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「おいしかったです。ごちそうさまでした」 おなかいっぱいになった僕が魔女さんにそう言うと、魔女さんは楽しそうに「こちらこそー」と言っていた。 実はシチューだけでなくてパンも魔女さんが作っているらしいのだけれど、流石にそれはご主人の作るパンの方がおいしかった。魔女さんのパンは少しざらざらしていた。 おなかも一杯になったことなので、そろそろ帰ろうかなと僕は外を見た。 ばうっ。 彼が曇り空を見上げながらくるくる走り回っている。飛び跳ねたりしているので、なにかを見つけたのだろうか。 そんな景色が見える窓と僕との間に、魔女さんが座って仕分けの続きをし始めようとしていた。 「あの、魔女さん? えっと、僕、もうそろそろ帰ろうと思うんですけど……」 さっきは帰るつもりもないのに、帰らないでと抱きつかれた。だから面と向かってそう言ってしまうと大変なことになるかもしれないと、僕はおっかなびっくり言ってみる。 こっちを向いてナップサックに腕を突っ込んでいた魔女さんの動きが止まる。僕と魔女さんの目が合う。 目を背けるようにして魔女さんが下を向く。突っ込んだままだった腕をナップサックから取り出した。 「もう帰っちゃうの……?」 くずした足の上に両手を置く。スカートから覗いている足首が白かった。 「えーっと、」 言葉が詰まる。魔女さんの肩が震えていた。それはつまり、泣いているということなのだろう。 「食べたばっかりだよ、もうちょっと居てよぉ……」 髪に隠れた瞳から涙の一滴が落ちる。こうなったらもう離れようにも離れられない。ちょっとずるい。 でもここで帰らなかったら、もう魔女さんの下から永遠に離れられなくなってしまうのではないかと僕は思った。 「でも、あんまり遅れてみんなを心配させてもダメですから、」 「わ、私よりみんなの方が大事なの?」 そう言いながら魔女さんは立ち上がりざまに僕に抱きついてきた。僕を見上げる瞳は濡れている。 思いっ切り泣いている。 すがるように抱きついてくる魔女さんに、僕は一言「違うだろ」と言いたかったけれど、今の魔女さんにそれは通用しないだろう。大体、魔女さんと町のみんななんて比べようにも比べられない。 「えっと、でも、その」 どうにかよい言い方はないだろうかと僕は頭の中を探ってみるけれど、なかなか見つからない。そうしている間にも魔女さんは少しずつ僕の顔に近づいていて、その道中で僕の服に涙や鼻水をこすりつけたりしている。魔女さん、それは僕の服です。 「帰っちゃイヤ」 怒ったように頬を膨らませながら魔女さんが言う。近づいてくる魔女さんから逃げるように僕は少しずつ仰け反っていく。 「いや、あの、魔女さん、近い……」 「近くない」 一言で魔女さんが否定するけれど、そんなはずはない。魔女さんが抱きついてきた時点でうすうす感じてはいたんだけれど、ここにきて魔女さんの柔らかい所が僕を押し付けているのだ。困る。 「帰っちゃダメだからね」 椅子に座っている僕の上に魔女さんがいる。僕のふとももの上に魔女さんが立っているようなので、魔女さんの頭は僕よりも高い位置にある。僕の両肩に手を載せて魔女さんが言った。 「帰っちゃダメだからね?」 確認するように言われて、僕は危うく頷きそうになる。慌てて首を横に振った。 その瞬間、魔女さんの両目がじわっとにじむ。 「私のこと、キライ?」 魔女さんが涙をぼろぼろこぼしながら僕に聞く。その言葉にも僕は慌てて首を振った。 「じゃあ帰らないでよぉ……」 「だって、」 「だって?」 僕は魔女さんを見る。魔女さんは鼻をすすった。 「これ以上魔女さんの所にいたら、離れられなくなるような気がするんです」 魔女さんの顔が真っ赤になる。そのおかげで僕の顔も真っ赤になった。魔女さんはそのまま身体を僕に任せるようにして、倒れながら僕を抱きしめた。 「ありがと」 一体魔女さんはどんな勘違いをしたのだろうか。分からないけれど、とりあえず魔女さんは分かってみてくれたいだし、髪の毛の匂いが心地良かったので僕はよしとする。 「あ、」 「いてっ」 魔女さんを抱きしめようと手を回すと魔女さんがいきなり顔を上げたので、魔女さんの額と僕のあごがぶつかった。 「あ、だ、大丈夫?」 「だいじょぶです」 あごを手でさすりながら答える。大丈夫だけれど結構痛かった。魔女さんの頭はきっと石でできているのだろう。 魔女さんは慌てて僕の上から降りると、荷物の散乱している床に恥ずかしそうに立った。さっきと同じように顔が真っ赤だった。 「あの、じゃあ、その、町に持って行ってもらうものがあるから、それ、用意するね」 僕に抱きついているときよりも恥ずかしそうにしながら、魔女さんは隣の部屋に行ってしまう。 一人残された僕は、よく分からないままやっぱり窓の外を見た。さっきと同じようにして彼が走り回っている。 ばうっ。 時々止まっては不審そうな目で空を見ている。だが彼はなにかが気になるようで、やっぱり走り回っていた。ちょうちょかなにかだろうか。 しばらくそうしていると、なにやら両手一杯にたくさんのビンを抱えた魔女さんが隣の部屋から出てきた。 「お、重いから、ちょっとずつ下ろして」 そう言う魔女さんの唇も重さからなのか震えていた。今の顔の真っ赤さも、きっとさっきとは意味が違うのだろう。 僕は言われたとおりにビンをテーブルに載せていく。一つ一つはさっきの紅茶のカップよりも少し大きめなくらいだったけれど、数が多いので重かったのだろう。全てのビンを下ろすと、木製のトレイを両手で持った魔女さんが現れた。 どうやら元々はビンをトレイに載せていたらしかった。あまりにも多いので僕は魔女さんがビンを抱えているのかと思ったけれど。 「それにしても、こんなにいっぱいなにが入っているんです?」 緑色の液体や青い葉っぱ、赤い木の実とかがそれぞれ入っているのだけれど、僕にはさっぱり分からない。 「これはね、ハーブとか、もっと単純に薬草とかなの。液っぽいのは、抽出が難しいから私がやったの」 「抽出」を「ちゅうしちゅ」と言っていたけれど、魔女さんは胸を張っている。それはきっと難しい作業なのだろう。 「このまま持って行くんですか?」 僕は聞いてみる。ビンのままナップサックに詰め込んでいくと、そんなことはないと思うのだけど割りそうで怖い。 「このままだと危ないかなぁ、ちょっと厚めの布で包もっか」 そう言うと、魔女さんはごちゃごちゃしていた部屋の左側をあさって赤い布の一巻きを見つけてきた。 ハサミも一緒に持ってくると、赤い布を適当な長さで切る。 「ビンを包んでこの紐で結んでね」 魔女さんはスカートのポケットからカラフルな紐の束を僕に差し出す。僕は分かりましたと言って、ビンを包んで紐で結んだ。 魔女さんが布を切って僕が包む。魔女さんが数の分だけ布を切ると魔女さんもビンを包んだ。魔女さんの方が上手だった。 「よし」 そんなに時間は掛からなかった。それを二人で丁寧にナップサックに詰めていく。これならばあんまり割れることもないだろう。 「それじゃあ」 と魔女さんが眉を寂しそうに曲げる。 僕はナップサックを背負って、来たときよりも少しだけ軽い中身にちょっと安心した。 僕は魔女さんに誘われるようにして玄関まで辿り着く。玄関を開けると、魔女さんが僕を外へ促した。 僕が先に外へ出る。魔女さんは玄関から外には出ようとはしなかった。 「えっと、……」 壁にもたれたままの魔女さんを見ると、どうにもさよならの言葉が出てこない。それでも言わないと帰れない気がするので、僕は何とか口に出そうとする。 「あの、」 そんな僕を見かねたのか、魔女さんが玄関から外に出ないまま、上半身だけを投げるように寄せてきた。 「ありがと、楽しかったよ。……また来て、ね」 そこまで魔女さんが気を遣ってくれたのに、それでも僕はなにも言えなかった。 ばうっ。 突然どこからともなく来ていたらしい彼に吠えられて身が竦んだ。魔女さんは彼にびっくりしたのか僕にびっくりしたのかは分からないけど、やっぱりびっくりしていた、 「あの、魔女さん、……シチューおいしかったです、また食べに来ます」 だけど、なんだか彼に一喝されたお陰なのか、僕は魔女さんを抱きしめながらそんなことを言うことが出来た。 僕の言葉を聞いた魔女さんは、恥ずかしそうにして痛いくらいに抱きしめ返す。数時間前に知り合っただけなのに、なんでこんなにも分かれるのが悲しいのだろうかと僕は思った。 なにを合図にしたというわけでもないけれど、二人が息を合わせたかのように抱擁を解いた。魔女さんの綺麗な匂いが一瞬だけ尾を引いて、でもまたすぐに消える。 「それじゃあ、気をつけてね」 「はい、えっと、また今度……」 そう言って僕が振り返ると、楽しそうに尻尾を振っている彼がいた。 ばうっ。 「帰る道も彼が教えてくれるからね」 「分かりました」 ばうっ。 そう言ってから、僕は帰ろうと二本の石柱が刺さったところまで歩いていく。だけどなぜだか彼は付いてこない。 彼はもう一度、ばうっと吠える。吠えたかと思うと庭に降りてきて、ジャンプしながらばうっと吠えて、また魔女さんの方に向いてからばうっと吠える。 どうかしたのだろうか。 「うん? ご飯?」 魔女さんが彼にそう言ってみる。だけれどもそれは違ったようで、彼はさっきと同じ行動をしてみせる。 「えっと、えーっと、雨? 雨が降るの?」 ばうっ。 彼の声が聞こえたかと思うと、その瞬間に冷たい一粒を感じた。 雨。 「あらあら」 魔女さんがまるで他人事のように呟く。僕が見ると、向こうの空はどんよりと黒くなっていた。 「雨が止むまで待ってから行く?」 魔女さんが魔女のように微笑んで僕に言う。 そうしたいのだけれど、そうするとなんだか魔女さんに取って食われそうな気がしないでもない。それにきっと空が曇っていたから、止むまでにはしばらくはかかるだろう。だから濡れないまま町に帰るというのはきっとできないんだけれど、かといって魔女さんの家にお邪魔しつづけるというのもなんだか気が引けるし、さっきも思ったけれど、取って食われそうだ。 ぽつぽつと数えるような雨の降る中で僕が少しだけ迷っていると、狙ったかのように段々と雨脚が強くなってくる。 「ほら、早くしないと、風邪引いちゃうよ」 そう言うと、魔女さんが裸足のまま玄関を飛び出してから僕の手を掴んだ。そのまま家に連れ込んでいく。 そういえば魔女さんはずっと裸足だった。僕はそんなことを考えながら、玄関で魔女さんが足の裏を拭くのをじっと見ていた。 魔女さんは魔女だったとしても、魔女である前に女性なのだ。だから、僕にそんなつもりはなかったのだけれど、魔女さんは足の裏を拭いているという光景をじっと見られていたということを非常に恥ずかしがっていた。 さっきのリビングに戻ってナップサックを下ろす。魔女さんと僕はなんだかとっても恥ずかしくなって、二人ともなにも話せないでいた。 僕は魔女さんをぼおっと見ていたのだけれど、魔女さんは心ここにあらずという風だった。 そうしてしばらく二人ともじっとしていると、彼の鳴き声が部屋の奥の方から聞こえてきた。まだ奥に部屋があるのだろうか。そういえば、さっき魔女さんが気持ちよさそうに寝ていたところは、雨で濡れてしまわないのだろうか。 「あ、」 「はい?」 彼に教えられるようにして、きっと魔女さんも僕と同じような結論に至ったのだろうか。気付くと、転がるようにして彼の声の方へと走っていった。 僕の予想と同じような光景が広がっていたのだろうか、魔女さんの悲鳴が聞こえた。僕も慌てて駆けつける。 そこには、濡れた衣服に埋もれるようにして魔女さんが半分泣きそうな表情でいた。 「あの、えっと、」 濡れている服達の中には普段僕の目に触れないようなものもあったし、今の魔女さんは一般的な意味で濡れていて、それでもやや色っぽかったので、僕は目のやり場に困って慌てて逃げるように目を逸らした。 「だ、大丈夫ですかっ?」 火を食べたかのように熱くなった僕は、なにを言い出そうがおかしくはなかった。その中でももっともらしい言葉をつくれたことだけは僥倖だったと思う。 「あ、うん。えっと、」 僕は目を逸らしていたから良くは分からなかったけれど、とにかく魔女さんはばたばたしながら答えていた。 「あの本当に……」 本当に大丈夫なのだろうかと思って少しだけ見てみると、濡れた服に埋もれていたからなのか、魔女さんの服が肌にぺったり張り付いてそれはもう大変なことになっていた。 「わっ!」 「きゃっ!」 それからもう僕は完全に後ろを向いて、魔女さんの方は決して見ないようにと心掛けた。 「汚れた服が一杯溜まったから洗って渇かそうと干しておいたんだけれど……濡れちゃった」 魔女さんはそう言いながら、濡れた金髪を薄い緑のタオルで拭いている。 魔女さんが言うには、どうやらあの壁のない場所は「エンガワ」と言うらしい。東の東の国ではあんな風に壁の一つを取ってしまう家の建て方をすると教えてくれた。壁が一つ無いと不便なのではないかと思ってしまうけれど、お昼寝をするのには丁度いいからと魔女さんが楽しそうに語っていたので、つまりまぁ、そういうことなんだろう。僕としては気になってしょうがないのだが。 ちなみに雨の降るときは、やっぱりあの戸を閉めるとのことだった。 魔女さんは少しだけ髪を湿らせたまま、タオルを肩にかけてキッチンに向かう。あったかいものが飲みたいから、ついでに僕にもなにか淹れてくれるらしい。あのおいしい紅茶だろうか。 しばらく待っていると、さっきとはまた違う甘い匂いが立ちこめてくる。チョコレートのような、違うような。 キッチンを見てみると、魔女さんが大きめのボールとなにやら奮闘していた。がちゃがちゃと危なっかしい音を立てながらなにかを掻き混ぜている。 時折小さい方の鍋からミルクをすくってボールに入れている。僕は少しだけその光景を見つめていた。魔女さんは僕に気付かず、あったかい飲みものという相手に死闘を繰り広げている。 数分経つと、リビングは甘ったるい匂いで満たされてしまった。このままだと濡れたまま積んである衣服達にこの匂いが染みついてしまうのではないかと僕は心配したけれど、でもあまーい匂いならば別に香ってきても大丈夫だ、むしろ嬉しいんじゃないかと思うようになった。 もう別にどうでもよくなったのだ。 僕が洗濯物に対しての興味を無くすのとほとんど一緒くらいの時に、キッチンから魔女さんの声が聞こえた。 「できた!」 それと同時に魔女さんは思いっ切りくしゃみをする。風邪を引いたのだろうか……、いや、「できた」ものは大丈夫なのだろうか。 魔女さんはトレイに二つのカップを乗せて、楽しそうにテーブルにやってくる。 魔女さんが一生懸命に作っていたのはココアだった。高級だと聞いているのだけれど、僕なんかが飲んでいいのだろうかと思ってしまう。 「熱いうちに飲んでー」 いいらしい。 僕がカップに口を付けると、もうそれだけでおなかの中まで甘い匂いが満ちる。一口飲むと、まるでこの世のものとは思えないような幸福な気分になった。きっと周りから見たら、僕の周りには花が咲いていただろう。 「おいしい?」 「おいしいです」 僕がココアを飲んだのはこれで二回目だけれど、魔女さんのココアは前飲んだココアよりもおいしい気がした。 チョコレートのように濃厚な味がする。 「やっぱり一人で飲むよりも、誰かと一緒に飲んだ方がおいしいんだね」 魔女さんがカップに口を付けながらそう言って僕を見る。金髪の奥にある隠れた瞳が楽しそうに揺れていた。 「魔女さんの作る料理はなんでもおいしいです。シチューも、紅茶もココアも」 口から入った温かさと甘さが身体に染み渡る。僕がそう呟くと、カップを置いてごしごしと湿った髪を拭いていた魔女さんが笑ってくれる。 「ありがと」 きっと、この身体の熱さはココアを飲んだからなのだろう。 「そういえば、今度はなんで町に来られなかったんですか?」 僕は魔女さんに聞いてみる。そういえば、魔女さんはなにかしらの事情があるからお使いを寄越してくれと手紙に書いたはずだ。 僕がここに来て魔女さんを見る限りは、別段忙しそうにしているようではない。 「ん、えっとね、あれ、あの絵を描いてるの」 濡れたお陰でさっきよりも固くなった金髪を振って、魔女さんが言う。 そこには裏を向いたキャンパスがあった。あんな風においてあるということは、窓のそばに座って、テーブルに置いてあるものか、椅子に座っている人を描くことになるはずだ。 「見てもいいですか?」 「……うん。いいよ」 肩の力を抜いてから、仕方ないという風に魔女さんが僕を見た。魔女さんが席を立つので、僕もココアを一口飲んでからそれに続く。 部屋の左側には、つまり窓の左側には色んなものが捨てられるようにして置いてあったので、僕は回り込むようにしてキャンパスの表側に歩く。 魔女さんは、左手で口元を覆ってその肘を右手に乗せるというような姿勢で絵を見ていた。僕も数秒くらい遅れて魔女さんの後ろからその絵を見てみる。 「これ、って」 「うん。私の育ての親で、仲間で、……初めて好きになったひと」 そう言うと、魔女さんは頬を真っ赤にして両手で顔を覆う。首をぶんぶんと振り回すと、やっぱりその絵の方を振り返った。 そのキャンパスには、人間が描かれていた。 赤い髪で、大きなナイフを握っていて、精悍な顔つきで、筋骨隆々で、それなのに優しそうだった。 描かれているのは人間であるけれど、でもその人間は生きていなかった。 死んでいた。腹の大きな傷からたくさん血が流れていた。痛そうだ。 「優しそうな人……」 きっと、いつだって笑顔だったのだろう。だってこんな時にだって笑顔なのだから。 僕がそう言うと、魔女さんも頷く。 「やさしかったよ。誰よりもやさしかったのに。それなのに……」 そう言うと、魔女さんは唇を噛んだ。魔女さんの悲しそうな表情を初めて見て、僕はなんて声をかけたらいいのか分からなくなってしまう。 「あっ、あのね、そこにね、また描かなくちゃならないものがあるんだけど、なんだか分かる?」 「っ、はい」 声に出して初めて気付いた。 僕は泣いていた。 なぜなのだろうか。理由もなにも分からない。悲しい気持ちなんて微塵もなかったのに、魔女さんは僕が泣いている姿を見て、慌てて言葉をかけてくれたのだろうか。 僕は魔女さんの人差し指の先を見る。キャンパスの右下にある白紙部分が指さされていた。赤い髪の人の目線がその場所に来ているのだから、きっとなにか重要なものが描かれるのだろう。それとも人だろうか。 「……魔女さんが」 魔女さんが入るのだろうか。僕はイチかバチかで適当に答え見たのだけれど、魔女さんのびっくり具合を見る限り、どうやらそれは正解らしい。 「分かったんだ。そう、私が入るんだ」 魔女さんはさっきよりもずっと悲しそうな顔をして、その空白の部分を見つめる。 悲しそうに見つめる魔女さんを見ていた僕は、一体どんな表情だったのだろうか。 その絵を見たからか、なのかは分からないけれど、僕はそれから力が抜けてその場に座り込んでしまった。 なんで涙がこぼれるのかも分からないまま、キャンパスの裏側をじっと見つめていた。 魔女さんはテーブルからココアを持ってきてくれたらしい。気付いたときにはカップが置かれていて、その中身は無くなっていた。きっと自分でも気付かない内に飲んでいたのだろう。 いつまでその姿勢でいたのだろうか。 こんなふうになると僕はしばらく気付かない。それが数秒なのか数分なのか数時間なのかはその時によるのだけれど。 僕がふと気付いて窓の外見てみると、まだ雨がしとしと降っていた。それでもさっきより幾分も空の色が暗くなっているから、日が傾きかけているのかもしれない。 帰れないなと思いながら、同時に魔女さんはどこにいるのだろうと辺りを見回した。目覚めたメアリが「ママはどこ?」と言うのは、こんな気分なのだろうか。 キッチンにもテーブルに向かってもいなかったけれど、その代わりに彼がいた。しかも僕のすぐ隣に。 彼は真っ黒な身体を伏せて、魔女さんのようにすやすやと眠っている。鼻の上を撫でてやると、彼は大きく欠伸した。 それにしても、彼はいつのまに僕の隣に来たのだろう。それも眠っているのだから、僕はとても長いこと動かなかったんだろう。きっと魔女さんには心配をかけたに違いない。 眠っている彼を起こさないように僕は立ち上がる。見上げると、天井からつり下げてあったランプの炎が来たときよりも細くなっていた。やっぱり長い時間をここで過ごしたことになる。 魔女さんはやっぱりどこにもいない。玄関の方をのぞいてみても気配すらない。 魔女さんを探しに奥の部屋へと入ってもいいのだろうか。いや、でもやっぱり魔女さんは魔女であっても、魔女である前に一人の女性なのだ。大人でないとはいえ、男が勝手に入っていったらきっと恥ずかしがるだろう。 それに、僕自身もなんだか入ってはいけないような気がする。魔女さんを探すためといっても、いけないような気持ちのまま勝手なことをしていると、きっといけないようなことをしてしまうに違いない。 やっぱり彼にもたれながら魔女さんを待とう。 「あ、起きた?」 僕がそう考えると同時に、まるで合わせたかのように魔女さんが向こうの部屋から出てくる。 「あの……」 「大丈夫? 気分が悪いとかない?」 魔女さんは心配そうな顔で僕の下に駆け寄ってくれた。所在なさ気にしていた僕の両手を取ると、それを胸元までもっていく。 「あ、あの、大丈夫です」 なんだかまた恥ずかしくなってきた。きっと今の僕の顔も真っ赤だろう。 「そっか。あのね、びっくりしたんだよ? 急に動かなくなっちゃうんだから」 僕の言葉に安堵したらしい魔女さんが、眉と肩に入った力を抜く。魔女さんはそのまま僕の腕と自分の腕を絡めると床に座る。僕は魔女さんに腕を取られているので、やっぱり床に座る。 僕は魔女さんと彼に挟まれたような格好になる。魔女さんは僕の腕を抱いたまま、僕から見て右下から覗き込むように僕の顔を見た。 「さっきはどうしたの?」 そう言う魔女さんの瞳はやっぱり心配そうな表情だ。でも魔女さん、僕としては今の方が大変なんです。自分の鼓動も、魔女さんの鼓動も聞こえてくるんです。 「あの、僕、とても悲しいことや恐ろしいことに出逢ったりすると、止まってしまうんです」 僕は魔女さんにそう説明したけれど、僕自身でもなぜあんなことが起こるのはよく分かっていない。でも、悲しいことや恐ろしいことに遭遇すると止まってしまうというのは事実なので、パン屋の奥さんからは心配されている。 「そうなんだー……」 そう呟いた魔女さんはどこかあさっての方向を見ていて、それでもなぜか僕の腕を抱きしめる力は少しだけ強くなっていた。 「魔女さん?」 僕の腕をぎゅっと抱きしめてくれるのは、なんというのか、その、嬉しいのだけれど、少し力が入りすぎて、あ、ちょっと、痛い。 あまりにも魔女さんが精一杯僕の右腕をぎゅっとするので、少し痛くなりかける。僕が声をかけると、魔女さんは慌てていましめを緩くした。 魔女さんは僕に寄りかかったまま、なにも言わない。僕は恥ずかしくて、なにも言えない。 そのまま少しだけ沈黙が降りる。窓の外は真っ暗だったけれど、それでもまだ雨が降っているようでその音が聞こえてきた。 「雨、止まないね」 「そうですね」 魔女さんの声が、魔女さんの身体を通して伝わってくる。僕の声の振動も魔女さんに伝わっているだろうか。 「帰れないね」 「……そうですね」 そう言いながら、魔女さんは僕の右手をもてあそぶ。指を絡めてから、魔女さんがさっきのように僕を見上げた。 「夜のご飯もシチューでいい?」 「魔女さんのシチューはおいしいので」 僕の言葉を待たずに魔女さんは黄色く笑う。よーく見ると、魔女さんの頬も少しだけ赤くなっていた。 魔女さんは息を深く吐くと、よし、と言ってから立ち上がる。腕を引っ張られるようにして僕も立ち上がった。 魔女さんは顔を僕に向けず、視線だけを僕に向けて言う。 「ご飯、つくろっか」 吸い込まれそうな程深い青色の瞳の奥、その中に突っ立っている僕はとても驚いていた。 僕が手を加えたということを考えれば、料理は上出来だっただろう。 夕食のメニューは、パスタにシチューをかけたものとハーブの香りが目立つサラダ。こうしてみれば簡単そうなのだけれど、いざ作ろうとやってみると僕には中々出来ない。 僕がまだパン屋のご主人に引き取られてまもなくの頃だったと思う。奥さんが料理をつくっているところにお邪魔して、勝手に頂戴するといういわゆるつまみ食いをよくしていた。つまみ食いだけでなく段々と僕も手伝うようになったのだけれど、僕が手伝ったときの食事は例外なくおいしいと感じなかった。グラタンは焼き過ぎだったり中が生だったりして、サンドイッチでさえまずくなるという並々ならない不器用さだった。 それらと比べれば、目の前にある料理達はとても良くできているということが分かる。キッチンの中に置いてあっても整然としている。 勿論、久しぶりに料理というものを手伝ったので、僕も少しは細かいことが出来るようになったのかもしれない。そもそもメニューは子供でも作れそうなほど簡単だ。 だけど、僕の料理の下手さ加減はとどまることを知らない。きっと魔女さんが料理の主導権を握っていてくれたおかげで、こんな立派なメニューが成立しているのだと思う。 魔女さんと僕で、作った料理をテーブルへと運んでゆく。料理を作っているときも、魔女さんは終始楽しそうだった。やっぱり久しぶりに誰かとなにかをするということは楽しいことなのだろう。 「やっぱりお祈りはしないのです」 それだけ言うと、魔女さんは木製のフォークとスプーンを使ってパスタを食べ始める。メアリと同じ食べ方だ。 「いただきます」 僕は魔女さんにそう言ってから、魔女さんのと同じフォークでパスタを食べてみる。 野菜の甘さがパスタに絡んでおいしかった。サラダも食べてみようとレタスを口へ運ぶと、口の中が涼しくなる。初めて食べる匂いだった。のみこむと、おなかの中まで涼しさがついてきた。 おいしかった。 パスタにかけたシチューもおいしかった。魔女さんの天才的なタイムカウントによってパスタは危うくもアルデンテになったけれど、でもそれだけでここまでおいしくはならないのだろう。魔女さんのシチューがそもそもおいしいのだ。 「お昼もだったけど、やっぱり誰かと一緒にシチューを食べられるって幸せなことだね」 シチュー限定なのだろうか。 楽しそうに魔女さんが言うので僕は顔を上げる。魔女さんの口元にはシチューがちょこっとだけ付いていた。 「あの、魔女さん、ここに」 言いながら、僕は自分の頬を指さす。魔女さんは慌てて手の平で口元を拭った。 魔女さんは照れながら、手の平を舐めて僕を見る。 「へへー、一人だとこんなこともできないんだよ」 魔女さんはトマトをフォークに突き刺して、それを食べる。頬をふくふくとさせていた。 なんだか魔女さんは本当においしそうにものを食べる。本当においしそうで、楽しそうで、……寂しそうだった。 「魔女さん」 「なーに?」 魔女さんは僕に応えると、シチューの中のニンジンを口に入れてもぐもぐさせる。 「魔女さんが町に住まない本当の理由は何ですか?」 魔女さんが僕を見る。僕も魔女さんを見る。 「彼は、彼はとても賢いじゃないですか。魔女さんが寂しがってるのも彼は分かってると思うんです」 透き通るほど青い瞳が少しだけ揺れる。魔女さんは金髪を耳にかけた。 「うん」 「……みんなが魔女さんをよく思ってないからなんですか?」 「うん」 「じゃあ、なんでそんな……」 僕がそこまで言うと、魔女さんが少しだけ顔を伏せた。僕は言葉を続けられなくなって、そのまま沈黙が広がる。 「あのね、みんなはなーんにも悪くないの。悪いのはぜーんぶ私。それに、私のことをなんにも知らない素直なキミには内緒にしておきたいこともあるんだよ?」 「でも、」 僕は魔女さんを見る。魔女さんは僕を見ているだろうか。 「でも、僕は魔女さんのことを知りたいから」 |