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「かくして隠された革正の為の核相と核子」 片倉雫 私は、幼い頃の正しい記憶を無くしている。 喪失しているのではなく、プロテクトが掛かって改竄された記憶だけが再生される。らしいのだが、 正しい記憶を引き出せない、という事から見ればそれらの相違は多少にも及ばないだろう。 ただ、それらの不明瞭な記憶の中に、唯一正しい記憶がある。記憶の改竄の切っ掛けとなったその記憶、 再生する。 直ちに現れるそれは、自分という存在への疑念と彼女に対する罪の意識。 これは自分の所為ではないだろう、彼女の所為でもないだろう、自分達を作った大人達の所為ですらないだろう。ただ責任を押しつける相手を無理矢理ねつ造するとしたら、私達をこの流れに乗せた歴史そのものだ。ある意味必然的に運命的にこうなった、――が、それをただ享受しているだけではない。 つもりだった。 私の認識は甘かった。米国の粗雑なチーズケーキよりも甘かっただろう。それを作った本人は満足しているが、口に入れる側としては吐き気を催すくらいに不味い。踏みつぶしてしまいたくなるくらいに。 私と彼女は同一人物だから。私と彼女の際を考える時に浮上してくる最前提はそれだった。私と彼女は同一人物だから、だから私は彼女のことが他人より分かる。私は私に同情しないし、だから彼女にも同情しない。彼女もそれを分かっているだろうから。だから私は彼女の分まで月並みな人間のように振る舞おう、それが出来ない彼女のために。ある意味、私が私になってしまったことに対しての贖罪として。だから私は彼女のために、彼女のように、彼女の代わりに、彼女の代弁者として、彼女のことが分かるから、彼女のできないことを――。 吐き気がしただろう。 私は彼女の目を見てそう言っていた。私は彼女の目を見て、彼女のことを知ったつもりでそう言っていた。 彼女は吐き気がしただろう。 私のその思考は、彼女からしてみれば、粗糖が溶けきらないまま残ったチーズケーキのようだっただろう。それを口に含んだ途端、それを噛んだ途端、固まったままの砂糖が砂利のように砕けて不快感を残す。 私はその思考を、私と彼女の外見的差異が大きくなった時に捨て去らなければならなかったのだ。 いかにクローンであろうが、いかに同一の遺伝子を持とうが、いかに同一の塩基配列であろうが、外見的差異は大きくなるし、内面的差異はそれよりもずっと巨大なものになる。 私と彼女は別人なのだ。 いや、その事実を私が自分自身で得たように言ってはいけない。それを私に知らしめたのは、他ならぬ彼女自身だからだ。 「私のために? あなたが? なにそれ? いい加減にしなさいよ。あなたは同情を嫌ってるけど、あなたのそれは同情でしかないわ」 切っ掛けはほんの些細な口喧嘩だった気がする。身体的な面で彼女は劣っていると驕っていた私は、いつも引き際を心得ていて、適当なところではいはいあなたの言うとおりですごめんなさいねと反省のはの字もない謝罪をして終わらせていた。 「待ちなさいよ」 だが彼女はそれをとっくに見通していて、しかもそれを誰にも言わないまま心に溜めていたのだろう。だから爆発した。 彼女のその一言で一切の一切が一変した。 せっかく引いてやったのに。自分自身に打ち克った、それを味わっただけで十分だろう? 私は不機嫌になって彼女の方を見た。 彼女はその時すでに、完全に人ではなくなっていた。 近似値として何かに例えるなら……食虫植物の潰液というのが近いような気がする。溶けた肉とその中に少しだけ浮くように見える白い骨と肉より固いからまだ形を残している軟骨とその他諸々の半壊した内臓諸器官。客観視すればもはやそれは人ではないと判断できただろうが、あいにくその時点での私は彼女のその姿を、その時まで見ていなかった。初見である故に思い切り主観全開で、目に入った異物は、何故かは分からないが私の脳内で微少な幼児の集合体だと処理された。 小さく悲鳴を上げたと思う。確か後ずさりして背後の壁にぶつかった。確かなのは、その時に感じた彼女の殺意。 「ねぇ、」彼女が蠕動しながら私の方に滑ってくる。 ねぇあなたには分かる? 分からないでしょうねその綺麗な身体だったら。私はあなたと別の生命体あなたはそれを認識していないの。だってあなたは「私とあなたは同一」っていう弱体化した事実を逃げ道にしているから。分かる? もう私とあなたは同じじゃない理解して理解してよそれを。あなたは一体何がしたいの? 私に逃げるように毎日を過ごして何がしたいの? 私に嫌がらせがしたいの? 一体何なの? 私は、普通がいいのに。 あなたは、一体、なにがしたいの? 「ねぇ……もう、終わらせてもいいよね。こんな実験。成功例がいなくたって、別に」 足が無く腹で滑るように、胎動するように移動する彼女は思いの外遅くて、私が思考する時間を延ばした。 ……どこで喋っているんだろう。 何故そんなことを考えたのか分からない。確かにそれは生物学的に刮目すべき問題点かもしれない。が、今から思い返すとその場には不適当な思考だと思われる。あまりの異常な状況に、既に私は狂っていたのかもしれない。 彼女がゆっくりと近づいてくる。なにか殴打するものはないだろうか周囲を見回した。 そこで私は見つけた。 監視カメラが、文字通り監視するように私達を見つめていた。いや、目が合った。直後だった。 誰だったのだろう、今では分からないが、力の強さからして研究員ではなく警備員だということは分かった。その腕に引っ張られた。 彼女が近づいてくるということに恐怖していたくせに、その時は離れるのが怖かった。 「――」 多分、彼女は何かを叫んだのだろう。いつもは表情や唇の動きで分かるのだが、その時はそれがなかったから。なんて言っているのか分からなかった。 離れていくことで急速に小さくなる彼女の身体に、幾つかの催涙弾が撃たれた、そこまでは見た。 以降の記憶は、印象が薄くて曖昧だ。 その日以降、彼女と会う時は最低十センチの耐圧ガラスを隔てることになった。人型の時もゼリー状の時もあった。彼女の一部は瓶詰めになっていた。その一部は一部だけでも動いていた。 私は一人なった。 勉強する時も遊ぶ時も食事の時もお風呂の時もおやつの時も眠る時も起きる時も笑う時も泣く時も怒る時も悲しむ時も、 その日以降、私はそれを一人ですることになった。 それが悲しかったわけではない。 なぜなら彼女の言葉によって、私の記憶は、今まで全て一人でやっていたということに上書きされたから。今までもこれからも変わらなかった。それは自己防衛のようなものなのだろう。仕方ない処置だと研究員に言われた。 それを言われた時、私は初めて、記憶がねつ造されたものだと知った。以前にも増して何もかもを信じられなくなった。 記録ではそうなっている。 ただ私はその事を改めて知った時、 彼女に謝らなければならないような気がしてならなかった。 同じ水脈から生まれた一粒の雫と滴。 片倉滴に、謝りたかった。 神ノ木義人 「お前は一体、何なんだ?」 問いは音と言葉が混ざり声となって発せられる。その声を聞いたらしい片倉と目が合った。 今更目を逸らすつもりはない。 「……何なんだ、ですか。誰なんだ、じゃなくて」 神ノ木先輩にとって私は、――人じゃありませんか。深く沈んだ声が理科室に響く。二人しかいない教室に一瞬だけ反響して直後に消える。暖気を送り込んでくる音だけが反響の消滅を包み込む。 「分からない。俺には何が人なのかが分からないからな」 目を逸らさない、つもりだった。 「人とそれ以外の差、なにがある?」 ただ、あまりにも片倉の視線が弱々しくて虚ろで。それを見て感傷に浸るつもりはないが、ただフォローのような言葉を気付いたら口にしていた。それに自分自身で気付いて眉をひそめる。 「……先に先輩の質問に答えておきます、内側に溜めておくのは――ちょっと辛いから」 最近、「人」と接する機会が多いような気がする。特に橋本や片倉のように、女の。いやそれはどうでもいいことか、と心中で溜め息吐いて片倉を見る。細く組んだ指が遊ばれずに止まっていた。 「誰にも言っちゃダメですよ、特に科学部以外の人には。もうこれ以上範囲を広げたら、私負けちゃいますから」 片倉の言葉の意味が分からなかったが、とりあえず他言するなという約束には首肯で同意する。 微笑んで、 「きっと期待に応えられないと思いますけど……――、私はクローン人間です」 疲労を含んだ微笑みはこうも痛々しいのだろうか。どこか、なにかを諦めたような表情で片倉はその視線をグラウンドへと落とす。 「志帆さんには言ったんですけどね、彼女はきっと……一番、受け容れられないと思って。だから、最初に」 でも、そうなんだと驚かれただけで……嬉しかったです。あ、そういう反応を先輩に期待してるわけじゃないですよ。言って嬉しさに困ったという風に眉を曲げる。 「ただの……って言ったらダメですね。普通のクローン人間は、世界中に百人単位で存在してます。私達が把握している以上にいると思いますから正確な数は分かりませんけど」 えっと、私達って言うのは……ここは言えませんけど、とある組織ですね。科学技術を先行入手して、混乱しないように世間へペースダウンして配布してる、そういう組織。だから、実はもっと便利な技術はいっぱいあるんですよ。 秘密だけど、そう言うように人差し指を立てて唇に当てる。 「えっと、それで……普通のクローンじゃない方ですね。どういう事かというと、多分想像できてると思いますけど――元となる遺伝子の塩基配列を操作されてるんですね。それが私です」 「そんな事が……」可能なのか。 その言葉が片倉の表情に先制される。だから、目の前にそれがいます、と。 「私の場合は、運動能力が大幅に向上しています。全力出さなくても神ノ木先輩を超えるくらいに」 一度試したことがあるんですけど、助走つけて全力で垂直跳びしたら三十メートルいきましたから。 「……世界記録だな」 「でも跳んだ後、下半身痙攣して一ヶ月動けなくなったんです。使えませんよ」 成程、全力を出せるとはそういうことか。間違いなく自分に当てはまらない話だが妙に納得する。 「話それましたね。えっと、それで、私を作ったチームは……というか私は三十人セットで作られたんです。元々は」 便宜上、私のことを私って言いますけど……その、……。眉間に皺を寄せて言い淀む。確かに言い難いだろう。自分が三十人セットになっている所など想像したくないし、できない。 「あぁ、……無理はしなくてもいい、からな」 いえ、大丈夫です。ちょっと、難しいだけで。奥の深い瞳がこちらと目を合わせて言う。 「その中でも、私と……もう一人の私の彼女以外の二十八人は、すぐに死んだそうです。私の覚えているだけで六人、気付いたらいませんでした」 だから、今生き残ってるのは、私と彼女だけなんです。 「……お前自身とその彼女は、全く違うのか? いや、お前のアイデンティティーが崩壊するほどに同じなのか?」 片倉の紡ぐ言葉に彼女という人物を回避するような感覚を覚えて無理に問う。どう思ったのだろうか、片倉の白い指が絡み合ってゆっくりと遊び始める。 「そう、ですね。もしかしたらその両方です。私は……、彼女と全く違うと言い張ってますけど」 彼女は、人の形をしていません、……から。 裁きを下すように感情の失せた声で片倉が言った。 「……、」まさか。 息を呑む。喉が鳴ったのが自分でも分かる。 「死んだ二十八人の中には、……病死が半数以上でしたが、自分の形を保てなくなって死ぬというパターンがそれに次ぎました」 比喩ではなくリアルな人間のスープ。言語では表現不可能な異臭を放つシチュー。 「私が偶然病気にならなかったように、彼女も偶然死ななかったようです。二人とも、何故生きているのかは解明されていませんから」 現代科学をもってしても、言って片倉が苦笑する。科学の無力さを達観しているのだろうか。最早話を聞く側としてでしかそれを想像できない。 「それとごめんなさい。さっき先輩に、お前は一体何なんだって言われたときショックだったのは、――私は人だっていうプライドがあったからなんです。彼女はもう人間に戻れないけど、私は違うって」 でも、それは違うんですよね。それならば私も……人間じゃない。 「彼女が人じゃないなら私も人じゃない。だけど彼女が人だって認められるのなら、私も人だって言える」 髪を揺らして片倉が天井を仰ぎ見る。 「……って、変な話になっちゃいました。すいません、先輩」 「――、気にするな」 「えっと、……一応、先輩の問いの答えにはなってると思うんですけど、これでいいですか?」 大丈夫だ、言おうとして、しかしそれが憚られた。違和感、いや、違和感か? それすらも疑問になる。片倉の話をただ一方的に聞いていたときには無かったそれ。問いの答えになっているかと聞き返された時に、思考に浮上してきたそれは。 何故、 「……お前は、それを言ってくれた?」 そうだ、何故、高度な機密であるだろうその事実を言った? 片倉だから、嘘ではあるまい。だが信じるかと聞かれれば、それの割には情報が超現実的すぎて信じられない。 「あ、の……」 片倉の表情が紅に染まる。言葉に詰まった様子が手に取るように分かる。 「それは、えっと、その……」 白い指が自分で自分をつねっている。痛みを感じることで自分を落ち着けようとしているのだろうか。 「…………えっと、あー、もうっ、……せ、先輩」 狼狽した結果、最終的に語気を怒り気味に上げて片倉が睨むようにこちらを見てくる。言葉になんだ、と声を返して反応を見る。 「その、……えっと、て、手を、繋いでも、いいいですか?」 ――何だって? 「あ、えっと、その、……それがとっても大切で。私の落ち度でもあるんですけど、一回だけでも」 お願いします。言われた言葉に唖然とする。手を繋ぐ? 何故? 「それは別に良いが……」 何故という言葉が抜けた。片倉が勢いよく立ち上がる。自棄になっているような気がしないでもない。 安っぽい自動人形のようにぎこちない動きで歩いてくる。立ち上がるかと考えて、そうする。 「あ……」 相手を待っているほど悠長でなければロマンチストでもない。片倉の方を進んで、右手を。こちらの左手を。 手のひらを付けて。親指は親指、人差し指は人差し指、そういう風に指が絡む。第一関節は第一関節、第二関節は第二関節、そういう風に指が吸い付く。 「…………ごめんなさい、先輩。全部、私の、自分勝手、なん、です」 繋いだ手を横に投げて片倉に近づく。息遣いが分かる距離に。 「…………私は、みんなが、好きだから」 泣き出しそうな声が聞こえた。暖房の音など、最早聞こえなかった。 繋いだ場所から体温が伝わる。 それは、いつか以来の人の温かさだった。 笠野夕夏 雫の行動を思い出す。転校してきた時の、初めて会った時の、最初の挙動を。 「うーん……」 言われてみれば合点がいくが、言われなければ分からない。 「そう、……そこに、科学部に案内してくれる?」床に座り込んだ私にそう言って手を伸ばしてきた。戸惑いながらもその助けを受け取った時の彼女の手は、何か壊れ物に触れるような手つきだった。もう片方の手に持っていた液塩の瓶よりも、もっと壊れやすいものに触れるように。 雫のその行動は何だったのだろうか。いきなり目の前で転けた私に対する配慮ではないだろう。それにしては言葉がきつめだったから。 時系列を整理しながら、先生の言葉を思い出す。……雫の妹は、外に出られない。薄めた嗚咽混じりで呟かれたその言葉を。 「……姉、いないからなぁ、私」 白い部屋で一人呟きながら、シーツに沁みた石けんの香りを嗅ぐ。 先生に乗られて問答始まったから動揺してて分からなかったけど、あの問いは土台無茶だったような気がする。 だって、大体私海外どころか矢端川から出たことないし。姉いないし。雫みたいに頭良くないし。 でも、 「聞かれたって事は、なんか意味があるんだろうなぁ……」 そう思う。あの白衣は感情の上下激しいしいきなり病室に来て昨日みたいなことになることもあれば、全然音沙汰無いこともある。 それが、四日目、七十二時間とちょっとで判明した先生の性格だ。 いつもはバカみたいに振る舞ってるけどその割にはたまに言動意味深で。何考えてるのか分からないランクがあるとすれば、部長の次の次くらいにくるんじゃないか。 だから、あれだけ言っておいて、実は一時の気の迷いで言っちゃいました、なんて事はないだろう。多分。言い切れないのが怖いけど。 「んー……、暇」 考えながら、つい癖のようになっているその言葉を吐いて起き上がる。でもやっぱりすることなくてベッドの上にもう一度倒れて。 そう、だから、多分。 あの人が考えるくらいに雫には事情があるんだろう。それが何なのかは分からないけど。私が頭突っ込んで良いのか分からないけど。 そこまで思い至って苦笑する。うわ私らしくないなと小声で呟いて身体を抱いて。 「はぁ……」 溜息。最近多いのは気のせいじゃない。 原因不明で結果不定、最近よく分からないことが多すぎて嫌になる。 思考がぐるぐると二転三転して行ったり来たりして地に足着いてないのも、きっとそのせい。 携帯取り出してメール来てないか確認する。 「……来てる訳、無いよね」だってこんなに暇なのは全世界で私くらいだろうし。 どうせ志帆には緒方がいるしー。ともは飛島と額くっつけてるだろうし。部長がメール返すとは思えないし。雫は雫で……きっと忙しいだろうし。 ……。扉の方に目を遣って。 ……。耳を澄まして無音を聞いて。 ……こっそりネットに繋いでやろうか。頬を膨らましながら思案する。 精密機器に支障を来しますので電子機器のご利用は控えて下さるようお願いいたします。本来の病院では携帯の電源入れることさえに注意が入る。私の携帯だって最初看護師さんに使用を渋られていた。なんか電波を曲げるから大丈夫とか言って先生に許可されたけど。 「年頃の女の子に携帯手放せって無理難題よねー。ってことで一応メールは許可出しといたから、使っていいよ」 でも持続して電波出し続けるネットの接続とかは禁止ね、上の方なにかとうるさくて。それが最大の譲歩だったのだろう、病院内で携帯を使えるって中々すごいことなのだから。 「でもこの部屋から出られないってのも辛いよねぇ、どうにかならないかしら」 人差し指を顎に付ける仕草で考えながらついでのように呟かれたその一言は、まだ実現されていない。 そう、私はこの部屋から出られない。 一周回って雫の事がふと頭をよぎる。 「出られない、か」 そりゃ誰だって閉じこめられたら出たいと思うよ。私は四日目で我慢できなくなったし。 でも推測するにも情報が足りなさすぎる。 5W1Hが埋まってない時点で推測は想像になる、……いや妄想、だろうか。 状況や条件が一つ変化するだけで心情が百八十度転換することもある。だから私には雫の妹の気持ちが分からない。 「本人達の意思とは別に片方が外に出られなくなったら、……もし夕夏がその出られない方になったら、どう思う?」 昨日の言葉、上手く編集された映像がダイジェストのように頭の中に流れる。 「ん、」 無意識のうちに蚊の泣くような溜息が漏れた。 外に出られないって、なんだろう。 そう、だ。私の思考を阻害するもっとも大きな壁がそれだ。思考結果に喜びとも悲しみともつかない表情を浮かべてベッドにうつ伏せてやる。 外って、なんだろう。 外って、どこだろう。 右手でシーツを握りしめる。 私はこの部屋から出たいと思う。この部屋の外は、病院? 私はそれでもいい。でもいつかは病院の外に出たくなるだろう。病院の外は、どこ? 矢端川の街? それとも別のどこか? 分からない。 ……ダメだダメだダメだダメだちょっと落ち着けなんかおかしくなってるぞ私! 一体何だ今の私は。外ってなんだ、ってなんだ。 深く呼吸をして肺の空気を全部入れ換えて、ついでに思考も全部心機一転して。落ち着いた気になってみる。 でもそれに気を抜いて鼻から呼吸をすると、 うわ、変な中毒かなこれ。 シーツから香ってくる石けんの香りが熱病のように喉から肺を冒してくる。 「うー……」 亡者のように手を伸ばしてナースコールをする。 外に出たい。 でも、 外ってどこだろう? 飛島行 一度、貧血で倒れたことがある。いつだったかは忘れたけど、一度だけ。 「あ……?」 自分の身体が操縦不能になるのが手に取るように分かる。でもただそれだけ。自分が地面に抱きつくようになるのをただ俯瞰するしかない。あぁ、誰か何とかしろよ――。 この状況はそれに似ている。何しろ今の今まで忘れかけていた貧血の記憶が呼び出されたくらいだ。 乾いた冬の夜風が鼻に心地良い。隙間を塗りつぶすように服を通り抜ける冷たさが気持ちいい。 「あー……」 でも、それだけ。 それ以上も、以下もない。 ――おいこれどうなるんだ。 「飛島君っ!」 絶叫に近い声で名前が呼ばれる。あぁ片倉か。一体どうしたんだそんな一生懸命になって。らしくもない。 そう考える思考とは隔絶した感覚器官が片倉の動きを的確に捉える。 脚を限界まで伸ばして直線的に走る。アスファルトの表面が音を立てて削れた。黒い幾つかが直後に落ちて音を立てる。 その前に、 身を屈めて滑るように近づく片倉に身体を抱えられた。 「あぁぁぁああああああぁぁぁぁぁっ !」 あぁ? なんだこの鳴き声は。通常以上の動作を発揮する感覚器官とは反比例して遅くなる思考がそれに気付く。それの数秒後、人か動物か生物か機械か物質か、いずれかは判断がつかないが、自分と片倉に次ぐ第三者がいることに思い至った。 さっきのあれだろうか。 粘膜生物……いや、勝手に名前を付けてはいけないか。 この身体は片倉に抱えられてはいるが、片倉も粘膜生物に気を取られているのだろう。あらぬ方向に首が曲がって、だがそれのお陰で自分自身で粘膜生物の姿が確認できた。 反転する景色の中で、それは少女の形をしていた。とても、片倉に似ている少女の。 「なんで……!」 「ごっ、あっ! ――あぁ……この姿で会うのは……久しぶりね」 瞬きの間に姿が変わったのはどんな手品だろうかと考えたが、直後にそんな事は分かるはずもないだろうと自分で自分を一蹴して終わった。 濡れた裸体を晒したまま少女が笑う。 「本当に……久しぶり。いいわね、外って」 「……どうやって、」 「それは内緒。どうやってあそこを出たかなんて、それはそれで、知ったらあなたでも銃殺ものよ?」 逆さまのまま少女が緑のフェンスに腰掛ける。あんなところに座ったら揺れるし落ちるんじゃないかという考えは、どうやら通用していないようだった。 腕を曲げたり脚を伸ばしたりする度に、そこから粘液が糸を引く。 「ねぇ、本当に六人でいいの? そんなに多くて? そこの男の子早速死んじゃうわよ?」 「……それはさせない」 「変わってないわね、私と同じ。……また口ばっかり」 「っ、うるさい!」 片倉が叫んで景色が揺れる、……あぁ、少し退いたのか。視界の中の景色が遠くなってそれに気付く。首ごと垂れているせいだろう、視界が大きく揺れている。 砂を噛むような音が身体を媒体にして伝達される。それを見て粘膜少女が口を曲げる。 「逃げるの? できるの?」 プールサイドの小学生のように少女が脚を動かしている。水の代わりにあるのは粘っこく糸を引く妙なものだが。 「もうあなたが近づくことに怯える私じゃない。だから、」 「だから、何?」 今の片倉との会話にどこかユーモアがあったのだろうか、フェンスに腰掛けたままの少女が哄笑する。しかしそれは一瞬で冷めて今度はその視線がこちらを刺す。 「だから逃げられる。そう思ってるの? 本当に? 馬っ鹿じゃないの?」 「それは試さないと――」 「試さないと分からない? ダメね、その態度が既に負けを決めてるわ」 「……っ」 「つまらない、な。あーぁ、せっかく雫を殺せると思ったのに。つまんない」 こんなことなら施設から逃げ出してくる方がよっぽどおもしろかった、言ってこちらを、――恐らく片倉を睨む。 「人間の生命が掛かってる勝負で、雫はそんな事をしないわよ。イチかバチかでやってみる、なんて」 いつの間にそんなに腑抜けたの? がんばった私が馬鹿みたい。 「私の知ってる雫はね、そんなことしない。全然しない。もっと用意周到で、のこのこ現れた片倉滴を濃硝酸に叩き込む、それくらいはするわ」 まぁ、別にいいんだけど。言ってフェンスの上から飛び降りる。ぎしりと音の鳴ったフェンスからも粘液が糸を引いた。浅く身体を抱くようにして、隠す。眉間に皺を寄せて口を開いた。 「……見られてた」 「……」胸の向こうに見える片倉がこちらを見下ろした。 「まぁいいわ。そこの子殺すから。どうせ雫が本気出せないのは守る人数多いからでしょ? 見られたのちょっとは恥ずかしいし、一石二鳥じゃない?」 殺すから。その言葉が出た瞬間に片倉の身体に緊が張る。比喩ではなく物理的に、抱かれている部分が熱くなるのを感じる。 「二度は言わない。あなたは、私に追いつけない」 「……へぇ、やってみてよ」 寸感、粘膜少女が見えなくなる。どこに、と視線を回そうとした直後に身体自体が持って行かれた。――何に? あれ? 景色を吹き飛ばして、最早風の中で。音という音が消えて、でも耳には轟音と呼べる風音が届く。 身体はあるのだろうかという錯覚に陥る。 あぁ、これは――、やっぱり、貧血で倒れた時のような感覚だ。 身体が中空に放り投げられてどうしようもなくなる感覚。自分が遠くなっていく感覚。 「大丈夫だから……!」 ただ、そんな声が聞こえた。 気がした。 橋本志帆 揺れの少ない車の中で暖房に包まれる。会話のない車上というものはこんなにも不安を作り出すものなのかと再発見して。 「――」 無声の溜息を肩で吐いて、曇りのないガラスに額をつける。あ、これ他人の車だった。……ま、いっか。 不安から来る、舌先の痺れと下腹部の痛みと目の疲れと。身体に影響が出るくらいに思う。これからどうなるんだろうか。 「しばらく掛かりますし外の景色をお見せできませんので、お休みになってもよろしいですよ?」 ハンドルを握るシーツ姿が柔らかい声で囁く。いつの間にメガネを掛けたのだろうか。 「……どうも」 でもそんな事はどうでもよくて。気になっているのは雫の言葉。 彼女が本当に怒ったのはね、私だけが外に出られるようになったことなの。 眉を下げながら言ったそれは、 私だけが外に出られるようになった、彼女は外に出られない。だから彼女は私を妬んでる。 乗り慣れていない他人の車というものはどういう訳だか知らないが、誰の車であっても嫌な臭いがする。全世界の車メーカーが共謀して私に嫌がらせでもしているのだろうか。 私を殺したいと思うくらいに、嫉妬してる。 溜息吐いても臭いが無くならない辺りどうしようもないことは分かっているのだが、それでも。しなければならないことのように、肩を落とす。 そう、それから結構話が飛ぶんだけど――。 曇り無く曇ったガラスには、額をくっつけた跡が少し残っている。ただそれも落とされるべき汚れ、瞬かぬ内に消えてゆく。 彼女、そこから脱走してね。今、この街にいる。 鼓動が一つ大きくなる。手首を押さえなくても脈が分かるくらいに。 私の自分勝手だって、分かってる。 「失礼します」スーツ姿が呟きながらカーステレオのスイッチを入れる。何の曲だろうか、クラシック調の音楽が聞こえてくる。いつの間にか重くなっていたまぶたを開けて、思い切りシートに体重を掛けてみる。悪い気分ではない。 ……ごめんね、みんなに迷惑掛けて、……ううん、これから迷惑掛ける。それを許してって言わないけど――。 バイオリンとクラシックギターの音色がガラスを震わせる。 お願い、志帆。少しだけ、本当に少しだけでいいから、我慢して。すごい自分勝手な事言ってるっていうのは、分かってる。 あぁ、曲の構成としてはボレロに少し似てる。同じ旋律を繰り返していくところが。 少しだけ迷惑掛けたら、私は消えるから。去るから、お願い。少しだけ――。 「ふぁ……」 無意識の欠伸、いつの間に私は眠くなったんだろうか。 少しだけ、目を瞑っていて。私が彼女を捕まえたら、直ぐに目を開けてもいいから。 自分で指をつねって思考を取り戻す。そう、雫は言っていた。 「ごめんね、志帆」 いや、言っていたというよりも、謝っていた。何度も何度も何度も何度も、何度も。 「謝ることしかできない自分が馬鹿みたいだけど」 苦笑して表情を陰に隠す。髪が更にそれを助けて。 「……志帆、ありがと」 潰えた言葉を塗り替えるように私と視線を合わせる。 志帆には本当に言っても足りないくらいに感謝してるし嬉しいこんな話を聞いてくれて。実は怖かったのあんまりにも現実超越してて信じてもらえないんじゃないかなにその話って一笑に付されるんじゃないかって。志帆に話せてよかった。本当に――、 ありがと。 言って直後に席を立つ。幽霊でも見たような顔をして。 「志帆、」雫が座って。 彼女はきっと私を殺しに来るそれも考えられ得る最も残酷な方法で。私が心身ともにぼろぼろになるのを彼女は望んでるだから……、危ないの。 危ないの。誰がとは言わなかったがそれの目的語は私達だと瞬時に思い至った。 「だから、私に考えがある。……三日、三日だけ科学部のみんなで集まっていて欲しい。私の提供する場所に」 不自由はさせないからその三日間で決着つけるから。 ごめんね、と謝る。先に謝っておいて逃げ道封じるのは卑怯だと思う、ゴメン。でも、……お願い。 ここは夢だろうか過去だろうか。微睡んだ思考を頭振って起こしていく。 私はなんと返事をしたんだろうか、雫が私の言葉に微笑んで再び立ち上がる。 「お金は払っておくからね」 レシート持って雫が会計の方に歩いていく。私は座ったまま。なんだか壊れたおもちゃのような音を立ててレジが動く。それからしばらくしてお金を払い終えたらしい雫が自動ドアをくぐって。 溶けた。 「ひっ――」 目が覚めた。ここは暖かい車の中で。 いつの間に眠っていたんだろう、私は――、 「あと三十分ほどで到着します」 隣のスーツ姿の言葉で現実感が具現化した。目も覚めた。 はい、と適当な返事をして考える。さっきの夢の最後のあれは、 何だったんだろう。 あの時喫茶店を出た雫は、もう一度こちらに手を振って坂道を降りていった。それなのに。 溶けた? 「――」 溜息。 いや、いまはそんな夢のことはどうだっていい。 本当に気にするべき事は、この車の行き先。ひいては、 私達の行き先。 |