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第二話 自分スタイル 1 翌日。 今日は俺の授業の仕方を聞いてもらおう。 自分が担任するクラスではないけど、同じ学年なら同じ授業をするわけで、大して変わらないと思ってくれ。そんなわけで楽しい数学の授業の始まりだ。 ◇ 教卓の前に立って、号令を聞き流すと、教科書を手に取った。 「じゃ、前回の続きから始めるぞー」 教科書のページをめくって、七ページを開いた。 「教科書の七ページ開いて」 教科書に開き癖をつけ、教卓の上におくと、次は板書用にまとめたノートを開き、チョークを黒板に走らせた。 単元的には昨日と同じだから、昨日の復習を少しと、新規で教えるところを少し。 黒板に昨日の復習問題を書き終えると、体の向きを反転させた。 「じゃ、この問題を解いてみて」 言い終えてから教室内を歩き始めた。 ちゃんと解いているかの確認と、黒板の前に立っていると問題が見えなくて邪魔になるので教室内を歩いて回る。歩いて回っているほうが質問しやすいだろうし。 三年生ともなると、受験が控えているのでどの子も真面目に授業に取り組んでくれるので、教える側としては嬉しいことである。 こうして歩いているだけでも挙手して、「先生っ」と呼んで、質問してくれる生徒がいるので、理解度も確かめられる。 ただ、みんながそうであるとは限らない。クラスの中には受験を諦めきり、授業も放棄するような不良もいる。しかし、努力なしで成功はありえない。そういう子達は今、勉強しなければいつするというのだろうか? 今後、機会があるとは思えない。だから、最低でも基礎だけは理解して欲しい。勉強は唯一才能が必要とされないから。必要なのは時間。個人差はもちろんある。 だからこそ、たとえ受験を諦めているとしても俺は教え子全員に理解してもらいたい。いつか役に立つときが来るかもしれないから。この勉強、中学のときにしっかりやっておけばよかった、なんて後悔、されたくないし、させたくない。 最前列のドアより、堂々と寝る不良くん。聞くところによるとこの不良くんはどの授業でも寝ているらしい。寝ている理由が授業がつまらないとかいう、理にかなっていないものらしい。他にも悪い噂が多くあるようで、先生方からの評判も悪い。 そうは言っても、聞いた話だけで彼を悪い人と決め付けるのはいけない。この不良くんは染髪もしていなければ、ピアスだってしてないし、ワックスで髪を立てたりもしていない。そんなに悪い印象を与える格好はしていないので、根は善良な子だと思う。確証はないが、俺はこの不良くんが善良な人間であると信じたい。 授業態度は改善してもらえばいいだけで、そうすれば他の評判も自ずとよくなるだろう。そんな淡い期待を胸に俺はいつも通り、俺らしい真っ直ぐさで生徒にぶつかる。 「寝るなよー」 柔らかく注意するように言いながら肩を揺する。 反応がないので、揺すり続ける。しかし、意地でも起きる気がないらしく、貝のように目をつぶっている。 そこで急に揺する手を離し、反応を見ることにした。 すると、目を開け、俺を睨むと一言吐き捨てる。 「やっと止めやがったか、クソ教師」 このくらい言われようが決して怒らないのが肝心である。それに暴力を振るって言うことを聞かせるのは簡単なことだ。指導することにおいて、暴力が一番効率がよいのはわかっている。敢えてそれをしないで指導することが大切なのだ。 「さっさと消えろ、クズ」 いい加減、この生徒も調子に乗ってきたようだ。あまり好き勝手言わせるのは教師としての沽券に関わる。 俺は俺らしくこの生徒を指導する! 「こら、そんな言葉遣い、目上の人にするもんじゃない」 「あん? てめぇのどこが目上なんだよ、カスが!」 不良生徒は鋭く睨むが、大した迫力もない。所詮は子供だ。 「まぁいい。 それより、黒板の問題を解いて」 「何で俺がやんなきゃいけないんだよ」 「いいから早く解け!」 俺は机を思い切り握りこぶしで叩いて怒鳴った。 しまった。つい感情で行動してしまった。まだまだ俺も子供だ。大人になりきれてない。そんなんじゃ、いつまで経っても駄目じゃないか。 彼女に言われたことが未だに心に傷を作り、その傷は癒えていなかった。もう何年も前のことなのに。 「んだよ、クソジジイ。仕方ねぇな。解いてやるよ」 俺は黙って、あまりにも子供っぽいやり取りに反省。 緩慢な動作で不良生徒が立ち上がると、ゆっくりと黒板のほうへ歩いていった。 黙って見守りながら、次は大人らしく指導できるように、と自戒する。 黒板の問題を前に、チョークを持った手が止まっていた。その様子を見て、俺はヒントを出す。 「これの意味は解る?」 そう言って『(X+1)^2』の『^2』を○で囲む。 不良生徒はチョークを持った手を止めて固まった。 その様子からいまいち理解できていないと判断。そこで俺はさらにヒントを書いた。 「これは同じものを何回かけているかを表しているから……」 丸で囲んだ問題の下に『(X+1)(X+1)』とさらにヒントを書く。これだけ書けば昨日の授業を復習してくれていたなら解けるはずだ。復習したイコール理解したが前提ではあるが。 ぶつぶつと文句を垂れながらも問題を解いている。俺はこの姿を見て、根っからの不良でないと確信した。理由は二つ。授業中に教室から出て行かないこと。俺が中学のころは教室から出て行く不良がいたから、その点においては不良でないと言えるだろう。もう一つは教師に暴力を振るわないこと。噂に聞くところによると教師への暴言はあるが、暴力はない。暴言は大人への不信感からよるものかもしれないし、理由は定かでない。暴言なら矯正できるレベルだろうと俺は思う。 確信したからには俺は矯正する。彼が人生で損をしないためにも、今のうちに全うな道に戻してあげるべきだ。電車は線路の上でしか走れないのだ。人も然り。人も道徳が定めた道の上を歩くほかに全うに生きる道などない。 それを教え、諭すことも教師として俺がやるべき仕事だろう。いや、教師だからではなく、大人だからかもしれないな。俺が教師だからやるのか、大人だからやるのか、そんなものは瑣末な問題なのかもしれない。 そういう風に観察しているうちに不良生徒はすでに解答を終えて、チョークを置くところだった。チョークを置くとさっさと席へ戻り、どかっと態度の悪い格好で座った。 最低限座っているので俺は態度が悪いことについては特に何も言わず、黒板の解答を見ていた。そこに書かれているのは『X^2+1』だった。この解答から大体の理解度は解る。括弧の中をかけることは解るが、どういう風な法則を使っているのかは理解していないことが読み取れた。 「これはよくある間違いだな。 まず、前の括弧か後ろの括弧を『A』とかと置いて、分配法則を使って計算して……」 そう言いながら、黒板に『A(X+1)』と黄色のチョークで書いた。それから分配法則を使って計算した結果をその下に書いた。 「次に、『A』を元に戻して、また分配法則を使って計算して……」 続きをさらに書いていく。 『=(X+1)X+(X+1)x1 =X^2+X+X+1 =X^2+2X+1』 解答を書き終えると、生徒たちのほうへ向いて、解ったかどうかを訊く。 俺の授業は、基礎(定義、定理)を教えて、後は実践(問題演習)によって理解を深めていくのがベースだ。 2 自分のクラスでも今日は授業がある。基本的に先ほどのクラスと同じだが、理解を深めてもらうことを前提としているため、授業の進度は異なる。もちろん俺自身の目標進度というものは存在するが、理解しなければ次へ進んでも理解できないであろうことは目に見えて解るだろう? この世に一つとして同じ輝きの宝石がないのと同じように、彼らの理解度も一つとして同じではないだろう。でも、どんな宝石でも磨いてやれば同じぐらいの輝きにできる。つまり彼らの理解度だって、同程度にはできるってことだ。そうするのが教師たる俺の仕事であり、理解してもらえることは俺にとって教師をしていてよかったと思えるだろう。教師冥利につきる、といったところだ。 すぐに理解してくれる子は心配する必要はない。授業だけでテストの点数をそれなりに取れるようになるのだから。その逆の子は気にかけてあげなければならない。授業以外でも補習をするなりして、理解してもらう必要がある。一番いいのは解らないことがあればすぐにでも質問して理解することだ。それを数学において見つけるのは実に簡単だ。練習問題をたくさん解かせて、実力をつける過程で見つかるはずだから。 今現在、俺のクラスでぶっちぎりで数学ができないのは、昨日の抜き打ちの結果から推測するに、檜森である。昨日の結果は基本の基本しかできていなく、まさにぼろぼろの結果だった。それでも意欲がすごくある子だから、質問をして理解しようとする。そのときに俺がどれだけ解り易く教えられるか、教師としての技量が試されるところだろう。 それは俺に与えられた試練なのか、檜森に与えられた試練なのか。 答えは両方かもしれないし、どちらかなのかもしれない。答えが出るころにはクラスのみんなは成長しているだろう。そして俺との接点はなくなるだろう。俺もみんなも多くを学べる一年であるといい。 考え事を頭の片隅へ追いやると、頭を授業に切り替える。リモコンでテレビ番組を変えるように、あっさりと切り替えられるようになったことで自分も大人になってきたなと思う。授業のときはこの顔、プライベートはこの顔、友達と会うときはこの顔、職場ではこの顔。仮面を付け替えるように気持ちも切り替える。 別人になるわけではないし、根本的なものは何も変わらないので、俺は俺なのだが、意識の持ち方というものが変わる。言葉遣い、行動、相手が感じ取れる全てを相手によって変える。 人は本音と建前をうまく使い分けて生きていく生物だ。だから他人、場所に対して見せる仮面もうまく使い分けて生きていく生き物だろう。 切り替えた俺の頭の中には、授業のことしかない。切り替えるというのはこういうこと。 ◇ チャイムが鳴る。授業開始の合図。 復習問題を出題して、俺は質問がないかぐるぐる見回った。 「質問があったら言うんだぞー。解らないままにするのが一番ダメだからなー」 そう言っておく。 これは警告だ、次の定期テストでこの問題は絶対出すぞ、という。これを感じ取れたならまじめに勉強してくれるだろう。本当は定期テスト出るから勉強するのではなく、彼らには人生初の選抜試験があるから勉強するほうが正しいのかもしれない。いや、俺としてはどちらも正しくて、理解することに本質を見出しているのかもしれない。 教室全体に注意を向けながら、教室内を闊歩する。 「先生っ」 左手を挙げ、俺を呼んだのは、言わずもがな檜森だった。 すぐに気付いて、檜森の机へと向かった。俺としては質問されないより、されるほうがいい。教えることが好きだし、理解したときのスッキリ感を味わってもらいたい。 檜森は俺が来たのを確認すると、ノートにメモした復習問題(二問目)を指した。 『(X+1)(Y+1)』という問題だ。 「これは、こうやって考えると……」 そう言って、『(1+X)(1+Y)』とヒントを書いた。 「昨日の問題とほとんど一緒だろ?」 「え、っと」 眉間にしわを寄せ、必死に考える檜森の姿を見て、俺はこういう熱心な生徒は好きだな、と感じた。いや、生徒はみんな好きだけど、特に檜森みたいな熱心な生徒が好きと言ったほうが語弊がないか。 この問題は文字が二つあるから、難しいと思ってしまう。だが、基本的には分配法則で解けるので大したことはないのである。 急に檜森は閃いたような顔をすると、さらさらと答えを導き始めた。昨日俺が教えた通り、分配法則を使って、展開しているので、まず計算間違いをしない限り正解するだろう。この閃いたような顔をしたってことは理解してスッキリしたということであり、これを味わうのが数学の醍醐味といっても過言でない。 「あっ、解った! ありがとー、東野先生」 檜森は笑顔で俺を見たので、俺もスマイルを、と思ったが、簡単に笑顔が作れるような人間でないので、一言だけ言った。 「解ってくれてよかったよ」 それからまた歩き始めると、また俺を呼ぶ生徒の声。 俺は理解したがる生徒が大好きだ。 ◇ 今日の授業態度は非常によかった。 クラス全体が理解しようとする、その姿勢は教師冥利につきるってものだ。 俺がこの仕事を、教師になってよかったと思える瞬間だった。 まぁ、とりあえず、嬉しかった。 授業後のホームルーム。 俺はイスに腰掛け、今日のことを思い出していた。日直の声を歌に、クラスの喧騒をBGMにして。 一体感は人間の社会になくてはならないものだ。会社が一体となって事業に取り組むとか、国が一体となって何か社会問題に取り組むとか。そういう意味での一体とクラスが一体になるとは大して差はないだろう。目標があって、それを達成しようとする。そのために一人ひとりがみんなのために貢献しようとする。俗に言う、one for all, all for one.の精神と似たものがあると言えるのではないだろうか。 そんな意味のないことを考えているうちにホームルームは終わった。 さよならと最後に挨拶をすると、それで解散。俺はまた机に戻り、今度は仕事をする。 数分後、教室に残っている生徒の姿は殆どいなくなった。今いるのは三人だ。 三人――、児島真優、森沢こうり、檜森しぃなたちは部活へ行く準備をゆっくりとしていた。既に部活開始時刻まで数分だ。こんなところで油を売っていていいはずがない。その証拠に今にも部活に行きたそうにしている子がいた。落ち着きがなくて、慌てている感じの娘が児島か。 「そろそろ行くね?」 そう言って児島は教室から走り去っていった。その走る姿は陸上選手のようにきれいだった。そういえば陸上部だったような気がする。 森沢も落ち着いた雰囲気で「じゃ、私も行くわ」としぃなに言って歩いていった。同年代の子と比べるとかなり落ち着いている。泰然自若という言葉がぴったりな子だった。児島とは対極だ。 そして残された檜森は先に行った二人に「じゃあねー」と言って見送っていた。檜森は森沢とは違う意味で落ち着いているような気がする。 檜森は部活に入っていないのだろうか。まぁ、この学校は帰宅部も存在するので部活に入ってないとしても何ら不思議ではないけど、殆んどの生徒は部活に所属しているはずだ。そんな風に思うと檜森が部活に所属しているのかいないのか俺はよく知らない。 「おい、檜森。お前、部活は?」 何気なく、そして唐突な俺の質問に檜森はびっくりした。 「ふぇっ、東野先生っ!?」 「ああ、驚かせてごめん。 部活はいいのか? もしかしてまた質問?」 檜森が苦笑しながら俺の机へ近づいてきた。その手にはノートと教科書があった。 その顔からまた質問があるのだろうと予想して、俺は机の上を片付けた。 「どの問題?」 檜森がノートを開いて着席する。そして今日宿題で出した問題の一問目を指差した。 檜森が指した問題は公式を使えば解けるものだった。難しい要素はないはず。 「この問題は、今日の公式を使えばいいんですか?」 「おう、そうだぞ。 じゃあ、解いてみて?」 先生が見ていると安心できるだろうと思って、俺はそう提案する。いや、教師としてそうするべきなのかもしれない。 檜森は解りましたと肯くと、シャーペンを握り、解き始めた。俺はその様子を見守る。計算が間違っていないか、公式をちゃんと使えているか、そういうものを見ている。それが生徒の安心につながると信じている。かつて俺が学生だったころを思い出してみても、やはり先生が見ていてくれるというのは安心できた。その理由は公式の使い方があっているかとか、計算ミスとか、そういうものを見ていてくれるから大丈夫だろうという気持ちが持てたからだ。 そして、今、教師になった俺はかつて先生がしてくれたように生徒を見ている。 小さくて丸っこい字をノートの上に走らせる。 「……っと、できました」 檜森はそう言うとシャーペンを置き、俺のほうを見た。俺はその声を合図にもう一度、解答を確認する。自分でも計算しつつ、確認するので少し時間がかかる。間違っている部分はないようだ。 「うん。あってるよ」 「えへへ、東野先生、ありがと!」 檜森の顔に笑顔が咲く。 高が数学の問題一問を見てあげただけで、これ程感謝されるのは少々こそばゆいし照れるが、嬉しい。 教える側にとって最も嬉しいこと、それは教えたことを理解してくれたときだ。今まさにそれを実感できた。 「次はできる?」 そう言って宿題の二問目を指で示す。 「ちょっと……」 しょんぼりとした声で答える檜森。その様子から察するに、解らないのだろう。 それを確認すると俺は次の問題について訊いてみる。 「それも……」 またもしょんぼり。その緩急ある表情は見ていて楽しいし、可愛いが、それで和んだら駄目なのである。 ふぅ、と息を吐き、気合を入れる。 「じゃぁ、ヒントを書いてあげるから、ちゃんと自分で解いてくるんだぞ?」 「もちろんだよ、先生!」 俺は甘いのだろうか、と少々悩むやり取りだったが、俺が目指す教師像がこうすることは知っているので、気にしないことにした。 シャーペンを借りると公式を使えるようにする方法を解りやすく書いていく。ある程度式を変形してあげ、あとはどの公式を使うかを考えさせ、展開させればいいところまでにする。ヒント=式変形、こんな感じではあるが、ヒントとしてはこれが一番いいと思っている。 宿題は全部で六問。その内一問はすでに解いてあるので残り五問のヒントを書くことになる。基本的には式の見方を変えるだけであとは公式が使えるようなレベルの問題だから、ヒント自体も至極簡単なものになる。すらすらと筆を滑らせ、書き終える。シャーペンとノートを返すと、がんばれよ、と元気付ける。檜森なら解ける、と自信付けさせる。そんなことを言われるとテンション上がるだろう? それは意欲へと変わるだろう? 俺はただ意欲を出させるためにこんなことを言ったのだ。 「ねぇ、先生の好きなものって何?」 唐突に質問するので少々度肝を抜かれそうになった。だが、質問した檜森の顔を見ていると。上目遣い(小さいから低い位置から見上げるようにしないと俺を見れない)で訊くその表情はまっすぐなもので。 だから。俺は見下げるようにして檜森を見ているから、あー、混乱してきた。何だろう、この感じは。ちょっと今の俺変だな。 「まぁ、数学だねぇ。これは知ってるか。 他には……子供とか教え子かなぁ」 「へぇ、先生って子供好きなんだね」 「不思議か? 学校の先生なんてみんな子供好きだぞ?」 「え、そーなの!? いつも目の敵にするような先生もいるのに?」 あからさまに不思議そうな顔をする檜森。表情が豊かで元気がある、最も好きなタイプの生徒だ、とまたも自分の中で整理。最も好きなタイプとは言ったが、あくまで俺の感想なので、どんな先生でも同じ印象を抱くかどうかは別である。まぁ、好みなんて人それぞれ違うのは当たり前か。 「立派な人になって欲しいだけなんだぞ?」 「えっ!? それって、立派な人になって欲しいから厳しくするってこと?」 「まぁ、そーいうことなんだろうけど」 「何か、古臭い考え方だー」 古臭い、か。確かにそうかもしれない。だが、諺にも、可愛い子には旅をさせよというくらいだから一理あるのも確か。そもそも生徒からしたら、親でもない人に目の敵のようにされるのだから相当鬱陶しいのだろう(いや、親でも鬱陶しいだろうけど)。そう思うのも確かで、教育とは甚だ難しいものだ。 「まぁー、確かに古い考えなのかもなー」 「でしょー」 同意を得られて嬉しいのか、檜森は薄っすらと笑んだ。 俺は苦笑してしまう。何故なら俺はこの子達、つまり自分の教え子たちが立派な大人に成長して欲しいと思っていて、目の敵にする先生もまた俺と同じように生徒たちが立派な大人になって欲しいがため、そのような行為をしてしまうことを理解しているからだ。ただ、例外というものはどんなものにも存在するものなので、今回に限ってそういう例外は考えないが。 そうはいっても確かに古い考え方だと俺も思う。今のご時世、こういう考え方は理解され難いのだ。 ふと教室の窓の外を見た。 夕焼けのオレンジが空を覆い始め、昼の空の青と夕焼け空のオレンジのグラデーションが美しかった。 この時間ってことは…… チャイムの音が教室に響いた。別れの境界の合図。 時計を見れば一目瞭然で、確かに下校時刻だった。 「わ、もうこんな時間なんだ。 じゃあねー、先生、バイバーイ」 檜森はすでに教室から出掛かっていて、そこから俺に向かって手を振りながら、笑顔も振るっていた。 俺はそんな檜森に対してこう返す。 「おう、気をつけて帰れよ」 3 私こと、檜森しぃなはいつも通り校門前で真優ちゃんこと児島真優とこうりちゃんこと森沢こうりが来るのを待っていた。 私はいつも、部活終了時刻まで教室とかで時間を潰して、親友二人が部活終わるのを待っているのだ。これは私の日課であり、放課後すぐ家に帰るのが嫌というのもある。すぐ家に帰っても、暇を持て余してしまうのは嫌だから、というのは建前だったりするけど、概ね間違いではない。それに私は一人で寂しく下校なんて、したくない。 だったら、友達二人と一緒に帰ろう、と考えるのは至極当然だと思う。友達二人、つまり今待っている二人だ。 私たちは登下校は常に一緒だし、学校でもほとんど一緒に過ごしている。彼女たちは私の掛け替えのない友達。くだらないこと話したり、真剣な話をしたりして一日を潰せるような、一緒にいたいと思える友達なのだ。 「お待たせ。 真優はやっぱりまだ来てないみたいね」 こうりちゃんはそう言って私の横に並び立つ。 今のこうりちゃんは体操服姿で、息は上がっていないが少しだけ頬が赤かった。もしかして真優ちゃんより早く来るために走ってきたんじゃないだろうか? でも、そんなことには気付いていないフリをしておく。 「こうりちゃんはいつも通りなんじゃない?」 「それもそうね。こうりだもんね」 「って、私なんでそんなにけなされてるのぉ?」 遅れながらもこうりちゃんの登場! 「何が『遅れながらもこうりちゃんの登ッ場ッ!』なのさ」 「さっきの話題はもういいんだ…」 私が呆れたように呟くと、真優ちゃんはそれを聞き取ったのか、クスクスと笑い出した。 「?」 こうりちゃんはそんな私たちの反応に、一人理解できずに頭の上に疑問符を浮かべていた。もちろん私と真優ちゃんはその様子を見てふたりだけで笑うのだけど。 「何でふたりして私を見て笑うのさ!?」 「いやー、こうりちゃんは流石だなぁって思って」 「そうそう。流石はこうり、って感じだわ」 「そ、そう? 私ってば、結構すごいの?」 ある意味、すごいと思うよ。 「『ある意味すごい』ってどういうこと!? 答えてよ、しぃなちゃん!」 ほら、この鋭さ。読心術でも身につけているのでは? と疑わざるをえなかったり。 こうりちゃんは私の肩をがっしりと掴むと、前後に揺らした。 私の視界は上下する。揺れる視界は私の思考を狂わせ、どうでもいいことを考えてしまう。空を見て、きれいな夕焼けと思ったり、地面を見て、蟻がいないか探したり。ホントにどうでもいいことをしてしまう。 そんな私を見てなのか、真優ちゃんがこうりちゃんの腕を掴んだ。 「その辺にしておかないとしぃなが泡吹いちゃうよ」 「えぇっ!?」 こうりちゃんは驚き声と共に、私の肩を開放する。 私は急に解放されたせいで、少しよろめいてしまった。 「って、また話題逸らされるとこだったよ! ね、答えてよ、しぃなちゃん」 「もうね、答える必要ないでしょ……」 私はこうりちゃんの前言に呆れてしまった。 話題を逸らされていることを自覚しているのに気付かないんだもの。 「どういうことかよく解らないけど、もういいや」 『…………』 二人の呆れ顔がきれいにハモった瞬間だった。 前言撤回。絶対読心術なんて身につけてない。ときどき的確なだけだ。 「え、どういうことなの?」 ◇ 下校途中の道。 空は夕日のオレンジで、まるで燃えているかのよう。でも、私たちの足元は薄暗い。 夕日の色はどうしてこんなにも綺麗で、もの悲しいのだろうか。 私にはそう感じるのが何故か解らないけど、それでもいい気がした。だって、そう思うのは私だけかもしれないもの。 「夕〜焼け、こやけぇ〜」 急にこうりちゃんが歌いだした。 「急に歌いだして…どうかしたの、こうり?」 「ぅーん、なんとなく。 何か、夕日を見てたら、急に歌いたくなっちゃったから」 「こうりちゃんはいつも唐突だね」 私はこうりちゃんの返答に呆れてしまった。 でも、それでこそこうりちゃん、と思った。 「いやぁ〜そんなに褒められるなんて思わなかったよ」 『いや、褒めてないから』 またも私と真優ちゃんはハモった。 「えぇ!? 褒められてなかったの!?」 「そりゃ、褒めてるわけないでしょ」 真優ちゃんのツッコミ! 的確なツッコミをこうりちゃんの胸に入れた! それにしてもこうりちゃんの天然っぷりは凄い。私のような一般人の想像を遥かに凌駕する。これでもこうりちゃんは本気で言っているっていうところが、信じたくない事実なのは言わずもがな。 私はと言うと、頭を何度も上下させた。真優ちゃんと同じ意見だからだ。 「でも、こうりちゃんっぽいよね、そういう勘違いって」 「そうね。まさに、これがこうりって感じだよね」 「あ、そう? 私っぽいならいいかなぁ〜」 こうりちゃんは私たちの言葉に隠された意味に気付かず、笑っている。 それを見て、私は笑えて、横を歩く真優ちゃんも同様に笑っていた。 私たちは笑って、下校していた。 ドジで天然のこうりちゃんと泰然自若の真優ちゃん、そして私。この三人はいつまでも友達でいるだろうって思った。 ◇ 私が家に帰っても、やっぱりお父さんもお母さんもいなかった。 いつも通りだけど、やっぱり今日もか、と思うと悲しいものだ。これも早く帰りたくない理由でもある。 私はお風呂からあがって、居間でテレビを見ていた。 テレビではニュースがやっていた。 世界的に有名な魔術師養成学校の始業が今日からだという、私には全く縁のない内容だった。 この世界には魔術が存在する。私みたいな一般人には、理論ぐらいしか学べないのだけど、才能を持った人にはすごいことができるらしいのだ。世界的に見ても魔術師は少なく、総人口の1パーセントぐらいしかいないらしい。その中にもレベルの差があって、うんたら。 実際私が知っている知識は、学校で習うもので、いわば一般常識なのだ。それに私は『いる』という事実ぐらいしか知らなくて、実際に話したことなんてないのだ。 部屋の中は電気がついているから明るかった。でも電気がついていても、私の心の寂しさは晴れなかった。電気が祓えるのは闇だけなのだ。 そんな寂しさを紛らわすために私は今日の出来事を思い出したりする。 私の担任の先生は、新任の先生。名前は東野先生。 私の好きな教科、数学の先生。 私はよく放課後、先生に質問するのだけど、東野先生だと授業の質問以外のことも聞いたりしちゃったり。先生から出ているオーラというのか、雰囲気というのか、そんなものが、私に緊張無く、色々話せる、お兄ちゃん的存在であると伝えてくるのだ。 それを感じてか、クラスのみんなは早くも新任の東野先生を慕いだしてるし、私もその一人だ。 たとえ、それが一年で終わる関係であっても。 それでも、一年で終わる関係だからといって、コミュニケーションを疎かにするのは間違っている気がする。一年で終わるかどうかなんて、私にはわからないものだから。それを知っているのは唯一、神様だけだろう。この世界に神様がいるのなら。 はぁ、お母さんたち、早く帰ってこないかなぁ。 弱音を吐いても、現実になる訳ではないし、私はこんなことで弱音を吐いたりしなかったはず。ちょっと前だって、弱音を吐かず、頑張ってきたじゃないか。ただ、今もまだ続いてるだけで、きっといつかは変わる。そう信じてきたのは誰でもない、私なのだから。 うん。私は頑張れるよ。 4 日も暮れたころ。 職員室で最低限の仕事をこなした。 明日の授業の準備は家でやろうと思い立ったら、なんか、ここで仕事をするのもあれだし、と思ってしまった。だから帰宅する準備を始めた。 帰宅する準備を終えると、見計らったかのように声をかけられた。たぶん声をかけるタイミングを見計らっていたんだろう。 「あ、東野先生、今、帰りですか?」 声の主は中島先生のものだ。 中島先生、本名、中島香織さん。髪の毛は茶髪で背中ぐらいまで伸ばしている。全体的の印象はまさしく大人の女性、その一言である。俺が今まであったことのある女性の中でもかなり魅力的な人だ。 「ええ、そうですけど」 先輩先生に呼び止められるなんて、俺は何か悪いことをしてしまったのだろうか。そう思うと、少し不安になってしまう。 いつの間にか緊張した顔になってしまっていたのか、中島先生は慌てた口調で言う。 「あ、ちょっと、これから食事に行きませんかってお誘いですよ」 「あ、そうでしたか。 食事ですか……」 ちょっと待ってください、と考える時間を貰う。 ふむ。確かにお腹がすいてきているし、家に帰っても自炊なのでめんどくさいと言えばそうなのだが、外食だとなけなしのお金を使わなければいけないわけだし。でも金銭的な問題は今気にする場面だろうか。それより他に誰が来るかが問題なんじゃないだろうか。 「他の先生たちも来ますか?」 「ええ、もちろんそうですよ。当たり前じゃないですか、何言ってるんですか。もしかして二人きりだとか思いました? ごめんなさい、二人きりじゃなくて」 「ちょっと、中島先生! 何で俺がそんなナルシストみたいになってるんですか」 「ごめんなさい。ちょっとからかいたかっただけなの。気にしないで。 それで、一緒に行きます?」 「あ、はい。ぜひ」 まぁ、他の先生たちと仲良くなる機会っていうと必然的にこういう飲み会がメインなわけで。俺も他の先生たちと仲良くなること自体は必要なことだと思うから、月に一回はこういう催しに参加しようと決意していたわけだし。それに特別断る理由があるわけでもない。だったら俺の性格を考えれば答えは一つなんだ。 こうして夜になる。 ◇ ちょっと暗めの蛍光灯の光。座敷のテーブルには飲みかけのビールジョッキ、食べかけのお皿などがある。向かい合うように六人ずつ座っていて、親睦を深めるために食事をともにしていた。そんな飲み会(宴会?)の席に俺はいた。 もちろん、親睦を深めるために俺もいるので、いろんな先生たちと話をした。その話の中には他の先生たちの経験もあって、不良生徒に対してどう接するかなど、ためになる話を聞けた。 それでも、主に話しているのは中島先生だったが、それには理由があって、まぁ、一言で言えば歳が近くて話が合ったという、それだけなのだが。 この場にいて授業のこと、生徒のことを考えてしまう。例えば授業のことなら、どうすればもっと理解しやすくなるだろう、とか、明日はどうやって進行させよう、とか考えてしまうし、生徒のことなら、今は担任するクラスがあるから、その子たちのことを考えてしまう。場違いなことを考えているな、と自覚する。だけど、考えずにはいられないのだ。 「どう思います、東野先生?」 「え? すみません、何の話でしたっけ?」 中島先生はかなり酔っ払っているようだった。顔を赤くし、チューハイの注がれたグラスを片手にしている様子は、ちょっと女性としてどうなんだろうとか思う。だが、そう考えるのは差別なんじゃないかとも思う。 「もう、映画の話じゃないですか。ちゃんと聞いててくださいよ?」 「すみません、ちょっと考え事をしていまして……」 ぶすっと拗ねたように中島先生が怒る。それに素直に頭を下げて謝る。 そうだった、最近の映画について話していたんだった。人と話している最中に考え事をするなんて、らしくないことをしている。どうしたんだろう。 「考えごとですか? どんなこと考えていたんです?」 「えっ……大したことじゃないですから」 「そうやって隠そうとすると何か、あれです、……そう、隠されると逆に気になるじゃないですか。教えてくださいよ」 詮索好きなのか、至って普通の反応なのかは判断できないけど、俺は特に隠すつもりもなかったので教えることにした。 「いや、普通だと思うんですけど……」 「もったいぶらないで早くっ!」 急かされた。 「まぁ、授業のこととか生徒のこととかですよ」 「ほんとにふつーだった」 急かしたくせに落ち込むなんて、と思ったが、逆に落ち込まないようなことを考えていたとするとそれはどんなものなのだろう。少し考えてみようと思ったが、どうも健全なものはありえないだろうなというだけで充分だ。 そんなことを考える人だと思われていたのかもしれないと考えると、ぞくりとする。もちろん、そんなことを考える人ではないし、そんな鬼畜じみた趣味もない。 ただ、生徒思いで熱心な教師、と思われるよう努めてきた身としては以上のような風に思われるのは快くないし、そんなイメージがあるということはそれなりに原因があるとのではと考えてしまう。 ほんとはただの冗談で、何気なく中島先生が言っただけかもしれない。そう考えると不安に急に不安になってきた。 「ちょっといいですか?」 「え、何?」 「なんで落ち込んだんです? さっき考えていたことを教えたとき」 真剣な顔で訊く。 自分も意外と詮索するタイプなのかもしれないと思った。 「なんで落ち込んだかって? うーん。イメージ通りだったからかなー」 「ほんとですか? それ」 そういうイメージを持っていてもらえたのだ、と思うと嬉しかった。俺は心底、自分の中の他者へのイメージを拘るらしい。狂っているとまではいかなくても他人よりは他人が自分のことをどう思っているのかを気にするタイプらしかった。 俺がイメージを気にするのは自分がどういう人間なのか客観的にみるためにしているのかはわからない。でも、そういうのを気にすること自体は絶対悪いことではないし、それによって自己を研鑚できるなら、いいこと尽くしだと思う。 「うん、そーだよ? といーか、ほかの先生たちからも熱心な教師だって思われてるみたいだし」 「いやー、それは嬉しいですね」 そうだったんだ。いいことを聞いたな。 これだけ聞けたら満足だ。映画の話に戻そう。 「そういえば最近、海賊の映画がありましたよね?」 「ああ、パイレーツですね」 「そーいえばそんなタイトルでしたっけ。 私的にはあの映画、なかなかアクションシーンに拘っていて面白かったんですけど」 「確かにそうですけど――」 こうして俺は中島先生と映画の話で意気投合したのであった。 |