強制するつもりはない。やりたくないやつがやるより、やりたいやつがやったほうが仕事に決定的な差が現れる。その差とは何か? 簡単なことだ、やる気があるかないか。それだけで違いは出てくる。「やりたくない」と思っているやつは常に楽なほうへ逃げる傾向があり、「やりたい」と思っているやつは常に努力する。 これが大人になるための学校で教えるべきことだ。数学とか国語とかそういう勉強でなく、社会のことを勉強させることが中学校の本来すべきことだと思っている。社会において最も重要なのは数学とか国語といった一般教養より、社会についての教養だ。これが大人になるために必要な教養でもある。 「はい」 真っ直ぐな瞳で挙手する生徒。いかにもリーダーシップがあるタイプの人だ。 「じゃ、反対のある人はいるか?」 男女一人ずつ立候補者が出たところで問うた。最も、反対する人なんていないだろう。反対するぐらいなら自ら立候補するはずだ。それに面倒役を自らやろうとする人間があとから出てくるとも思えない。 教室全体を見渡し、挙手している生徒がいないことを確認。挙手している生徒がいないだろうと思っていても必ず確認する。 「じゃ、クラス委員二人、あとよろしく」 三年生だし、クラス委員に任せておいて問題はないだろう。俺も生徒の名前と顔を一致させないといけないし。これも重要な仕事の一つだと俺は思っている。 教室奥の椅子に腰掛け、一息。 「えっ、先生、委員会関係を決めればいいんですか?」 「あ、これに書いてあるのを決めて」 そう言ってクラス日誌に挟んでおいた紙を手渡す。 クラス委員が受け取ると、「はい、解りました」と言って教卓のほうへ戻った。 顔と名前の一致は苦手ではないから、今日中に一致させきりたいなぁ。 机は二つ一組で三列、五行ある。だから男女で三十人で一クラス。一クラスあたりの人数が少ないが、クラス数は六クラスあるので、一学年百八十名はいることになる。学校全体では五百四十人程度。まぁ、大きい学校ではない。 と、その中で俺が関わるのは半数以下なので一月もあれば最低限覚えなければならない生徒たちの名前は覚えられる。その自信は今までの体験から来るものだ。 これからの一年、このクラスを率いていくのは俺。 このクラスなら十分やっていけそうだ。むしろ楽しくて、別れが惜しくなるかもしれない。そんなクラスになるだろうって思った。 2 翌日。 今日から授業開始である。今日の授業の準備は休みのうちにやってある。 朝のホームルームを終え、職員室に一旦戻る。始業までの僅かな時間に少しでも授業がうまく進むようにイメージするのだ。 授業の準備をして、職員室をあとにする。もちろん他の先生たちへの挨拶は欠かさない。 廊下を歩いているとき、今までとは違った緊張感があった。自分が担任のクラスで始めて授業する。そんなことを思うとどきどきしてしまう。 戸を開け、教卓の前まで歩く。 クラス委員が号令をかける。 「おはようございます」 「おはよう」 よし。さぁ、これから俺は生徒たちに自分の好きな数学を好きになってもらおう。 「よーし、早速だけど、抜き打ちな」 「えぇ――!?」 ブーイングの嵐。 ブーイングした生徒の大半は評定が低い。まぁ、ノリでブーイングに混じる評定の高い生徒だっているわけだが。俺にも記憶あるし、そういうの。 反対にブーイングしいてない生徒の大半は評定が高い。ブーイングしていない生徒の中にあれ? と思う子がいた。評定が低い、女生徒。不思議なことだった。評定が低くて、数学が嫌いになっていても可笑しくないのに。その女生徒はブーイングを全くしていない。それどころか、俺をしっかり見ている。根っからの真面目な子なのかもしれない。 「みんながどれぐらいの力を持っているか知るためのテストだから、成績に入れないけど全力で解けよ。教科書レベルの簡単な問題ばかりだからみんな満点取れるよ」 生徒というのは成績に入れないと解るとそれだけで安心できるみたいで、確かに俺もそうだったなぁ、と思い出す。 元々テストはどれだけ理解できているかを確認するためのもの。俺はテストの点数より授業でどれだけ理解しようとするか、どれだけ真剣に取り組めるかを評価したい。そのため、この子はこれだけできるから、この点数はよくない、とかそういう目安を知らなければならない。 テストの紙を配り始める。配り終えると、教卓の前に立つ。 「よぉーし、まず名前書けよー」 シャーペンを走らせる音が小刻みに響く。その音がなくなるのを待つ。 「よぉーし、始めていいぞ。 一応十分ぐらいで解けよ。様子見て時間延長するけど」 一斉にシャーペンを持って、取り組む。 俺は左端から順に生徒の様子を伺う。すらすら解ける子がいれば、悩んで全然解けない子だっている。解ける子は見なくてもいい。だが、解けない子には理解してもらいたいからどこができないのか知るために多めに観察する。 女子列に泣きそうになりながら取り組む子がいた。 名前は……そうだ、檜森しぃなだ。事前に目を通した資料からも数学は苦手なようだった。それでも評定は2がついていたはずだが。泣くほど難しい問題なんてだしてないはずだし、そもそも教科書レベルなのに、と様子を見に行った。 檜森のテスト用紙を覗いてみる。 泣きそうになりながらではあるが、基本は理解できているみたいで、教科書の例題レベルはしっかり解けている。ただ、練習問題レベルになると途端に解けなくなっている。なぜか考えて見る。 少し見ていると答えは見つかった。 基本は確かにできている。しかし、応用力を少し問う問題になると解けない。つまり、応用力がないだけ、なのだ。これまで数学の勉強を基本の理解に努めるので精一杯だったのかもしれない。それでも理解したい、と思ってくれているなら、こういう一生懸命な子ほど教え甲斐があるから親身になって教えてあげそうだ。 十分ほど経って、教卓の前に戻ると、時間が足りなさそうな生徒が数名いた。 「時間延長して欲しい子いる?」 挙手する生徒が数名。その中には檜森も混じっていた。 「じゃ、五分延長」 また、見回り開始。 もう終わって暇そうにしている生徒だっている。泣きそうになって終わらせようとしている生徒だっている。泣きそうな生徒代表は檜森だけど。 カリカリとシャーペンが紙を引っ掻く音とカチカチと時計が進む音が静かな教室に響く。 「よぉーし、ペン置けよー。 後ろから回収して」 回収されてきた答案用紙を受け取り、教卓にまとめて置く。 「じゃ、授業始めるか。楽しい楽しい数学の時間だよー」 教科書を開いて、何ページなのかを確認。 「教科書六ページ開いて」 指示を出して、チョークを手に取る。そして黒板にチョークを走らせた。 ◇ 次の時間は時間割の関係上、俺が担当する数学の授業がない。 それなら、休憩でもしつつ、細々な仕事でもこなそうか、と思うところだが、正直今は自分のクラスが他の授業をどんな態度で受けているのか、気になっていた。 自分の教室へと歩を進める。 教室の戸の前に立ち、中の様子を伺う。 今は……理科の授業のようだ。寝ている生徒は……いないみたいだ。授業中に寝ているような生徒が自分のクラスにいるかは気になるものだ。そういう生徒がいるなら注意しなければならないし、改善させるために行動しなくちゃいけない。 全体的な雰囲気はどうだろう? しっかり前を見て、先生の話を聞いているようだ。 安心した。 俺の授業以外でも同じような態度で受けているみたいだ。 知らないうちに頬が緩んでしまった。そして、その緩みはなかなか元に戻らなかった。 ◇ 授業が終わり、部活が始まるまでの時間。 戸を開け、教卓の前に立つ。 「静かにしろよー。 今日配った紙、早く書いて先生に提出すること。それじゃ、クラス委員」 「起立。 さようなら」 「さようなら。気をつけて帰れよー」 すぐにカバンを背負って、部活に行く生徒や、ゆっくり帰る準備を始める生徒がいる。こういう光景は昔とあんまり変わらないな、と思い、職員室に戻ろうと思った矢先。 「先生、今日の授業の質問があるんですけど、いいですか?」 「お、檜森か。どれだい?」 声をかけたのは檜森だった。 くっきりした大きな瞳、小さい鼻。ぷっくりと瑞々しい唇。細いあごのライン。髪型はポニーテールで、肩口ぐらいまでの長さだから解いたら腰近くまではあるだろう。ポニーテールを縛るリボンは大きくて幼い印象を与える。小筆で書いたように細い眉毛。細身で小柄、胸も。無駄な脂肪がないといえば聞こえはいいが、単に発育が悪いだけだろう。一輪の白い可憐な華のような少女だ。 ゆっくり観察してみれば、同年代の子からはモテそうな、そんな可愛らしい少女だ。 「あ、っと、ちょっと待っててくれる? そこに座っててな?」 「えっ? はい」 俺は教科書取りに行くから、と言い残し、職員室に戻る。 職員室で自分の机の上においてある、今日回収した答案用紙と教科書、それに裏紙を手に持って、すぐ檜森が待つ教室へ戻る。 檜森の後ろの机に座り、対面する。 「はい、お待たせ。で、どの辺りが解らなかった?」 「えっ、と、最初からです……」 「恥ずかしいことじゃないからさ、どんどん質問してよ。理解できなかった子がいるのは俺のせいでもあるんだし、理解できなかった子に理解してもらうのが先生の仕事なんだから。それに授業をもっと解りやすくするためにどうしたいいかって言うのも解って、先生も勉強になるからさ」 恥ずかしそうに俯く檜森に、俺の本心を聞かせる。質問しないのに解らないから嫌い、っていうのが一番性質悪いのである。解らないのなら、解らないって言ってくれないと俺も授業の改善ができない。 「教科書六ページからだね?」 「うん」 教科書の六ページを開く。 裏紙を机の上におき、『2(X+1)』と書く。 「これは解ける?」 「うん」 そう言って檜森はシャーペンを握ると、俺が書いた問題を解き始める。 『2X+2』と解を書くと、「できた」と小さく呟いた。 「そう、正解。 じゃ、これは?」 次に『X(X+1)』と書く。 これも檜森はすらすら解いた。 「お、正解。 じゃ、これとこれはどういう約束を使って解いた?」 「えっ、と、確か、何だっけ? あっ、そう、『分配法則』だ」 その通り、という意味合いで肯くと、「じゃ、次はこれ」と新しい問題、『(X+1)(X+2)』を書く。 「解りません」 「うん。これはね、まず、最初の括弧の中のXを後ろの括弧に分配法則でかけていって、次に最初の括弧の中の1を後ろの括弧に分配法則でかけたものを足すんだ」 俺はゆっくりシャーペンを動かし、『X(X+2)』と書いて、その式を解く。次に『1(X+2)』という式を解く。それから二つの式を足す。 「どう、解った?」 「なんとなく」 「それでいいよ。 簡単に言えば、最初の括弧の中を一つずつ後ろの括弧にかけるだけだから、落ち着けばできるさ」 次に『(X+2)(X+3)』を出題。 「できる?」 「がんばる」 そう言って、俺がやって見せたように解き始めた。ぎこちなく、たどたどしいが、楽しそうに解いていた。その姿は見ていて嬉しい。自分の好きな数学を楽しそうに取り組んでいる。苦手でも好きなんだ、と思わせるその姿は教師として嬉しい限りである。 少し時間がかかりそうなので、持ってきた答案用紙の採点でもしよう。 筆箱から赤ペンを取り出すと、出席番号順に答案用紙を並べ替える。ちらっと檜森の様子を伺い、まだがんばって解いているようなので、採点を始めることにした。 一人目を採点し終わると、檜森が顔を上げ、俺を見る。 「できたー」 「どれどれ……」 答えは『X^2+5X+6』だ。そこに解答されているのは『X^2+5X+6』だった。 「正解。 どう? 解るようになった?」 「うーん、大体かなぁ」 首をひねって考え込む檜森を見て、俺はそれでいいんだよ、と言う。 曖昧な理解度でも十分である。理解できたのか、否かを問うものではその差は大きい。テストの範囲を全然理解していないで臨む人と、曖昧でも理解して臨む人の差は歴然のはずである。不正解ばかりと正解混じりの差。点数というはっきりした違いが出るのだ。 檜森が苦笑気味に笑うと、俺は採点作業に戻った。 「ね、先生」 「ん?」 顔を上げず、採点作業に集中しながら檜森の話に耳を傾ける。 「あたしさ、数学好きなんだよね。でも全然できなくて。いつもテストでは半分も取れなくて。それでも好きなんだよね」 「うん」 相槌を打ちながら、採点作業を続ける。 「『好きこそものの上手なれ』って言葉があるけど、全然そんなことなくて。挫けそうになるんだけど、それでもやっぱり好きなんだよ。 これって、変なのかなぁ」 「そんなことないさ。先生だって数学が好きで教師になろうとしたんだ。同じように教師になろうとするやつのなかにはホントに天才的なセンスを持っていて解けるわけないって思う問題でも解いてみせるだけどさ。それでも先生になる夢は諦めなかった。どうしてだと思う?」 昨日と同じ問いを檜森に向ける。 採点作業はとっくに止まっていて、赤ペンを握ってすらいない。 「ひとりでも多くの子供に数学を教えたいって思っていたから?」 昨日の答えをそのまま返す檜森に俺はそれもある、と言って続けた。 「一人でも多くの子に数学を好きになって欲しいって思ったから。数学が好きな子にもっと数学が好きになって欲しかったから」 「へぇ」 「だから、な? 苦手でも好きっていう気持ちは大切にしろよ。いつかきっと、今より得意になれるだろうからさ」 檜森はくすくす笑い出した。 「先生って何か、暑苦しい人なんだね」 「あっ、暑苦しい!?」 意外な言葉に戸惑うが、熱血漢を自負するのだから、他人から見れば確かに暑苦しいのかもしれない。 「悪い意味じゃなくて、いい意味でね? こんな先生を、『熱心な先生』っていうのかなぁ?」 檜森は小首を傾げ、思い耽た。俺は称号『熱心な先生』を手に入れた! 熱心な先生っていうのは、熱血漢な先生のことなのか。そういう風に考えて、俺の教育に対する態度に熱意があった、と思えば、どちらも当てはまるのではないか、と結論付けた。 「調子はどうだ?」 唐突に俺は檜森に問う。生徒の精神面、肉体面の健康を把握しておいて損はないだろう、と思ってのことだ。 檜森は顔を上げたが、目線を合わせず、ただ一言、普通です、とだけ言った。 俺はその言葉に少し違和感を覚えたが、気のせいだろう、と否定した。しかし、否定したにもかかわらずその違和感は拭いきれなかった。手が油で汚れたように、なかなか消えることのない違和感を必死で忘れようとした。 「普通か。うん、それぐらいがいいよな」 檜森は首肯しながら、うんうん、と何度も自分に言い聞かせるように呟いていた。 その時、俺は普通という言葉を何度も自分に言い聞かせるような、そんな檜森の姿に疑問を抱いたが、それはただの気のせいだった。 「ね、先生。今まで付き合ったことある?」 「ぶっっ! 昨日言ったみたいに……」 「昨日言ったみたいに?」 墓穴だった。これでは経験なしとすぐに推測されてしまう。 檜森は小悪魔な笑みを浮かべたまま、さっきまでとは一転、視線を合わせてくる。 どうにか逃れようと嘘を考えようとする。が、嘘をつくことが嫌いな俺にとって、嘘を考えるのも嫌いであるのは至極当然であり、結局正直に話すことにする。正直者と言えば、聞こえはいいが、悪く言えば本音丸出しということになる。 「墓穴だったなぁ……。 一回だけあるね」 「へぇ、意外だぁ」 檜森は目を輝かせ、嬉々として俺の話に耳を傾ける。どんな感じだったの? と問いを向けた。 「大学二年のころに後輩から告白されて、断れなくて。嫌いじゃなかったんだけど別に好きでもなくてさ。そんなんだから普段の生活にしたって、デートとかにしたって、あやふやではっきりしなくて。それで怒られたな。『なんで、そんな適当な気持ちでオッケーしてくれたんですか』って言われて、確かにそうだって思った。その後すぐ別れた。二ヶ月ぐらいしか付き合ってなかったけど、その期間はそれなりに楽しかった。 ま、こんな感じかな」 「へぇ、先生って意外と決断力ないんだね」 確かに俺は決断力がない人間だ。かつて決断力がなくて、優柔不断のダメ男、と言われたこともあった。そのときは本当に恥だ、と上手いこと思ったが、それじゃダメだ、と決意もした。だからといって、今もそんな風にできているかは別なんだけど。 「まぁ、昔の話だし、今はもう少しマシになってる」 と思う、と付け加えようとして結局口から出たのは微かな空気だけ。どうして微かな空気だけ吐き出すだけで言葉にならなかったのか。決まっている。情けないからだ。今の言葉でも十分情けないのに、さらに『と思う』なんて情けない言葉を付け加えることなんか俺にはできなかった。教師として生徒に情けない姿をこれ以上曝け出したくない、ただその気持ちの表れなんだ。 「ふーん」 そう言って檜森は黙り込んでしまった。 放課後の教室に静かになる。すると、運動部の音が聞こえてきた。金属バットがボールを打つ音。サッカー部がボールを蹴る音。 そんな音が教室に届く。 しかし、教室は静寂に支配されていた。 不意にチャイムの音が教室を満たした。 下校時間の放送だ。 部活終了の合図であり、下校時間が訪れる。その合図で俺は口を開いた。 「さ、今日はもう帰りなさい」 「うん。 じゃ、また明日ねー、先生」 そう言って檜森は立ち上がると、カバンを背負った。その後すぐ、くるっと一回転してスカートを翻すと、手を振って教室を出ていった。年頃の女の子らしい元気さがにじみ出ている行動だった。 その様子を見送り終わってから、俺は赤ペンと解答用紙を取り出した。 ◇ 採点作業が終わってから職員室へ戻った。 明日の授業の準備をするためだ。 自分の机で作業を開始。大方の準備が終わると、今日感じた違和感を払拭するために檜森に関する資料をもう一度見直した。 そこにはある事実が書かれていた。 |