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 第三話 進路相談

 

          

 

 俺の授業の仕方を聞いてもらってからもう一週間たった。

 この時期は一般的に進路相談を始めるころだ。もちろん、自分が担任する学年の話だ。

 そして、今度、三者面談を行うことが決まっている。三者面談とは、生徒、保護者、担任教師の三人で進路について相談するために行う。

 もちろん、三者面談は、あくまで進路の相談をするだけ、なので最終的な決定は生徒や保護者がする。だからといって、担任教師は適当に生徒の学力レベルにあった学校を進めればいいかと言えばそうではない。担任教師だって進学先の情報を調査、整理しておく必要がある。

 そのため担任教師は進路相談用の各種資料製作におわれるが、それは生徒たちの(輝かしい)未来のために必要な努力だと思えば苦にならない。あくまで俺の主観だが、大抵の先生もそうだと思う。

 むしろ生徒一人ひとりのことを考えながらの作業は、俺にとっては楽しいものだった。

 彼はこういう性格だから、この学校がいいんじゃないだろうか、彼女はこういうのが好きだから、この学校なら楽しく生活できるんじゃないだろうか、って考えながらの作業。自分が生徒たちの可能性を引き出せるような学校をある程度選定してやれる、そう思うと俺は興奮してしまって、時間を惜しまず作業してしまった。

 と、そんな思い出話は置いておくか。

 現在の時刻は午後三時四十分。

 授業後のホームルームの時間だ。

 今日はこの時期の三年生恒例行事、三者面談についての配布物がある。この配布物は保護者の都合を訊ねるもので、これを元に俺たち担任教師は曜日、時間を決定する。

 言い忘れていたが、三者面談は数日間(通例では三日間)にわたって行われる。その日程で都合のいい時間を訊ね、その結果から最終的な時間を決定し、連絡するのだ。

 日直が司会進行する、授業後のホームルーム。ホームルームというか、連絡事項、明日の授業の持ち物確認とか、そういうものをするだけだ。

 そして、最後に俺からの連絡。

「はい、今から配るやつは重要だから絶対保護者に見せるんだぞー」

 念を押して、生徒たちに配る。

 提出期限内に出さなければこちらから連絡して都合を聞くことだってできる。だけど、『重要』だと一度、念を押してしまえば、大抵の生徒は期限を守ってくれるだろう。

 もちろん、期限を守ることは大切だ。それを解ってくれていればいいと俺は思う。

 期限を守ることは時間に敏感になることと同じだ。時間に敏感になる、つまり時間厳守だ。五分前行動とかがいい例だ。これは彼らが今、身に付けておくべきものだと俺は思うし、学校からもそういう指導をするようにと言われている。

 期限と時間。時の長さの違いしかこの言葉には差がない。そういう意味で俺はどちらも厳守することの大切さを生徒たちに学んでほしい。

 配り終えると、教卓の前に戻って連絡事項を伝達する。

 ・下校時間を守ること。

 ・今日配布したプリントは提出期限までに先生に出すこと。

 以上を連絡し終えると、起立させて、

「さようなら」

 今日も俺は生徒たちが部活へ行く、または帰宅するなど、教室を出て行くまで教室に残る。

 残る理由は単純にして明快だ。

 生徒がちゃんと部活へ行くか帰宅したかを確認するためだ。

 俺はこのクラスの担任だ。これは担任として果たすべき責務……いや、確認したいのではないな。俺は生徒たちと過ごす時間が好きだから、残るんだ。

 これこそ明快。これこそ俺。あ、言い過ぎた。

 などとくだらないことを考えていると、十分ほど経ってしまっていた。今、教室に残っているのは数名。

 最早常習メンバー。

 檜森しぃな、森沢こうり、児島真優の三人だった。

 この三人はかなりの仲良しで、昼休みとかも一緒に過ごし、朝も一緒に登校してくるほどの仲である。基本的にいつもこの三人でいるような気がする。

 その三人に、

「今日はどうした? 早くしないと部活が始まるぞ?」

「あ、東野先生、もう行きますから、大丈夫ですよ」

「大丈夫じゃないけど大丈夫だよぉ。

 って準備済ませてお先に失礼しますわ、みたいな目で私を見ないでよ、こうりちゃん! 待って、もう少…、痛っ! 教科書落とした!」

 まず答えたのは森沢こうり。

 次に答えたのは児島真優。落ち着きがなく、慌てている姿を見ていると危なっかしい。思っているそばから教科書を落として足にクリーンヒット。

 教科書は児島真優に一回あたり、二十のダメージ!

 痛そうにケンケンする児島の目には涙が浮いていた。

 いや、ここまで予想通りになっていると笑いを通り越し、哀れみが出てくる。なんか、世界の全てが(主に物理現象が)、児島に対して冷たく牙を剥いている感じだ、と思ってしまった。

「おいおい、大丈夫か?」

「すっごい痛いですよぉ。

 って、早っ! もうこうりちゃんいないし…。

 ねぇ、しぃなちゃん、こうりちゃんいつ出てった?」

「今さっきだよ。止めたほうがよかった?」

「うん…。って、え、ちょっと待って、その顔!」

「え、何でもないでしょ。

 いつものことだし」

「待って待って! その言い方だと私がいつも一人漫才してるみたいじゃん!」

 檜森は必死に笑いを堪える。

 その顔の引きつり方を見ているとこっちが笑えてくる。だが、児島にとって、その顔の可笑しさなどどうでもよく、自分の体たらくについて言及している。もう少し落ち着け。

 落ち着きなく喚いている児島に檜森は返す。

「え? そうじゃなかったの?」

「違うよぉ!」

「いやぁ、落ち着きないその態度がすでに一人漫才…」

「えぇ!? ひどいよぉひっ、えっ……グス

「ご、ごめん真優ちゃん。でも、もう少し落ち着いたほうがいいよ?」

 最後には優しい言葉をかける檜森。本質的には友達思いで優しい女の子なのだ。

「わかってるよ? わかってるけどぉ、簡単にはできないんだよぉ」

「そんなことより、早く部活行かなくていいの?」

「そんなことじゃないよぉ!

 って、ほんとに時間やばいし! じゃ、行ってくるね。先生、ばいばーい」

「おう、さよならー」

 俺は切り替えの早い児島に挨拶を返す。

 児島は落ち着きがなくても切り替えは早い。そこもまた、一人漫才になっている一因だったりするんじゃないだろうか。そう思っても言わないでおく。こういうのは言わないでおいたほうが面白いし、そこが個性になっているので黙って見守る。もちろん自分が楽しむためだけじゃないぞ。

 で、結局一番最後まで残っているのは檜森なわけで。

「例によって檜森が最後か。

 今日はどうした? 数学の授業は今日なかったし、質問があるってわけじゃなさそうだしさ」

 俺は檜森がすでに帰宅準備ができているのを確認して言った。

 檜森の机の上には彼女が使っているかばんが載っていて、そのかばんの口はすでに閉ざされている。これが意味するものは、帰宅準備完了であろう。

 檜森は俺の問いに対して、少し俯き、何かに悩んでいるようだった。

 自身の足元を見ながら、すこし悲しげな表情をしている様子を俺は見てしまった。

 叱られると解かっていながら自らが犯した悪戯を打ち明ける子供の表情とはまた別の表情。

 その表情はまるで、何か言いにくいことを打ち明けるべきか、そうでないかを考えているものだった。それも法に触れるようなことではなく、もっとヘビーなことを打ち明けるべきかを悩んでいるようだった。

「あ、ちょっと、悩みがあるなら聞くよ」

「悩みというか決心だけなんですけど。

 それはそうと先生、映画好きって聞いたけど、どんな映画が好きなの?」

 上目遣いで俺を見る檜森。

 はぐらかされた気がする。話の焦点が明らかにずれて、今では違うものに摩り替わっている。

 俺は檜森がそんなことをするとは思っていなくて驚いてしまった。

 驚きはしたが、そんなことで他人を嫌いになるか、というとそんなことはない。大体、これくらいのことなら誰だって経験のあることだと思う。

 ただ、人が人だけであったためで。俺はただ純粋に驚いただけなのだ。

「そうだなぁ、昔からアクション系の映画は好きだなぁ」

「へぇ、アクションかぁ。なんか、先生っぽいね」

 檜森はうんうんと肯きながら、考え込むように右手を顎に当てた。

 話の早さに流されて気付くのが遅くなったが、檜森はいつ俺が映画好きだと聞いたのだろう。確か、俺が映画好きだと知っているのは中嶋先生だけのはずだ。中嶋先生が何かの弾みで言っていたのを聞いたのだろうか。

「って、誰に映画好きだって聞いたのさ!?

「キャラ変わってるよぉ、先生!

 ま、それはいいよね。誰って、中嶋先生が『私、映画好きでねー、東野先生と話が合って意気投合しちゃってー』って」

「うわ、すっげー中嶋先生っぽいなぁ」

「だよねー。中嶋先生って、いろんなこといっぱい喋るもんねぇ」

「確かにそうだな。そのおかげで助かることもあるけど」

 何気に意気投合しちゃったよ。

 まぁ、悪いことではないし、むしろいいことだろう。

 俺に対して敬語を使わなくなったあたり、檜森との距離はかなり近くなったのかな、と思う。先生に対して敬語を使わないのはあまりよくないが、俺自身、そんなこと大して気にしないのでスルー。

 それと初めのころの余所余所しい態度がなくなったのも距離が近づいたのかな、と思った理由の一つだ。

 俺は生徒達にとってよき先生でありたい。そう思うのでこのように檜森と距離が近づいたのはいいことだと認識している。

「ね、先生、他にはどんな映画見るの?」

「そうだなぁ、ファンタジーとか恋愛ものとか見るかな」

「え、それってほとんどじゃん。他にどんなジャンルがあるのさ…」

 檜森は飽きれたようにため息をはぁ、と吐く。

 檜森め、お前は映画のジャンルがぜんっぜん解ってねぇぞ。

「ホラーとか、コメディとかあるじゃねぇか。

 映画ってのはもっと奥が深いんだぞ」

「うひゃ、ごめんなさいっ!」

 檜森は頭を守るように抱えて縮こまった。

 しまった、威圧感を与えて怖がらせてしまったかもしれない。

「いや、先生も悪かった。別に怒ったわけじゃないから、気にしなくていいよ。

 それより、もしかして怖がらせた?」

「ぜ、全然大丈夫ですっ」

 檜森は頭から手を離すとぶるぶると首を振った。

「あ、そう。ならよかった」

 もう少し言動には気をつけたほうがいいな。

 俺は怖い先生にはなりたくないから。

「さっきはちょっと驚いただけですから、先生、気にしないで」

「うん、まぁ、そう言うなら気にしないことにするよ」

 そう言うと檜森は急に笑い出した。腹を抱えて、まさに抱腹絶倒だ。

「おい、そんなに笑うことかよ」

「いえ、先生っていろんなことに真面目なんだなぁって思ったんです。ふふ」

「なんだよそれ」

「映画とか、数学とか。きっと趣味とかもなんだろうなぁって。

 そう思ったら急に先生の姿が思い浮かんできて……で、笑えてきちゃったんです」

「そういうことか。

 でも多分それ、大体あってるだろうからなぁ」

 俺は腕を組んでいた。

 本当に俺は趣味に関しては真面目だった。

 数学の勉強は好きでやっていたし、音楽観賞はオーディオ機器を高級なものから選んだりするぐらいだ。

 興味のあることに関しては手を抜くことができなかった。

 昔、付き合ってたころは彼女のことを考えてはいたものの、そこまで興味がなくて、真面目ではなかったかもしれない。

 そんなだからフラれるんだけど。

「やっぱり…」

「やっぱりって…。まぁ、そう思うのが普通なのかもしれないけどさ」

 やっぱりと言った後、檜森は笑いを堪えるように腹と口を抑えていた。

 ちょっとだけ、下品な妄想をしてしまったが、忘れよう。

「…先生なら多分、大丈夫だよね」

「?」

 檜森が何かを呟いたが、何といったのか聞こえなかった。

 何だろうか。その呟きが何だったのか、無性に気になってしまった。

「何か言った?」

「うーん」

 考え込むように唸り始めた。

 その姿は悩んでいるように見える。

 決心をするかどうか、言うか言わぬかを決めあぐねているようだった。

 長い、と言っても精々3分程度だが、逡巡したのち、檜森は口を開いた。

 

          

 

 私は、檜森しぃなは考えていた。先生に打ち明けるべきか、どうか。

 私が抱える大きな問題。

 それは本当に大きくて、私一人ではどうにもできないし、先生が加わっても解決できるかどうかは解らない。

 解決するかはわからないのは解っている。でも、私は今、自分の置かれている状況をどうにか打破したい。

 どうすればいいのか。それも解らないし、不安だってある。むしろ不安だらけだ。

 不安が大きくて、毎晩一人震えたりもする。怖くて、震えるのだ。

 でも、東野先生なら何とかしてくれるかもしれない。そう思ったのはついさっきの話。

 興味があることなら熱心に対応する、その姿。

 私の問題には興味を示してくれるだろうか?

 今、一番恐れているのはそれだった。もし、東野先生が適当にあしらうような扱いをしたらどうしよう。

 でも、生徒のことを思って行動するのが教師だと先生は言ったから。

 私は先生のその言葉を信じて、打ち明けようと思う。

 

          

 

 私は現在、ほぼ一人暮らし状態だ。

 何故、『ほぼ』なのかと言うと、私の両親はおそらく私が寝ている間に家に帰ってきていて、寝ている間に会社に行ってしまうから。

 この生活は私が中学に入ってから始まっていた。

 最初は平日に会うことが無くなった。

 でもこの時はまだ、ちゃんと家に帰ってきていた。私が、時々、おしっこがしたくなって起きたとき、お母さんやお父さんが寝ている姿を見ていたから、この時はただ仕事が忙しいんだろうなぁ、としか思っていなかった。

 少し変だなとは思っても、私の両親はとても忙しい人で、以前から私が起きている間に家に帰ってこないことは稀ではあるがあった。だから特に気にしなかった。

 私が小学生の時はまだ、休日には家族三人揃って食事をしたりしていた。

 家族が揃うことが次第に少なくなったのは私が中学に入学してからだった。

 お母さんが家に帰ってこない日、私は自分のご飯を自分で用意せざる得なかった。寂しくなかったと言えば嘘になるけど、私にはどうやってそのことを伝えればいいのか解らなかったのだ。

 自分で洗濯をするようになったのも同じころ。

 自分で掃除をするようになったのも同じころ。

 私はお母さんに褒めてもらいたくて、寂しいことなんて忘れて、自立したところを見せた。いい子にしていればお母さんは私のそばにいてくれるんじゃないだろうかと思っていた。だから私は必死だった。

 でも、それがダメだったのかもしれない。

 私は自分のことを自分でやるようになってから数ヶ月。

 私が中学二年生になったころ。

 ある日の朝、目が覚めると銀行の預金通帳とメモ用紙が置いてあった。

 メモ用紙には暗証番号と、私宛へのメッセージが書かれていた。私宛のメッセージは忘れられないものだった。

『親愛なる私たちのしぃなへ

 この通帳にお金を毎月入れるからよく考えて使いなさい』

 私はこのとき、両親が私がもっと自立できるようにしているのだろう、と思った。これはお母さんたちからの試練なのだと思うことで、これが示す現実を受け入れなかった。ううん、受け入れられなかったのだ。私はまだこれがどういうことを示しているのか解らないから、未だに受け入れられていない。

 このメモが置かれていた日の週末。

 お母さんとお父さんは家にいて、いつも通りに過ごした。

 相変わらず、両親は週末しか家にいなかったが、私はそれで十分だった。

 私は多くを求めなかった。でも、もっと当たり前のことを求めるべきだったのかもしれない。

 もっと当たり前のこと、つまり、毎日両親に会えること。私はそれさえも甘えだと思ってしまっていた。

 両親に毎日会うなんて普通のことなのに、私は会わないことが多かったせいで甘えていると思ったのだ。それが間違いだったのかもしれない。

 そして私が中学三年生の今、両親は週末も家にいなくなった。

 最早、私は両親が家にいるのかいないのか解らない。いや、知らないのだ。

 今では夜起きて、トイレに行くことができない。もしお母さんたちがいなかったらどうしよう。そう考えてしまったら、怖くてトイレにいくどころではない。

 だから私は確かめられずにいる。

 両親は今も家に帰ってきているのだろうか? 私の寝顔を確かめたりしているのだろうか?

 その問いに私は胸を張ってイエスと答えられる気がしない。

 自信がなかった。

 両親が家にいるという確固たる証拠がないから。だって私は確かめていないんだもの。

 でも私は優しいお母さんとかっこいいお父さんを信じる。

 証拠が無くても、私は無条件でお母さんとお父さんを信じる。今も家に帰ってきて、私の寝顔を確かめたりしてくれているって。

 そう思わなくちゃ、私は私を保てる気がしないから。

 

          

 

 それはあまりにも衝撃的な告白だった。

 その衝撃のあまり、立ち上がってしまった。

 俺はあまりの衝撃に、言葉を失った。

 その衝撃は、ボクシングのヘビー級選手のパンチを胸に受けるのとどちらが重いか、判断できかねるほどのものだった。

 あまりにもそれは唐突。あまりにもそれは衝撃的だった。

 こんな家庭がこの世界に、ましてや自分の教え子の家庭で起きているとは考えたくなかった。

「冗談じゃ…ないよなぁ。

 うーん、取り合えず目先のことを考えようか」

「…うん」

 そう反応する檜森は、最早普段見せる明るい子ではなく、暗い夜のような闇を背負った、か弱い女の子に変わっていた。

 可哀相だ、と同情してしまった。

「まずすぐにあるのは三者面談だね。

 そういう事情があるから仕方ない、暇な日を書いて出して」

「…はい」

 檜森はそう答えた。

 今にも背負っているものに押しつぶされそうで、俺は堪えられない気持ちになった。どうやってその小さな背中にそんな大きなものを背負ってこれたのか、こちらが疑問になるぐらいだ。

「まずは進路を考えような」

「はい」

 小さくて、弱々しい返答だった。

 俺は、この子を救ってやれるのだろうか。急に不安になってきた。俺ごときがどうこうできるレベルの問題だろうか。

「先生…信じていいですか?」

 心配そうに、縋るような瞳で俺を見上げる檜森に俺はすぐには言葉がでなかった。すぐに言葉が出なかったのは考えていたとか、悩んでいたとか、そんなんじゃない。俺は信じたくないが、上目遣いで見つめる檜森にドキッとしてしまったからだ。もしかしたら瞬間的に頬が赤くなったかもしれない。

「もちろん信じていいよ。俺がなんとかしてみせるから」

 宣言してしまえば、責任を負うことになる。この問題を解決すべく、行動しなくてはならなくなる。

 それがどうした。そんなもの、可愛い生徒のためなら迷わずできることだろう。

 もし、この問題を抱えているのが檜森じゃなくても俺は宣言できただろう。何故なら、俺は子供が好きで、生徒のためなら時間を惜しむことなく進路のことを考えることができたからだ。

 だから、さっきのあれはきっと気のせいだ。その場の雰囲気に飲まれただけに過ぎない。きっとそうさ。

「ありがとう、先生…」

「檜森…」

 いつもとは檜森の雰囲気が違う。

 あの、元気な少女は消え、今いるのは大きな不安に押しつぶされそうな矮小な少女だ。

 そんな檜森の頭の上に手を乗せる。

 このまま力を加えてしまえば、簡単に潰れてしまいそうなほど華奢で、子供を守るのが大人の仕事なら、大人である俺が守ってあげなきゃいけない存在だった。

 檜森にとって、進路とは進学するとか就職するとか、そういう二択じゃないんだ。どっちにするか相談する親がいない。つまり、自分だけでどうするかを決めなくちゃいけないってことなんだ。ある程度大人ならそれくらいするだろう。でも檜森はまだ中学生だ。そんな子にそんなことをさせるのはあまりにも酷過ぎる。

 そう思うと俺は彼女の境遇に同情せざる得なかった。

 部活終了時刻を知らせるチャイムが教室内に響く。

「帰るね、先生」

 ひどく落ち込んでいるような背を俺に向けると、教室を出ていこうとする。

 俺はその背に声をかけた。

「ふぅ…。

 元気出せ! きっとなんとかしてみせる!」

 俺の宣言を改めて聞いた檜森はくるっと踵を返すと、ニコッと笑った。

 今の俺にできることは彼女を励ますことぐらいだろう。力強く言い切ってしまえば、本当にできるかもしれない、って思ってもらえるかもしれない。そう思って欲しかった。

「信じちゃうよ、先生?」

「おう、信じちゃえ」

 俺がそう言うと檜森はクスクス笑った。このとき俺は、檜森にはやっぱり笑顔が一番似合うと思った。

「ははっ、じゃ〜ね、先生。また明日」

「気をつけて帰れよ」

 また明日な、と付け加え終わると、檜森は教室から駆け出していった。

 その後ろ姿が見えなくなると俺は職員室へ戻った。

 

          

 

 私は今日もいつも通り、真優ちゃんとこうりちゃんの三人で下校した。

 帰宅途中で、私は今日のことを思い出していた。

 今日、私は先生に家の事情を話した。私の家のことは真優ちゃんもこうりちゃんも知らないはず。私からは話していないからという意味だけど。

 家の問題は家族か、大人が解決しなければいけない。そんなようなことを聞いたことがあった。だから親友の二人にも話していないのだ。

 家についた途端、急に涙が出た。

「…なんで…?」

 なんで私は泣いているのだろう?

 悲しくなんかないし、嬉しくもないのに。私は今、泣いている。

 ぼろぼろと大粒の涙が頬を伝い、服を、床を濡らす。

「ひっぐ、……ふぇ…」

 挙句、嗚咽まで。

 本当になぜ泣いているのか、よくわからない。

 私は今日、先生を信じて、現状を話した。

 先生は私の期待通りにしてくれた。

『俺がなんとかしてみせるから』

 そう先生は言ってくれた。力強くて、心強い、それはまさに宣言だった。

 私はそれを信じている。私が信じた先生だから、ホントに解決してくれんじゃないだろうかって、思っている。

 でも、解決してくれるだろうって思ったってことは、私自身、不安で押しつぶされそうだったんじゃないのか?

 私は一人が怖くて、心細くて、不安になっているから、そんなことを頼んだんじゃないか?

 そうだったら泣いている理由なんて、言わずもがなだ。

 なぜ、こんなにも簡単なことに気づかなかったんだろう。

 私は自分が可愛いから、先生に縋って不安を忘れようとしているだけなんだ。

 でも、それは悪いことなのだろうか?

 経験の浅い私には解りかねる問いだった。

 悪いこととか、そんなことよりはっきりしたものがあるは確かだ。

 私は寂しくて、怖くて、不安だらけだから、誰かに甘えたかっただけなのだということ。だから、誰でもよくて、たまたま先生がその誰かだったというだけなのだと。

 先生、私信じてるからね。

 

          

 

 あれから数日。三者面談の日程調査表を回収した。

 俺は檜森の番を最終日の最後にした。理由は簡単。俺は檜森の進路が15分だかで決定できるわけがないと思ったからだ。他の子は家で親と相談してから、ある程度学校を絞ってから三者面談に臨むだろう。でも、檜森にはその親が帰ってこないのだ。だから時間がかかるだろうと推測した。

 そして、やはりその推測は正しかったと思うことになる。

 

          

 

 三者面談最終日。しかも今日の一番最後、それが檜森の順番だ。

 檜森の番がついにきた。

 『なんとかする』と宣言してから早くも数日経っていた。あの時感じた不思議な感情はあれ以降すっかり鳴りを潜め、今では他の生徒と対等に扱えている。やはり、あの時の感情は一時のもので、長く続くようなものではなかったのだ。それを確認できて俺は安心していた。教師である俺が生徒にあんな感情を抱いてしまったなんて、嘘であってほしいから。背徳感がありすぎて困るし。

 頭を切り替えよう。今は檜森の進路を考えるんだ。

「どうぞ」

 俺は檜森を教室内に入るよう促した。

 檜森はそれに従って教室に入る。

 教室中央に用意した机の前まで歩いてきたのを確認してから俺は座るよう促す。

 がたがたと椅子が音を立てた。

「よし、始めようか。

 まず、檜森は進学か、就職、どちらにしたい?」

「普通はどうするの?」

「大抵は進学するかな。

 俺個人としても進学したほうがいいと思うよ」

「そうなんだ。じゃ、進学しようかな」

 檜森は少し俯いて、自信なさそうに言葉を返す。

「よし、進学だね。

 檜森は公立か私立どちらの学校に進学したい?」

「…解んない」

 十五歳の少女には将来なりたいものなんてはっきり決まっているはずが無い。ということは、自分は何を勉強すべきなのか、解らないという事である。進学するにしたって、ある程度はこうなりたいという将来像みたいなものがあるはずなんだ。

 でも、檜森にとっては何もかも自分で決めなくちゃいけない。それって、本当に難しいことだと思う。

「そうだな。

 じゃぁ、何で進学しようと思った?」

「みんなが進学するから」

「うん。

 じゃぁ、将来何になりたい?」

「うーん」

 檜森は二宮金次郎の像よろしく考え込み始めた。

「まだ決まってないよぅ」

 檜森の言葉は弱々しくて、儚くて、彼岸花のような寂しさがあった。

 俺は内心で歯軋りした。やっぱり十五歳の少女に自分だけで自分の進路を考えさせるのは無理だと思った。いや、思い知らされた。

 檜森ほど強い女の子でも、できないことなんだと思い知らされ、無理もないかと思った。

 でも、そうでなければ俺が約束した意味がなくなってしまう。だから、そういう意味では俺はほっとしている。

「先生が決めてよ。私には無理だよ……」

「俺が決めたらダメだろ」

「なんで!」

「俺はあくまで候補をあげるだけなんだから」

 檜森は涙目だった目をこすると呟いた。

「先生って意地悪なところもあるんだね」

「人の話は最後まで聴いてから言えよ、そういうことは」

「えへへ、そうだね」

 俺の軽口に檜森は笑った。

 それを見て俺は少しだけ安心した。俺はちゃんと檜森のために何かできているだろうか? そんな疑問があったから、今の檜森の顔を見て安堵したのだ。俺は檜森のために何かしら貢献できていると思えた。例えそれが笑顔を作るだけで、根本的には何も解決していないとしても、嬉しい。今はこれで満足していいかもしれないが、今後、この程度で満足できない。約束を交わしたから。約束は守るものだから。

「先生、聞いて?」

「うん?」

 俺は考え事をしていたので、つい生返事で返してしまった。

 しかし、どうでもいいような俺の返事を聞いても檜森は怒らず、それどころか俺のことを気にせず話し始めた。

「私ね、ときどき思うんだ。今、私が辛い思いをしてるのは今後、辛かったことを忘れるぐらいいいことが起きるからなんじゃないかって」

「…………」

 俺はそれを聞いて、考え事なんかできなくなった。それどころか何も言えないくらいだ。

「……そんな」

 そんなことない、と言おうとしていたが口が上手く動いてくれない。顔の筋肉が、声帯が、俺の体が、俺が言葉を発することに異を唱えた。

 今の俺はまさに臆病者といえる。

 たった一言さえ可哀相な少女に言えないのだから。

「でも逆にね、こうも考えるの。今までいいことがいっぱいあったからそのツケが今回ってきたんじゃないかって。それで、まだずっと続くんじゃないかって」

「そんなことない」

 やっと言えた一言は弱々しく、頼りないが檜森に聞こえただろう。

「今はね、やっぱり辛いけど、辛いからこそ、生きてるって思えるのかもしれないって。それに悪いことばっかじゃなかったし」

 どうやら話を聞いていないのは檜森のようだった。

 告白はなおも続いた。

「お料理が上手になったし、洗濯だって、掃除だって、家事ならなんでもできるようになったし、それはいいことだったかもって思えて」

「それはさ、檜森、確かにいいことかもしれないけど……」

 俺は真剣な声音で檜森に言ってやる。

 弱々しい、夏を過ぎたひまわりのような笑顔をした檜森に俺は言ってやるんだ。

「そんなさ、そうしなければならなかったから身につけたものなんて、俺は悲しくて、誇れないよ。

 檜森はまだ中学生で、家事なんてこれから身につけていくものなんだから、今、そうせざる得なかったから身についたなんて、聞いてて俺が悲しくなる。俺はそんなもの、誇って欲しくない」

「……うん、先生」

 檜森は俯いてしまった。

 一瞬だが折れてしまった花のようだと思った。花は枯れると弱々しくて、萎れてしまっていて、生き生きしていた頃とは全く別のものになってしまったんじゃないかとさえ思えるほどの変容するように、彼女もまた、いつもと違いすぎて、同一人物だとは到底思えなかった。

 そのせいで俺は声を掛けられず、黙ってしまった。

 檜森もまた黙って俯いたままだった。

 夕方の教室に静寂がやってきた。

 しかし、この静寂を破ったのは、檜森だった。

「ねぇ、先生」

「何?」

 まさか檜森から静寂を破るとは思わなかった。その所為か、特に何も考えず俺は檜森の話を聞くことに。

「私、先生が、解決してくれるって言ってくれた日に家で泣いちゃった。私……わたしぃ」

 その後、檜森の言葉はほとんどが聞き取れない、形を成さない音になった。

 でも、俺にはその聞き取れない言葉が、理解できそうだった。

 檜森は俺が宣言したあの日、泣いてしまって。その理由を言おうとしたのだ。その理由は聞き取れなくても痛いほど伝わってきて、俺は俯いて、その搾り出されてくる音に肯くのだ。

 うん、うん、と肯いている俺は涙が流れるかもしれないと思った。

 何故、こんなにもいい娘が、こんなにも酷い環境におかれているのか。

 どうして俺は彼女に優しい言葉をかけられず、俯いて彼女の話を聞くだけなのか。

 何故とどうしてが渦巻き、竜巻になる。

 檜森は深く頭を垂れ、言葉にならない音を出し続ける。

 イスに座って、机を見つめているような姿。または叱られて謝っているかのような姿。

 俺は今さっき、満足していた。

 でも、それは一瞬にして爆発・霧散した。

「檜森……」

 呟いてみても、無駄だった。声なんてほとんど出ないほど俺はショックだったのだ。

 ショックという名の仮想的な敵が出現した。

 そいつは凄く強くて、俺はただ殴られるだけ。

 反撃はできず。一度もその攻撃の手を緩めることはなかった。

 しかし、どれだけ攻撃を受けようとも俺は倒れなかった。どれだけ殴られても俺には約束があるから。生徒と交わした約束が俺を支え続け、倒れることを断固拒否する。

 どれだけ体がぼろぼろになろうとも構わず俺を支える棒は折れずに俺を立たせ続ける。

 仮想的な痛み。それは心、つまり精神へのダメージ。今受けているこの攻撃はすべて仮想ダメージ。

 たかがイメージによるダメージだ。だが、そのイメージとやらは現実世界へ干渉して、心という精神をすり減らそうとしてくる。

 虚数領域からの猛攻。何処にあるかも解らぬ次元からくる攻撃は何処にあるかも解らぬ心、精神を痛め続ける。

 もう、止めてくれよ。俺の負けだからさ。

「先生、助けて…くれる……よね?」

 その一言を聞いたとき俺の中の何かが爆ぜた。

 爆ぜた何かはエネルギーとなって俺の中に溜まった。

 弱気だった心が、檜森の一言で風が吹き荒れ、恐怖という弱気を吹き飛ばした。

 たった一言だったけど、その一言は俺に勇気をくれた。檜森の問題を解決する勇気を。

 さっき負けを認めたくせに、今ではそれを撤回している。

 負けるってのは諦めるのと同義だ。俺は檜森の言葉で勇気を得た。その勇気は諦めることを許さなかった。だから俺はまだ諦めちゃいけない。

「任せろ」

 たった一言に俺は全てを託した。

 その一言が俺の感情を全て伝えてくれる気がした。

 どんなことがあっても俺は檜森の問題を解決してみせる。

 そう誓いを立てた。

 感情ではなく、教師としての責務として、そうしなければいけない気がした。個人としてではなく大人として、教師としてできることを最大限やってやると心に決めた。

 俺が全てを託した一言は檜森にどうやら伝わったようだ。

「せんせぇ、頼りにしてるからね。ぜったいぃ」

 涙を流し、嗚咽を混じらせているが、言葉の意味は伝わってくる。痛いほどに。

 檜森には何も非はないのに、何故こんな目にあっているのか、とか、そんなものは今、考えるべきことではない。今、考えるべきはどうすれば檜森の問題を解決できるかだ。

 俺が関われるのは後十ヶ月ほどである。その間に何かしらの改善ないし解決ができるように努力しなければならない。

 ある人は十ヶ月もあると思うだろう。だが、俺はそう思えなかった。たったの十ヶ月しかないとしか考えられない。この問題を解決するにはあまりにも短い期間だ。だけど、俺は宣言してしまった。もちろん宣言を撤回するつもりは毛頭ない。

 まずは解決しようと思わず改善しようと思おう。

 俺は檜森に帰るように指示を出す。

 それに従って教室を後にする檜森を目で見送ると俺は頭を抱えた。

 それはどうしようもなく、途方もない難題だった。

 今、檜森は両親が深夜に帰ってきていて、早朝には家を出ていると思っている。いや、そう信じるしかないのか。

 それで、檜森は家事を一人でこなさなければならず、結果、家事全般をこなせるようになった。

 俺はその事実に胸を苦しめた。

 そうせざる得なかったから身につけた技術なんて、そうそう誇れるものじゃない。ましてや、檜森はまだ中学生で、これから身につければよい家事を既に身につけてしまったのだ。そうせざる得なかったから。

 そうなってしまった環境が俺は許せそうにない。

 両親に会えるなら一度会って言ってやりたい。

『彼女は親に甘えられない環境で生活していました。彼女はまだ親に甘えていい時期なのに!』

 いや、いないものについて考えるのはあんまりよくないな。

 それにしても休日にも家にいないというのはどうしてだ?

 もしかして彼女の両親はじょうは……いや、そんなことないだろう。

 ただの放任主義なんだろう。度が過ぎてはいるがきっと放任主義なだけなんだ。

 そう信じるしかないよな。

 俺、最近檜森のことばっか考えているな。もう、他の生徒と同等として見れてないんじゃないだろうか。

 ああ、生徒を平等に見ることが俺のモットーだったのに。今じゃもう檜森だけは特別になってしまっている。

 これじゃいけないって解ってるんだけど、もう無理かもしれない。どうすればいいんだよう。檜森はもう俺の中で特別な存在になってしまっている。もちろん、檜森が抱える問題があるからなんだけど、それでも平等で見れないといけないだろう。それができない。

 ああ、どうすればいいんだよ、もう。

 俺はことの大きさに気づいて弱気になってしまった。

 こんなにも大きな問題だったなんて、想像していなかった。そのせいでビビってしまった。

 俺はチキンだ。

 

          

 

 私は誰もいない家へ帰ってきた。

 誰もいない家は音がない。

 無音。静寂とは別の静けさがある。

「はぁ、先生また『任せろ』って……」

 一人でいるときの私はよく独り言を言う。

 独り言が多い人は寂しがり屋ってよくいうけど、本当にそうかもしれないなぁって時々思う。まぁ、私の経験論なわけだけど。

 それにしても今日は三者面談だったわけだけど、私の場合、二者だったけどさ。その時の先生は格好良かった。

 私を不安がらせないために軽口だったし、私が挫けそうだったときの一言に対して『任せろ』って言ってくれた。

 『任せろ』の一言が嬉しかった。その一言で私の暗かった心は太陽からの光が射したかのように激変した。それはパンドラの箱に最後に残った希望と同じだった。

 私の心というパンドラの箱を先生が開けた。そしたら中には絶望だらけだった。でも、先生が希望という光だった。

 全く、どうしてこんなこと考えてしまったんだろう。先生は私の担任で、私は先生の生徒なのに。これじゃまるで私が先生に恋しているみたいじゃないか。

 でも私は先生に恋していないと否定できないでいる。

 先生は私を絶望から引きずり出し、明るい希望のあるところへ連れ出した。

 それは誰もしてくれなかった変革。

 不思議な気持ちだった。

 先生が何とかしてくれるって言ったとき、私の胸は何か暖かいもので満たされた。

 ぽわぁっと膨れ上がる暖かい何かは私の心を温めて、熱を帯びさせた。

 今日だって任せろって言ってくれたとき、私の胸は熱くなった。鼓動だって少し上がった。

 やっぱり先生は他の先生とは違うって思った。

 関わり易くて、お兄ちゃんみたいな感じの先生。それだけでなく、真剣に私たち生徒のことを考えてくれる先生。

 私はそんな先生が気に入っている。お気に入りの先生。そして私が始めて心から信頼できると思った先生だった。

 私は先生と出会えて嬉しい。始めて信頼できる先生だったってのもあるけど、何より私に希望をくれたから。

 私は先生に憧れているんだ。

 

          

 

 俺は檜森が帰宅してからずっと悩んでいた。

 俺は檜森に同情している。そのせいで俺は檜森と他の生徒を平等に扱えないでいることに気づいた。

 俺は生徒を常に平等に扱おうとしていた。今まではそれができていたのに。今ではできていないのだ。

 例外は常に存在する。どんな学門でもこういう状況に出くわしたことがあるだろう。だから檜森のことはその例外として考えればいいだろう?

 悪魔の囁きがした。

 例外なく平等に扱おうと心に決めて教師になったのに、それができないなんて、ただのバカじゃないか。例外は作っちゃダメだ。

 悩みは前後しないままだが、とりあえず職員室に戻ろうと思って立ち上がった。

 机を元のように並べてから教室を出ると偶然、中島先生に出会った。

「あ、お疲れさまです」

「お疲れさまです。

 何か悩んでません?」

 中島先生は腕に抱えた資料類を抱え直した。

「不思議そうですね、何で悩んでいるのが解ったんだ? って顔してますよ」

 そういうとあははっと笑った。

 俺は図星だったので苦笑いになったけど。

「いやぁ、はは。ちょっとなんで、そんな気にしなくていいですよ」

 俺はそう言って、悩みを聞いてもらわないようにした。

「ホントに聞かなくていいんですか? もしかして私じゃ頼りないとか?」

 中島先生は少し残念そうにする。

 そんな中島先生を見て俺はすぐに否定するが、悩みは言わないつもりだ。

「いえ、そんなことないですけど」

「まぁ、そこまで言うなら無理には聞きませんけど」

 やっぱり残念そうな表情をする。

 やっぱり俺はお人好しなのかもしれない。残念そうな表情になったのは俺のせいじゃなくても、何故か罪悪感を感じてしまう。結局俺は中島先生を食事に誘うことにした。

「これから時間あります? 一緒に夕食食べに行きたいんですけど」

「ご飯ですか、もちろん大丈夫ですよ」

 結局俺は相手を喜ばせようとするんだ。

「それじゃあ、仕事が終わってから行きましょう」

「ええ」

 中島先生は微笑して肯いた。

 俺は中島先生が微笑してくれたことが嬉しかった。

 俺は相手が喜んでくれる姿を見て、喜んでいる人間なのだ。だからお人好しって言われる。否定できない事実がここに出来上がっていた。

 

          

 

 仕事を早々に終わらせると、中島先生と二人で夕食に出かけた。

 ここは学校から比較的近く、それなりに人気のあるお店だ。

 店内は綺麗に清掃されており、テーブルも磨かれていて、照明の光を反射するほどの光沢がある。 

 従業員の対応も標準クラスで、俺達が店内に入るとすぐ、二人席に案内してくれた。

 座席に座ってから少ししてから、水の注がれたコップが出され、テンプレート通りの挨拶をして去っていった。

 メニューを見ながら中島先生と雑談をする。

 雑談しながら何を注文するか決め、注文した。

 中島先生は見計らったように話しかけてきた。

「今なら他の先生達に聞かれる心配はないですよ」

「……どんだけ俺の悩みを聞きたいんですか」

 中島先生はお節介な人なのだろうな。

 俺は早く話してと急かす中島先生の表情がウキウキしているのを見て、不本意ながら話すことにした。とりあえずウキウキしながら悩みを聞くってどういうことですか。

「大したことじゃないんですけど、俺のクラスのある子を他の生徒と同じように見ることができなくて」

「どんないやらしい目で見るんですか」

「いやらしい目でなんて見ませんよ!」

 俺は中島先生の発言に対して素早く否定をする。

「冗談ですよ〜」

 ホントか? 目が本気だったような気がするぞ。

 中島先生はニコニコと笑っている。

「それでですね、平等に見れないって言ったじゃないですか」

「うん」

 中島先生は肯いて、コップの水を飲んだ。

「俺、その子をちょっとだけ優遇している気がするんです。

 今まではそんなことしなかったですけど」

 コップに注がれた水に視線を落とした。

「それで、平等視できてないと感じていると?」

「そうなんです」

 中島先生は考え込むように縮こまった。

 俺はまだコップの水を見ている。

「ま、気にしなくていいんじゃない? 私達だって人間なんだし、好き嫌いはあるのも当然でしょ」

「そうかもしれませんけど、俺はそうしたくないんです。それに優遇してしまう理由もあったりして」

「へぇー、理由って?」

 中島先生は先を促した。

 あまり言いたくはないんだけど、この際仕方ないか。

 俺はそう判断すると、一言断りを入れて話すことにした。

「他の先生達には内緒にしてください。生徒のプライバシーに関わることですから。

 理由はですね、その子の家庭の事情なんです。

 その子の両親は帰りが遅く、朝は早いらしくて、その子は一人で家事をこなしているみたいなんです。

 まだ15歳の子供がですよ? 放っとけないじゃないですか」

「まぁ、放っとけはないわねぇ。

 で、東野先生は目にかけてしまうと?」

 俺は中島先生の顔を見れず、コップの水面を見ていた。だから今、中島先生がどこを見ているか、どんな表情をしているかは解らない。

 檜森を放っておけないのは揺ぎ無い事実だ。だから、中島先生の言葉に肯定する。

「まぁ、そうなんですけど」

「けど、何? もしかして下心ありで目にかけているとかですか?」

「そんなもの、もちろんありませんよ!」

 顔を上げ、中島先生の顔を、目を見た。真剣な目をしていた。

 どういうわけか、この人は俺の心にある答えを導くような質問ばかりをする。核心をついてはいないから、一つひとつは簡単な問い。だけど流れで考えれば、核心へ至るための質問なのだ。無駄な質問をしないし、全てが核心へ至るための布石。考えずにしているのか、計算しているのか、どちらにせよ凄いことには変わりないか。

「だったらいいじゃないですか。大人が子供の心配をしていると思えばいいんじゃないですか」

「でも、何かしてあげたいとは思うんですけど、どうにも難しくて。

 どうしたらいいんですかね……」

「さぁ?」

 中島先生は無責任に返した。

 我関せずっと言わんばかりの態度に俺は腹が立った。

「『さぁ?』って、聞いておいてその態度はないじゃないですか!」

「やっぱり東野先生は何とかしたいんじゃないですか。だったら悩まずやれることすればいいんじゃないですか。

 今までどうしてきたかは知りませんけど、まずは今まで通りやってみて、つまづいたら誰かに相談すればいいじゃないですか」

「それもそうですね……」

 中島先生は関心ない振りをしてもちゃんと考えてくれていた。彼女も俺と同じ教師で、生徒達のことを考えているのだ。

「大切なのはどうすればいいのかじゃないですよ。東野先生自身がどうしたいかが一番大切なんですから」

 どうすればいいかじゃない。俺自身がどうしたいかだ。

 俺はどうしたい? 何がしたい?

 俺は檜森に誓った。だからその誓いを守りたい。

 ほら、解ったじゃん。たったそれだけのことじゃないか。

 誓いを立てた。それを守りたい。なら、そうすればいい。それだけのこと。

 正確には違う。誓ったからではなく、やり抜く心を表したいから誓いを立てただけなのだ。

 俺がやり抜きたいことは、檜森の問題を改善すること。

 その所為で発生する各種は、全て俺の中の普通ではなく、例外として取り扱えばいいだけではないだろうか。それで何か問題があるだろうか。結果的に檜森の問題が改善されるなら、それでいい。

 誰かに迷惑をかけるわけでもないし、他の誰かが傷つくことも無い。俺の心は最早、割り切ってしまえばいいことだ。

 いくら檜森を例外として扱うとしても、学校ではなるべく他の生徒と同じように扱う必要があるな。贔屓になってしまうし、その所為で他の生徒を傷つけることになるかもしれないから。

 それでも、俺が勝手に決めたあれこれを気にしてはいけないだろう。

 俺が勝手に決めたことの所為で檜森の問題が改善できなかったら、意味がない。そうなったら俺の誓いは中途半端なものだったということになる。それは俺が一番良しとしないパターンだ。

 もう俺の中のもやもやは一風の強風で吹き飛んでいた。後に残るのは明確な覚悟。

「ありがとうございます、中島先生」

「いえー、気にしないでくださいよー」

 俺は大げさに頭を下げた。

 俺は中島先生に足を向けて寝られないだろう。

 始めは面白半分で悩みを聞いてくれたのかもしれない。だけど、ちゃんと俺がどうしたいかを質問で導いてくれた。

 俺一人ではずっと悩んでしまっていたに違いないことだった故に、俺は中島先生にとても感謝している。

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